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中国的経済学者: 馬寅初(1882-1982)            報告 福光 寛 马寅初 について  福光寬.

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1 中国的経済学者: 馬寅初( )            報告 福光 寛 马寅初 について  福光寬

2 報告者について 1951 大阪生まれ 1973 慶応大学経済学部卒業 同大学院 に進学 1976 国立国会図書館に勤務 調査局業務などを経て
1951 大阪生まれ 1973 慶応大学経済学部卒業 同大学院 に進学 1976 国立国会図書館に勤務 調査局業務などを経て 1992 立命館大学経済学部助教授  1995 立命館大学経済学部教授 1998 成城大学経済学部経営学科教授   英国金融史 金融学説史 から 現代の金融問題 までをカバー   2010頃より 中国研究をスタートして次第に本格化させている。 马寅初 について  福光寬

3 馬寅初(1882-1982)について 马寅初を取り上げた意味
馬寅初( )について   马寅初を取り上げた意味 日本では戦前からよく知られている人物であること。中国人で欧米で経済学の論文で博 士号(1914年 米コロンビア大学)を取得した第一世代。帰国後、北京大学で教壇に立ち ( )中国経済学会と称すべき「中国経済学社」の社長(学会会長1927-)も務めた。 そして第二次大戦後 北京大学校長を長く務めた( )。1950年代後半に人口増 加を懸念する人口論に関する論文を発表。毛沢東と対立して、1960年に北京大学校長退 職に追い込まれた。退職から20年近く経った1979年に名誉回復。その人生は大起大落。 日本では以上のほかは知られていないことが意外に多いので紹介する価値がある。 私の研究の流れとしては、中国の指導者たちの評伝を構想するなかで、起伏に富んだ人 生を送り、全集や選集も刊行されていて、資料も集めやすい馬寅初をその皮切りに取り上 げすでに投稿済み(『成城大学 社会イノベーション研究』12巻1号 2016年10月)。今回は この投稿後に読んだ資料も加えて、現在わかっている马寅初像の報告をめざす。 马寅初 について  福光寬

4  解題 馬寅初(马寅初)については、日本でも評伝が何回か書かれている。しかし梁(2011)や诸(2012)を読 んでいると、彼の日本語による評伝(つまりは紹介)を現段階で入手できる資料で書き直したいという 思いが募り「社会イノベーション研究」(成城大学)に拙論を寄稿した(2016年10月に公刊)。この報告 ではこの拙論執筆後に手に入れた資料での知見を加えて報告したい。 「イノベーション研究」に発表した拙論における主たる使用文献 马寅初,马寅初选集,天津人民出版社,1988年。 马寅初,马寅初全集,浙江人民出版社,1999年。  邓加荣,我国经济学泰斗马寅初,中国金融出版社,2006年。  马玉淳,马寅初的故事,浙江出版社,2006年。  孙大权,中国经济学社的兴衰及影响,经济学家,2006年1期,13-20. 梁中堂,马寅初事件始末,中共山西省委党校报34-5, Oct.2011,  诸天寅,陈云与马寅初,第二版,华文出版社,2012年。  马寅初 について  福光寬

5 出生から留学帰国まで  北京大学時代 抗日の闘士への変身 共産党への傾斜と復権 人口問題の提起 負け戦に挑む 退職後の日々と名誉回復 中国の経済学者 馬寅初について 马寅初 について  福光寬

6 出生から留学帰国まで  马寅初 について  福光寬

7 留学前の教育(1) 1882年6月 浙江省紹興府出身 実家は紹興酒の醸造を営み裕福であった。7歳 のときから近くの私塾で学ぶ。その後、近くの私塾ではあきたらず、師事する先生 を変えている。 このとき 马寅初は、于谦( )の 石灰吟を知って座右銘とした(马玉淳, 马寅初的故事,浙江出版社,2006年, p.4)とされる。この「石灰吟」座右銘のお話 しは一本気な彼の人生を振り返ると納得できる。 粉骨砕身全不怕, 要留清白在人间。 于谦「石灰吟」 马寅初 について  福光寬

8 于谦( ) 明の時代の政治家。英宗正統帝( )のもとでの宦官王振の横暴に抵抗。 王振の勧めにより正統帝はモンゴル(オイラト)のエセンとの闘いに挑み捕虜にな る(王振は死亡 土木堡之变1449)。于谦は明軍の士気を考え、身代金の支払い を拒否して、英宗の弟を景泰帝( )として立てて戦う判断をする。そして巧 みな戦術で北京の防衛戦に勝利する。朝貢貿易を望むエセンは無条件で英宗を 明に送り返す。ところが宮中で英宗の復帰が図られ、英宗が天順帝( )と して復活すると(奪門之変1457), 于谦は讒言により殺されるに至る。 その後、于谦は忠臣として名誉を回復(平反)されている。 马寅初 について  福光寬

9 留学前の教育(2) 伝統的な教育には満足できなかった馬寅初は1898年上海に出て中西書院で学ん だ。ここは教会学校で6年制の教育をほどこしており、英語教育を受けた。毎日午 前中は英語の授業があったとされる。そこから天津にあった北洋大学(天津大学の 前身 当時唯一大学を名乗る国立教育機関)に進んだ(1904年)。北洋大学は、当 時、法律、土木プロジェクト、採鉱冶金3科編成で学費をとらず、逆に給費があった。 またこの大学は政府官僚の養成コースであり、卒業後の進路も確保されていた。 馬寅初はここで採鉱冶金を専攻する。この専攻の選択は、洋務派の影響を受けて、 西洋の技術を学ぼうとするところにあったが、その学習内容に馬寅初はひどく失望 した。なお教員は外国人で英語教育をここでも受けた。 1907年 選抜して留学される機会を得た馬寅初は晴れて国費でエール大学に留学 するがそこで 専攻を経済学に変更する。 马寅初 について  福光寬

