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戦国時代 1.戦国大名の登場    1) 戦国時代    時期:応仁の乱(1467~77)頃~室町幕府の滅亡(1573)   2) 戦国大名の特徴  3) 戦国大名と守護大名の違い  4)戦国大名の出自  5)戦国大名の版図  6)日本各方面の戦国大名  7)戦国大名の動向-後北条5代-  8)戦国大名の領国経営.

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1 戦国時代 1.戦国大名の登場    1) 戦国時代    時期:応仁の乱(1467~77)頃~室町幕府の滅亡(1573)   2) 戦国大名の特徴  3) 戦国大名と守護大名の違い  4)戦国大名の出自  5)戦国大名の版図  6)日本各方面の戦国大名  7)戦国大名の動向-後北条5代-  8)戦国大名の領国経営  9)戦国大名の家臣団構成

2 1)戦国時代 (1467年~77年)応仁 の乱~1573年室町幕府 の滅亡 15代室町将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された。
 の乱~1573年室町幕府  の滅亡 15代室町将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放された。 室町時代の末期を 永禄11(1568)年信長上洛以後を織豊時代や安土桃山時代と区分する事もある。 川中島の戦い

3 2)戦国大名の特徴 1.下剋上の風潮 2.分国の土地と人民とを一円的支配
3.戦国大名が各地に割拠 4.家臣団を城下町に集住 必ずしも国人層・百姓層などを厳格 に支配していたわけではなかった より強固な支配体制を領国に布く必要 守護領国制 大名領国制 守護大名(在京) 戦国大名 守護代(在地) 放伐 武士層・国人層 → 被官化 有力国人 家臣団編入 国人層 大部分の国人は戦国大名 の家臣団に組み込まれた 鎮圧 国人一揆 国人領主連合 土一揆 国人層・百姓層→不和 百姓層 守護不入権などを否認して強力かつ一元的に領国を支配 惣村・郷村などの結合形態 国人衆の政治→惣国 人民支配は深化

4 2)戦国大名の特徴 1.下剋上の風潮 2.分国の土地と人民とを一円的支配
3.戦国大名が各地に割拠 4.家臣団を城下町に集住 必ずしも国人層・百姓層などを厳格 に支配していたわけではなかった より強固な支配体制を領国に布く必要 守護領国制 大名領国制 守護大名(在京) 戦国大名 守護代(在地) 放伐 武士層 有力国人 家臣団編入 国人層 大部分の国人は戦国大名 の家臣団に組み込まれた 鎮圧 国人一揆 国人領主連合 土一揆 国人層・百姓層 守護不入権などを否認して強力かつ一元的に領国を支配 惣村・郷村などの結合形態 国人衆の政治→惣国 人民支配は深化

5 3)守護大名と戦国大名 守護大名 戦国大名 系譜 南北朝の動乱を経て守護が刈田狼藉を取締る権限・使節遵行権などを得て成長
応仁の乱以後、下剋上の風潮の中で守護大名・守護代・国人などから成長 権威の所在 室町幕府によって守護に任命される、守護の権威はすなわち幕府の権威。領国にはふつう赴かず(在京する)、守護代を派遣して領国を支配 幕府権力から独立、実力で領国内を一円的に支配。領国の集権化、特に被官・家臣の統制を強化。知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立。 家臣団の統制 半済などを利用して国人を被官化、集住関係は希薄 親・寄子制で協力に家臣団に組み入れ、城下町に集住させる 法律 幕府法を継承(貞永式目、建武以来追加) 家法・分国法の制定

6 守護大名 戦国大名 荘園制 荘園の容認、半済などで荘園を侵略、守護請を行う 荘園の否定、指出検地の実施 経済 座の容認し、座役を徴収 座の否定(楽市楽座)、城下町建設(商工業者招致)、鉱山開発、治水潅漑事業 大名の所在 在京するものが多い、任国には守護代を派遣 在国して領国経営 出現と成長 南北朝時代に成長、応仁の乱後、戦国大名の台頭により没落 応仁の乱後台頭、織豊政権下で多数が没落

