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アーカイブにもとづく欧州通貨統合史 --新たな知見と論点-- 権上康男 2014.3.22 はじめに
--新たな知見と論点-- 権上康男 日本金融学会 中央銀行部会 はじめに I 通貨統合をめぐる「基軸国」フランスと西ドイツ II 欧州変動幅制度(スネイク、EMS)の運営――制度の緊張と対処法 III 欧州通貨統合史研究の焦点――EMSの成立(1978) 結び
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アーカイブに照らしてみると、欧州通貨統合史に関する内外の研究には一定の脆弱性が
はじめに 1. 問題の所在 アーカイブに照らしてみると、欧州通貨統合史に関する内外の研究には一定の脆弱性が 認められる。それは主に3点に関係している。 ① 統合欧州の「基軸国」フランスとドイツの、通貨統合にたいする姿勢と、その歴史的 変遷。 ② 欧州変動幅制度(スネイク、EMS)の運営実態。 ③ EMS創設の歴史的背景とこの制度の性格。 ただし、報告者がこうした印象をもつのには、経済史的アプローチをとっていることも関係 していると考えられる。
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(1971.8 金/ドル交換制停止、1971.12 スミソニアン協定) 1972.4 「トンネルの中のスネイク」発足
2. 欧州通貨統合史略年譜 1957.3 ローマ条約→1958.1 EEC発足 ハーグ欧州首脳会議 ヴェルネル(ウェルナー)報告 (1971.8 金/ドル交換制停止、 スミソニアン協定) 1972.4 「トンネルの中のスネイク」発足 (1973.3 スミソニアン協定崩壊) 1973.3 「空中のスネイク」発足 (1973末 第一次石油危機。 仏米通貨協定。1976.1 IMF暫定委員会ジャマイカ 合意。1976.9 バール・プラン) 1979.3 EMS発足 (1979 第 2次石油危機の発現。 サッチャーの改革、レーガノミックス) 1986.2 単一欧州議定書 1992.2 マーストリヒト条約
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I 通貨統合をめぐる「枢軸国」フランスと西ドイツ
I 通貨統合をめぐる「枢軸国」フランスと西ドイツ 「マネタリスト」と「エコノミスト」の対立という図式が独り歩きしてきた感がある。経済通貨 同盟の創設をめぐり、通貨統合と経済政策の収斂のいずれを優先するかで、仏独が争った とされる。しかし、アーカイブからうかがえる実態は異なる。 1. 仏独の確執 1980年代半ばまでに2度、仏独間に深刻な確執があった。 第1期、70年代初頭――ヴェルネル委員会における討議と報告書をめぐる確執。 フランス/経済通貨同盟は第1段階(スネイク)にとどめる。通貨統合は危険である ――①国家主権を損なう、②ドルの支配をマルクの支配に代えることに なる。為替関係の安定は相互金融支援で保障する。 ドイツ/10年後に確実に通貨統合を完了させる。そのために経済政策と通貨政策 の中央決定機関の創設を急ぐ。
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フランス/ECUの利用拡大と欧州通貨基金の早期創設に執着。 ドイツ/シュミット首相府のみEMSに積極的。財務省は消極的、ブンデスバンクは
第2期、70年代末から80年代初頭――EMSの立上げをめぐる確執。 フランス/ECUの利用拡大と欧州通貨基金の早期創設に執着。 ドイツ/シュミット首相府のみEMSに積極的。財務省は消極的、ブンデスバンクは 否定的。 かくて、争われていたのは、通貨統合が先か、経済政策の収斂が先かではない。実際に 通貨統合をするのか、それともしないのか。しかも、この問題にたいする両国の立場は、 第1期 と第2期で入れ替わっている。 なお、1970年代のアーカイブに「エコノミスト」(独蘭)の表現は登場するが、「マネタリス ト」という用語は見当たらない。 問われるべき本質的な問題。 ① 第1期における対立は何に根ざしていたのか。 ② 第1期から第2期までの間に何があったのか。 ハーグ会議で仏独首脳が経済通貨同盟の創設で合意したのは、ほとんどもっぱら 政治的理由(なかでもイギリスのEEC加盟問題、新東方政策)による。
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2. 第1期における仏独対立の背景――対照的な戦後経済政策路線 フランス/国家主導(国有化と計画化)のケインズ主義的成長政策。雇用を優先。