10 採鉱冶金学への失望 冒味投考天清大学,幸被录取入矿科肄业,而地质学是主课,但校内无标本可 资研究,只读死书,有何用处? 即在校外做实习工作,深入矿穴测量矿藏,因 该是矿藏多用土法开掘,不用机器,毫天保险设备,时有爆炸惨案发生,死伤 无数。且穴中人,烡与穴中之煤,因光亮不足,无法辨别。出穴之后,逢头垢 面,真不可当。欠时,余对自己曰,此路不通也。 马寅初的早年学生生涯 马寅初 について  福光寬

11 米国留学の日々 马寅初が米国に滞在したのは1907年から1914年までの7年間である。それまでの 英語での教育歴を考えると、英語の読み書きの能力は高かったと考えられる。問 題は、もともと、エールの分しか官費がでない約束だったことと、中国での1911年 の辛亥革命が重なり官費が止まり、コロンビアで彼はアルバイトを重ねながら論文 を書かざるを得なかったことである。しかし彼はそれを達成した。 滞在先は エール大学経済学部(コネチカット州ニューヘイブン市) そしてコロンビ ア大学 大学院(ニューヨーク州ニューヨーク市)。修士号を1911年にPublic Revenue in Chinaで。また博士号を1914年にThe Finances of the City of New Yorkで取得。 コロンビアの指導教授はEdwin R. A. Seligman (Seligmanについては後述)。 马寅初 について  福光寬

12 留学生仲間の存在 清朝末期に中米間の協定で「庚子賠款」を利用した大規模な官費留学生派遣が実施された。総勢180名。文系は40名。うち経済商工分野も20余名を数えた。その中にコロンビアで経済学系論文で博士号を得た以下の名前があった。 資料:清末康款生的経済学留学生 m.jgzyw.com/shehoibolan/baokanwenzhai/lsdtk/76/5489.html 姓名 录取 博士学位取得年 博士論文名 備考 黄汉樑 1911/08 1918 中国的地租 プリンストン経て コロンビア 朱进 1910/08 1916 中国关税问题 指導教授はセリグマン 徐墀 1915 中国的铁路问题 魏文彬 1909/09 中国的货币问题 参考 马寅初 1907 1914 纽约市财政 马寅初 について  福光寬

13  叶维丽,为中国寻找现代之路,北京大学出版社,2012年,passim    庚款留学については 陈潮,近代留学生,中华书局,2010年,32-38が詳しい。
20世紀の初頭 アメリカは一面では排外主義が強かった。洗濯屋やレストランで働いていない(つま り学生の)中国人は奇異の目で見られ、留学生のなかにも自分たちは出稼ぎの労働者とは違うとす るものもいた。 中国から米国への留学は1915年には1000人を超え  年には1600人近くに達した。米国は、 意識的に米国への留学を勧めた。清華学堂1911 米国への留学予備学校の性格  コロンビア大学大学院に顾维钧が、コーネル大学には胡适がいた。 1902 留美中国学生会(中心は北洋大学出身の官費留学生) 23名  50人(1903) 1905冬 章程  できる 1905 科挙試験の廃止  1908 大統領選の年   庚款留学 で 1279名 が米国に留学 1912 大統領選の年 马寅初 について  福光寬

14 同時期留学の重要人物は多い 顾维钧 1888-1985 コロンビア大学大学院で国際法で 学位。留美中国学生会の中心人 物。
顾维钧   コロンビア大学大学院で国際法で 学位。留美中国学生会の中心人 物。  両大戦間 中国の外交に担った。 胡适 コーネル大学のあとコロンビア大 学大学院。 中国哲学史 帰国後北京大学教 授。白話文(口語体)を提唱。思想 の自由を掲げ中国社会に大きな 影響を与えた。 第二次大戦後 北京大学校長。 马寅初 について  福光寬

15 恩師 Edwin R. A. Seligman (1861-1939) の影響
セリグマンは財政学や租税論の草分け(的人物)として有名である。 第一次大戦においては戦費問題との関係で累進所得税の導入を熱心に主張した。 この主張はのちに、马寅初が中国の対日戦争での戦費問題で、所得税導入を掲 げる端緒になっている。 また、American Economic Associationの中心人物の一人で、1902年から1903年に かけては会長を務めた。おそらく马寅初が指導を受けた当時も学会の業務を行っ ていた可能性があり、そうした活動を見聞したことが、马寅初が、中国で中国経済 学社(中国経済学会)の活動に熱心に取り組む背景になっているのではないか。 なお社会主義には反対であったとされる。 马寅初 について  福光寬

16 北京大学時代 马寅初 について  福光寬

17 蔡元培( )は中華民国の初代教育部長として、法商などの文系大学は文科を置く。医農工などの理系大学は理科を置く。また大学は教授と卒業生のための研究機関として大学院を設置する、など大学の在り方を取り決めた(1912年)。 しかし袁世凱による国務会議が無視が繰り返される中、蔡元培は教育部の要職を 退く(1912年7月)。(同年秋 教育部から欧州に教育視察に派遣される) 北京大学(京師大学堂を1912年5月に改称)の校長は短期で辞職が続いて定まら なかった。1916年冬に教育部は、当時フランスにいた蔡元培に北京大学校長に就 任するための帰国を求めた。当時 北京大学は官僚になるための経路とみなされ、 学生は試験のときに猛勉するだけで学術や学問の向上に何ら関心がなかった。専 任の教員は歓迎されず、行政・司法の官吏の兼職教員が歓迎された。学生が関心 があるのは試験の出題範囲だけ。教員は印刷した旧態依然の講義を読み上げる だけ、学生は教室で寝たり本を読んだり、高尚な趣味もなく自発的活動もない。蔡 元培はこうした状況を大学の腐敗だとして、その改革に乗り出す。 马寅初 について  福光寬

