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山口大学大学院医学系研究科 免疫学講座 玉田耕治
血液免疫系ユニット 第1回 血液免疫の概要 山口大学大学院医学系研究科 免疫学講座 玉田耕治
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平成28年度 血液免疫系ユニットの講義予定 7月5日 火 1・2時限 血液・免疫系(1) 血液・免疫の概要 玉田耕治 3・4時限
平成28年度 血液免疫系ユニットの講義予定 7月5日 火 1・2時限 血液・免疫系(1) 血液・免疫の概要 玉田耕治 3・4時限 血液・免疫系(2) 血液・造血 澤田知夫 7月6日 水 血液・免疫系(3) 免疫臓器 血液・免疫系(4) 血小板・凝固・線溶機構 野島順三 7月7日 木 血液・免疫系(5) 免疫担当細胞の種類と機能 血液・免疫系(6) 免疫多様性の獲得 徳田信子 7月8日 金 血液・免疫系(7) 自然免疫 血液・免疫系(8) 適応性免疫 7月12日 血液・免疫系(9) 抗体の構造と機能 藏滿保宏 血液・免疫系(10) 補体系 7月13日 血液・免疫系(11) 免疫とシグナル伝達 血液・免疫系(12) 免疫と疾患 佐古田幸美 7月19日 血液免疫系試験
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第2回 血液・造血 血液の成分 血漿タンパク質の種類と機能 血球の種類と働き 造血幹細胞から各血球への分化と成熟の過程
第2回 血液・造血 血液の成分 血漿タンパク質の種類と機能 血球の種類と働き 造血幹細胞から各血球への分化と成熟の過程 赤血球とHbの構造と機能、白血球の種類と機能、 血小板の機能
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第3回 免疫臓器 免疫系の個体発生 骨髄の構造、胸腺の構造と機能(中枢リンパ組織)
第3回 免疫臓器 免疫系の個体発生 骨髄の構造、胸腺の構造と機能(中枢リンパ組織) 脾臓、リンパ節、扁桃、パイエル板の構造と機能 (末梢リンパ組織)
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第4回 血小板・凝固線溶系 血管内皮細胞が掌る血管内恒常性の維持 血小板の基本構造と機能(粘着・放出・凝集)
第4回 血小板・凝固線溶系 血管内皮細胞が掌る血管内恒常性の維持 血小板の基本構造と機能(粘着・放出・凝集) 凝固因子の種類と作用(凝固機構のバランスと破綻) 線溶因子の種類と作用(線溶機構のバランスと破綻) 凝固・線溶系の異常を示す分子マーカー 播種性血管内凝固症候群(DIC)の病態と鑑別検査
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第5回 免疫担当細胞の種類と機能 免疫系の特徴(特異性、多様性、記憶、寛容)、 自然免疫と適応免疫
免疫細胞の種類と機能: マクロファージ、NK細胞、NKT細胞、樹状細胞、T細胞(CD4/CD8,Th1/Th2/Th17/Treg、シグナル伝達)、B細胞(クラススイッチ、抗体)等
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第6回 免疫多様性の獲得 B細胞の分化(胸腺:BCR遺伝子再構成)
第6回 免疫多様性の獲得 B細胞の分化(胸腺:BCR遺伝子再構成) T細胞の分化(骨髄:positive/negative selection、CD4/CD8、TCR遺伝子再構成) 中枢性免疫寛容、末梢性免疫寛容
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第7回 自然免疫 自然免疫の発達と進化:非特異的な生体防御について 自然免疫で働く細胞の種類と機能 (マクロファージ、好中球、NK、補体)
第7回 自然免疫 自然免疫の発達と進化:非特異的な生体防御について 自然免疫で働く細胞の種類と機能 (マクロファージ、好中球、NK、補体) 異物認識(PAMPs, PRRs, Fc receptor) 適応免疫との比較
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第8回 適応性免疫 自然免疫との連携 適応免疫の種類と機能(細胞性免疫、体液性免疫) 自己と非自己の認識
第8回 適応性免疫 自然免疫との連携 適応免疫の種類と機能(細胞性免疫、体液性免疫) 自己と非自己の認識 T細胞による抗原認識(peptide/MHCとTCR) MHCについて(classI, classIIによる抗原提示の比較) B細胞による抗原認識(抗原抗体反応)
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第9回 抗体の構造と機能 抗体の種類、構造(免疫グロブリン、クラススイッチ) 抗原抗体反応とは 抗原抗体反応を用いた生体物質の検出法
第9回 抗体の構造と機能 抗体の種類、構造(免疫グロブリン、クラススイッチ) 抗原抗体反応とは 抗原抗体反応を用いた生体物質の検出法 生態における様々な抗体の働き
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第10回 補体系 補体系補体とは、補体の働き(オプソニン効果など) 補体活性化の経路 補体系の制御 その他補体の仕組みについて
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第11回 免疫とシグナル伝達 細胞間シグナル伝達と細胞内シグナル伝達 サイトカイン受容体のシグナル伝達
第11回 免疫とシグナル伝達 細胞間シグナル伝達と細胞内シグナル伝達 サイトカイン受容体のシグナル伝達 プロスタグランジンによる免疫反応の制御 免疫シナプスの形成 (抗原提示とT細胞の活性化、細胞接着分子と 共シグナル分子、分子間クラスター)
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第12回 免疫と疾患 免疫不全症 過敏反応(I~IV型アレルギーと疾患例) 自己免疫疾患 移植と免疫 がんと免疫
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免疫とは??
