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第72回身心変容技法研究会 祈りと身心変容 金沢星稜大学 桑野萌.

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1 第72回身心変容技法研究会 祈りと身心変容 金沢星稜大学 桑野萌

2 本日の発表の流れ 1はじめに ー 本発表の中心的な問い、 本発表に至る経緯 2湯浅泰雄の身体論・修行論をめぐる東西の比較思想
1はじめに ー 本発表の中心的な問い、 本発表に至る経緯 2湯浅泰雄の身体論・修行論をめぐる東西の比較思想 3キリスト教における祈りの実践(asceticism) 4レイモン・パニカーと宗教体験:神話(mito)、信仰(fe)、  解釈学(hermenéutica) 5神話・信仰を現実に活かすわざとしての身心変容 6おわりに

3 1.本発表の中心的な問い キリスト教における祈りと身心変容の関係を明らかにする。
 信仰体験や神体験と典礼における祈り(聖歌や朗読を通しての)との関わり   聖歌や朗読におけることばの「響き」と信仰体験のつながり 湯浅泰雄における修行論をめぐる東西の比較思想をカギに、キリ スト教における身心変容技法、修行とは何かを考察する レイモン・パニカーの神学(哲学?)における、解釈学 (hermenéutica)、あるいはロゴス(logos)・神話(mito)・信仰 (fe)の考察を契機に、キリスト教の祈りと信仰生活における身心 変容とはいったい何を示しているのかについて明らかにする

4 湯浅泰雄 (1925~2005) Filosofía moderna japonesa y pensamiento existencial
『近代日本の哲学と実存思想』(1970) El Ki, la espiritualidad del autocultivo, el cuerpo  『気、修行、身体』(1986) “The body: toward an Eastern Mind-Body Theory”(1987) El ser cuerpo: La teoría oriental de cuerpo-mente y la actualidad 『身体論 』 (1990)

5       伝統文化    言語 思想史 自己への問い スピリチュアリティ 身体・修行・気 二元論克服 ニューサイエンス 深層心理学・超心理学

6 身体論をめぐる湯浅哲学とスペイン哲学の関係
cuerpo y alma”という表現自体すでに心身 二元論の表れ 西洋思想史においては日常的に「身体」と 「精神」のそれぞれの概念を分けて考え、こ の2つの概念をどのように結合するかを思索 する。この課題をどう克服するか? 心身二元論と唯物的一元論という2つの極論 に対して、第3のあり方を提示。 創発的一元論(monismo emergentista) Pedro LaínEntralgo ( )

7 2. 湯浅泰雄の身体論・修行論をめぐる東西の比較思想
西洋近代哲学:人間は知的な認識主観として捉えられ、身体の問題は無視さ れている→ デカルトの物心二分法 (「精神」と「物質」をはじめから区別) 儒教、仏教などの東洋の伝統思想を基盤とした近代日本の哲学:身体への 関心と着眼がある。→身体への関心と着眼の根底にあるのが「修行」や「行」 の考え方 東洋の哲学的思索の基礎には、修行や行における個の身心変容体験が据 えられていることに注目しなければならない。

8 「心と身体の一体不可分性」においては、東西問わず、明らかなこととして捉え られている。 ベルグソン、メルロ・ポンティなどの現象学・身体哲学
「心と身体の一体不可分性」においては、東西問わず、明らかなこととして捉え られている。 ベルグソン、メルロ・ポンティなどの現象学・身体哲学 しかし、「心と身体の不可分性は、どういう意味において、またどういう考え方に 従って主張されるのか」という点について考えなければならない 。 「修行」の問題。 東洋における身体論で問題の出発点:「修行」という実践のプ ロセスにおいていかに身心が変容していくかという問題 キリスト教を中心とした西洋伝統思想においては、その実践を超えた究極的次 元にあるもの(本質)は何か、という問いが哲学的思索の出発点に据えられる ことが多い キリスト教の霊性や信仰の問題を問うときに、実践課程、すなわち心身の変容の問題に はあまり注目してこなかった、ということが、結果として心身二元論を生み出してしまった のではないだろうか?

9 3.キリスト教における祈りの実践(asceticism)
キリスト教の伝統においては、信仰生活がより向上していくための、内的また は外的生活における努力。 例)修道生活における労働や霊的読書、典礼においての朗読、歌、祈りの行 為 asceticismは、修行の考え方に比べると、身体よりも精神面や霊における向上 が強調されている?

