フランス新聞界の発達を探る(1) ‐草創期からフランス革命 ‐ナポレオンと新聞 外国ジャーナリズムⅡa 第11回 フランス新聞界の発達を探る(1) ‐草創期からフランス革命 ‐ナポレオンと新聞 外国ジャーナリズムⅡa
1.新聞出現前夜-1 1 最初の定期刊行物……ルイ13世の時代 1631.6.1 La Gazette 1789年まで官報的性格の月刊、週刊紙→その後日刊に 17世紀を通じて、発行部数は約1,200部 [創刊者]・テオフラスト・ルノード(Theophraste Renaudot,1586-1653): 医師、ジャーナリスト:リシュリー首相の知遇を得て、ルイ13世の侍医に 王の特許を得て、『ラ・ガゼット』を創刊 “フランスの新聞の父”と呼ばれる⇒フランスのアディソン/フランクリン 外国ジャーナリズムⅡa
1.新聞出現前夜-2 2.パンフレット・ジャーナリズムの開化 政治ジャーナリズムの登場=フロンドの乱 文学的ジャーナリズムの出現 小プレス 『学者新聞(ジュルナル・デ・サヴァン』Journal des Savants 外国ジャーナリズムⅡa
2.日刊新聞の登場 Le Journal de Paris :パリ新聞 1777.1.1(水)創刊 89年までフランス唯一の日刊新聞 創刊人 コランセ(Oliver de Corancez) 外国ジャーナリズムⅡa
3.フランス革命(1787-99)と新聞 1789.8.26 人権宣言発布 「人権および市民の権利宣言」第11条を議会が採択 1789.8.26 人権宣言発布 「人権および市民の権利宣言」第11条を議会が採択 →検閲とすべての事前検閲許可制の廃止 ★第11条「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利のひとつである。従ってすべての人民は、自由な発言に対し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を追わなければならない」⇒これにより、「プレスの自由」という概念が飛び交う 外国ジャーナリズムⅡa
Le Journal des D´ebats :討論新聞 La Gazett Nationale ou Moniteur Universel (通称ル・モニトゥール) 外国ジャーナリズムⅡa
4-1.ナポレオンと新聞:1799~1814/15 1799 Napoleon Bonaparte I(1769-1821) 敵意のある三つの新聞は、千の銃剣よりも恐ろしい。 総督制度を廃止⇒執政官政治 新聞を新政府の機関として利用 Press Bureau を設置 1800.1.17執政官令→政治新聞を13紙に限定 発行部数を多いもののみ残す。 破壊的記事を忍び込ませたような新聞 ⇒即時発行停止処分 外国ジャーナリズムⅡa
4-2.生き残りの代表紙 『ピュブュリシテ』(半官的で、政府の立場) 2,850 当時の発行部数 4-2.生き残りの代表紙 当時の発行部数 『ジュルナル・デ・デバ』(伝統のある古い新聞) 8,150部 『ガゼット・ド・フランス』(内政関係) 3,250 『ピュブュリシテ』(半官的で、政府の立場) 2,850 『モニトゥール』(政府の代表機関紙となる) 2,450 検閲官を置く パリ紙の超落は、地方紙の出現、進出を促した。 外国ジャーナリズムⅡa
4-3.ナポレオンと新聞 1810年:事前検閲の復活。政府に新聞の編集長任免権が与えられる。 地方紙1県1紙→今日発行部数の面でフランスで最も重要なローカル紙、地域紙の出発点となった。 1811年:パリ新聞も統合され、4紙しか生き残らなくなる。 1814.5.2 ルイ18世 プレスの自由の尊重を約束(サン・トアンの宣言)/10.21法 これを破棄 事前検閲の復活→20頁以下の全ての印刷物 第一次王政復古=1814年5月、ルイ18世(1824年没)即位 ナポレオンの百日天下(3~6月) 第二次王政復古=1815年7月~1830年(1824~30年はシャルル10世) 外国ジャーナリズムⅡa
5. 新聞の大衆化現象 1830.7.25(7月革命) ポリニャックの行政命令→新聞の自由、消滅 シャルル10世体制の崩壊。 1830.7.25(7月革命) ポリニャックの行政命令→新聞の自由、消滅 シャルル10世体制の崩壊。 プレスへの相対的にリベラルな諸措置で、新聞は数の増大と繁栄をもたらす ① 教育の普及 1828~46年までにリテラシー50%以上増加。 ② 就学率は19世紀末までに全人口をカバー ③ 都市化、産業化、交通手段の発展、事業活動の活発化。 1832年、アバス事務所開設 新聞の大衆化現象 a)プレスを可能にする技術的条件<産業革命の進行> b)経営を成り立たせる経済的条件 c)読者をもてるという社会的条件 d)政治的束縛からの解放 外国ジャーナリズムⅡa