18 1915年初めに中国に戻った马寅初は 北洋政府財政部に出仕するが 翌1916年には辞職して、北京大学法学院の経済学担当教員となる。彼の北京大学就職と蔡元培による北京大学改革との関係, 北京大学における马寅初の役割には詰めるべき点が多い。 蔡元培は北京大学校長として最初の講演時に「大学の学生は研究学術を天職とすべきあ り、大学をより高い官職を得たり金儲けの手段としてはならない(大学学生,当以研究学 术为天职,不当以大学为升官发财之阶梯)」と述べた。その後、教員学生とともに、学問 の振興をはかるため進徳会を組織。進徳会は、賭けをしない、芸妓と遊ばない、妾をとら ない,を基本の掟とし、官吏とならない、議員とならない、酒を飲まない、肉を食べない、 麻薬を吸わない、の5つをとくに選んだ戒めとした(有不赌,不婊,不娶亲的三条基本戒, 又有不作官吏,不作议员,不饮酒,不食肉,不吸烟的五条选认戒)。 資料:「蔡元培自述 實庵自传」中华书局 2015年 pp.11-14,  コロンビアで博士号を 取得して帰国した马寅初は蔡元培にとり教授有資格者ではあったが、両者の間の交流に 関する、邓加荣の指摘は疑問が多い(邓加荣, 马寅初, 中国金融出版社,2006年, pp )。 马寅初 について  福光寬

19 1919年の五四運動への蔡元培の学生への対応は 周到で誠意にあふれている。
蔡元培は学生は学ぶことが最大の目的なければならない(应以求学为最大目的)が、20 歳以上であれば個人の資格で政治団体に参加してよいとした。1918年夏、外交問題で北 京大学の学生がデモに出ようとしたのを、彼はならば辞職すると諭して思いとどまらせた。 しかし1919年5月4日、パリ条約の締結拒否と親日派の罷免を求めてデモにでようとする学 生を、彼はもはや止めなかった。北京大学の学生を中心に多くの学生が逮捕された。蔡元 培はほかの大学長とともに学生の釈放を求めた。政府が蔡元培罷免を決めたという噂が 流れ、蔡元培は辞職願を出して北京を離れる。その後、続々と学生の逮捕者が続き、政府 は止む無く大学内のある建物に逮捕学生を監禁する。政府への憤激は全国に広がり各地 でストが生じ、五四運動は目的を達して収束する。他方、政府が任命した蔡元培の後任は 学生の反対で、学校に入ることができず、結局、蔡元培が校長に戻ることになった。 資料:「蔡元培自述 實庵自传」中华书局 2015年 pp.27-28 马寅初 について  福光寬

20 五四運動に対する 蔡元培(1868-1939)と马寅初(1882-1982)の違い
五四運動終息後、蔡元培は学生に対し次のように告示し勉学に戻ることを求めている。 告以学生救国,重在专研学术,不可常为救国运动而牺牲。 資料:「蔡元培自述 實庵自传」中华书局 2015年,p.28 1927年12月19日马寅初は北大之精神と題した演説で以下のように述べた。 五四运动,打到卖国贼,作人民思想之先导,……然既有精神,必有主义,所谓北大 主义者,即牺牲主义也。服务于国家社会,不顾一已之私利,勇敢直前,以达其至高 之鹄的。資料:马寅初的故事, 2006年,p.35 蔡元培の冷静さに比べて、马寅初は、場面は違うが激しく聞き手を煽り鼓舞している。 马寅初 について  福光寬

21 中国経済学社の発足と 人口問題への関心 马寅初が大きな存在になった理由は、中国人としておそらく初めて欧米で経済学 博士号(1914)を取得し、その結果、中国の筆頭大学といえる北京大学で最初の経 済学の主任教授に就任した(1916)こと。上海に移転した中国経済学社社長を務め た(1927)こと。1940年以降は国民党政権と離反し注目されたことが大きい。 改めて注目したいのは、1923年に清華大学の教員が中心になって、中国経済学社 が創設された(1924年に決定した最初の社長は、清華大学で統計学の刘大钧:ミ シガン大学)が、創設メムバーには、1918年に「中国人口論」を出版した陳長衡: ハーバード大学、1923年にコロンビア大学で中国移民の移動状況で博士号を取得 して帰国したばかりの陳達など、人口問題への関心が深い研究者が少なくなかっ たことである。後年、马寅初が人口問題に取り組むのは、このときに彼が感じた ショック(人口問題の知識への渇望)を反映しているというのが私の仮説である。 马寅初 について  福光寬

22 孫文(1866-1925)による「三民主義」(1924) の記述。
中国経済学社が設立されたつぎの年である1924年に著された「三民主義」は4億 の人口を誇る中国が、ばらばらの砂(散沙)であるため、貧しくまた低い国際的地位 にあることを指摘して、まず民族主義が必要であることを説いている(あとは、民権 主義と民生主義)。冒頭の民族主義第一講で以下のようにマルサス主義を批判し ている。これ以降 マルサス主義をどう考えるかは中国の指導者が答えるべき問 いになった。これも私の仮説である。 法国在百年以前的人口,比各国都要多,因为马尔赛斯的学说,宣传到法国之 后,很被人欢迎,人民都实行减少人口,所以弄到今日受人少的痛苦,都是因 为中了马尔赛斯学说的毒。中国现在的新青年,也有马尔赛斯学说所染,主张 减少人口的;殊不知法国已经知道了减少人口的痛苦 孙文, 三民主义,1965年版,三民书局, p.12 三民主義の人口の増減についての考え方は別途検討する価値がある。 马寅初 について  福光寬