10 Raimon Panikkar Alemany(1918-2010)
1918年  カタルーニャ州、バルセロナに生まれる。 1946年 司祭叙階(オップス・ディ)  1954年~1966年 インドに滞在(キリスト教・ヒンドゥ―教、仏教の共生) 1966~1987年  カリフォルニアの大学で比較宗教学を教える 1987年 カタルーニャ州Tavertetに活動の拠点を置く 1989年 異文化間研究所(Vivarium)設立 「私はキリスト教から脱し、しかしクリスチャンであり続けながらヒンドゥー教に出会い、仏教に立ち返った」

11 パニカーの主要な著作 Religión y religiones, Gredos (1965)
El silencio del Buddha. Una introducción al ateísmo religioso, Siruela(1996) Iconos del misterio: La experiencia de Dios, Barcelona, Penísula (1998) Invitación a la Sabiduría, Espasa Calpe (1998) Mito, fede ed ermeneutica. Il triplice velo della realtà,Milano, Jaca Book(2000) L’incontro indispensabile: Dialogo delle religioni, Milano Jaca Book(2001)

12 4. パニカーにおける神話(mito)信仰(fe)解釈学(hermenéutica) (R
4. パニカーにおける神話(mito)信仰(fe)解釈学(hermenéutica) (R. Panikkar, Mito, Fe, y Hermenéuticaより) 神話、信仰、とその解釈とは一体不可分の関係にあり、triple relación cosmoteándrica、relación entre las tres dimensiones: cósmica, divina y humana. (宇宙的次元、神的次元、人間の次元との間にある三角的・循環的関係)を表している Mito:el mito no es el objeto del discurso, sino la expresión de una consciencia sui generis 「神話は論証の目的になり得ず、意識のひとつの在り方、sui generis の表れである」。 El mito es transparente como la luz, y la historia mítica es solamente la forma, el revestimiento con el que el mito es expresado, envuelto, iluminado 神話とは「光のように透明であって神話の歴史とは、形相(forma)であり、表され、包み 込まれ、光に照らされる外形」 なのである。

13 体験(experiencia)と神話とは、本来、それ以上還元できないものである。 (irreductibilidad primordial)
Fe(信仰): el vehículo mediante el cual la consciencia humana pasa del mythos al logos. 信仰とは、人間の意識がmythosからlogosに移行していくまでの道を示している Creer no es poseer una fe del mismo modo en que se posee un objeto de conocimiento; es simplemente el acto de creer 信じることとは、認識の対象を所有するようにある信念を所有することではなく、 純粋に信じるという行為である。

14 La incompatibilidad entre el cognitum y creditum
「認識されていること」と「信じられていること」は両立しない Sabemos que creemos, pero no sabemos en qué creemos 「私たちは信じていることを知っているが、何について信じているのかについては 知らない」 El Dios de la fe es un símbolo, no un concepto 信仰における神とは、シンボルであり、概念ではない Dios no puede ser objeto ni de conocimiento ni de creencia alguna. La palabra Dios es un símbolo que se revela y vela en el mismo símbolo del que se habla. 神とは、対象化されるものではなく、知識でもなく、ある特定の信念でもない。「神」 という言葉は語られる中に見え隠れするシンボルである。(Iconos de misterio:28)

15 Un símbolo no es otra cosa sino el símbolo de lo que aparece en el simbolo y como símbolo.
シンボルは、シンボルにおいて、あるいはシンボルとして顕れるもの以外の何 でもない。 Un símbolo que requiera una interpretación ya no es un símbolo vivo. Se ha cinvertido solamente en un signo. 解釈を必要とするシンボルは単なる記号となり、もはや生きたシンボルではなく なってしまうのである。

16 Hermenéutica(解釈学): La hermenéutica es el arte y la ciencia de la interpretación, de generar un sentido, de hacer significativo, de devolver los símbolos a la vida y finalmente de dejar emerger nuevos símbolos. 解釈学hermenéuticaとは、意味を生み出し、意味を構築し、新たなシンボルを生 み出す解釈の技であり、科学である。 解釈学の方法論:morfológica(形態論),diacrónica(通時態、時間を超え て),diatópica

17 5. 神話・信仰を現実に活かすわざとしての身心変容
5. 神話・信仰を現実に活かすわざとしての身心変容 神話によって与えられ、解釈(ロゴス)によって発見された(意味づけされた)、 私たちの世界。 神話とは、様々な伝統文化的背景を持つ私たちの、それぞれの信仰におい て体験される、霊的な次である。 この霊的な次元を、私たちの生活に具体的な形で生かしていく技が、 hermenéutica である。(典礼における祈り、朗読、歌うという行為において具 体化すること?)

18 6.おわりに 神話において照らされる「真の知」をどのように実現していくか
La sabiduría es el arte de la vida. 英知は生き方の術である La sabiduría es un savoir vivre, donde savoir no es un saber sobre la vida, sino experiencia plena de la vida. 英知とは、生きることを知ることであり、それは人生について知ることではなく、 生きることへの満ち足りた体験である。                   (R. Panikkar, Invitación a la sabiduría, 9)


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