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病原体やがん細胞などの異物を排除する機構
免疫とは 病原体やがん細胞などの異物を排除する機構
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免疫の特徴 記憶 特異性 多様性 自己と非自己の識別
あたりまえの話ですが、私たちがインフルエンザのワクチンをするのはインフルエンザにかからないようにするためであって、結核の予防のためではありません。BCGをうつのは結核に罹らないようにするためであって、はしか(麻疹)の予防のためではありません。これらのことはワクチンの種類(抗原という言葉で置き換えることができます)をヒトの免疫系がきちんと識別して反応しているということを意味しています。これを免疫学では抗原認識の特異性(Specificity)と呼んでいます。ワクチンに限らず外来抗原には無数といってよいほどの種類がありますが、免疫システムはこれらの抗原をそれぞれ識別することができます。これはT 細胞やB細胞の抗原レセプターによって行われるため、これを免疫学では抗原レセプターの多様性 (Diversity)と呼んでいます。ヒトの脳がたとえば何千、何万の人の姿、顔、かたちの違いを一瞬で識別できるように、免疫システムでも基本的にはあらゆる抗原を識別して、ひとつひとつ特異的な免疫反応をおこすことは驚くべきことです。
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「2度なし」という現象 歴史家トゥキディデスによるギリシャ・カルタゴ戦記に記載。
紀元前409年、カルタゴ軍がシチリア島へ侵攻、シラクサ防衛軍と熾烈な戦 い →疫病(ペスト?)の発生にて両軍とも大きなダメージを受け、カルタゴ軍は撤退。 8年後、カルタゴ軍は新しい兵士を集め再編し再びシラクサを攻撃。 →再び戦線に疫病流行。新しい兵士で編成したカルタゴ軍は 疫病による大打撃により撤退。一方、シラクサ軍の兵士は多くが 前回の疫病を経験した者で、疫病に罹らず無傷で勝利。 パスツールが名付けた 免疫の「二度なし」という現象を示唆する 歴史上最初の記録
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ヨーロッパ一の大きさを誇るギリシャ劇場 シチリア島シラクサ 世界遺産、ドゥオーモ広場 ドゥオーモ
ここシラクーサはギリシャ紀元前時代から存在する長い歴史の街です。シチリア島では、かなりの権力をもっていた国です。その権力の偉大さを示すのが、ヨーロッパ一大きいギリシャ劇場。現在は綺麗に整備されている劇場の壮大さと、美しさは当時の支配力を思わせます。 シラクサ出身の最も有名な人の一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサの包囲に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、シラクサは3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、攻城戦を指揮したローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスはアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と気付かれずにローマ兵によって殺された。 ドゥオーモ
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ペスト(黒死病=plaque)の大流行 ネズミなどを介したペスト菌Yersinia pestis(嫌気性桿菌)の感染。 3-7日の潜伏期間後、高熱、悪寒や嘔吐が続き疲労衰弱、敗血症、 肺炎などで発症、数日間で死亡(死亡率40-90%)。皮膚に出血班 ができ黒い痣ができるため黒死病といわれた。 野生げっ歯類 他にイヌ、ネコ、ウサギなど プレーリードッグが最も危険 CDCからわが国に輸入されるプレーリードッグにペスト感染のリスクがあると伝えられる( 1999年11月 )ネズミ(くまネズミ)を媒体。 1347 年9月、十字軍の艦船のある一隻が地中海を横切りシチリアの港に帰還しようとしていた。その船には大勢の十字軍兵士が乗っていたが、同乗者は人間だけでは なかった。身の毛もよだつ悪魔も同乗していたのである。すなわち恐ろしいペスト菌を宿したクマネズミも多数乗っていたのであった。 入港して数日後、一人の船員が奇妙な病気にとりつかれた。それは最初、首の付け根やもものつけ根あたりに、小さな腫れ物という形であれわれた。まもなく、 リンパ腺がはれてノドが渇く症状が続くようになる。翌日には、リンパ腺はりんごほどにも膨れ上がり、体のいたるところに伝播し広がって行った。それと同時 に、体中に青黒い斑点が多数現われ、激しい高熱に苦しみ出した。船員はまもなく高熱で意識不明となり、肌がカサカサになり、発病からわずか3日後には、見 るもおぞましい黒紫色に変色して死んでしまった。 その症状は、それからしばらくして、船員の仲間や家族にも急速に現われていった。その伝染力はすさまじく人々はただ唖然とするだけだっ た。この悪魔の奇病は、上陸すると怒濤の勢いで東西に広がっていった。イタリアの沿岸部の都市を次々と巻き込み、エーゲ海の島々をなめ尽くすと、今度はフ ランスやスペイン、ドイツをも席巻していった。海を隔てたイギリスも恐るべき魔の手からは逃れることは出来なかった。時を移さず、ドーバー海峡を渡って瞬 時に飛び火していくからである。こうして、わずか1、2年でヨーロッパ全土は、未曾有の伝染力を持つに黒死病の魔の手の前に蹂躙されてしまうことになる。 かくして、人々の大受難の幕は切って落とされた。 14世紀、クリミア半島から、モンゴル軍の侵攻やそれに伴う東西交易の活発化を背景に、イタリアを始め全ヨーロッパに広がり大流行 (全人口の3分の1~半分が死亡)。 流行地から来た船を沖に40日間係留し船内のペスト終息をまって接岸を許可 →検疫(quarantine=ラテン語で40)のはじまり
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「2度なし」現象の認識 「免疫(Immunity)」
看護に従事したキリスト教修道士は、ペストの犠牲にあった者もいたが、回復し助かった者はその後患者にいくら接触しても二度とペストに罹らなかった。 “黒死病(ペスト)を生き残った=「神のご加護」を受けた人々 ” 「神のご加護」を得た者に対して、ローマ法王が課役や課税(munitas)を免除(im-)したことから、im-munitas(免除)という言葉が生まれた。 ネズミ(くまネズミ)を媒体。 1347 年9月、十字軍の艦船のある一隻が地中海を横切りシチリアの港に帰還しようとしていた。その船には大勢の十字軍兵士が乗っていたが、同乗者は人間だけでは なかった。身の毛もよだつ悪魔も同乗していたのである。すなわち恐ろしいペスト菌を宿したクマネズミも多数乗っていたのであった。 入港して数日後、一人の船員が奇妙な病気にとりつかれた。それは最初、首の付け根やもものつけ根あたりに、小さな腫れ物という形であれわれた。まもなく、 リンパ腺がはれてノドが渇く症状が続くようになる。翌日には、リンパ腺はりんごほどにも膨れ上がり、体のいたるところに伝播し広がって行った。それと同時 に、体中に青黒い斑点が多数現われ、激しい高熱に苦しみ出した。船員はまもなく高熱で意識不明となり、肌がカサカサになり、発病からわずか3日後には、見 るもおぞましい黒紫色に変色して死んでしまった。 その症状は、それからしばらくして、船員の仲間や家族にも急速に現われていった。その伝染力はすさまじく人々はただ唖然とするだけだっ た。この悪魔の奇病は、上陸すると怒濤の勢いで東西に広がっていった。イタリアの沿岸部の都市を次々と巻き込み、エーゲ海の島々をなめ尽くすと、今度はフ ランスやスペイン、ドイツをも席巻していった。海を隔てたイギリスも恐るべき魔の手からは逃れることは出来なかった。時を移さず、ドーバー海峡を渡って瞬 時に飛び火していくからである。こうして、わずか1、2年でヨーロッパ全土は、未曾有の伝染力を持つに黒死病の魔の手の前に蹂躙されてしまうことになる。 かくして、人々の大受難の幕は切って落とされた。 「免疫(Immunity)」
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ペスト菌は1894年、北里柴三郎とYersinにより発見される。
現在では抗菌薬の早期投与により治療可能。 2004年から2009年までの間、アフリカ、アジア、アメリカの16ヶ国から、合計12,503人のペスト患者が報告。最も多いのはアフリカ。 死亡者は843人で、死亡率は6.7%。(2010年WHO報告)
