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ホロコーストの歴史(1) ホロコーストに至る道 講師:永岑三千輝
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1.受講者の受講動機・問題関心 ホロコーストは、なぜ、どこで、どのように、いつから?
研究の動機・問題関心と重なり合うもの・・・研究者も、「なぜ」、「どこで」、「いつから」、「どのように」を探求。 論争⇔史実発掘⇔論文著書・・・歴史像の正確化・豊富化
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子供の頃、映画『夜と霧』を見て、 ショックを受けた、と。
なぜ、どうして? アンケートに同様の受講動機。 初回、山根先生がDVDを教材に、お話になったとのこと、それを想起していただきながら、 このドキュメンタリー映画は、世界的に大きな影響を与えた映画 映画『夜と霧』(1955年)は、その実、第三帝国「夜と霧」作戦にかんするものではなく、「ホロコーストの暴露」であった。 配布資料:拙稿書評(『週刊読書人』 ) *ショッキングな映像の数々・・・ 受講の皆さんは、映像・画面のどんなところが、印象的で、記憶に残っていますか? *たしかに、ユダヤ人大量虐殺は、ヒトラーの政治の一つの重要な「帰結」 ・・・厳然たる事実 ・・・なぜ、いつから、どうして、どのように? 生還=例外―個別の事例―の存在
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最近の研究書・・・映画『夜と霧』の世界的受容・・・配布資料:拙稿書評
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映画『夜と霧』…日本では? ・ 日本では、映倫による検閲…輸入禁止。 東京税関・・・「残酷すぎる」との判断。
東京税関・・・「残酷すぎる」との判断。 税関諮問機関・輸入映画審議会・・・「輸入、一般公開は不適当」 試写会を見た識者(丸山真男など)は、輸入を求めたが・・・・ *60年代にカット版で公開。 *ノーカット版は、1972年になって公開。 *1998年以後は、DVD販売(本学、学情センターでも視聴可能)。
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「夜と霧」・・・3つの違ったことの タイトルとして。
第一・・・第三帝国「夜と霧」作戦・・・フランスを中心とする抵抗運動鎮圧の作戦 第二・・・短編映画『夜と霧』・・・内容は、ホロコーストの暴露。 ただし、フランス映画のタイトルは、フランス人の抵抗と鎮圧に関わる「夜と霧」作戦が、利用された。 しかし、実際の映像の圧倒的多数が、ユダヤ人だったことは明確にされていない。 *第三…日本のフランクルの本の翻訳タイトル ①霜山徳爾訳(みすず書房)・・・有名になった短編映画のタイトルを利用・・・しかし、本の前半(解説)はホロコーストの暴露、本の後半(本文)は、精神分析・心理学者フランクルの個人的体験 ②フランクルの新版の最近の翻訳・・・池田訳・・・本文のみ。
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① 霜山訳の表紙と目次
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② フランクル著・新版『夜と霧』、池田訳
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DVD (初回に見たことを前提に)
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映画『夜と霧』 30分ほどの短編のなかに、12年間のことが詰め込まれている。
戦後10年近くたった撮影時期のアウシュヴィッツの風景、市内の本部の写真と郊外ビルケナウの様子、その他。 1933年、ヒトラーの政権掌握のときの軍隊行進の映像、 初期の収容所の風景 最終局面の残酷な写真の数々
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衝撃的な映像…「帰結」を示す、 しかし、その「なぜ」は? たとえば、
衝撃的な映像…「帰結」を示す、 しかし、その「なぜ」は? たとえば、 一方で、たくさんの人間が、健康な体つきのまま、追い立てられ、大きな堀のなかに連行され、射殺される場面 他方、強制収容所の最後の最後、連合軍兵士が解放した囚人の姿・・・やせ衰え、餓死寸前の様子の大量の人々 実際に骨と皮になって餓死した死体の山 それらをブルドーザーで、壕の中に押し込む連合軍兵士の様子など
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膨大な歴史研究・・・ランヅマンの嘆き・怒り
