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拒食症を どのようにみるか ――ラカン派の拒食症論と主体の問題

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1 拒食症を どのようにみるか ――ラカン派の拒食症論と主体の問題
2012年12月8日 第2回東京精神分析サークル主催コロック@駒沢大学 拒食症を どのようにみるか ――ラカン派の拒食症論と主体の問題 松本卓也(自治医科大学精神医学教室)

2 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 本日のアウトラインをお示しします。まずはじめに拒食症の歴史を振り返りながら、そこに現れる主体の問題に軽く触れていきます。次に、ポスト・フロイト派の議論、つづいてラカンによる拒食症への言及をみていきます。そのあとで、ラカン派の拒食症論をこの1-5のテーマごとに整理していきたいとおもいます。

3 拒食症の歴史 1694年、リチャード・モートン 「神経性消耗症」 1873年、シャルル・ラセーグ 「ヒステリー性食欲不振」
1694年、リチャード・モートン 「神経性消耗症」 1873年、シャルル・ラセーグ 「ヒステリー性食欲不振」 1874年、ウィリアム・ガル 「アノレクシア・ネルヴォーザ」 拒食症、つまり現代では摂食障害や神経性食欲不振症と呼ばれる疾患ですが、歴史上、これを始めて病として記述したのは、1694年のリチャード・モートンによる「神経性消耗症」であると言われます。しかし、この病が大きく注目されるようになるのは、19世紀のことです。フランスではシャルル・ラセーグが1873年に、イギリスではガルが 1874年に、この病を記述しているのです。なかでも、ラセーグの記述には、その精密さ、治療的視点もさることながら、拒食症の症状をヒステリーにみられるような象徴的なもののなかで捉えようとした点で、精神分析を参照する私たちにとって非常に興味深いものと思われます。

4 ラセーグは拒食症をヒステリーとの関係から見た
「ところで我々には、声がしゃがれ、様々な苦痛を感じることな しには話すことができない失声症の患者を観察する機会が、拒 食を伴った消化不良の人に会う機会と同じくらい頻繁にあった。 私がいま言及したこの特徴は、ヒステリー状態以外にも見出す ことができるのだろうか?」   (Lasègue, C.: De l'anorexie hystérique. Archives Générales de Médicine, 1873.) ラセーグは、喉頭に明らかな病変が認められない失声症にみられる「話すことの不能さ(incapacité)」と拒食症にみられる「食べることの不能さ」の等価性に注目しているのです。たとえばその例となる一文を示します。「ところで我々には、声がしゃがれ、様々な苦痛を感じることなしには話すことができない失声症の患者を観察する機会が、拒食を伴った消化不良の人に会う機会と同じくらい頻繁にあった。私がいま言及したこの特徴は、ヒステリー状態以外にも見出すことができるのだろうか?」

5 フロイト 「催眠による治癒の一例」 (1892-3) ある母親は、第一子が誕生したときに拒食症となり、乳も出なく なり、二週間後には授乳を中断せざるを得ない状態に陥る さらに三年後、第二子が生まれると、同じ障害がふたたび現れ る フロイトはこの症例を催眠暗示によって治療 「食べる=授乳する」という象徴的な等式 (Freud, S.: Ein Fall von Hypnotischer Heilung - Nebst Bemerkungen Über Die Entstehung Hysterischer Symptome Durch Den ‘Gegenwillen’) フロイトはどうでしょうか。フロイトは、拒食症を主題とすることはほとんどありませんでした。しかし、それでも他の病態と同じように、拒食症の症状がもつ象徴的価値に注目を払っていました。たとえば、1893年に発表された「催眠による治癒の一例」という論文があります。この論文では、ある母親の症例が取り上げられています。この母親は、第一子が誕生したときに拒食症となり、乳も出なくなり、二週間後には授乳を中断せざるを得ない状態に陥りました。さらに三年後、望んでいた第二子が生まれると、同じ障害がふたたび現れます。フロイトはこの症例を催眠暗示によって治療していますが、そのなかで、「食べる=授乳する」という象徴的な等式が引き出されているのです。