7 4)戦国大名の出自 (a) 守護大名から =(①   )(甲斐)、(②   )(駿河)、(③   )(豊後)、(④  )(薩摩)、(⑤   )(阿波)など →少数 (b) 2.守護代から =(⑥    )(越後)、(⑦    )(尾張)、(⑧    )(越前)、(⑨   )(出雲)など (c) 国人から =(⑩    )(陸奥)、(⑪    )(近江)、(⑫    )(安芸)、(⑬      )(土佐)、(⑭     )(肥前)など (d) その他(個人の才覚等で勇躍した人物) =(⑮   )(相模)、 (⑯   )(美濃)、(⑰     )(全国) ①1.武田 ②今川 ③大友 ④島津 ⑤三好 ⑥上杉  ⑦織田  ⑧朝倉  ⑨尼子  ⑩伊達  ⑪浅井 ⑫3.毛利  ⑬長宗我部 ⑭龍造寺 ⑮北条 ⑯斎藤 ⑰豊臣秀吉

8 5)戦国大名の版図

9 東北地方の戦国大名 1.特徴=鎌倉代々土地所有の由緒ある一族 例外=若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏→後の松前氏
2.戦乱=中央の政争の影響なし。南部氏が仙北・鹿角に出兵。伊達氏の領地争い、伊達稙宗が陸奥守護職に就く下克上、伊達晴宗が他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立。16世紀後半で、湊安東氏が秋田、三戸南部氏が糠部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上・村山、伊達氏が信夫・伊達・置賜・刈田・柴田・宮城を、蘆名氏が会津・耶麻・大沼・河沼・西蒲原・安積・岩瀬、二本松氏(畠山氏)が安達、田村氏が田村、石川氏・白河結城氏が白河、相馬氏が行方・宇多・標葉、岩城氏が楢葉・岩城・磐前・菊田・多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。 字=戦国大名 字=領国大名

10 古河公方(こがくぼう) 鎌倉公方 足利成氏(持氏の子)により享徳3(1454年)関東管領上杉憲忠が謀殺され、享徳の乱が勃発。成氏、享徳4(1455年)に、鎌倉から古河に本拠を移し、初代4.古河公方となった。その後も、政氏・高基・晴氏・義氏と、約130年間引き継がれた。 古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。 長禄2(1458年)室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆の堀越を御所としたため、これを5.堀越公方と呼ぶ。

11 関東における戦国時代の幕を開け 享徳の乱 古河公方が成立 幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・6.扇谷上杉氏勢力 古河公方・ 伝統的豪族勢力
長禄2(1458年) 室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下 古河公方が成立 幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・6.扇谷上杉氏勢力 古河公方・ 伝統的豪族勢力 上野国・武蔵国・ 相模国・伊豆国 を勢力範囲 下野国・常陸国・ 下総国・上総国・ 安房国を勢力範囲 関東を東西に二分して戦った

12 関東地方の戦国大名  関東で享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3-0D大乱の中で、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。  その間、伊勢盛時(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、北条氏を自称し、北条氏と上杉氏が関東の覇を競い、上杉氏の勢力を抑え、更に古河公方を掌握し、山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことで北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)と関東を巡って争った。  関東管領を継承した上杉謙信と北条氏との争いで全関東の諸豪族を二分して、北条と上杉陣営との戦いが続いた。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏は佐竹義重に圧力をかけ、 やがて、豊臣秀吉が惣無事令を発すると、北条氏政は奥州の伊達政宗・三河の徳川家康と同盟して対抗する。しかし圧倒的な武力で海から山から迫り来る豊臣軍の前に北条氏は降伏した。

13 中部の戦国大名 越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭し、長尾景虎(上杉謙信)は、北陸地方をほぼ制圧した。
 越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭し、長尾景虎(上杉謙信)は、北陸地方をほぼ制圧した。  越中では、一向一揆や能登の守護畠山氏の内紛を繰り返し、1576年に越後上杉氏が制圧した。越前では、朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極め、やがて織田信長と争って1573年に滅亡する。加賀国では、守護冨樫氏を滅ぼした一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行ったため、いずれの国もこの勢力の扱いに苦慮した。一向一揆はその後も上杉氏、朝倉氏などと抗争を繰り返し、朝倉氏滅亡後には越前を支配するも、織田 信長との「石山戦争」に敗れ、殲滅された。  美濃国では、土岐氏の内部争いで、1542 年に主君を追放して、美濃国主となったの が8.斎藤道三である。  尾張国は、斯波氏の本拠であったが、京 都での政争にも敗れ、守護代9.織田氏との権 力抗争に巻き込まれ、断絶した。 斎藤道三