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文化交流や侵略に伴う人(保有者)の大移動により世界へ拡大
天然痘 天然痘ウイルスによっておこる致死的な感染症。 接触・飛沫感染。発熱、頭痛から始まり全身に膿疱ができる。 進行すると呼吸障害などおこす。回復しても痘痕が残る(痘瘡)。死亡率約30%。 エジプト王朝のラムセス5世(ミイラ)の顔面に天然痘の痕跡が見られる(紀元前 1157年没) 165年ごろ遠征中のローマ軍で発生しその後ローマ帝国で流行した。深刻な兵力 不足に。 4世紀以降、仏教伝来などに伴い中国や日本でも流行。 北アメリカでは白人の入植とともに先住民族インディアンに甚大な被害をもたらした。 文化交流や侵略に伴う人(保有者)の大移動により世界へ拡大 以降、19世紀まで流行を繰り返す
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牛に発症する牛痘は、牛の乳搾りをする女性の手に発疹を作るが重症化しない。 イギリスでは「牛痘にかかると天然痘にかからない」と言われていた。
天然痘(人痘)と牛痘 昔から、「一度天然痘に罹ると二度はかからない」ことを人々は経験的に 知っていた。 17世紀ごろ、中東やインド、中国などで天然痘患者の膿を未感染者に服 用させたり腕にすりこませる「人痘接種」が行われ、18世紀に入りヨー ロッパや日本に広がる。→予防接種の概念 人痘接種により軽度の初期症状のみで回復し、天然痘にかからなくなる人がいる一方、効果は不十分で重症化し死亡する人も多かった。 牛に発症する牛痘は、牛の乳搾りをする女性の手に発疹を作るが重症化しない。 イギリスでは「牛痘にかかると天然痘にかからない」と言われていた。
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予防接種(=ワクチン)のはじまり 1798年に論文発表。 それ以降、牛痘ワクチンは世界中に広がり、急速に流行は終息する。 治療として普及させて功績、免疫学の父といわれる。 しかし原因や、なぜワクチンが聞くのかはまたわかっていなかった。 1796年にイギリスのジェンナー(Edward Jenner)は、乳搾りの女性サラ・ネルムズにできた牛痘を近所の子供ジェイムズ・フィップス(8歳)に接種 *Vacca=ラテン語で牝牛、Vaccina(牛痘) →約100年後、ルイ・パスツールが感染症に対する予防接種をVaccinationと名付ける。
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天然痘は、免疫反応を利用して撲滅できた感染症
天然痘の撲滅 種痘(天然痘ワクチン)は画期的な天然痘予防法として世界中に広まる。 1958年、世界保健機構(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決→1980年5月8日に根絶宣言 日本では1976年以降、予防接種の廃止。 天然痘は、免疫反応を利用して撲滅できた感染症
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牛痘接種のはじまったころ、そもそも天然痘がどのように発病す るのか、牛痘接種によりなぜ予防できるのかは全くわかっていな かった。
一方、14世紀から16世紀のヨーロッパでの天然痘やペストの大 流行により、「病気を媒介する何か」の存在認識されていた。 しかし、微生物と病気の関連についてはまだ。。。
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しかし、微生物と病気の関連についてはまだ。。。
オランダ ブールハーフェ博物館
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「顕微鏡」の製作→目に見えない微生物の発見
17世紀、織物職人であったオランダのレーウェンフックは、幼少時より興味のあったレンズ磨きをきっかけに歴史上初めて単レンズ顕微鏡を作製。 1674年、自作の顕微鏡(倍率約200倍)で池の水を観察し、奇妙な動く物体を見つけ、微小動物と名付ける。その後、口腔内の細菌、淡水性の藻類などの微生物、魚の赤血球、ヒトの精子など多数の新発見を発表。 しかし、微生物と病気の関連についてはまだ。。。
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微生物の役割 理論的裏付けを与え、医療応用への道を開いた。
*化学者ルイ・パスツールは発酵の研究中、顕微鏡で微生物を発見。“微生物による発酵“ *1865年、蚕の病気が微生物の感染によるものと発見、顕微鏡での検出による予防法(養 蚕所の除菌)を確立→微生物=病原体となる(病気を起こす)という概念 *鶏に致死的な感染症を起こすニワトリコレラ菌の研究中、コレラ菌の培養に成功。 1880年、培養液に長期間放置していたコレラ菌を鶏に接種すると死に至らず、その後 病原性の強いコレラ菌を投与しても生存することを発見 →「微生物を弱毒化したものを接種すると免疫を得られる」という、ワクチンの 理論的裏付けを与え、医療応用への道を開いた。 1884年、狂犬病ワクチンの開発に成功 1888年、パスツール研究所設立 細菌学の父、 これにより、微生物が感染すること、それにより病気を引き起こすという概念を作った。 パスツールは、フランスで葡萄の発酵が酵母によるものと発見したことに端を発し、鶏に致死的な感染症をおこすニワトリコレラ菌を発見し、培養することに成功。培養したニワトリコレラ菌の接種により鶏は死ぬ一方、偶然、彼が栄養を与えず放置しておいたニワトリコレラ菌を接種しすると鶏は死ななかった。次に同じ鶏に元気なニワトリコレラ菌を接種するとその鶏は死ななかった。つまり病原性の弱くなった細菌を前もって接 種しておくと、あとから病原性の強い菌が入ってきても発症しない、という大発見につながったのです。 ルイ・パスツール
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ワクチンの効果とは 牛痘ウイルスと天然痘を起こす痘瘡ウイルスは同じポックスウイルス属でウイ ルスDNAも類似。
ワクチンをうつと「二度なし」になるのは、 体内に侵入した抗原(=病原微生物) に対する「免疫記憶」が作られ、 同じ病原体が再度侵入すると 直ちに免疫反応を起こし排除するため。 牛痘ウイルスと天然痘を起こす痘瘡ウイルスは同じポックスウイルス属でウイ ルスDNAも類似。 牛痘ウイルスの感染により、類似した天然痘ウイルスに対しても免疫が獲得さ れる。 このような、ある抗原(=免疫反応を惹起する物質、この場合は牛痘ウイルス) に対する免疫反応が、よく似た構造を持つ別の抗原(天然痘ウイルス)に対し ても起こることを、免疫交差反応という。 ニワトリコレラ菌がニワトリに感染すると、その場にいるマクロファージが貪食する。マクロファージはそれに伴ってサイトカイン( *1)とよばれるホルモンに似たタンパク質を多量に合成する。合成されたサイトカインやその他の物質の作用によって好中球が局所へと浸潤する。すると好中球は細菌を貪食、殺菌する。 これらの応答は炎症応答の一部で、自然免疫ともいう。この応答に引き続きニワトリコレラ菌がつくりだす毒素に対して抗体がつくられるようになると、やがてニワトリのからだには免疫記憶が成立する。 そのあと再び感染すると今度はずっとすばやく多量の抗体をつくるようになるので、「2度かかりなし」になるのである。このような応答は獲得免疫ともいう。
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ブランデンブルク門 ゴッホ 研究所
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伝染病の解明やワクチンによる予防法はコッホと
様々な病原菌の発見 *28歳の誕生日にもらった顕微鏡をきっかけに、町医者から細菌の研究へ。 1876年 動物から炭疽菌の純粋培養に成功。炭疽の病原体であることを証明。 →炭疽菌=世界で初めて「ヒトに病気を起こす病原菌と確認された細菌」 1882年 結核菌を、1883年コレラ菌を伝染病の病原体として発見、 1890年 結核菌の培養上清からワクチン目的にツベルクリンを開発。 →治療としては効果がなく、診断目的として使用されるようになる 1891年 ロベルト・コッホ研究所設立→マラリア、眠り病、ペストなど伝染病の研究 1905年、ノーベル生理学・医学賞受賞。 純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立。 ロベルト・コッホ パスツールとともに細菌学の父 鉱山技師の子 町医者→顕微鏡をもらって4年後、顕微鏡で炭疽病にかかった羊や牛(人間にも発症する)の血液に、小さい棒状のものを発見 パスツール:フランス人 コッホ:ドイツ人 二人はライバル 1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること 2.その微生物を分離できること 3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること 4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること (3と4はひとつにまとめて、三原則にするのが一般的でしょう。) 伝染病の解明やワクチンによる予防法はコッホと パスツールの研究によって大きく進歩した