23 1927年3月南京事件勃発による 北京大学時代の終わり
3・24 国民革命軍の南京入場に際して外国人領事館へ乱暴 外国人に死者 婦女子の 凌辱多数生ずる 列強にソ連の陰謀説広がる 3・25 英米の軍艦が南京砲撃 上陸して居留民保護 4・6  北京の張作霖政府が 列強の同意のもとに ソ連大使館などを捜索 北京大学教 授李大釗ほか共産党員 国民党員 多数逮捕  4・10 ソ連 大使を召還 4・12 蒋介石が上海で四一二事件(四一二政変 あるいは上海クーデター)起こす(4・1 5までに300名以上の共産党員を殺害) 4・28 北京の張作霖政府が逮捕者のうち李大釗ほか19名に裁判で死刑判決 ただちに 執行 北京大学に解散を命令 ⇒ 马寅初 北京大学を辞職へ(1927年5月)  马寅初 について  福光寬

24 抗日の闘士への変身 马寅初 について  福光寬

25 1928年以降1930年代まで 南京政府にあって独立を保つ。
このあと马寅初は、蔡元培に誘われてまず浙江省政府に入り、続いて1928年から は立法院委員となり、立法院の経済委員会そして財政委員会の各委員長に選出さ れる。また複数の国立大学の経済学教授を兼任する。学会活動の面では、1927年 に中国経済学社の理事部が北京から上海に移ったとき、社長に就任。以降、马寅 初は、誰が見ても中国の経済学会の指導者となる。 大変興味深いのは、南京政府の中に入ったとはいえ、国民党でなく立法院に入り、 国民党には加入せず、彼が国民党とも共産党とも違う、中間勢力の一角の立場を 守ったことである。まず彼は国家の統一を抗日より優先するとした蒋介石の安内攘 外政策にも批判的であった。また国民党の行った戦費政策(=通貨増発)にも批判 的であった。 马寅初 について  福光寬

26 中間勢力(三党三派)の主張 国家主権の回復(団結抗日) 国民党による専制独裁政治に反対(多様な政党の容認) 党と政治の分離 言論出版、集会、結社の自由 資料:王风青,黄炎培与国民参政会,社会科学文献出版社,2011年, pp 中間勢力と马寅初との関係は未解明。 名称 設立年 主張 主要人物 中華職業教育社 1917 教育の普及 抗日救国 黄炎培 上海クーデータ時1927に弾圧受ける 中国青年党 1923 政党休戦 共同抗日 曾琦 李璜 第三党(中華民族解放行動委員会) 1927(1935改称) 反蒋 抗日 章伯鈞 郷村建設派(村治派と平民教育派を含む) 1929 梁潄溟 宴阳初 国家社会党 1934 国家社会主義 张君劢 张东荪 罗隆基 救国会(全国各界救国联合会) 1936 抗日 政治犯の釈放  共産党掃討の停止 (共産党寄りとみられ弾圧受ける:七君子事件1936) 马寅初 について  福光寬

27 南京国民政府の税財政については多数の先行研究あり 货水金, 年中国金融与财政问题研究 ,上海社会科学院出版社, 2009年 , pp.7-13 を参照。しかし研究はこのほかにも多数存在。 軍事費の拡大(建設費に国防建設費 教育費に軍事教育費 軍人数: 万  万 1944初570万) 政務費・債務費の急増 関税、塩税など間接税主体の税収 戦端の拡大で税収は減少気味 抗戦前は内国債 抗戦開始(1937)後は通貨増発に依存 马寅初による 所得税の導入 戦時利得への課税などの正論に 現実性があった かは検証が必要 また南京政府での 马寅初の役割についても 検証が必要(未 解明の点が多い)  马寅初 について  福光寬

28 典型的なインフレーション税 inflation tax の発生 ではないか。货水金,南京国民政府中央银行反通货膨胀政策及其绩效评析,载《近代中国的企业,政府与社会》,上海社会科学院出版社,2008年, ,esp 下線の数値は福光が計算 物価指数 歳出入指数 税収 銀行借入 軍務費 政務費 債務費 建設費等 1937 100 21.4% 56.8% 66% 7.7% 17.8% 8.5% 1938 127 56 17.9 72.2 59.1 7.9 20.5 12.5 1939 214 146 15.8 75.4 53.1 8.4 17.8 20.7 1940 498 258 4.9 70.7 72.1 8.3 6.4 13.2 1941 1258   518 6.1 86.7 47.3 2.3 4.4 25.3 1942 3786 1265 15.6 75.5 44.9 28.7 6 20.4 1943 12559 3012 24.2 64.5 47.7 30.8 5.5 16 1944 41939 8694   18.8 76.6 50.8 28.2 2.9 18.1 1945 158408 75365 7.2 66.8 52.3 9.3 32.9 1946 367514 264730 21.9 64.4 55.7 24.3 0.9 19.1 马寅初 について  福光寬

29 马寅初が攻撃した相手 宋子文と孔祥煕(1) (2)の資料:柯博文,宋子文与抗战时期的上海资本家( ),载《宋子家族与近代中国的变迁》,东方出版中心,2015 , , esp., 宋子文 ソン・ツーウェン  宋子文は、上海聖ヨハネ大学で学 んだあと渡米。1915ハーバードで経 済学修士。その後、シティバンクで 働きながらコロンビア大学で博士。 帰国後 1928に南京政府財政部長。 さらに中央銀行総裁。1932行政院 副院長。軍費拡大の矛盾が大きく なり、1933年10月にこれら政府の役 職を辞任。関税自主権の回復に功 績があったとされ、反日の姿勢も生 涯強かった。 孔祥煕 コン・シアンシー  米国オベリン大学卒業後 エール大学で 鉱物学修士。帰国後 1928に南京政府 工商部長 1930実業部長 1933 宋子文 に代わり、財政部長 中央銀行総裁 行 政院副総裁の3つを兼任 通貨発行権 の統一 1935年の法幣改革(銀本位制 を不換紙幣の法幣に切り替え) 兼任で集中した利権を利用した贈収賄  各国援助資金を利用して金儲けをしたと いう指摘がある 马寅初 について  福光寬