6 DSM-IV-TRによる「神経性無食欲症 」
307.1 神経性無食欲症(Anorexia Nervosa) A.年齢と身長に対する正常体重の最低限、またはそれ以上を維持 することの拒否(例:期待される体重の85%以下の体重が続くような 体重減少;または成長期間中に期待される体重増加がなく、期待さ れる体重の85%以下になる) B.体重が不足している場合でも、体重が増えること、または肥満す ることに対する強い恐怖 C.自分の体重または体型の感じ方の障害、自己評価に対する体 重や体型の過剰な影響、または現在の低体重の重大さの否認 D.初潮後の女性の場合は、無月経,すなわち月経周期が連続して 少なくとも3回欠如する(エストロゲンなどのホルモン投与後にのみ月 経が起きている場合、その女性は無月経とみなされる)。 一方、現代の精神医学で用いられている操作的診断基準、たとえばDSM-IV-TRでは、拒食症は次のように記述されています。年齢と身長に対する正常体重の最低限、またはそれ以上を維持することの拒否。肥満することに対する強い恐怖。自分の体重または体型の感じ方の障害。無月経。などです。この記述には何か違和感がないでしょうか。

7 「シナのある百科事典」の分類 ? 体重や無月経という客観的なデータと、「恐怖」や「否認」といっ た主体の関与が著しい項目が同列に並置
「(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならさ れたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話しに出てくるもの、(g) 放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違い のように騒ぐもの、(j)数えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛 筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、 (n)とおくから蝿のように見えるもの」 DSMの記載では、体重や無月経という客観的なデータと、「恐怖」や「否認」といった主体の関与が著しい項目が同列に並置されているのです。これはラセーグやフロイトの考えを知る私たちにとっては、自明なことでは決してありません。こうした並置は、ひとつのエピステーメーとは言わないまでも、精神というものに対する私たちの現代の眼差しがどういうものであるかを教えてくれます。フーコーが『言葉と物』の序文で紹介している「シナのある百科事典」の動物の分類に、DSMはどこか似ていないでしょうか。

8 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 次に、ポスト・フロイト派の議論をみてみたいとおもいます。

9 メラニー・クラインと乳房の理論 メラニー・クライン: 全体対象としての母親(一人の個人)とし、 「乳房」という部分対象(身体の一部分)
メラニー・クライン: 全体対象としての母親(一人の個人)とし、 「乳房」という部分対象(身体の一部分) 「良い乳房」と「悪い乳房」の区別 迫害的な不安感。悪い対象を攻撃し、ときには乳房をむさぼり 食い、噛みちぎろうとする             → 「妄想-分裂ポジション」 ( Klein, M.: Some theoretical conclusions regarding the emotional life of the infant.) フロイト以降、拒食症者の主体的な世界はどのように考えられてきたのでしょうか。子供の誕生をふりかえりながら、それを概観してみましょう。メラニー・クラインは、子供が生きている不安定な世界を的確に描いています。クラインによれば、三〜四ヶ月の子供は、母親を全体対象(一人の個人)として捉えることができておらず、母親の「乳房」という部分対象(身体の一部分)に備給を集中させています。この乳房は、子供にとって自分の生理的欲求(空腹)をみたしてくれる良い対象です。しかし、乳房を吸っても十分に母乳がでてこないときがあり、このとき、乳房は子供にとって悪い対象としてあらわれます。こうして、授乳によって欲求が満たされる体験と、うまく授乳できずに欲求不満となる体験を繰り返すことによって、次第に「良い乳房」と「悪い乳房」の区別が生まれます。良い乳房とは、欲求を充足させてくれる愛すべき対象。一方、悪い乳房とは、子供を欲求不満に陥らせる憎むべき対象です。それゆえ、子供は迫害的な不安感を抱き、この悪い対象を攻撃し、ときには乳房をむさぼり食い、噛みちぎろうとします。このような時期をクラインは「妄想-分裂ポジション」と呼んでいます。ここに食事をすることと母子の難しい関係が発見されていると言えます。

10 食べものをめぐるウィニコットの議論 離乳以後の子供にみられる食べものに対する態度は、母親に 対する態度をあらわしている
食べものによって空腹の体感刺激を癒すことと、食事行為のな かで母親からの情緒的満足を受け取ることのあいだの混乱 (Winnicott, D. W.: Appetite and Emotional Disorder. ) ウィニコットは、離乳以後の子供にみられる食べものに対する態度は、母親に対する態度をあらわしていると考えました。つまり、子供が食べものという対象を疑っているときは、実際には母親の愛を疑っていると考えられるというのです。ここでは、食べものによって空腹の体感刺激を癒すことと、食事行為のなかで母親からの情緒的満足を受け取ることのあいだに混乱が生じていると言えます。それゆえ、離乳は両親(とくに母親)に対するある種の反抗的な態度と結びつくことになる。ここに拒食の萌芽が現れていると考えることができるでしょう。