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コッホの原則 ~感染症の病原体を特定する際の指針のひとつ~ 1.ある一定の病気には一定の微生物が見出される 2.その微生物を分離できる 3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせる 4.その病巣部から同じ微生物が分離される SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome)における新型コロナウイルスの同定: 1-2.患者からウイルスが分離される 3.ウイルスは人に近縁のサルで同じ病気を起こせる 4.病気になったサルからは、同じウイルスが分離 2003年中国で大流行 コッホの原則が提唱された当時は、感染症の原因のほとんどは、細菌が原因となる疾患がほとんどで、ウイルスが原因となる 感染症は、その存在が解らない時期であり、細菌由来の感染症に関しては、コッホの四原則は、全てが当てはまっていました。 しかし、近年の微生物学の進歩により、ウイルスが原因となる多くの感染症が発見されて、一部にコッホの原則の限界 が認められるようになり、コッホの原則で証明できない感染症の存在も次第に明らかになっています。 例えば、 1.ヒトに病気を起こす病原微生物が必ずしも実験動物でも病気を起こすとは限らない 。 2.子宮頸癌におけるヒトパピローマウイルスのように、必ずしもすべての臨床例で病原体が検出されない場合がある 3.日和見感染のように、その病気の原因となる微生物が存在していても、必ずしも発病しない場合がある 現在では、コッホの原則をすべて満たす病原体が見つかることの方が稀となってきています。 それでは、コッホの四原則は、すでに無意味となってしまったのでしょうか? いいえ、決して無意味にはなっていません。 良く、引き合いに出される事例の一つに、サーズ(SARS)があります。 SARSが初めて出現したとき、サルを使った感染実験によって、もう一つの病原体候補であったメタニューモウイルスではなく、 新種のコロナウイルスがSARSの病原体であることが証明され、今日においてもコッホの原則が病原体同定に重要な意味を持つことには変わりがないことがいみじくも証明されています。
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破傷風毒素の発見 1889年、コッホの研究室に留学中の北里柴三郎は、破傷風の病巣が傷の奥にできることから、酸素の届かない所で増殖する「嫌気性菌」であることを見抜き、酸素排除できる培養装置により破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功。また、破傷風が破傷風毒素によって発症するものであることを発見。 翌1890年には破傷風の抗毒素による治療を考案→後のベーリングによるジフテリア治療に応用され多くの人命を救った。 北里は1984年にペスト菌を発見 破傷風 破傷風菌(Clostridium tetani )が作り出す神経毒素により全身性のけいれんをひき起こす感染症。破傷風菌の芽胞は土中に広く常在し、外傷のある部位から体内に侵入する。侵入した芽胞は 感染部位で発芽・増殖して破傷風毒素を生み出す。破傷風菌に感染すると、潜伏期間(3 ~21 日)の後に局所(引きつって笑ったような顔になる、口が開きにくい、食べ物を飲み込みにくいなど)から始まり、全身(呼吸困難や後ろ方向に弓状に体が反る など)に移行し、症状が重くなると呼吸筋が麻痺して窒息死することがある。 1892年この免疫血清は、初めてベルグマン医師の診療所にてジフテリアの子供の治療に試みられました。その後、ドイツのジフテリア死亡率は10分の1に減り、その偉大な効果に全世界が驚きました。ベーリングは、血清やワクチン製造に関する研究のために、ベーリング会社を設立し、血清とワクチンの販売から経済的に豊かになりました。広大な構地に多数の実験動物が飼育されていたそうです。 「日本近代医学の父」と呼ばれる北里柴三郎博士。その最も大きな業績は、世界初の破傷風菌の純粋培養だろう。博士は、この偉業をドイツに留学後わずか三年 目に成し遂げている。しかし、実験は苦難の連続だった。当時、ドイツでは「破傷風菌の純粋培養は不可能である」というのが定説だったのだ。 ある日、研究所の同僚が連日の実験で疲れた北里を自分の下宿に誘う。キッチンでは、ガールフレンドが料理を作っていた。卵と牛乳を蒸し固めて作る、日本の 茶碗蒸しのような料理だ。彼女は蒸し器のフタを開け、器に木の串を刺し込む。北里が何をしているのかと尋ねると、彼女はこう答えた。「奥の方が固まってい るかどうか、確かめているの」。その瞬間、北里は躍りあがった。 たとえば、古クギを足の裏に刺したとき、破傷風の病巣は傷の表面ではなく奥の方にできる。ということは、破傷風菌は酸素の届かないところで増殖するに違い ない。北里は料理をヒントに、破傷風菌が酸素を嫌う「嫌気性菌」であることを見抜いたのだった。 さっそく北里は酸素を排除できる細菌培養装置を自作し、ついに一八八九年、破傷風菌の純粋培養に成功した。さらに、その翌年には破傷風の血清療法を考案した。その後、北里の血清療法はジフテリア治療にも応用され、多くの人命を救った。 血清療法に用いられた「抗毒素」の概念は、今日では「抗体」として現代免疫学の確かな礎となっている。 ベルリンのロベルト・コッホ研究所での北里柴三郎 破傷風菌の純粋培養に成功した嫌気培養の実験器具と動物実験の容器。左側に積み上げられているのはガラス製のマウス飼育容器。 北里柴三郎
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病原菌を破壊する「抗毒素=抗体」の発見 1990年、北里は破傷風菌の毒素を少量ずつウサギに投与すると破傷風を発病しないことを発見。
破傷風(毒素)を破壊する 「抗毒素(=抗体)」ができる! 麻薬を何度も打つとだんだん効きがわるくなる、麻薬の慣れの現象から、思いついた。破傷風菌も麻薬と同じように慣れるかもしれない。 破傷風 破傷風菌(Clostridium tetani )が作り出す神経毒素により全身性のけいれんをひき起こす感染症。破傷風菌の芽胞は土中に広く常在し、外傷のある部位から体内に侵入する。侵入した芽胞は 感染部位で発芽・増殖して破傷風毒素を生み出す。破傷風菌に感染すると、潜伏期間(3 ~21 日)の後に局所(引きつって笑ったような顔になる、口が開きにくい、食べ物を飲み込みにくいなど)から始まり、全身(呼吸困難や後ろ方向に弓状に体が反る など)に移行し、症状が重くなると呼吸筋が麻痺して窒息死することがある。 1892年この免疫血清は、初めてベルグマン医師の診療所にてジフテリアの子供の治療に試みられました。その後、ドイツのジフテリア死亡率は10分の1に減り、その偉大な効果に全世界が驚きました。ベーリングは、血清やワクチン製造に関する研究のために、ベーリング会社を設立し、血清とワクチンの販売から経済的に豊かになりました。広大な構地に多数の実験動物が飼育されていたそうです。 「日本近代医学の父」と呼ばれる北里柴三郎博士。その最も大きな業績は、世界初の破傷風菌の純粋培養だろう。博士は、この偉業をドイツに留学後わずか三年 目に成し遂げている。しかし、実験は苦難の連続だった。当時、ドイツでは「破傷風菌の純粋培養は不可能である」というのが定説だったのだ。 ある日、研究所の同僚が連日の実験で疲れた北里を自分の下宿に誘う。キッチンでは、ガールフレンドが料理を作っていた。卵と牛乳を蒸し固めて作る、日本の 茶碗蒸しのような料理だ。彼女は蒸し器のフタを開け、器に木の串を刺し込む。北里が何をしているのかと尋ねると、彼女はこう答えた。「奥の方が固まってい るかどうか、確かめているの」。その瞬間、北里は躍りあがった。 たとえば、古クギを足の裏に刺したとき、破傷風の病巣は傷の表面ではなく奥の方にできる。ということは、破傷風菌は酸素の届かないところで増殖するに違い ない。北里は料理をヒントに、破傷風菌が酸素を嫌う「嫌気性菌」であることを見抜いたのだった。 さっそく北里は酸素を排除できる細菌培養装置を自作し、ついに一八八九年、破傷風菌の純粋培養に成功した。さらに、その翌年には破傷風の血清療法を考案した。その後、北里の血清療法はジフテリア治療にも応用され、多くの人命を救った。 血清療法に用いられた「抗毒素」の概念は、今日では「抗体」として現代免疫学の確かな礎となっている。