2. 第1期における仏独対立の背景――対照的な戦後経済政策路線 フランス/国家主導(国有化と計画化)のケインズ主義的成長政策。雇用を優先。 弱いフラン。⇒「調整可能な」世界固定相場制に執着――国際収支の 不均衡 は平価 調整で回復可能。 ドイツ/「社会的市場経済」(新自由主義のドイツ版)。物価の安定を優先。強いマ ルク。短期資本の流入による輸入インフレ懸念。⇒変動相場制を志向。 新自由主義の実用的な定義。 - 社会主義とケインズ主義の挑戦をうけて刷新された自由主義の流れ。国家の果たす役割に 特別な意義を認める。 - 物価の安定を最優先の課題とみなし、雇用を優先すべき社会目標から外す。 - 社会(労働組合)との対話ないし協調を重視するタイプ(社会的市場経済)と、それを不要と見る タイプがある。 春、経済政策路線に大きな違いを残したまま仏独は妥協――3段階からなる 経済通貨同盟の第1段階だけに責任を負う。第2段階以降はペンディング。
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II 欧州変動幅制度(スネイク、EMS)の運営――制度の緊張と対処法
II 欧州変動幅制度(スネイク、EMS)の運営――制度の緊張と対処法 スネイクも為替機構としてのEMSも、ともに2.25%の欧州変動幅を採用。その大枠はパリ ティー・グリッド方式による為替介入で支えられている。 この制度の安定は、次の2つの原因から生じる緊張の緩和にかかっていた。①ドル相場 の変動。②欧州諸国の経済政策の乖離。 1. 緊張要因--①ドル相場の変動 欧州諸国の貿易はドル決済分の割合が大きく(共同体全体で約50%)、しかも貿易の 地理的分布は国ごとに異なっていた。 ⇒ ドルの変動は域内の為替関係を緊張させる。 とくに深刻なのはドル相場の低落時。マルクの「避難通貨」化、マルク高⇒欧州の 弱い通貨国から短期資本がドイツに流出。
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何度も検討の俎上にのせられた。しかしそのつど、2つの壁に阻まれ、不調に終わる。 ① アメリカのビナイン・ネグレクト。
このため共同体内では、「共通ドル政策」(対ドル為替政策での協調)がフランスの主導で 何度も検討の俎上にのせられた。しかしそのつど、2つの壁に阻まれ、不調に終わる。 ① アメリカのビナイン・ネグレクト。 ② ブンデスバンクの強い反対。国内政策目標(物価安定)を優先し、欧州諸国との 政策協調を一貫して拒否。(アメリカからの政治的圧力も――公然の秘密)。 ( ③ NY市場ではマルク以外の欧州通貨が入手不能。) 2. 緊張要因――②経済政策の乖離 この要因から生じる緊張を緩和すべく、金融政策の調整と、変動幅内介入に必要な事前 協議のルール化が、くり返し議論された。これも不調に終わる。壁となったのは、同じく、 中央銀行間協議・調整に否定的 なブンデスバンク。 こうして金融政策も変動幅内介入も、国ごとにバラバラで統一性に欠けるものとなった。これは 一言でいうと、通貨・為替の世界が著しく非対称的であることの反映。
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この対立はどう決着したか、あるいは解決されたか。 づけられた英、伊、仏が次々とスネイクからはじきだされた。
3. 域内調整と調整機構 域内調整 スネイクでもEMSでも、ドイツ(およびオランダ)とその他諸国の間で軋轢が絶えない ――強い通貨国(「A級市民」)と弱い通貨国(「B級市民」)の対立。 この対立はどう決着したか、あるいは解決されたか。 ① 70年代前半にはパリティー・グリッド方式が厳格に適用され、最弱の通貨国に位置 づけられた英、伊、仏が次々とスネイクからはじきだされた。 ② 70年代後半、ミニ・スネイクになってからは、主に為替平価の調整によって制度の 防衛が図られた。この方法はEMSに引き継がれた。 ユーロ圏になっても、緊張が発生する仕組みは基本的に同じだと考えられる。違いは、 緊張の発生領域が財政に移っている点にある。 ⇒加盟諸国はA級市民とB級市民に分裂、ユーロ圏の「危機」はくり返される。
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⇒マネタリズムの為替理論にもとづく通貨統合悲観論、ユーロ圏分解・分裂論。
調整機構 統合欧州には調整機構がないかに見える。 ⇒マネタリズムの為替理論にもとづく通貨統合悲観論、ユーロ圏分解・分裂論。 調整機構はローマ条約により初発から用意されていた。共同体の諸機関(閣僚理事会、 専門委員会)における多国間協議=調整――「共同体的解決法」。ただし、濃密な調整 の実態はアーカイブでないと確認は困難。統合欧州は一種の政治同盟。 為替相場の変動(市場機構)を介した調整と、多国間協議(叡智主義)による調整の、 いずれが柔軟で優れているかといった議論は不毛。統合史研究にとって重要なのは次 の問に答えること。 マネタリズムの為替理論が支配的になったのは、70年代に、アメリカ(より厳密にはアメ リカ系多国籍企業)が世界に変動相場制を押し付ける際に理論的拠り所としたためで ある。しかし、欧州諸国はこれに背を向けて、通貨統合に向かった。それはなぜか。 (答えはEMS成立の背景にある。)