巨細無限の問題領域と実証研究の積み重ね その全体はドイツの代表的研究者でも、「見通しがきかない」というほど。 『ショア』の映画監督ランヅマンの嘆き・怒り・・・歴史書を読んでも、さっぱり本当のことがわからない、云々。 ランヅマンは、生き証人(犠牲者・加害者・傍観者など)の証言を映像化・・・長大な映画を作成。
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ランヅマン映画・・・体験者の証言 (被害者・加害者・協力者・傍観者)
厳然たる殺害の諸事実は、明確になる。 しかし、逆に、それを引き起こした第三帝国の頂点・政治と軍事の頂点の思想・行動・政策の展開・変遷は、そこからは、見えてこない。
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いくつかの柱 ヒトラーの根本思想・根本目標 『わが闘争』『続我が闘争』(その形成過程も重要…しかし、割愛せざるを得ない。カーショー著『ヒトラー』の伝記、参照されたい。) ヒトラー・ナチの根本思想・目標の実現プロセスとユダヤ人迫害・殺戮の諸段階 「平時」・・・分裂・分断されたドイツ民族の国家的統一・オーストリア編入(併合)→ズデーテン併合→チェコスロヴァキア解体・チェコの保護領化 「戦時」・・・電撃戦段階:ポーランド侵攻→西部における電撃戦勝利→フランス・オランダ・ベルギーの占領支配→ソ連攻撃 「戦時」・・・総力戦段階:ソ連攻撃→電撃戦戦略の挫折→独ソ戦の泥沼化→・総力戦化から「危機」へ。 「戦時」・・・敗退過程。
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講義では立ち入れないことも多く、詳しくは、拙著をご参照いただきたい。
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配布資料4論文(拙稿①:「プロテクトラート」論文と②「独ソ戦の現場」論文)
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配布資料(拙稿:③「特殊自動車」論文、④「ホロコーストの論理と力学」論文)
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2.「ホロコーストに至る道」 本日の講義の対象時期
「ヒトラーの思想構造」(ヒトラー『我が闘争』)から 「独ソ戦開始」まで。 ユダヤ人大量虐殺=ホロコーストは、 独ソ戦開始(1941年6月22日)直後から ・・・この過程は、本講義の次回のテーマ・課題。
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「いたる道」をなぜ問題にするか 第一回・第二回の広く目配りのある講義を振り返ってみても、
ユダヤ人大量虐殺は、ドイツ史の中で、いや、ナチスの歴史、さらには第三帝国の歴史の中でも、多様な歴史的要因の累積の中で起きた。 その主要な諸要因がいまだに明確に認識されてはいないのではないか? あるいは、主要な諸要因の関連性が、認識されていないのではないか? 学界でも論争がある。 戦後の世界の歴史研究の中で、さまざまの論点に関する国際的な論争を経て、その主要な道筋・主要な論理と力学とでもいうべきものが、明らかになってきた。 私がかかわった論争に的を絞りながら、その到達点と考えるところを、お話ししてみたい。
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ちょっとひとこと:歴史の面白さ 私の場合:「暗記物」に対する疑問・嫌悪 色々な事実を、その相互の関係がどうなっているかを考えること。
色々な史料をみて、なぜそうなるのかを考えること。 「えっ、こんな史料がある」、「こんなことがあったのか」と驚きの発見があること、その発見を、いままでの歴史像の中に位置づけること・関連付けること。 これは紹介しておきたいな、活字として残しておきたいな、と思えるドキュメント(史料)に出会うこと。
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巷間流布する見方と 「決定的に重要な点」との違い
巷間流布する見方・・・・ヒトラーは 「ユダヤ人絶滅を目指していた」、 「ユダヤ人絶滅が目的だった」 しかし、ヒトラー『わが闘争』には、何が書かれているか? 上記のような巷間流布する見方は、『わが闘争』に書かれているヒトラーの根本思想・根本目標・根本的政策を、把握していないのではないか? あるいは、ヒトラーの根本思想・目標とユダヤ人大量虐殺が、どう関係しているのかを誤認・誤解。
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ヒトラー政治の帰結は、何か? ヒトラーの基本思想(世界観)・基本目標の帰結は、すでに、誰でも知っていること。 しかし、遺言は?