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初めてのヒトへの血清療法 1890年、北里と同じくコッホの下でジフテリア菌(当時小児のジフテリア感染はヨーロッパで最も死亡率が高かった)の研究を行っていたベーリングは、北里と共に血清療法の開発を行い、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」を共著で発表。 1892年、同僚エールリッヒの協力の下、ウマやヒツジで作られたジフテリア毒素に対する抗血清をヒト(ジフテリアの子供)に初めて投与、彼らは危篤状態から無事回復した。その後血清療法の発展によりドイツのジフテリア死亡率は10分の1に減少。 1901年 ベーリングは第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞。 1904年 感染症治療のための血清製剤とワクチンを製造する ベーリングベルケ株式会社を設立。 ベーリング
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ワクチンと血清(抗毒素免疫血清) 両者とも抗体がカギとなる! ワクチン 無毒化・弱毒化した病原体(=抗原)を
ワクチン 無毒化・弱毒化した病原体(=抗原)を 接種することで体内に抗体を作り 感染症を予防する。 *生体が抗体を作るまで1週間以上要すが、 血清より長く持続する。 血清 ウマなどの動物に、無毒化・弱毒化した毒素(トキソイド)を接種して得た 血清など。毒素を中和する抗体(抗毒素)を有する。 ヘビ咬傷(マムシやハブ)による毒素や破傷風などの病原性毒素に暴露後、 大量の中和抗体を含む血清を投与することで治療する。 *即効性がある一方、長期間持続しない。 タンパク性の外毒素のサブユニットあるいはホルマリンなどによる処理により無毒化した毒素(トキソイドtoxoidといわれる)をアジュバントと一緒に用いて動物を免疫して得た血清のことで,毒素に対して中和活性をもつ.有効成分の本態は免疫グロブリン(抗体)である.実験用に用いることもあるが,ジフテリア,破傷風,百日咳など外毒素が発症に主役を演じている病気の予防や治療(血清療法といわれる)に用いられる.この際,主としてウマ血清が用いられてきたが,アナフィラキシーや血清病などの副作用があるので,ヒト抗毒素血清(免疫グロブリン製剤)に切り換えられつつある.この血清療法serotherapyは受動免疫passive immunity(受身免疫)の一つである. 抗毒素は細菌(ボツリヌス菌、ガスえそ菌、ジフテリア菌)が産生する毒素またはトキソイドを少量ずつウマに投与して、毒素の病原性を中和する免疫抗体(抗毒素)を産生させ、十分な免疫抗体を もつウマ血清から調整されたウマ免疫グロブリン製剤である。毒素に暴露された場合に発病阻止、または治療(血清治療)の目的に使われている。細菌由来毒素 によるボツリヌス中毒症、ガスえそ、ジフテリア、あるいは毒蛇(まむし、はぶ)による咬傷などの疾患は重篤かつ致命的であり、緊急の治療法としてはこの抗 毒素の投与が唯一の方法である。抗毒素製剤にはガスえそウマ抗毒素、ボツリヌスウマ抗毒素、ジフテリアウマ抗毒素、まむしウマ抗毒素、はぶウマ抗毒素などがある。最終製品はすべて製品ロットごとに、国立感染症研究所において国家検定が実施され、適合するものだけが出荷される。( 掲載) 三価抗毒素(A,B,E)は,米国の州衛生局を通じて米国疾病予防管理センター(CDC)から入手できる。抗毒素は,すでに神経筋接合部に結合した毒素を 不活化しないため,既存の神経障害を急速に回復させることはできない。(最終的な回復は神経終末の再生に依存し,それには数週間または数カ月かかることが ある。)しかしながら,抗毒素は神経障害の進行を遅延または阻止しうる。抗毒素は臨床的診断後できる限り迅速に投与するべきであり,培養結果を待って遅ら せてはならない。抗毒素は,症状の発現後72時間を超えてから投与してもあまり効果がない。米国では,7500IUの抗毒素A,5500IUの抗毒素B, および8500IUの抗毒素Eを含むウマ三価抗ボツリヌス毒素10mLを単回投与する。米国では抗毒素を必要とする全ての患者は,州の保健機関または CDCに報告しなければならない。抗毒素はCDC(電話番号は平日 ,平日以外 )を通じてのみ入手可能で ある。抗毒素はウマ血清由来であることから,アナフィラキシーまたは血清病のリスクがある。(使用上の注意については,アレルギー性およびその他の過敏性疾患: 薬物過敏症を参照 ,治療についてはアレルギー性およびその他の過敏性疾患: アナフィラキシーを参照 。)ウマ血清抗毒素は乳児には推奨されない。乳児ボツリヌス中毒治療に関しては,ボツリヌス免疫グロブリン(ボツリヌス菌トキソイドの免疫を有する人の血漿に由来する)の研究が進行中である。 両者とも抗体がカギとなる!
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今日のワクチン 生ワクチン 不活化ワクチン 日本脳炎、B型肝炎、 結核、麻疹、風疹など インフルエンザ、百日せきなど
毒性を弱めた、生きた病原体を使用。 化学処理などにより死んだ病原体を使用。免疫を作るのに必要な部分(抗原)のみを取り出す。 感染して病気になった時に近い免疫を作る。免疫持続時間も長い。 免疫の持続時間が短く、複数回接種が必要。 感染による副反応(病気の症状)が出ることがある 添加剤などによる副反応(アレルギー反応)が起こることがある。 結核、麻疹、風疹など 日本脳炎、B型肝炎、 インフルエンザ、百日せきなど
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抗体が作られる仕組みとは? 抗原抗体反応の概念を確立し 1908年ノーベル医学・生理学賞を受賞
エールリッヒ 抗体が作られる仕組みとは? ドイツのパウル・エールリヒは、コッホの下で友人のベーリングと共にジフテリア の血清療法に関わり研究する中で、動物に毒素を多く投与するほど 大量の抗血清(抗体)が得られることを発見。 これは、頻回の毒素と受容体の結合により刺激され遊離する受容体(=抗体)が増えるためだと考えた。 これより、「細胞の表面には種々の栄養素や毒素に対するレセプター(受け皿)である側鎖(抗体)があり、この側鎖に毒素(抗原)が結合し、その刺激により側鎖(抗体)が過剰に再生され遊離し、体液中に放出される」という側鎖説を主張。 側鎖説 産生された抗体は、 異物表面の抗原に結合し攻撃排除する (=抗原抗体反応) 北里と同時期にコッホ研究所に在籍していたこともある 科学的な見方を持ち込んだ ドイツの細菌学者。ストラスブール大学などで医学を学んだのち,ベルリン大学で実験病理学の研究に従事し,1890年,R.コッホの伝染病研究所に入る。その後,96年血清研究所長,99年国立実験治療研究所長を歴任。この間,メチレンブルーによる生体染色や結核菌の染色法などを開発して業績をあげ,さらに免疫現象を研究して,その抗原抗体反応を理論づけた側鎖説を発表した。この側鎖説は〈エールリヒの側鎖説〉と呼ばれ,この業績によって,1908年,E.メチニコフとともにノーベル生理・医学賞が授けられた。 抗原抗体反応の概念を確立し 1908年ノーベル医学・生理学賞を受賞
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エールリッヒ「化学療法の父」 「細胞と物質の結合」に着目していたエールリッヒは 様々な色素の細菌への結合(=染色)の研究をしていた。
副作用の強いヒ素以外に有効な治療法のなかった梅毒に 対する治療法の開発のため、 秦 佐八郎と共にアニリン色素から有機ヒ素化合物を 次々と合成しその効果を試した。 1909年、第606番目の化合物が動物細胞にはほとんど 副作用なく梅毒の病原菌トレポネーマを殺すことを発見。 ↓ この606番目の化合物「サルバルサン」は、 当時不治の病であった梅毒に対する特効薬として 劇的な効果をもたらした。 →初めての「化学療法」という概念 *その後梅毒の治療薬としては1929年に発見された抗生物質ペニシリンにとってかわられた
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抗体が作られる仕組みとは? 1960年ノーベル医学・生理学賞を受賞 自己に反応するクローンは排除されるため自己は攻撃されない