11 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 次に、ラカンが拒食症についてどのように述べたのかを見てみましょう。

12 ラカンの拒食症論 (1) 「個人の形成における家族複合」(1938年) 「動物では、栄養補給の目的が達せられると母性本能が働かなくなる…。 人間では、反対に、離乳を条件づけるのは文化的調整である。…事実、 離乳は…しばしば心的外傷となるのだが、いわゆる神経性無食欲症、経 口的な麻薬嗜癖、胃腸神経症などのその個人的な諸影響は、精神分析 によって原因を明らかにされている。 …生命に関するこの危機は心的機制の危機と二重化されるが、おそらく 弁証法的に解消される最初の危機である。…生命的緊張が精神的意図 として解消されるのだ。この意図によって、離乳は受容されたり拒否され たりする。…この原初的なアンビヴァレンスは、発達の継続を保証する諸 危機において、ますます非可逆的でいっそう高い弁証法的水準にある 心的分化によって解消するであろう。」 ラカンが拒食症をはじめて論じたのは、1938年の事典記事「家族複合」です。まず、読んでみましょう。 「動物では、栄養補給の目的が達せられると母性本能が働かなくなる…。人間では、反対に、離乳を条件づけるのは文化的調整である。…事実、離乳は…しばしば心的外傷となるのだが、いわゆる神経性無食欲症、経口的な麻薬嗜癖、胃腸神経症などのその個人的な諸影響は、精神分析によって原因を明らかにされている。 …生命に関するこの危機は心的機制の危機と二重化されるが、おそらく弁証法的に解消される最初の危機である。…生命的緊張が精神的意図として解消されるのだ。この意図によって、離乳は受容されたり拒否されたりする。…この原初的なアンビヴァレンスは、発達の継続を保証する諸危機において、ますます非可逆的でいっそう高い弁証法的水準にある心的分化によって解消するであろう。」

13 パラフレーズすると… 幼児の発達における離乳の契機の重視
しかし、人間にとっての離乳は、文化的・社会的に定められた 部分を多くもち、それは弁証法的に解決される →  子供と母親の対立、あるいは部分対象と全体対象のあいだ のコンフリクトという二者間の事柄だけではなく、そこには第三 項が常に関わっている 少々入り組んでいるので、パラフレーズします。ラカンは、先にみたクラインやウィニコットのように、幼児の発達における離乳の契機を重要視しています。しかし、この離乳それ自体をさらに問い直さなければならないといいます。というのも、動物ならば離乳は本能に定められたプログラムによって生じるのかもしれませんが、人間にとっての離乳は文化的・社会的に定められた部分を多くもち、それは「弁証法的に」解決されるからです。つまり、子供と母親の対立、あるいは部分対象と全体対象のあいだのコンフリクトという二者間の事柄だけではなく、そこには第三項が常に関わっているという結論になります。では、その第3項とは何か。皆さんご存知の通り、 50年台のラカンの議論はこの第3項を徹底的に議論の俎上に載せていました。

14 ラカンの拒食症論(2) 「治療の指導とその力能の諸原則」(1958年) 「もし〈他者〉〔=母親〕が、子供の欲求についての独自の考えを もって子供に干渉し、〈他者〉がもっていないもの〔=愛〕の代りに、 〈他者〉がもっている息の詰まるようなベビーフードを子供に過度 に食べさせるならば、すなわち、〈他者〉の提供する世話と〈他者〉 の愛の贈与を混同するならば、子供はいつも存在のふところのな かで眠っているわけではない。食べ物を拒否し、自分の拒否を欲 望のように利用するのは、もっとも愛され、もっとも食事を与えられ た子供なのである(神経性食欲不振症)」 1950年代になると、ラカンはこの発想を「欲望の弁証法」として定式化することになります。まずは、ラカンが1958年に書いた、拒食症のもっとも簡潔な説明をみておきましょう。「もし〈他者〉〔=母親〕が、子供の欲求についての独自の考えをもって子供に干渉し、〈他者〉がもっていないもの〔=愛〕の代りに、〈他者〉がもっている息の詰まるようなベビーフードを子供に過度に食べさせるならば、すなわち、〈他者〉の提供する世話と〈他者〉の愛の贈与を混同するならば、子供はいつも存在のふところのなかで眠っているわけではない。食べ物を拒否し、自分の拒否を欲望のように利用するのは、もっとも愛され、もっとも食事を与えられた子供なのである(神経性食欲不振症) 」