30 宋子文と孔祥煕(2) 資料は前ページに記載した。
宋子文と孔祥煕(2) 資料は前ページに記載した。 1928/01 蒋介石の政権復帰 宋子文の蒋介石陣営への参加(財政部長) 蒋介石 北伐の費用が必 要 宋子文 海関税担保新債券の発行⇒商界・銀行界に購入させる 北伐勝利 北京占領後 蒋介石はなお高額の軍事支出望む 外債の発行困難から内債発行  各2億元前後 1931 4億元 1933/10 孔祥煕 宋子文の政府の役職の交代 1934/06 中国建設銀行の設立 1935春 中国銀行 交通銀行の改組政府統制強化 宋子文が中国銀行董事长 1935/11 法币改革の準備が終わる 孔祥煕が主要3国有銀行(中国 中央 交通)が発行する钞票 (紙幣)を法幣とする宣言を出す。翌年 第四家と中国農民も法幣の発行に加わる。法幣は唯一の合 法通貨とされる。南京政府は銀行の資産と資本を有効にコントロールできるようになったが、民営企 業家の資本不足は続いた。 1937/8末 救国国債5億元の発行 宋子文は持ち株下の銀行・企業に購入させる形で支援 1938 孔祥煕 重慶に復興商業公司設立(董事会主席) 秋  宋子文は米国で外交事務にあたった 马寅初 について  福光寬

31 資料:朱荫贵,近代中国:金融与证券研究,上海人民出版社,2012年,pp
上海銭庄 家数 全国銀行 現存数 支店数 全国銀行総資産 指数1932=100 株式取引量指数 1931=100 証券指数 1931/7末=100 1927 85 58 1928 80 69 1929 78 77 1930 89 1931 76 99 100.00 99.76 1932 72 108 100 59.68 80.28 1933 68 120 122 117.40 71.36 1934 65 138 1038 143 253.86 65.29 1935 55 156 181 12.35 57.11 1936 48 161 1332 242 133.24 57.66 1937 47 164 1627 252.80 46.51 马寅初 について  福光寬

32 银行数量统计表 王红曼,国民政府战时金融法律制度研究(1937∼1945年),法律出版社,2011年,p.25 表·1-1。
城市 1925年 家 1934年 家 1936年 家 1936年 分支行 处 上海 23 59 58 182 北京 2 3 56 天津 14 10 8 汉口 7 4 29 重庆 1 9 17 杭州 6 15 广州 16 青岛 20 南京 51 合计 87 93 99 386 其他 54 77 65 946 总计 141 170 164 1332 马寅初 について  福光寬

33 盧溝橋事件(1937年7月7日) 南京から重慶への移動(1937-38)
盧溝橋事件(1937年7月7日)  南京から重慶への移動( ) 南京から重慶に移動した马寅初に対して、蒋介石が特命全権大使として米国への移住を 進めたという話がある。厄介なものを海外に追いやるとも見えるが、戦争が激しくなるなか、 海外への善意で避難を勧めたともいえる。配慮なのか、追い出しを図ったのか、この当時 の马寅初の役割、立場とともになお解明の余地を感じる点の一つである。参照 马寅初的 故事,浙江古籍出版社, 2006年, pp もう一つ解明の必要を感じるのは共産党勢力の接近がいつ頃からあったかである。重慶 では接触のチャンスがあったことは間違いない(共産党系の救国会 共産党系の「新華日 報」の存在)がそれが正確にいつ頃からかは、はっきりしていない。この論点と絡むのは、 彼がいつから蒋介石と徹底的に対峙したかである。   参照 马寅初,中国金融出版社, 2006年, pp 新华日报索引,上海书店,1963年,passim 马寅初 について  福光寬

34 米国留学した人々とその人生 cf.林毅夫 胡书东「中国経済学百年回顧」『経済学季刊』第1巻第1期, 2001年10月, 3-18 をベースに作成。
氏 名 学位取得年と取得学位 主たる著作と刊行年 馬寅初   1914年コロンビア大学博士 中国経済改造1935;中国之新金融政策1937;経済学概論1943;通貨新論1944 劉大钧   1915年ミシガン大学学士 我国幣制問題1934;中国之工業化与中国工業建設1938 楊蔭溥 1923年ノースウェスタン大修士 中国金融研究1936 1936/ /01 国民政府から国際連盟に派遣され専門委員を務めた 陳達 1923年コロンビア大学博士 帰国後清華大学社会学系起こす 人口問題1934 戦後は中央財経学院 中国人民大学などの教 授を歴任 1957右派闘争以降马寅初同様に人口論について攻撃受ける 潘序倫    1924年コロンビア大学博士(ハー バードで修士のあと) 簡照南の支援を受けて渡米取得学位 会計学 文革時攻撃受ける 中国会計学の父 金国宝 1924年コロンビア大学修士 清華大学卒業後英語の教師 簡照南の支援を受けて渡米取得学位 蔡元培の支援で欧州へ 統 計学大綱1935 董時進 1925年コーネル大学博士 帰国後農業問題の専門家として活躍 農業経済学1933 共産党の土地改革に反対 1951渡米  米国国務院で顧問を務める 何廉    1926年エール大学博士 財政学1935(李鋭との共著);中国農村之経済建設1936;中国工業化程度及其影響1938(方显廷 との共著) 方显廷 1928年エール大学博士 中国工業化程度及其影響1938(何廉との共著);中国之工業化与郷村工業1938 吴景超     1928年シカゴ大学博士 中国経済建設之路 大陸残留を選択 1957右派闘争以降攻撃受ける 1968病没 马寅初 について  福光寬