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高度の政治的性格(②、③)を有し、技術的なスネイクとは全く性格が異なる。9カ国が
III 欧州通貨統合史の焦点--EMSの創設( ) 欧州通貨統合史の重要な画期の一つはEMSの創設にある。EMSの骨格は仏独首脳 の秘密協議でまとめられ、各国の国内調整を経ずに欧州首脳理事会に提案され、承認 された。政治が決定的役割を果たしており、フランス大統領文書が貴重な情報源となる。 1. EMSとは何か EMSの構成要素。 ① 2.25%の最大変動幅をもつ為替機構。 ② 通貨バスケットECU(共通通貨)の使用。ECUは各国の準備資産の20%を欧州 通貨協力基金(FECOM)へ預託する見返りに発行される。 ③ 第2段階で欧州通貨基金(欧州中央銀行の萌芽)を までに創設する。 高度の政治的性格(②、③)を有し、技術的なスネイクとは全く性格が異なる。9カ国が 単一通貨の導入に取り組む政治決断をしたことを意味する。なぜかかる決断をしたか。
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2. 1974-75の経済危機の衝撃--フランス政府の危機の診断と処方箋
2. 1974-75の経済危機の衝撃--フランス政府の危機の診断と処方箋 第一次石油危機とスミソニアン体制崩壊とともに、欧州諸国は深刻なスタグフレーションに 見舞われる。 診断--構造的危機 安価な通貨にもとづく戦後の成長モデルが1974-75を境に終焉した。通貨を切り下げ ても(単独フロート移行)貿易収支は改善せず。通貨は続落し、国内はインフレスパイラル に陥る。トレードオフの関係にあったインフレと失業がいまや併存。 原因と処方箋 (3つのキーワード) 経済に強力な「対外的拘束」(とくに石油・原材料の高騰と為替相場の 変動)が働いて いる。この拘束は「対外開放度の高い中規模の工業国」からなる欧州諸国に強く働く。 1976時点の貿易総額の対GDP比――欧州諸国39-167%、日26%、 米16%。 ⇒もはや高成長は不可能。ケインズ主義との決別、「新自由主義」的構造改革が 必要。 2葉の図とその解釈がかかる処方箋が作成された事情を伝える。
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『ヨーロッパの賭――経済再建への切り札』竹内書店新社, 1985年, 70, 72頁。
(出所 )Michel Albert, Un pari pour l’Europe, Paris, ミッシェル・アルベール著/千代浦昌道訳 『ヨーロッパの賭――経済再建への切り札』竹内書店新社, 1985年, 70, 72頁。
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3. 新自由主義へのフランスの改宗と通貨統合問題
3. 新自由主義へのフランスの改宗と通貨統合問題 ① 戦後経済政策の全面転換――バール・プラン(1976-81) バールは首相兼財務大臣、前欧州委員会副委員長、モンペルラン協会会員。 プランの論理構成。 実質賃金の抑制と企業の社会負担の軽減⇒企業の内部留保の増大 ⇒自己金融による投資の拡大⇒インフレなき成長⇒雇用の拡大。 この循環を円滑にするために、社会保険制度の見直しと各種規制の緩和による 競争的環境の創出。 プランを支える政策思想は明らかに新自由主義。ただし、「社会的市場経済」タイ プ (ジスカールデスタン)。 ⇒仏独を隔ててきた経済政策の理念レベルの違いが 消滅。
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a. マネタリズムの説く変動相場制は抽象的世界の話。欧州には適用不能。 b. 増大する対外的拘束には欧州経済通貨同盟の創設で対処する。
② 欧州通貨統合の積極位置づけ 財務省経済予測局長Ed.マランボーのジスカールデスタン宛の覚書(1973.3) ――「欧州モデル」の提言。 a. マネタリズムの説く変動相場制は抽象的世界の話。欧州には適用不能。 b. 増大する対外的拘束には欧州経済通貨同盟の創設で対処する。 ⇒貿易額の約50%が固定相場で決済でき、経済政策の自律性の回復が 可能になる。 c. 経済通貨同盟を実現するために、ドイツと同じ強い通貨政策を採用する。 提言は1976年からフランス政府の公式の政策(第7次プラン、第8次プラン)と なる。 フランスとは反対に、ドイツ、なかでもブンデスバンクは1974-75年の危機以後、 欧州通貨協力に極度に慎重になる(国内政策の目標達成にとって有害と判断)。