ヒトラー・・・1945年4月末、ベルリン・地下壕・総統大本営での自殺(30日)直前の政治的遺言 この時点と場所で、ヒトラーは、ユダヤ人絶滅について、何を、どう語るか?・・・一節を見てみましょう。
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ヒトラーの遺言・・・ドイツ民族・・・世界に「強者として君臨」するため(45年4月2日のところ)
「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国民社会主義(Nationalsozialismus)に永遠に感謝するであろう。」 (マルティン・ボアマン記録、翻訳書127ページ) 「なぜ、感謝?」・・・「道徳的にますますユダヤ人の病毒におかされている世界では、この毒に対して免疫性を持った国民のみが、最後にはついに強者として君臨するであろう。かく考えてみれば、・・・・」以下、上の文に続く。
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1939年1月30日国会予言の実現は? 予言では、「ボルシェヴィズムの勝利、すなわちユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパ・ユダヤ民族の絶滅」としていた。 ヒトラーが実績として挙げるのは、「ドイツと中欧」のユダヤ人の絶滅に過ぎず、それ以外のヨーロッパの地域と国のユダヤ人の絶滅には失敗していることをはしなくも露呈している。 また、ベルリンの地下壕で、ソ連軍に完全包囲されて自殺に追い込まれたことは、「ボルシェヴィズムの勝利」、「ユダヤ民族の勝利」を意味することになる。 つまり、ヒトラーの傲慢な予言は、失敗したと言ってもいいのである。その決定的な帰結に、彼は何も言及しない。
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ところが、実際は? ・・・ヒトラー政治の帰結
第三帝国が引き起こした世界戦争 それに敗北。 ドイツ全土が、東側からソ連軍、西側から米英軍によって、占領されてしまったという現実。 第一次大戦以上のみじめな根底的敗北。 ドイツの領土の大幅な削減。 1千数百万の東方に住むドイツ人の追放。 この決定的な帰結を、ドイツ人は感謝するであろうか? 故郷を追放された1千数百万人は、決して感謝しないであろう。
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ヤルタ会談による領土の縮小 ソ連の領土拡大。 ポーランドの領土の西方移動と拡大 「1945年ドイツ:戦争の終結」
(ヤルタ会談による領土縮小の地図) 今からの別こと、すなわち、「世界強国ドイツの建設」という「ヒトラーの根本目標」が、根底から否定された現実。 残った現実は? ヒトラーが唯一「感謝される」と言えた(妄想した)ことは?
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1千数百万人のドイツ人追放 東欧各地から追放されたドイツ人 その地図(追放されたドイツ人の数・地域の明細を矢印で)
(拙著『独ソ戦とホロコースト』p )
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3.ヒトラーの根本思想・根本目標
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『わが闘争』(マイン・カンプフMein Kampf)の論理構造
第一次大戦の「敗北の克服」・・・「捲土重来」の思想 広大な領土を持つ世界強国ドイツの建設 帝国主義の思想・目標・行動・・・ ドイツ民族・アーリア人種を最高・頂点とし、 最低の位置にユダヤ人を置く、 人種主義的階層秩序(上と下、支配と服従)の世界観。 人種主義帝国主義
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ヒトラーの論理・主張は、 『続・わが闘争』(非公刊)に、公刊『わが闘争』より露骨に。
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裏表紙
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第一次大戦後の世界の植民地所有状況(日本は統計に含まれていない): ヒトラーが前提にした当時の世界の支配的現実・・・領土拡大・「生存圏」拡大の正当化
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第一次大戦の敗北の原因と ヒトラーの構想 一つは、海上派遣・海外植民地獲得をめざして、イギリスと戦争してしまったこと。
イギリスと取り合いにならない植民地・支配地域 それは、東方、すなわち、ロシアとその周辺諸国・地域。 一つは、国際主義・平和主義・共産主義・マルクス主義など「ユダヤ主義的なるもの」との闘争・鎮圧 敗戦は、「背後の匕首」(11月革命)によるもの、軍隊は勝っていたとの「正当化」=実際には「幻想」。
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どこに広大な領土を獲得するか? 「ロシアとその周辺諸国」を隷属化、そのための闘争(必然的に戦争) 東方大帝国の建設
実際に、独ソ戦で勝利を確信していた段階 1941-42年の 「東方全体計画」(ゲネラールプラン・オスト)