6. 廉価新聞の登場 1836.7.1 La Presse の第1号創刊 6. 廉価新聞の登場 1836.7.1 La Presse の第1号創刊 創刊者 エミール・ジラルダンは、販売価格の低下と広告の導入を図り、大発行部数のメカニズムを開発。1部1スー(半ペニー)。新聞市場に競争原理が導入される。 安い新聞が作れなかったのは、 発行に保証金が必要。 捺印税がかかった。 郵税がかかった。 【鹿島】 外国ジャーナリズムⅡa
7.19世紀後半のフランス新聞 1852年:Le Figaro 週2回創刊⇒66年日刊 1863.2.1 Le Petit Journal 創刊者=モイズ・ポリドール・ミヨー (Moise Millaud, 1813-71) アメリカ式大衆新聞で、多数の読者をつかむ。30万部から50万部へ ドレフュス事件で半減 1890年:100万部 外国ジャーナリズムⅡa
8.1881年法の制定 第1条:「印刷および出版は自由である」 検閲、事前許可、保証金、印紙税などの抑圧的措置が廃止された。 訂正、反論権 Cf. 1789: 人権宣言第11条 1989:「コミュニケーションは自由である」 外国ジャーナリズムⅡa
9.ラジオの出現と新聞 1922年 ラジオ放送の開始→ニュース報道合戦の幕が開いた 大衆夕刊紙の出現 1922年 ラジオ放送の開始→ニュース報道合戦の幕が開いた 大衆夕刊紙の出現 1924年創刊(例)『パリ・ソワール』(Paris Soir) この年、コティが『フィガロ』を買収するが、新聞事情に疎く、失敗。 1938年 『プチ・パリジャン』の発行部数、200万部突破 外国ジャーナリズムⅡa
2度にわたる大戦期間中、フランス新聞界には新しい試みはほとんどみられなかった 10.20世紀初頭の新聞界:日刊紙の黄金時代 1900年 パリの読者数約600 万人を5紙で占めた。 1900年以降の日刊紙の状況 1918.11.11 戦時中に復活していた検閲の廃止 2度にわたる大戦期間中、フランス新聞界には新しい試みはほとんどみられなかった 外国ジャーナリズムⅡa
主要参考文献 小糸テキスト、 B.ボワエンヌ、松尾博文ほか(訳)『現代情報学入門』(昭和堂、1983) 山田登世子『メディア都市 パリ』(青土社、1991) ジャック・セゲラ、小田切慎平(訳)『広告に恋した男』(晶文社、1984) シュルベール『第四の権力』(日本経済新聞社、1978) ジャン・シュヴェール、井上ほか(訳)『報道・権力・金』(サイマル出版会、1977) http://pweb.cc.sophia.ac.jp/s-yuga/gakubu/FJ2ref.htm 外国ジャーナリズムⅡa
代表的な新聞・雑誌 LIBERATION :1973 中道左派 14万部 Les Echos :経済紙 La Croix:ラ・クロワ カトリック系新聞 Le Monde diplomatique :ル・モンドの国際月刊版(各国語版) 240万人) Le Nouvel Observateur :論説・報道(週) L‘Express :論説・報道(週) Paris Match :大衆週刊誌;写真 外国ジャーナリズムⅡa
Le Monde:1944~ パリ夕刊紙;「世界」;35万部(2006) Hubert Beuve-Méry 中道左派→穏健派 Groupe Le Monde ルモンド記者会 Le Monde diplomatique 日本語版 外国ジャーナリズムⅡa
フィガロ (Le Figaro) フランスの日刊紙。1826年に発行され、フランス国内では最も古い歴史を持つ。 論調は中道右派、もしくは右派。発行部数は約33.7万部(2005年)。フィガロという名前はカロン・ド・ボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』の登場人物から。 発行部数 36.6万部(1999) 33.7万部(2005) 外国ジャーナリズムⅡa
ロベール・ギラン Robert Guillain:1908/9/4 – 98/12/2 アジア、特に日本通として知られる。 1938~: 東京特派員 ゾルゲ事件(1941) 「アジア特電 1937~1985―過激なる極東」矢島翠(翻訳) 毎日新聞社、1986 外国ジャーナリズムⅡa
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