35 共産党への 傾斜と復権 马寅初 について  福光寬

36 马寅初 について  福光寬

37 1940年 この年になぜ马寅初が蒋介石との対立を加速したのか? なぜ対立を選んだのか。なぞは残る。この1939後半-1940年前半の通貨価値の急落は確認できる(ドイツのポーランド侵攻は1939年9月1日 日本の英米への宣戦布告は1941年12月8日)。货水金, 年中国金融与财政问题研究 ,上海社会科学院出版社,2009年, pp.239 表11-8を使い 年あたりの元の減価率を算出。この激しい減価から当時の統計のむつかしさがわかる。 物価の高騰 幹部の不正蓄財表面化 通貨 膨張(増発)による戦費政策を痛烈に批判  戦時利得税を主張 ⇒疑問もある 1940/07 陸軍高級将校への講演(重慶 陸軍 大学講堂) で 宋子文 孔祥熙を名指し批判 1940/11/10 中華職業教育社主催の講演会 (重慶 市内の劇場)で 宋子文 孔祥熙に加 え蒋介石を批判 1940/12/06 拘束 1940/12/08 集中営に拘禁 重慶大学商学院 長を解職・罷免 1米ドルあたり元法貨 1年あたり 元の減価率 1938/06  5.39元  57.6% 1938/12  6.4  44.8 1939/06  7.51  39.3 1939/12 14.14 120.9 1940/06 18.18 142.1 1940/12 17.75  25.5 1941/06 19.05   4.8 1941/12 18.93   6.6  马寅初 について  福光寬

38 李超民《中国战时财政思想的形成(1931-1945)》东方出版中心,2011
当時の文献をたどる本書での馬寅初の扱いは参考になる。馬寅初のその職をかけた1940年 の講演内容への言及はない。これは文献主義(当時印刷して発表されたもの)で講演を削除 したのか、あるいは馬寅初の議論を採用する価値がないとするものかは不明。 馬寅初については営業税の論文が引用されている。P.69,83.馬寅初に比べて格段に重視され ているのは尹文敬(イン・ウエンチン1902- 1924北平大学卒 1929フランス パリ大学で学位 帰国後 四川大学 北平大学など)の戦時経済財政に関する著書と論文である。確かに尹文 敬は戦時利得税などについても詳しく議論している。1930年代から40年代の馬をどう評価す るかは、なお今後の課題かもしれない。 なお本書は共産党の戦時財政案(対日作戦基本綱領1934/04)についても説明しているp 日本帝国主義の財産の没収、売国奴の財産の没収、国庫のすべての収入を対日戦に用 いる、財産に累進所得税をかける 在外華僑に義捐運動展開する など。カネのあるものは カネを出す という有名なフレーズを含む抗日救国十大綱領1937/8 も 紹介されている 马寅初 について  福光寬

39 法幣発行指数と購買力指数は王红曼,国民政府战时金融法律制度研究(1937∼1945年),法律出版社,2011年,p
各年12月 法幣発行指数 増発率 年あたり 法幣購買力指数 減価率 年あたり 1937 117 101.72 1938 164 40.2% 60.97 40.1 1939 305 86.0 28.13 53.9 1940 560 83.6 7.85 72.1 1941 1076 92.1 3.65 53.5 1942 2422 125.1 1.28 64.9 1943 5357 121.2 0.47 63.3 1944 13464 151.3 0.17 63.8 1945 73845 448.5 0.04 76.5 马寅初 について  福光寬

40 共産党と歩む決断 このあと马寅初は場所を移されながら、1942年8月下旬まで1年8ケ月あまり拘禁 される。しかも1年は独房につながれたのである。 拘禁が解かれたあとも、大学への復帰は妨害され、公開講演も認められず重慶の 歌楽山というところに軟禁された。言論を封じられた马寅初に救いの手を出したの は、共産党系の新聞と雑誌であった(1945年2月)。おそらく彼はここに至って共産 党と歩む腹を決めたのではないか。 他方 この時期に马寅初を助けた人物として 黄炎培( )がいる。 そして1948年末に共産党の庇護のもとに、ほかの民主人士とともに北京に向かう ことをさらに決断する。北京(北平)に入ったのが1949年3月18日。1週間後の3月2 5日毛沢東、周恩来ら共産党指導者が北京に入った。 马寅初 について  福光寬

41 復権 共産党と歩む決断をした彼には復権の道が用意された。主要な役職としては 1949年8月 浙江大学校長
1949年8月 浙江大学校長 1949年9月 政務院財政経済委員会副主任 華東軍政委員会副主席 などに任命されたあと(財政経済委員会副主任としては 公債発行に際しての貢 献などが指摘されているが ここでは省略)。 1951年5月 北京大学校長 に任命。1927年に自らの意志に反して北京大学を 去ってからちょうど24年の歳月が流れていた。3年前には、国民党政権のもとで、 大学で教えることすら、叶わなかった。 马寅初 について  福光寬

42 人口問題の 提起 马寅初 について  福光寬

43 発端 人口問題が新中国で出される契機は1953年に中国では最初の人口調査が実施さ れ(6月30日現在)その結果が発表された(11月1日)ことであった。総数6億190 万人 自然増加率は2%とされた。 この·1953年の発表を契機に马寅初は独自に人口問題の研究を始める。すでに仮 説として述べたように、彼は人口問題について考えをまとめたいとかねて思ってい たのではないか。最初に1955年7月人民代表者大会に向けた浙江省のグループ 会議で計画生育の必要性を訴えようとするが、賛成者が少なかったので断念して いる。しかしこれにひるまず56年6月には、人口抑制問題を改めて提出し、子供3 人目からは課税によって、抑制することを提案している。 马寅初 について  福光寬