14  三河国では、松平清康が、「森山崩れ」で家臣に殺され、今川義元の後援無しに家命を保てないほど、弱体化。今川氏親は、遠江の支配権を奪い、1526年分国法「今川仮名目録」を定めて領国支配力を高めた。その子今川義元の代には 更に三河へも勢力を伸長。義元は1554年に、武 田氏や関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟) を結んで、西進政策を強化した。しかし1560年、 織田氏を攻め、尾張で義元が戦死し、今川氏は 衰えた(桶狭間の戦い)。  甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠、武田氏は「上杉禅秀の乱」に荷担して没落していた。やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地に隣国との和睦も達成し、信濃侵攻をするが、嫡男の晴信(信玄)に謀れ、1541年に駿河国へ追放された。武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟を背景に諏訪を攻略し、領国化した。  信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の上杉氏とは10年余に亘って甲越対決の「7.川中島の戦い」を幾度も繰り広げた。 今川義元

15 その後、北進から南進へ方策を転換し、駿河
侵攻を断行、尾張の織田氏・三河の徳川氏と も対峙する。信玄の晩年期には上洛を発動さ せるが、信玄の急死により途上での終束。そ の後継の武田勝頼は「長篠の戦い」の敗退で 武田氏は滅亡、信濃諸族は織田氏に臣従した。  織田一族の上下両守護代の内紛に乗じて織 田信長は、尾張国主の座を奪い、桶狭間の戦いに勝利した後、三河の松平氏と結ぶことで美濃攻略に専念。5年の歳月をかけて美濃国を奪うと、天下の経営に乗り出した。その信長と手を結んだ三河の松平元康は、信長を支援する一方で、自勢力の拡大に腐心。名を「徳川家康」と改め、1565年には三河を平定。その上、甲斐の武田氏と密約を結んで今川領を東西から侵食、1569年に今川氏を滅ぼした。しかし武田氏からは所領を侵食され、1573年の「三方ヶ原の戦い」で徳川・織田両軍が大敗。窮地に陥るが、信玄の死で武田軍の上洛が頓挫。命拾いをした。1575年には、「長篠の戦い」に織田 徳川 武田信玄

16  連合軍が「鉄砲」の威力で武田軍を破ると、1582年の「武田征伐」への参戦で、徳川氏は信長から武田領の遠江、駿河を得た。しかも同年、「本能寺の変」で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下に治めている。  武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田家臣に分配されるが、「本能寺の変」で空域化すると武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏による「天正壬午の乱」が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が領した。しかし、1590年、「豊臣秀吉」により天下が定まると、秀吉より「関東移封」を命ぜられたため家康は武蔵の「江戸」を本拠とした。やがて家康は秀吉の死後に発生した「関ヶ原の戦い」の勝者となって「江戸幕府」を開く事になる。 豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移るが、この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。また、「保科氏」は将軍徳川秀忠の庶子「保科正之」が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられた。

17 戦国大名の動向 1.伊勢新九郎盛時(北条早雲庵宗瑞)→(今川氏の内紛 →今川氏親を支援)→駿河国興国寺城を与えられた。 →関東圏に勢力を築くきっかけ。  関東=鎌倉府の分裂(古河公方と堀越公方の対立)
①1493年、足利茶々丸の堀越公方を滅ぼす。 ②北条改姓=鎌倉幕府での執権北条氏の影響力を利用 ③領土拡大=北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に五代続き→最大版図は240万石 早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、かつ伊豆一国を支配しながら室町幕府から正式な伊豆の守護として任じられなかった。その点から、最初の戦国大名とも呼ばれている(当然、守護大名ではない)

18 北条五代 盛時(早雲) 氏綱、氏康、 氏政、氏直

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21 堀越公方のその後から、戦国大名の代表的な例を見てみる。 北条早雲  生国も身分もはっきり分らない(①  ) 新九郎長氏(38歳)は妹の北川殿が駿河の守護大名(②  ) 義忠に嫁いでいた縁により招かれて、駿府の今川氏に仕えました(1469年)。今川義忠が一揆討伐の最中、戦死し、嫡子竜王丸(母は北川殿)が6歳だったため、従兄弟の小鹿範満を推す者が現れ、(③    ) に発展、駿河の進出をねらっていた扇谷(④  ) 定正と堀越公方の(⑤  ) 政知は、それぞれ駿府に兵を派遣、北条早雲(45歳。伊勢新九郎)は「竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案を提案し、調停に成功。竜王丸は、17歳になったが、小鹿範満は守護職を譲らなかったため、北条早雲(56歳)は小鹿範満を駿府今川館で急襲して殺害しました。竜王丸は、元服して(⑥    ) と名を改め、戦国大名に成長していきます。1488年、北条早雲(57歳)は、その功で駿河の沼津に興国寺城を与えられ。 伊勢 今川 御家騒動 上杉 足利 今川氏親