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帝国主義・植民地主義と 反ソ・反ボルシェヴィズムの結合
大英帝国でも、この見地から、親ヒトラーの勢力、たとえば、 イギリス財界大物の親ドイツ勢力 イギリスのファシスト(モーズリー) シンプソン夫人と結婚した王太子エドワード(国王エドワード8世の座を放擲)も、親ヒトラー・反ボルシェヴィズム エドワードが「ハイル・ヒトラーの挨拶をしている写真」 „Die Royals und die Nazis“ ・・・最近発見の史料により、エドワード8世は、ヒトラーの力を借りて、王位への復活を画策していた、と。
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第一次大戦後、「背後の匕首」宣伝
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「マルクス主義清算の手抜かり」・・・毒ガスで始末しておくべきだった 『わが闘争』の一節 ヒトラー首相就任演説と初閣議発言の一貫性
「マルクス主義清算の手抜かり」・・・毒ガスで始末しておくべきだった 『わが闘争』の一節 ヒトラー首相就任演説と初閣議発言の一貫性
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大英帝国との親和性・共感性 大英帝国との連携(大英帝国の世界植民地帝国・巨大領土支配の承認)・・・そのバックアップで第三帝国ドイツも東へ広大な領土を。 共通の敵ソ連の征服=東方大帝国建設へという構想。 ヒトラーの一貫した「わが闘争」以来の親英的態度・同盟政策の構想。
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平和主義・国際主義の嘲笑 結局は、武力で解決しなければならないのだ。
報復の根本思想。 19世紀末―第一次世界大戦ーヴェルサイユ体制下の世界・・・帝国主義列強の植民地主義・勢力圏拡大 「弱小・劣等な民族・人種の支配は正当」=人種主義。 ・・・強国が、世界と地域の覇権争奪戦の「現実」 ・・・国際主義・平和主義の世界的潮流は、ユダヤ的思想として、無視・抑圧・弾圧。
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ヒトラーの根本思想と国民・民衆意識の重なり合い=共鳴関係=共犯関係
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20世後半から21世紀の今日 帝国主義・植民地主義・軍国主義・人種主義の世界的否定 19世紀末から20世紀前半
世界主要国における帝国主義・植民地主義・人種主義が支配的 それら主要国=列強の覇権争いの潮流 こうした列強の争いを批判し、克服しようとする諸潮流。平和主義・国際主義。 世界は、多くの血を流し、犠牲を出しながら、今日の地平に立っている。 しかし、世界の人々が、どこまでこの見地に立ち得ているか? 現在の世界であふれ出ている排他的ナショナリズムは、?
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占領の拡大ごとに、 民族強化政策=移住政策を推進。 ユダヤ人をゲットーに集中。
4.軍事的膨張・支配拡大⇔民族強化 占領の拡大ごとに、 民族強化政策=移住政策を推進。 ユダヤ人をゲットーに集中。
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「平時」における膨張の第一段階 1938年3月12日オーストリア編入(併合) オーストリアのウィーンのユダヤ人の追放(移住)作戦
ここで、アイヒマンが最初に活躍・・「頭角を現す」 ウィーンにユダヤ人移住センターを設立。 パレスチナへのユダヤ人の移住政策 ウィーン・ユダヤ人の移住政策 野村真理『ウィーンのユダヤ人―19世紀末からホロコースト前夜まで―』
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戦後裁判におけるアイヒマン調書
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「平時」における膨張の第二段階 ズデーテン併合…チェコスロヴァキア領土削減→チェコの保護領化(プロテクトラート・ベーメン・メーレン)
プラハ・ユダヤ人に対する移住(追放)政策
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ドイツ軍のチェコ(ボヘミア・モラヴィア保護領)侵攻直後
チェコ人政治的容疑者とドイツからの亡命者を逮捕。 治安警察の2つのアインザッツグルッペンは、「ギッター作戦Aktion Gitter」で、実際のあるいは推定上の政敵を逮捕。ベーメンでは、4376人、うち、ドイツ人移民Emigranten747人と多数のユダヤ人、メーレンでは、少なくとも1000人の移民を逮捕。 1939年3月、すでに多数の反ユダヤ攻撃・・いくつかの都市でシナゴーグ放火、商店略奪、価値物強奪など。 Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden durch das nationalsozialistische Deutschland Bd.3, Deutsches Reich und Protektorat Böhmen und Mähren September September 1941, München2012, S.23.