44 頂点 毛沢東が馬の発言を称賛した その後、1956年9月第八次全国代表大会報告で周恩来が人口抑制(节制生 育)の専門機関を提起した。
頂点 毛沢東が馬の発言を称賛した その後、1956年9月第八次全国代表大会報告で周恩来が人口抑制(节制生 育)の専門機関を提起した。 そして毛沢東自身も最高国務会議で人口抑制に触れてつぎのようにのべた。 要提倡节育,要有计划地生育。我看人类他对自己最不会管理自己了,…….对 于生产人类自己就是没有计划了,就是无政府主义,无政府无组识无记律。…… 这个政府可能要设一个部门。…..或者设一个委员会吧,…..要想办法,要做宣传。 (关于正确处理人民内部的矛盾的问题  1957年2月27日) 翌3月1日 馬の人口問題についての説明を毛沢東が称賛したとされている。 马寅初 について  福光寬

45 暗転 1957年6月8日 党指導部は右傾批判に転ずる。 7月5日 新人口論が人民日報に掲載される。马が熱心に主張していた課税により誘導す る構想が消えている。一般的に考えられるように、馬の人口論の核は人口の増加要因の 分析にあるのではなく、実はこのように経済的動機で誘導するというのが馬の人口論の核 であった可能性がある(福光の仮説)。・・・・つまり马寅初の人口論の内容は、右傾批判開 始で歪んだ可能性がある。 马寅初 について  福光寬

46 反右派闘争と光明日報 第二次大戦後 中国民主同盟により創刊 知識人を対象としていた
反右派闘争と光明日報  第二次大戦後 中国民主同盟により創刊 知識人を対象としていた 1957年6月1日 編集担当副社長の儲安平が、統一戦線部の座談会で、非党員 が党員の顔色を窺いながら発言する現状を批判。民主党派と共産党の連合政府 はどこに行ったのかと問いかけた。 → 発言内容が6月2日の光明日報と人民日 報に掲載 → 共産党の指導(独裁)を否定する発言と流布に衝撃を受けた毛沢東 が 反右派闘争を宣言したとの説がある。 → その後 儲安平は批判を受け解職 (1966年 文化革命のときに失踪したが殺害されたと考えられる) 1957年11月11日 光明日報は民主党派の人々さらに马寅初など無党派の 人々を招いて社務委員会を開催、社長の章伯鈞と副社長の儲安平の更迭を正式 に決定した。 马寅初 について  福光寬

47 反右派斗争的导火线 反右派闘争の開始は、しかしもともと以前から準備されていて、発動のタイミング が見図られていたというのが通説である。発動を示す指標とされるのは、1957年6 月8日の人民日報社説で「这是为什么?」という記事。 そこで取り上げられたのは、民主党派の一つの中国国民党のこと。同党の5月25 日に行われた会合での同党中央委員卢郁文の発言。彼は匿名の投書の内容を否 定しつつ紹介した。この意見の内容は読み取りにくいが、社説の主張ははっきりし ており、この匿名の投書にしめされるように一部の人は党の整風運動を利用して 社会主義の大事業を転覆させようとしているが、中国はいまやかつての中国では なく、それは共産党の孤立ではなく、自らの孤立を招くだけだと、まとめている。 卢郁文の発言は6月7日に報道され、6月8日の記事になる。しかし記事の骨子は すでに用意されていたとされる。この匿名信問題については以下が詳しい。 叶永烈,反右派斗争的导火线,载《历史的注脚》,中华书局,2014年, 马寅初 について  福光寬

48 負け戦に挑む 马寅初 について  福光寬

49 大跃进活动的全面展开 (1958年6月)国家经委则向中央提出“两年超过英国”的报告,认为1959年 我国除电力以外的主要工业品产量都超过英国。毛泽东再批报告上批示:超过 英国,不是十五年,也不是七年,只需要两到三年,两年是可能的。 …………中国历史新编,中华人民共和国史,高等教育出版社,2012年,p.131 报刊上则不断地批判“条件论”, “粮食增产有限论” op. cit., p.132 在怕犯所谓“右倾保守错误”的思想支配下,党内急于求成的“左”倾思想迅 速地发展起来,工业“跃进”的热度继续上升,“超英赶美”的时间逐步缩短。 计划指标刷新。…….从六月开始,各地大放农业高产“卫星”。与此同时,报 刊舆论大力批判“条件论”,“农业增产有限论” …………中国共产党简史,人民出版社,2011年,p.165 なお放卫星は1957年のソ連の人口衛星が与えた衝撃から流行語になったもの。   cf. 阳雨,『大跃进』运动纪实,东方出版社,2014年, 马寅初 について  福光寬

50 1958年 最初の攻撃 個人批判の表面化(人格攻撃とマルサス主義との批判)
1958年 最初の攻撃 個人批判の表面化(人格攻撃とマルサス主義との批判) 学内および北京大学周辺 壁新聞の登場、突撃隊の組織化(←北京大学共産党委員会← 党中央宣伝部など) 5月4日  慶祝建校60周年式典において中央宣伝部副部長陈伯达 作了重要讲话。现 在我们在学术界的任务…进行坚决的,切切实实批判。比如…马尔萨斯学说。马老要 为“新人口论”做检查。 5月9日 光明日報に名指し批判記事登場皮切りに拡大 陆续发表了58篇文章 7月1日 最初の公開批判 北京大学食堂 中央文教小組副組長 康生作了报告。听说 你们北大出了个《新人口论》。它的作者也姓马。这是哪家的马吗?是马克思的马, 还是马尔萨斯的马?  新聞や雑誌における批判は次第に鎮静化(58年後半から59年前半) 職位などに変化はなし(ほかの民主人士とは別格で保護されていたのか) 马寅初 について  福光寬

51 诸天寅,陈云与马寅初,华文出版社,2012年 不是孤立的。马寅初的《新人口论》发表不久,就接到来自全国各地的40多封 支持者的来信。p.103 从1958年8月起,以人大常委委员的身份,走出校门,到外地继续调查研究, 以求证实和完善自己的理论。p.104 从1958年到1959年,他连续在《新建设》,《北京大学学报》,《光明日报》, 《中国经济问题》等报刊上发表了十多篇说理文章,而且越写斗志越旺,….. 即像哥白尼一样,抗争到底,决不屈服。p.107 马寅初 について  福光寬