22 堀越公方の足利政知(57歳)が病没で、今度は堀越公方で後継問題で、お家騒動。嫡子茶々丸は、堀越公方になるが、生来粗暴な性格だったため、所領の伊豆は混乱に陥いり、北条早雲(60歳)は、扇谷上杉定正と組んで、今川氏親からの援兵も得て(⑦    ) を急襲し、茶々丸は、願成就院で自害。ここに堀越公方家は滅亡。33年間の歴史であった。 相模小田原城では、大森氏頼が亡くなり(1495年)、若い大森藤頼が城主となり、北条早雲(64歳)は、大森藤頼の信頼を逆手に「鹿狩り」理由に、勢子に扮した早雲の兵が、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、1516年、北条早雲(85歳)は、(⑧  ) の平定にも成功し、子の北条(⑨  ) 、孫の(⑩  ) の時には(⑪  ) の大半を支配する大名になっていた。 堀越御所 相模 氏康 氏綱 関東

23 上杉謙信  越後の一向一揆で、越後守護代長尾能景(48歳=上杉謙信の祖父)が殺害(1506年)され、越後の守護代長尾為景(上杉謙信の父)は、守護上杉房能を殺害(1507年)。上杉謙信は、長尾為景の次子として景虎が出生(1530年)。 幼名は虎千代。長尾為景が亡くなり、長子の晴景が守護代を継ぐが、戦国時代、長尾晴景では持たないと考えた家臣がクーデタを起こし、守護代に次子長尾景虎(18歳)が就任。越後守護上杉定実が、跡継ぎも無く亡くなり(1550年)。長尾景虎(20歳)が、越後守護に就任。1561年、関東管領の上杉憲政が、北条氏康に攻められて、長尾景虎(31歳)を頼って、憲政は、関東管領職を景虎に譲り、関東管領上杉景虎が誕生する。出家して上杉謙信となった。

24 武田信玄  甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれるが、弟の武田信繁が生まれると、父の寵愛は信繁に移り、勝千代は徐々に疎まれるようになったとされる。第12代将軍足利義晴から偏諱を受け、名を「晴信」と改める。前代の信虎期には国内統一が達成され、今川義元が家督を継ぐと武田氏は今川氏と和睦。1541年、宿老であり有力国人領主である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌等に擁立され、父・信虎を駿河国へ追放し、武田家第19代家督を相続する。 信虎体制を継承して隣国の信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。

25 中国地方における戦国大名の興亡 (①  ) 義隆の時、周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領する(②   ) 随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、さらに義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教布教を許すなどしたことから、大内領内には独特の(③   ) 文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。 大内義隆は出雲の(④  ) 晴久、筑前の少弐資元・少弐冬尚らと戦う一方、豊後の大名(⑤  ) 義鑑や安芸の国人(⑥    ) 等とは融和。出雲遠征には失敗すると、大内氏の勢力も陰り、さらに義隆の晩年、家臣団対立が起こり、1551年には武断派の重臣の(⑦    ) の謀反に遭って、大内義隆が自害する。これによって実質的に大内家は滅亡したという。 義隆の死後、晴賢は大友氏から義隆の甥に当たる大内義長を当主として擁し、そのもとで晴賢が実権を掌握するという形で大内氏は形式的には存続した。しかしこの体制に不満を持つ者も少なくなく、各地で大内氏に対する反乱が発生する。その反乱のひとつである毛利元就の反乱により、1555年に晴賢は討たれてしまった(厳島合戦)。 1557年、毛利元就の(⑧     ) 侵攻に遭って義長は自害し、戦国大名大内氏は滅亡。毛利元就がとってかわる。 大内 西国 山口 尼子 大友 10.毛利元就 陶晴賢 周防・長門

26 戦国大名の領国経営 大名領国制 戦乱を勝ち残るためはどうすべきか ①土地・人民の一円支配(直接かつ完全なる支配)  =荘園の否定→指出(検地)の実施→検地帳の作成 ・12.指出検地…領主や名主に報告させて、面積や収    穫量(年貢量)について調査  ※検地…土地の面積や良不良を調べること   =収穫量の調査  ※太閤検地(1582~)…豊臣秀吉の行った検地、基本  的に指出ではなく部下に直接検地させた  在国して領地を支配←守護大名は在京して任国に  は守護代を派遣