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仏独首脳の秘密会談で原案を用意したのはジスカールデスタン。原案のベース にあったのは上記マランボーの提言。
4. EMSの性格 EMSの原案はフランス案。 仏独首脳の秘密会談で原案を用意したのはジスカールデスタン。原案のベース にあったのは上記マランボーの提言。 ドイツの首相シュミットはこのフランス案を丸呑みした――フランスでバール・プラン が定着したと判断したため。EMS創設案が国内調整を経ずに欧州首脳理事会に 提案されたのは、ドイツの中央銀行と世論の反対を封じるため。 仏独以外の諸国の首脳がEMSの創設で足並みを揃えたのは、程度の差こそあれ、 1974-75年の危機からフランスと同様の教訓を引き出していたため。 EMSの政策技術的性格。 ① 弱い通貨政策と決別するという合意形成の上に成立した「単一通貨の発射 台」(J・ドロール)。あるいは「欧州新自由主義同盟」。
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② 「外部からのショック〔とくにドル相場の変動〕の『共同体化』を可能にする」 装置、 つまり 対外的拘束にたいする「緩衝装置」(1981
② 「外部からのショック〔とくにドル相場の変動〕の『共同体化』を可能にする」 装置、 つまり 対外的拘束にたいする「緩衝装置」( バスチアーンス小委員会に よるアンケート結果)。 要するに、EMSは、ドルの変動と経済政策の乖離から生じる2重の緊張を緩和するための 制度として誕生した。 5. 社会党出身の大統領ミッテラン(1981.5-)のEMSへの対応。 成長政策と国有化政策への回帰⇒EMSからの離脱を検討⇒最終的に断念、ジスカー ルデスタン/バール時代の安定政策に回帰。Cf. 前出の図(フランス)。 ⇒一転して通貨 統合の 急先鋒になる。 通貨統合と、それを実現するために必要な新自由主義的政策・構造改革 は、イデオロギー と政治的党派の違いを超えて受け入れられたことになる。
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結び か。 させられた時期。 こうした現実にたいする「枢軸国」フランスとドイツの姿勢は対照的。
1960年代末-80年代前半の時期は、欧州通貨統合史全体のなかでどんな位置を占める か。 ① 通貨・為替の世界が著しく非対称的であるという厳しい現実を、欧州諸国が再認識 させられた時期。 こうした現実にたいする「枢軸国」フランスとドイツの姿勢は対照的。 フランス/政治(あるいは叡智)の力で現実を対称的なものに変えるべきである。 ドイツ/現実を受け入れ、それに適応すべきである。 この姿勢の違いは長期にわたって両国の確執を規定。中長期的にみると、 統合欧州は 両者の均衡の上に展開してきたと言える。 ② 欧州諸国が新自由主義的秩序を受け入れた時期。 新自由主義を受け入れることを通じて、通貨統合は初めて現実の政治課題になること ができた。 通貨統合に向けた前進と新自由主義的構造改革(規制緩和、国有企業の民営化)は 表裏一体の関係にある。
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参考文献 権上康男『フランス資本主義と中央銀行――フランス銀行近代化の歴史』東京大学出版社、1999年。
権上康男『通貨統合の歴史的起源――資本主義世界の大転換とヨーロッパの選択』日本経済評論社、 2013年。 権上康男編著『新自由主義と戦後資本主義--欧米における歴史的経験』日本経済評論社、2006年。 権上康男「フランスにおける新自由主義と信用改革(1961-73年)--『大貨幣市場』創出への道」『エコ ノミア』第54巻第2号、2003年11月。 権上康男「1970年代フランスの大転換――コーポラティズム型社会から市場社会へ」『日仏歴史学会会報』 第27号、2012年6月。 Ikemoto (Daisuke), European Monetary Integration British and French Experiences, Palgrave/Macmillan, 2011. James (Harold), Making the European Monetary Union. The Role of the Committee of Central Bank Governors and the Origins of the European Central Bank, Cambridge/Massachusetts, 2012. Saint Périer (Amaury), La France, l’Allemagne et l’Europe monétaire de 1974 à La persévérance récompensée, Paris, 2013.
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