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戦時下・占領第一段階… 併合地からのポーランド人追放
ポーランド侵攻作戦1939年5月命令 ポーランド侵攻 1939年9月1日開始 「第4次」ポーランド分割…併合地・総督府・ソ連(スターリン大国主義)占領地に3分割。
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ポーランド併合地のドイツ化=民族強化 ポーランド人などの追放(まずは総督府へ)とドイツ人入植・・・「民族の耕地整理」
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ポーランドに住む諸民族の 人種位階制で秩序付け、 最底辺のユダヤ人の追放・移送政策
1940年春のヒムラー秘密覚書 ポーランドに住む諸民族の 人種位階制で秩序付け、 最底辺のユダヤ人の追放・移送政策
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拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』(同文舘、1994)34-35ページ
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ポーランド人 「指導者なき労働民族」との位置づけ。 ドイツの支配下において、労働民族として、働かせる。
戦闘終結・占領直後にポーランド人エリートの抹殺 ドイツの支配下において、労働民族として、働かせる。 そのポーランド人の下に、マイノリティであるウクライナ人、ロシア人、ゴラル人、レムケ人、カシューブ人を区別し、分断的に統治
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民族移動(追放と入植)と ヨーロッパ・ユダヤ人の殺害
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民族ドイツ人を本国周辺に集中 ポーランド人・ユダヤ人を追放・「移住」
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ポーランド・ユダヤ人を集中 (移住=追放の準備)
総督府として支配したポーランド地域、 ワルシャワ・ゲットーなど、各地にゲットーを作り、そこにユダヤ人を集中。 総督府のユダヤ人を、南東部ルブリン地区に集める・・・・「ユダヤ人居留地」構想。
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電撃戦勝利とユダヤ人移送政策 電撃戦勝利は、 一方で、軍事占領下の地域の急速な拡大 他方で、被支配地の側からの様々のレベルでの抵抗
その中で、占領地をドイツの戦時経済に最大限活用する必要。 その全体状況の中で、支配下のユダヤ人の数も急増していく。 ここから、「移送(追放)政策」が大々的になってくる。
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電撃戦によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス(北部からスペインまでの海岸線)の占領
戦時下、占領の第二段階 1940年4月―6月、 電撃戦によるデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス(北部からスペインまでの海岸線)の占領
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マダガスカル計画(1940年夏) フランスの植民地を割譲させ、 そこに、500万のユダヤ人を移送(追放)する計画。
前提は、マダガスカルまでの海上覇権、フランスとの講和条約 -英・仏との戦争継続・・・移送の前提条件の欠如
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1940年夏から秋、対ソ攻撃計画 ソ連地域(白ロシア、シベリア)へのユダヤ人移送計画 前提は、ソ連占領・ソ連圧伏
移送の成否は、独ソ戦の展開の問題
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1941年春 1941年3月17日、昼食時、総督府長官フランクとヒトラーの発言・・・「総督府は最初にユダヤ人から完全に解放されるところ」(フランクの業務日誌41年4月19日、VEJ 4/S.54.)。 41年6月20日、ヒトラー、フランク、ゲッベルスの会談・・・フランクの期待・・・・「ユダヤ人移送を歓迎」 ・・・「ユダヤ人問題の最終解決は、「移送」を意味していた。隣接するプリピャチ湿地帯ないし北ロシアの北氷洋地域 (ゲッベルス日記、Bd.9、S.389f. VEJ 4/S.55) ただし、実際の移送は、延期。 対ソ攻撃開始最終段階で(41年3月ごろ)、ユダヤ人移送計画は、一時停止。 まずは戦争に電撃的に勝つことに全力投入。(1940年12月18日バルバロッサ指令‥。41年5月15日までに攻撃準備完了せよ)
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バルバロッサ作戦発動の遅れ 5月15日が結局は、6月22日に。 その原因・・・バルカン情勢、ユーゴ情勢 1941年4月6日 バルカン侵攻開始
バルカン半島をイギリスが抑える可能性 イギリスによるルーマニア油田空襲の恐れ 1941年4月6日 バルカン侵攻開始
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バルカン出征地図
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イギリス…戦争国家 1920〜1970
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エジャトン『戦争国家 イギリス』
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エジャトン(p.23)イギリスの兵器・軍用備蓄支出
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1913年価格調整の英・陸海空軍支出
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第一次大戦後の世界の植民地所有状況(日本は統計に含まれていない): ヒトラーが前提にした当時の世界の支配的現実・・・領土拡大・「生存圏」拡大の正当化
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「イギリス海軍…主力艦となる航空母艦を含め、何なら何まで強力だった」
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