側鎖説 1細胞に 複数の側鎖(抗体) クローン選択説 フランク・マクファーレン・バーネット オーストラリアのバーネットは 「抗原は多数のレパートリーの中から結合する 抗体分子をレセプターとして持つB細胞を選択し刺激し活性化(分化・増殖)することで同じ型の抗体を大量に産生させる」 というクローン選択説を提唱(=1細胞1抗体) 北里と同時期にコッホ研究所に在籍していたこともある ドイツの細菌学者。ストラスブール大学などで医学を学んだのち,ベルリン大学で実験病理学の研究に従事し,1890年,R.コッホの伝染病研究所に入る。その後,96年血清研究所長,99年国立実験治療研究所長を歴任。この間,メチレンブルーによる生体染色や結核菌の染色法などを開発して業績をあげ,さらに免疫現象を研究して,その抗原抗体反応を理論づけた側鎖説を発表した。この側鎖説は〈エールリヒの側鎖説〉と呼ばれ,この業績によって,1908年,E.メチニコフとともにノーベル生理・医学賞が授けられた。 1960年ノーベル医学・生理学賞を受賞 自己に反応するクローンは排除されるため自己は攻撃されない →「自己と非自己の識別」という概念の出現
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抗原抗体反応の現象 ー輸血のはじまりー 17世紀:フランス国王の侍医が子羊の血液をヒトに輸血して死亡→輸血の禁止 18世紀:輸血の記録なし
1825年:イギリスの産科医ブランデルがヒトのドナーから、出血した産婦へ輸血 →輸血後死亡が多く、成功率は半分程度だった 実は、ラントシュタイナーは血液型を発見しようとして研究を始めたのではなかった。彼は、他人同士の血液を混ぜたとき、しばしば起こる血液凝集の原因を解 明しようとしたのだ。そしてその原因として推定できるのは、血液凝集のしやすさにおける個人差かもしれないが、もしかすると細菌汚染によるものかもしれな いと考えた。 当時は細菌学が全盛で、新しい細菌がしばしば発見されていた時代である。そこで血液の凝集が、細菌などの微生物によるものである可能性も含め、原因を突き 止めようとしたのである。だが調べてみると、血漿との組み合わせによって起こる血球の凝集は、奇妙な規則性を持っており、細菌汚染などによるものとは明ら かに異なる。そこから抗原抗体反応の可能性に思い至ったのだと考えられる。
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凝集は、血漿中の抗体が相手の血球の抗原に結合する抗原抗体反応によりおこる
血球凝集反応→血液型の発見! オーストリアの化学者ラントシュタイナーは、他人同士の血液を混ぜたとき にしばしばおこる凝集反応について研究していた。 1900年、ラントシュタイナーは自分と研究所のスタッフから採取した22の血液を、血球と血漿に分離し様々な組み合わせで混ぜたところ、規則性があることを発見した。 血球の凝集の起こる組み合わせから3つのグループに分けられ、お互いの血球と血漿が凝集するものをAとB、AとBどちらの血漿にも凝集しないものをCと分類(のちにOと改名)した。AB型は2年後に追加。 凝集は、血漿中の抗体が相手の血球の抗原に結合する抗原抗体反応によりおこる 約10年後、アメリカ人モスにより、輸血後死亡は血液型不適合によるものと考えられ、 輸血に血液型をとりいれることで死亡事故は激減した。 血液型抗原は糖鎖 細菌学がさかんだったので はじめは細菌によるものかと考えた このこ抗原抗体反応おがかいめいされてきていた 1930年、ノーベル医学・生理学賞を受賞
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抗体が病原体から生体を守っている! ベーリングやエールリッヒにより、病原体の排除には血液中の「抗体」が
重要な働きを担っていることが明らかとなった。 抗体が病原体から生体を守っている!
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食細胞の発見 1908年、ノーベル医学・生理学賞を受賞 ウクライナ生まれ、ヨーロッパへ渡り自然科学の道へ。
19世紀末のパスツールやコッホによる様々な病原菌発見の頃、 イタリアで海洋動物の研究(無脊椎動物の消化について)を行う。 1882年 ヒトデの幼虫を観察中、顕微鏡下で「貪食」という現象を発見。 その後はパリのパスツール研究所で研究をおこなった。 イリヤ・メチニコフ →メチニコフは「細胞が異物(バラのとげ)から体を守 ろうとしている」と考えた。 この働きを貪食=細胞が細菌などの異物を取り込み 消化することと名付け、貪食をおこなう細胞 を食細胞と呼んだ。 免疫=抗体説をとなえるコッホ(ドイツ)などに嫌われ 最終的にパスツールに招かれパスツール研究所で一生研究行った 1882年アレキサンダー2世暗殺後の反動政府に嫌気を感じ、オデッサ大学を退職した。1883年、パストゥールとコッホの細菌発見に関する噂を聞きなが ら、メチニコフは新夫人オグラと一緒にイタリアのシチリア島に行き、海洋動物の研究を続けた。海水を取って単細胞の原生動物を顕微鏡下にながめ、カルミン の細粉を原生動物が体内に摂取する様子を見て興味が一時に湧き出した。このような細胞は病原菌をも摂取するから、これぞ生体防御の本体であろう。今偶然に も私は病理学者となれり「I suddenly become a pathologist.」と叫んだ。有名な細菌の食菌作用の発見がこのとき出来上がった。彼は翌朝家を飛び出し、メッシナで会合していた有名な教授達に 彼の発見を説明した。当時医学会の法王と称せられたウイルヒョー(病理学者)翁も彼の説を賞賛したので、メチニコフはこんどは一瞬にして細菌学者とった。 彼はウイーンに行き動物学者クラウス教授に自分の学説を話し、このような摂取能のある細胞を何んと名づけるべきかと相談した。クラウス教授は字書を引いて ギリシャ語を探し、「捕喰細胞」と命名した。ウィーンよりオデッサに帰り、オダッサ大学に於て「生体の防御能」と題した講演を試み、炎症論および免疫学に 新しい道を開いた。 ここにメチニコフの運命を開くべき大事件が起った。1886年ロシアの百姓が狂犬に咬まれたのでパリのパストゥール研究所に行き、パストゥールより予防 接種を受けて救われた。オダッサの住民はこれを神に感謝し、オダッサ市にパストゥール研究所を設立し、メチニコフをその初代所長に任命した。この瞬間のみ 人々は、メチニコフがユダヤ人であることを忘れたのである。彼は所長の職に就き、「私は学説家で、実地家でない。ワクチンの製造には、他に誰れかを選定さ れたい」と言い出した。そこで、ガマレア博士が実地を習得すべくパリに派遣されることになった。 こうして、オデッサのパストゥール研究所において、炭疽病及び狂犬病ワクチンの製造をはじめたが、ガマレアを初めとする助手達は、技術が未熟なため成果 は期待通りにはならなかった。そのため種々の非難が起った。さては、メチニコフの人身功撃にまで出て、「彼は医師にあらず、動物学者である。予防医学に就 いて知るはずはない」と、バトウする者さえ出た。1888年ついに彼は研究の安全地をもとめパリに行き、パストゥールを訪問した。 けふぃあヨーグルト 老化 医学界の先覚者であるパストゥールは、メチニコフの説明を聴き、「私も食細胞と病原体との関係に興味をもつている。君は正しい」と言って、同情を表わし た。パストゥールは、彼のために研究室を開放して優遇した。そのときに、オグラの父が死んで相当の財産を遺した。メチニコフは、オデッサに急ぎ帰り、家財 を整理しその途中にベルリンでコッホを訪問した。しかし、コッホに冷遇されてパリに帰って来た。夫人オグラは絵を好んだが、今はその夫のために動物を捕 え、あるいは試験管を洗って研究を助ける助手となった。 ドイツとオーストリアの学者は、一斉に食菌説に反対した。バウムガルデンのごときは、毎年雑誌に 食細胞の功撃を書いた。ベーリングも、その急先鋒となって、ラットの血清は炭疽菌を殺すが、食菌作用とはなんら関係はないと論じた。輝きの日がついにき た。メチニコフは一大著書を発行して、食細胞について詳しく述べた。20年前には「生を罪」と考え幾度か自らその生命を断とうとした彼は、今はパリの郊外 にいて近所の子どもより 「オジイちゃん、クリスマスおめでとう」と、声をかけられるのを楽しむようになった。 1908年、ノーベル医学・生理学賞を受賞
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シュードモナス菌を取り込む(貪食する)食細胞(マクロファージ)
食細胞(貪食細胞)による免疫応答 ビーズを取り合う 食細胞(マクロファージ) シュードモナス菌を取り込む(貪食する)食細胞(マクロファージ)
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エールリッヒとメチニコフは1908年、同時にノーベル賞を受賞
ベーリング エールリッヒ メチニコフ ドイツ フランス v.s. 抗体 食細胞
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食細胞と抗体はチームワークで生体防御を担う
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自然免疫と獲得免疫
