女性参政権獲得の歩み 19世紀から20世紀半ばまで (第1派フェミニズム) 近代女性思想 12 女性参政権獲得の歩み 19世紀から20世紀半ばまで (第1派フェミニズム)
イギリス ジョン・ステュアート・ミル1806-73 ハリエット・テイラー1807-58 ミル『女性の隷従』1869 1830年に出会う(51年、結婚、2年前に夫は死亡)、互いに影響 ミル、1865年の選挙で当選(女性参政権の実現を公約)→「全国女性参政権協会」設立 1868年には落選→ ミル『女性の隷従』1869
女性の職場 イングランド・ウェールズ グレート・ブリテンおよびアイルランド 家事サービス(使用人) 1,336,534( 1871) 1,759,555(1891) 繊維 568,070(1871) 628,001(1891) 衣服 730,453(1871) 691,441(1891) グレート・ブリテンおよびアイルランド 家事サービス 1,658,000(1914) 1,250,000(1918) 工業 2,178,600(1914) (繊維、衣服) 2,970,000(1918) 商業 505,000(1914) 934,500(1918)
ドイツ3月革命 1848年2月革命がヨーロッパ全土に飛び火 3月革命、ドイツ統一運動(普通選挙、出版・集会・結社の自由、労働者保護、女性解放)→ 職業の自由、女性選挙権、教育の機会均等を要求 1865年10月、ブルジョワ女性が組織する「全ドイツ女性協会」結成(ルイーゼ・オットー=ペータースが中心)
ドイツ 1849年のザクセン地方 男性労働者2万人、女性1万1000人 衣服(仕立て)、清掃が女性の職場、5分の2 繊維産業、4分の1 食品産業、12分の1 労働時間は一日14時間(長時間)、低賃金 1863年のプロイセン 50%の女性が一人暮らし(20歳から40歳まで)で仕事を必要とした
労働者女性運動 マルクス、エンゲルス 労働者女性運動の特徴: 女性が働くこと:女性解放の前提条件 ブルジョワ女性が経済的に夫に従属していること:女性の男性への従属を生み出す →女性の経済的自立を目指す
日本 母性保護論争 母性保護論争(ぼせいほごろんそう)は、1918年から1919年にかけて、働く女性と子育てについて繰り広げられた論争。 日本 母性保護論争 母性保護論争(ぼせいほごろんそう)は、1918年から1919年にかけて、働く女性と子育てについて繰り広げられた論争。 女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐる与謝野晶子と平塚らいてうの議論から始まり、のちに山川菊栄、山田わかが合流して繰り広げられた。
平塚らいてう 母性保護の立場 平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。
与謝野晶子 母性保護否定 与謝野晶子は国家による母性保護を否定。 与謝野晶子 母性保護否定 与謝野晶子は国家による母性保護を否定。 妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな 良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。(Wikipediaによる)
女性参政権実現(19世紀末) 1893,ニュージーランド(イギリス本国より先に) 1894,オーストラリアの一部(97年本国のイギリスで参政権法案提出、しかし議会では否決 イギリス「女性参政権協会全国連合」フォーセット会長 1918,30歳以上の女性の参政権(1915年アスキス首相が退任、労働を含めた連立政権、14年以来の第1次世界大戦で男性は出征、女性が職場に進出し、実績をあげる)
日本の女性参政権運動 女性参政権
女性参政権実現の年表 1893 ニュージーランド 1902 オーストラリア 1906 フィンランド 1913 ノルウェー 1893 ニュージーランド 1902 オーストラリア 1906 フィンランド 1913 ノルウェー 1915 デンマーク 1918 イギリス 1920 アメリカ 1931 スペイン 1937 フィリピン 1944 フランス 1945 イタリア、インドネシア、日本、ベトナム 1948 韓国 1949 中国 1990 サモア (サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦: 女性参政権実現していない)
第一次大戦と女性の社会進出
サウジアラビアでは女は自動車免許を持てない。