27 ②経済力の強化=産業育成 (a) 交通・産業基盤の整備 ・関所撤廃=規制緩和 で商業取引の円滑化  領国経済圏の育成 ・ 楽市・楽座=規制緩和で商業取引の円滑化
・宿駅・伝馬の制度の整備 (b) 城下町の建設 ・商工業者 の集中による経済力増大と統制 ・軍事力 に必要な物資(武器、馬等)の生産・調達 ・城下町の例=小田原(北条氏、小田原市)、駿河府中(今川氏、静岡市)、山口(大内氏、山口市)、豊後府内(大友氏、大分市)、春日山(上杉氏、上越市)、一乗谷(朝倉氏、福井市郊外) 軍事力

28 ③軍事力強化 (a) 家臣団の形成と統制 ・家臣の収入の保証=知行地 (領地)を与え、その貫高に応じて軍役を課す。 貫高制=土地の広さを銭納 による年貢収納額で表す    方法、おもに関東地方に普及→年貢の銭納が前提であり、貨幣 経済の浸透が背景 ・寄親・寄子制 =家臣団を擬制的親子関係で統率、寄親(有力家臣)、寄子(下級武士) ・分国法(家法)の制定 (b) 城郭・城下町の建設   =城郭の建設による防衛力 の強化

29 (c) 新戦力の増強  ←集団戦法の採用 ・鉄砲 ・長槍の装備 ・足軽 隊の育成(鉄砲、長槍を扱う)
(d) 治水・潅漑事業=農業生産力の増大 ・信玄堤 (甲府市竜王町付近)=甲府盆地の入  口の釜無川と御勅使川との合流点に造られた  堤防 (d) 鉱山の開発=金・銀採掘技術の進歩・精錬   技術の進歩 ・鉱山の例=佐渡 (相川)金山、石見 (大森)銀山、      但馬(生野)銀山、甲斐金山、伊豆金山

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31 ④13.分国法(家法)の制定 A.「分国法」  =戦国大名が領国支配 の為に制定した施政方針  や法令 (a) 分国法=戦国大名が領国支配の基本法規 とし  て制定、恒久的効力とある程度網羅的な内容 ・家法=家長が一族に与えた家訓 、分国法に発展 (b) 名称の例=○○家法、○○掟書、○○壁書などさ  まざまな言い方 (c) 性格=二面制をもつ ・中世法の集大成=幕府法・守護法の継承、国人一揆  の契約の吸収、民間の慣習の成文化 ・新しい権力が制定した法=大名の権力を誇示する内  容 喧嘩両成敗など

32 (d) 内容 ・家臣団 の統制に関するもの  私的同盟の禁止=下剋上 の防止  領地の自由売買 の禁止=家臣の弱体化防止  分割相続の禁止、長子単独相続 の励行=家臣  の弱体化防止  厳罰主義=喧嘩両成敗=家臣相互の紛争、 私闘による解決の禁止=大名の裁判に委ねさせる ・農民統制に関するもの  年貢 の納入義務の規定、  逃散 に対する規定、  

33 主な分国法 分 国 法 家 法 戦国大名 国名 法 令 名 条数 制 定 年 制 定 者 伊達氏 陸奥 塵芥集 170 1536 伊達植宗
法      令      名 条数 制  定  年 制  定  者 伊達氏 陸奥 塵芥集 170 1536 伊達植宗 結城氏 下総 結城氏新法度 104 1556 結城政勝 今川氏 駿河 今川仮名目録、追加 33、21 1526、1553 今川氏親、義元 武田氏 甲斐 甲州法度之次第(信玄家法) 26 1547 武田晴信(信玄) 六角氏 近江 六角氏式目(義治式目) 67 1567 六角承禎・義治 長宗我部氏 土佐 長宗我部元親百箇条(長宗我部氏掟書) 100 1596 長宗我部元親 大内氏 周防 大内家壁書(大内氏掟書) 181 1439~1529 大内持世ら 三好氏 阿波 新加制式 22 1562~73? 三好長治 相良氏 肥後 相良氏法度 41 1493~1518、55 相良為続ら 家 法 朝倉氏 越前 朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条) 16 1471~81? 朝倉孝景 北条氏 相模 早雲寺殿二十一カ条 21 不明 北条早雲

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