52 诸天寅,陈云与马寅初,华文出版社,2012年 1958年7月9日,毛泽东召见邵力子,陈叔通,黄炎培,章士钊,张治中等民主 人士,听取他们的对“大跃进”的看法。为遭到批判的马寅初而担扰的邵力子, 抓住这个时机向毛泽东进言,希望毛泽东支持节育。毛泽东坚持自己的观点说: “人口问题,目前还不严重,可在达到八亿时再讲人口过多。”但又应付了一 句:“但对计划生育,仍应实施。” 诸天寅,陈云与马寅初,华文出版社,2012年,pp 马寅初 について  福光寬

53 1959年7月から8月 廬山会議 7月2日から左傾批判で進んでいた中央政治局拡大会議は、彭徳懐の毛沢東宛ての書簡が7月16 日に毛沢東により印刷公表されたことで一変する。7月21日に至って、毛沢東の激しい反論により、 彭徳懐の書簡に賛成した、黄克誠、張聞天、周小舟が彭徳懐とともに、反党集団を形成したとして 職位を奪われ、反右運動が再び再燃する。 この廬山会議について、これまでさまざまに書かれてきたが、彭徳懐たちが負けるプロセスには今 も疑問が多く残る。以下を参照    阳雨,『大跃进』运动纪实,东方出版社,2014年, 実はこの最後のプロセス(ブロックを形成したとみなされた会合 会合での毛沢東批判)について、毛 沢東の秘書であり彭徳懐らとともに処分を受けた李鋭の貴重な証言を最近よむことができた。以下 を参照。    叶永烈,访毛泽东秘书李锐,载《历史的注脚》,中华书局,2014年,51-69,esp 马寅初 について  福光寬

54 1959年暮れ 2回目の攻撃  そして退職 華々しい人口論の影に隠れているが、马寅初は中国の社会主義化についても研究を進め ている。この研究は計画経済を批判したものではないかと、小竹文夫氏が1959年に書い ているが、私も同じ印象を持っている。小竹文夫「中共における第一次五カ年計画批判  马寅初の所説を中心として」『アジア研究』5-3, 1959年3月, そして1959年11月 彼は玉砕を思わせる言葉を残した原稿を発表し、その後、北京大学校 長の辞職を届け出るのである(1960年1月3日及び4日)。 我虽年近八十,明知寡不敌众,自当单枪匹马,出来应战,直到战死为止, なおこのとき生じた2回目の攻撃では全部で83編の批判論文が現れたとされる。また1960 年1月11日に北京大学で行われた批判集会の模様は梁(2011)が詳しく伝えている。 马寅初 について  福光寬

55 退職後の日々と名誉回復 马寅初 について  福光寬

56 北京大学退職後も全国人代常務委員の職位は維持された。 1965年から片足は不自由になった。
1965年末に常務委員の職務を離れたが待遇は維持された。 文革中も攻撃を受けることはなかったが、家人により書き上げた原稿などを焼却される災 難にあったとされている。 1972年に直腸癌の手術を受けた。このあと下半身が麻痺した。 1979年7月16日 正式に名誉回復が本人に伝えられた。7月25日 名誉回復が全国に報 道された。 1980年3月17日 自宅から北京医院に移った。 1982年5月10日 北京医院で亡くなった。 马寅初 について  福光寬

57 新たな証言 马寅初孙马思泽:“爷爷没受到文革迫害”(news.qq.com/a/20090818/001102.htm)
马寅初の文革時の様子については、有力な証言が少ないと感じていたが、马寅初 の孫にあたる马思泽が2009年8月に証言していることが、分かっている。 紅衛兵が現れて自宅が荒らされる事態は、马思泽の友人の両親にも、近隣の住 宅にも及んでいた。そうしたときに紅衛兵が自宅に別人の馬思通を探して訪問して くることがあった。そこで家人が家の中を整理する必要を感じて、马寅初の手紙・書 画・書籍などのほとんどすべてを马寅初の同意を得て焼き払ったとある。 その直後に周恩来の指示により、馬家が公安(警察)により保護されることが派出 所から伝えられた。馬の待遇は最後まで維持された、としている。この马思泽の証 言は、大陸の本では言及されていないが、以下の台湾書籍に引用されている。 赵家明,北京大学光荣与耻辱,明镜出版社,2010年,esp 马寅初 について  福光寬

58 今回の報告における主な追加資料 孙文, 三民主义,1965年版,三民书局。
货水金,南京国民政府中央银行反通货膨胀政策及其绩效评析,载《近代中国的企业, 政府与社会》,上海社会科学院出版社,2008年。 货水金, 年中国金融与财政问题研究 ,上海社会科学院出版社,2009年。 赵家明,北京大学光荣与耻辱,明镜出版社,2010年。 陈潮,近代留学生,中华书局,2010年。 李超民,中国战时财政思想的形成( ),东方出版中心,2011年。 王红曼,国民政府战时金融法律制度研究(1937∼1945年),法律出版社,2011年。 朱荫贵,近代中国:金融与证券研究,上海人民出版社,2012年。 叶维丽,为中国寻找现代之路,北京大学出版社,2012年。 叶永烈,历史的注脚,中华书局,2014年。 阳雨,『大跃进』运动纪实,东方出版社,2014年。 蔡元培,蔡元培自述 實庵自传,中华书局 2015年。 吴景平主编,宋子家族与近代中国的变迁,东方出版中心,2015年。 马寅初 について  福光寬

59 残されている課題 例えば 马寅初の著述の再評価 どのような経済学者だといえるのか
残されている課題 例えば 马寅初の著述の再評価  どのような経済学者だといえるのか 马寅初と民主人士との関係……戦前から戦後にかけて解明すべき点は多い 马寅初の社会主義経済論 アメリカから帰国した中国人経済学者の運命 马寅初 について  福光寬


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