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抗体の構造 1972年、ノーベル医学・生理学賞を受賞 抗体は2種類のポリペプチド(タンパク質)からなる
イギリスのポーターとアメリカのエーデルマンにより抗体の構造が明らかとなった。 抗体は2種類のポリペプチド(タンパク質)からなる 抗体の特異性は抗体と結合する可変領域のアミノ酸配列の違いにある シルヴァーシュタイン氏は有名なメチニコフの写真を背景に、ゆったりとした調子で話を進めた。当時、炎症という現象が生体にとって害になると考えられてい た。彼はヒトデで見出した貪食という現象を基に、炎症は宿主の受身の対応ではなく、積極的に対処している宿主にとって有益な反応で、その中心に貪食細胞が あると考えた。 この考え方はドイツ学派には受け入れられず、彼が求めていたドイツでの就職は遂に成らなかった。1888年、彼が43歳の時にパスツールに呼ばれて創設されたばかりのパスツール研究所で仕事を開始し、1916年、71歳で亡くなるまで研究を続ける。 この間20世紀を鋏む20年に亘って、免疫は細胞によるとするメチニコフの細胞学説と免疫の主体は抗体であるとするポール・エーリッヒ(Paul Ehrlich)の液性学説とが、フランスとドイツに別れて争った。それは、不毛の争いではなく、むしろお互いが刺激し合い、新しい実験データ、新しいアイディアを生み出した実り多いものだったと結論している。その結果、エーリッヒとともに1908年にノーベル賞を手に入れる。 1972年、ノーベル医学・生理学賞を受賞
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抗体の作製~モノクローナル抗体~ この技術により抗体は医療応用へ向け大きく前進した! 1984年、ノーベル医学・生理学賞を受賞
動物に弱毒化した病原体を投与してできる抗血清は、複数の種類の抗体を含んでいる(ポリクローナル抗体)。 多様な抗体が混じると、標的(病原体)以外のものに反応し副作用を起こすことがある。 →1種類の抗体(モノクローナル抗体)のみ作成する方法の開発 1975年、生化学者のミルシュタインと弟子のケーラーは、単一の抗体だけを作るB細胞だけをスクリーニング技術により分離し、がん化したB細胞と融合させ、単一の特異性を持つ抗体産生細胞(ハイブリドーマ)を作製することに成功した。 この技術により抗体は医療応用へ向け大きく前進した! 1984年、ノーベル医学・生理学賞を受賞
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抗体医薬品の開発 1980年代、がんなどの疾患に対する抗体を用いた治療法が数々試行されるが 多くが失敗に終わる。
マウス由来の抗体→ヒトの体に投与すると異物として認識、排除される 抗体の抗原認識部位のみマウスで定常領域はヒト由来といったキメラ抗体 を作製するための遺伝子組換えなどの工学技術が発展。
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抗体医薬品と従来の医薬品(低分子医薬品)の比較
分子量 非常に大きい 小さい 剤形 主に注射剤 主に錠剤 製造方法 主に細胞から生産 主に化学合成 ※抗体医薬品と低分子医薬品の分子量の違いは、 クジラとマグロの重さくらいの違い(約300倍)がある!
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抗体医薬品の利点・欠点 利点 欠点 標的に対する特異性がある →高い効果と少ない副作用 高価である →経済的負担が大
体内で効果を発揮する時間 (半減期)が長い →投与回数が少なくて済む (週一回から数週に一回) 現在の技術では経口投与できない →注射剤に限定される
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抗体医薬品の現状と展望 図表4に2008年の世界の医薬売上30位までを示す。高脂血症薬や降圧剤のような低分子の慢性疾患薬に並んで、15位以内に抗体医薬が5つ入っている。4位のリツキサン®と6位のレミケード®は世界の年間の売上が60億ドルを超え、10位のアバスチン®、11位のハーセプチン®、15位のヒュミラ®は40億ドルを超えて、超大型薬と言える規模になっている。抗体医薬はいずれも前年比2桁の伸びである。発売後10年程度経過したものでも前年比10%以上の伸びを示すものがある。近年販売されたものの伸び率は非常に大きく、15位のヒュミラ®は 伸び率48%となっている。これら上位の抗体医薬が治療対象としているのは、関節リウマチとある種のがんである。高価であるにもかかわらず幅広く使用され ているということは、抗体医薬がこれらの疾患に対して従来の低分子医薬を大きく上回る治療効果を示し、かつ副作用は少ないためであると考えられる。
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抗体の特異性
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無限に近い数の多様な、そして全く未知の病原体(抗原)に対応できる抗体を、
1958年、イギリスの科学者ワトソンとクリックにより、 タンパク質は遺伝子(設計図)の情報に基づいて作られる(DNA→RNA→タンパク質)ことが明らかとなる。 生体は膨大な数の抗原に対して抗体を作ることができる。抗体の種類は100億以上ともいわれる一方、人間のもつ遺伝子の数はほんの2万2~3千程度である。 無限に近い数の多様な、そして全く未知の病原体(抗原)に対応できる抗体を、 どうやって遺伝子は準備できるのか?? DNAでできた ゲノム 抗体は「H鎖」と「L鎖」と呼ばれる2本のたんぱく質の鎖からなり、それぞれは一定不変の部分(不変領域)と 外敵に応じて姿を変える部分(可変領域)からなる。可変領域にたくさんの部品があり、その組み合わせ方は細胞ごとに異なるので、何百万種類のB細胞ができ るのである。
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スイスのバーゼル免疫研究所の研究員であった利根川進はこの謎を解くため遺伝子レベルでの研究を開始
1976年「抗体の遺伝子は再編成することで多様性を生み出す」ことを発見。 壇上に上がった利根川博士は次のように述べました。「抗体は白血球の一種であるB細胞によって作られます。その形はYの字を立体的にしたような感じです が、Y字の先端部分に、病原体などの侵入者をそれぞれ別個に見分けるところが存在しています。その部分の遺伝子を調べたところ、生まれる前のマウスでは、 遺伝子がいくつもの小さな配列に分かれてつながれていました。ところが大人のマウスでは、遺伝子が動いていて必要なものだけが完全に一つの配列を作ってい ました。抗体の遺伝子は、成長するに従ってダイナミックに動いて組みかわり、その組み合わせの数だけ抗体を作り出していたのです。このやり方だと、1000個ほどの遺伝子で100億種以上の抗体が作り出されることもわかりました」。 予定時間を大幅に過ぎた30分の発表の後、会場は拍手の渦となりました。シンポジウムの主催をつとめ、利根川博士の長い講演時間を許可してくれたジェーム ズ・ワトソン博士が「おめでとう。たいへん良い発表だった」と利根川博士の成果をたたえました。36歳の若い日本人研究者がノーベル賞に限りなく近づいた 瞬間でした。 抗体は「H鎖」と「L鎖」と呼ばれる2本のたんぱく質の鎖からなり、それぞれは一定不変の部分(不変領域)と 外敵に応じて姿を変える部分(可変領域)からなる。可変領域にたくさんの部品があり、その組み合わせ方は細胞ごとに異なるので、何百万種類のB細胞ができ るのである。
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抗体の多様性 抗体は、様々な抗原に対応するために多様性を有します。 多様性は抗体の可変部によって決定されます。 抗体はタンパク質であり、可変部・定常部ともに遺伝子の情報をもとにつくられますので、抗体の多様性は遺伝子のレベルで次のような遺伝子再構成という仕組みで決定されます。 抗 体のH鎖可変部の遺伝子は、VH遺伝子部分、DH遺伝子部分、JH遺伝子部分の3つに分かれています。この3つの遺伝子部分は、それぞれ複数の遺伝子断片 から1種類が選ばれて組み立てられます。L鎖可変部の遺伝子は、H鎖よりも少なく、VL遺伝子部分、JL遺伝子部分の2つに分かれています。 このように、H鎖のVH、DH、JHおよびL鎖のVLとJLの遺伝子断片の組み合わせで、多様な抗体がつくられます。
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1987年に日本人初のノーベル医学・生理学賞を受賞!
