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日蓮聖人の生涯
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日蓮聖人坐像 東京池上本門寺蔵 重要文化財
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日蓮聖人歿後七回忌にあたる正応元年(1288)に日蓮の直弟・信者らによって造立。生前の日蓮聖人の容貌を忠実に再現した肖像彫刻と伝えられます。
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「あを(仰)ぐところは釈迦仏 信ずる法は法華経なり」 日蓮遺文『盂蘭盆御書』 娑婆有縁の仏陀釈尊を仰ぎ、その至高の教えである法華経を生きた、日蓮聖人の生涯を振り返ります。
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誕生 日蓮聖人(1222~1282)は、貞応元年(1222)、安房国(現、千葉県)小湊の海村に、漁師であった父貫名重忠・母梅菊の第4子として誕生しました。幼名を薬王丸(善日麿)といいました。
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宗旨建立(立教開宗) その後、16歳にして故郷の清澄寺で出家した日蓮は、永年の仏教研鑽の結果、建長5年(1253)4月28日、法華経に根ざした信仰を立宗宣言します。これを立教開宗と呼びます。 日蓮聖人、32歳の時のことです。
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鎌倉弘通 清澄寺での法華経勧奨の宣言は痛烈な念仏批判を伴うものであったため、熱心な念仏信者であった地頭の東條景信の逆鱗に触れ、清澄寺を追放されます。その後、日蓮聖人は、幕府の拠点相模国鎌倉に出て布教を開始します。
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『立正安国論』上奏 当時の国内は天変地災・飢饉・疫病が流行し、人々の困窮は目に余るものとなっていました。日蓮聖人は、災難の原因が、厭世的な念仏思想の罹蔓にあると考え、『立正安国論』を作成、幕府の政道・宗教政策を批判します。
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草庵襲撃・伊豆配流 しかし、その提言は用いられず、日蓮聖人は鎌倉武士や念仏信者の迫害を受け、伊豆の伊東に配流されます。
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東條松原の法難 伊豆配流を赦免された翌年、母危篤の知らせを受けた日蓮聖人は、故郷安房に帰省します。これを絶好の機会と待ち受けていた東條景信は、一行を襲撃。日蓮聖人は、弟子を殺傷され、自身も眉間に刀疵を蒙ります。
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蒙古国書到来 文永5年(1268)、蒙古国より日本の隷属を迫る国書が到来します。かつて『立正安国論』で警鐘を鳴らした内憂外患が現実味を帯びてくる中、日蓮聖人の言動は激しさを増していきます。
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日蓮暗殺 文永8年(1271)9月12日、幕府は日蓮聖人と門弟の言動を反社会的運動として弾圧。多くの門弟が捕らえられ、日蓮聖人も相模国龍口で斬首の危難に遭いますが、「ひかりもの」の奇瑞が起こり難を免れます。
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佐渡配流 龍口斬罪をのがれた日蓮聖人は、当初の罪名通り佐渡配流となります。極寒の地佐渡での配流生活は、文永11年(1274)に赦免されるまで、あしかけ4年間に及びました。
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開本両抄の撰述 配流中、日蓮聖人は、信仰と思想の深化を『開目抄』『観心本尊抄』に表します。この間、京都・鎌倉では北条一門の権力抗争がおき、また蒙古の圧力も高まりをみせたこともあり、幕府は意見を求めるため日蓮聖人を鎌倉に還しました。
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身延入山 しかしながら、政治的・外交的・軍事的解決を目指す幕府と、宗教的問題の解決を迫る日蓮聖人の意見は対立。日蓮聖人は漂泊の思いにかられて鎌倉をあとにします。この年の10月、ついに蒙古が北九州に襲来します。
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遷化 甲斐国身延での晩年の9ヶ年で多くの弟子や信者を得た日蓮聖人でしたが、長年の苦難が身体をむしばみ、常陸国に湯治に向かう途中、弘安5(1282)10月12日、武蔵国池上で60年に及ぶ波乱の人生に幕をおろします。
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その後、日蓮聖人の教えは、700年以上に亘って、多くの人々に受け継がれてきました。日蓮聖人の生涯を貫徹した、法華経に根ざした「こころざし」や「ふるまい」は、混迷する人間社会を救う指針として、これからも人々の心に響くことでしょう。
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我が門下は、昼は暇(いとま)を止(とど)め、夜は眠りを断じてこれを案ぜよ。 一生空(むな)しく過ごして、万歳悔ゆることなかれ。
(日蓮遺文『富木殿御書』)
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制作:日蓮宗 法住山 要傳寺
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いかなる迫害や弾圧を受けても、信念を貫き通し、法華経の布教に身を捧げた日蓮聖人の生涯を、豪華オールスターキヤストで描いた歴史大作!
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日 蓮 DVD絶賛発売中 監督:中村 登 主演:萬屋錦之介 共演:松坂慶子・中村嘉葎雄・ 松本幸四郎・永島敏行・ 田中邦衛・丹波哲郎・
監督:中村 登 主演:萬屋錦之介 共演:松坂慶子・中村嘉葎雄・ 松本幸四郎・永島敏行・ 田中邦衛・丹波哲郎・ 松方弘樹・中谷一郎他 角川映画株式会社より DVD絶賛発売中
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