抗体の多様性は遺伝子の組み合わせにより生まれる。 ここまで出会ってきた、また今後で会うであろう抗原にも十分対応可能な 数(種類)の抗体を準備できる、というダイナミックなシステム。 従来、「一定不変」と考えられていた遺伝子が細胞の成熟と共に変化するという画期的発見 人間ではリンパ球(B細胞とT細胞)のみに認められる現象。 1987年に日本人初のノーベル医学・生理学賞を受賞! 抗体は「H鎖」と「L鎖」と呼ばれる2本のたんぱく質の鎖からなり、それぞれは一定不変の部分(不変領域)と 外敵に応じて姿を変える部分(可変領域)からなる。可変領域にたくさんの部品があり、その組み合わせ方は細胞ごとに異なるので、何百万種類のB細胞ができ るのである。 利根川進博士
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抗体の多様性は、多くの外敵に対応する免疫の重要なメカニズムである
これだけ多くの抗体が存在するのなら 自分を攻撃する抗体もいるのでは??
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免疫寛容(自己と非自己の認識)
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中枢性免疫寛容 リンパ球分化の過程で起こる免疫寛容=中枢性寛容(骨髄や胸腺) リンパ球の分化
中枢性免疫寛容 リンパ球分化の過程で起こる免疫寛容=中枢性寛容(骨髄や胸腺) リンパ球の分化 第1話で定義したように、免疫の本質は自己と非自己を見分けることです。繰り返しになりますが、目も耳も指先も持っていないリンパ球はどのようなしくみで 自己と非自己を見分けるのでしょうか。この特質は、リンパ球が育ってくる過程で獲得されます。図7にお示ししましたが、リンパ球は他の血球細胞と同じく骨 の中心部にある骨髄という場所で生まれます。その後、B細胞は骨髄の中で成長し、またT細胞は生まれてまもなく胸腺という胸骨の裏側にある臓器へ移動した後に成長し、同時にそれぞれの場所で将来リンパ球としての機能を果たせるようになるための教育(正確に表現すると“選択”)を受けることになります。 この教育(選択)の過程を説明するために、またB細胞に登場してもらいましょう(図7)。生まれたばかりの赤ちゃんB細胞の表面には抗原受容体である 免疫グロブリンはありません。その後、3で説明した機構で一つ一つ異なる可変領域をもつ抗原受容体が発現してきますが、様々な理由で受容体の発現に失敗し た細胞は、この段階で死んでしまいます。これが第一の選択となります。次に、うまく細胞表面に抗原受容体をもつことができた細胞は、骨髄の中でも様々な抗 原と出会います。骨髄内で出会う抗原は、基本的にすべて自己がもつ成分、すなわち自己抗原ということになります。すると今度は、骨髄内で自己抗原と反応す るような受容体を持っているB細胞が死んでいってしまうことが知られています。結果として、この第二段階での選択の結果生き延びることができたB細胞は、 自己抗原とは反応できない抗原受容体を細胞表面にもつことになり、これらが教育を受けたB細胞として骨髄という学校から卒業し、実際に働く現場となる場所 へ配属されるわけです。配属先は、一部は血液中を流れますが、ほとんどは脾臓とリンパ節というリンパ球が集まる臓器に蓄えられ、自分が相手とする抗原が体 内に入ってくる機会をじっと待つことになります。T細胞の成長過程はB細胞と比べると少し複雑になるのでここではあえて触れませんが、胸腺という学校の中 で同じような教育(選択)を受けているものと考えて下さってよろしいかと思います。 3)B細胞寛容 自 己抗体は様々な自己免疫疾患に検出されるものであり、例えば抗アセチルコリンレセプター抗体は重症筋無力症患者において認められるのはよく知られており、 この抗体自身が病態の根幹をなしている。しかしながら、一方でSLEなどの膠原病では細胞内分子、核内タンパク質やDNAに対する自己抗体が多く検出され るが、これらの抗体はそれ自身が病気の本質というよりも、むしろ二次的に産生が誘導された自己抗体である可能性が高い。 それではこのような自己抗体産生を防ぐために生体はどのようなメカニズムを働かせているのであろうか?いくつかのメカニズムが考えられているが、一 つは骨髄においてB細胞が分化成熟する過程で、自己に反応する抗体を産生するB細胞を除去するという仕組みである。その他には脾臓やリンパ節のT細胞領域 おいて自己反応性のB細胞を除去する、あるいは機能的に不活性化する(不応答あるいはアナジー)仕組みであり、自己抗原に出会った場合にそれに反応するB 細胞レセプター(膜型免疫グロブリン)に変異を導入し自己に反応しないようなレセプターへと変異させる(レセプターエディティング)仕組みである。またB 細胞の抗体産生には一般的にT細胞からのヘルプが必要であることから(T細胞依存性抗原の場合)、T細胞が自己抗原に寛容となっている場合は、その自己抗 原に反応するB細胞が存在したとしても、十分な量の自己抗体を産生することはできない。
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末梢性免疫寛容 分化の過程でおこる中枢の除去システムをかいくぐり、分化した組織から体内(末梢)へ出てくる自己反応性細胞がいる。
末梢性免疫寛容 分化の過程でおこる中枢の除去システムをかいくぐり、分化した組織から体内(末梢)へ出てくる自己反応性細胞がいる。 体内に漏れ出た自己反応性細胞を封じ込めるシステム =末梢性寛容 1.麻痺状態(アナジー)にする 2.免疫反応を抑制する細胞群の存在
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免疫応答のバランスと疾患
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免疫~複雑で巧妙なシステム~ 記憶する(2度目はかからない!) 特異性(各攻撃隊は決まった敵を狙い撃ち) 多様性(どんな敵でもやっつける)
自己と非自己の識別(自分は攻撃しない)
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