15 パラフレーズすると… 乳房 → 子どもの生理的な欲求の満足 母親 → 子どもの愛の要求の満足
乳房 → 子どもの生理的な欲求の満足 母親 → 子どもの愛の要求の満足 しかし、母親は、子供がまだ知りえない謎の規則=法によって、 子供の前に一方的に現れたり不在になったりする 愛情のコミュニケーションが母親に受け取ってもらえず、授乳と いう物質的水準でしか返答が得られなかった場合、ミルクを飲 むことを拒絶する(拒食)、ミルクを吐く(過食、食べ吐き)という 「否定」の身振りを行う   → 母親に対して、物質的水準には還元することができない他 なるもの=欲望(désir)があることを示す 例によって入り組んでいますので、パラフレーズします。先にみたように、授乳をうけている子供が関わる対象には、乳房という部分対象と、母親という全体対象があります。乳房は、子供のもつ生理的な欲求に対応しています。一方、母親は子供のすぐ近くにいることによって、子供に愛を与えてくれるものとして想像されています。しかし、この母親は子供にいつも愛を与えてくれるわけではありません。というのも、母親は、子供がまだ知りえない謎の規則=法(たとえば、睡眠覚醒のリズムや家事による授乳の中断、夫からの呼びかけなど)によって、子供の前に一方的に現れたり不在になったりするからです。この不安定な状況のもと、子供は母親に授乳を要請する(ねだる)と同時に、愛情のコミュニケーションをも要請することによって、母親を自分のすぐ近くに現前させておこうとします。しかし、愛情のコミュニケーションが母親に受け取ってもらえず、授乳という物質的水準でしか返答が得られなかった場合、子供はそのとき自分がつかえる唯一の手段によって母親に対する拒否を示すことになります。その手段とはつまり、ミルクを飲むことを拒絶すること(拒食)、そしてミルクを吐くこと(過食、食べ吐き)です。このような「否定」の身振りによって、子供は母親に対して、物質的水準には還元することができない他なるもの、すなわち欲望(désir)があることを果敢に示すのです。

16 欲望のグラフと拒食症 欲望は、「満足を求める食欲ではなく、愛の要請でもなく、前者から後者の引き算から帰結する差異」 (Ecrits, p.691) 二本の線が混同されると、その間の空間としてあった欲望の領野は消滅 その混同に抗して、子供は「引き算」や「拒絶」として否定的に記述されるほかない何かがこの世に存在することを示す これは「欲望のグラフ」にプロットできます。まず、授乳によって空腹感の解消をもとめる生理的な水準の欲求があります。しかし、この欲求を他者に伝えるためには、それを単語や泣き声という形で、つまり言葉によって表現しなければなりません。言葉によって表現された欲求は、乳房をもとめる要請となります。しかし、要請は一方では母親の愛をもとめる要請でもあり、要請は二重化されています。グラフでは、この二重化された要請が二本の横線で示されています。そして、この二本の線のあいだの空間にあらわれることが可能なものが、欲望なのです。 ラカンは、欲望を「満足を求める食欲ではなく、愛の要請でもなく、前者から後者の引き算から帰結する差異」と定義していますが、この定義の意味は明らかでしょう。子供が泣くのは、空腹のためだけではないし、愛を求めるためだけでもありません。しかし、この泣き声が、授乳という物質的な水準だけで処理されてしまうと、要請の二本の線は一本のものに混同されることになります。すると、二本の線のあいだの空間としてあった欲望の領野は消滅してしまいます。その混同に抵抗して、子供は「引き算」や「拒絶」として否定的に記述されるほかない何かがこの世に存在することを示します。それが欲望です。しかし、母親は往々にしてそのことに気づきません。母親は、子供はミルクが足りないから泣いているのだと考えて、さらにミルクを与えてしまうのです。母親の側のこのような無知を拒食症者は許さず、さらに欲望の存在を示すことに熱中することになります。

17 拒食症者は無を食べる 拒食症者は「食べない(manger rien)」のではなくて、むしろ「無 を食べている(manger “rien”)」
  (Lacan J., Séminaire IV La relation d'objet, p.184.) 無、すなわち対象aを食べ、あらゆる要請が物質的な水準の問 題として処理されてしまう世界に対して、欲望という穴を穿つ ラカンは、拒食症者は「食べない(manger rien)」のではなくて、むしろ「無を食べている(manger “rien”)」と述べています。拒食症者は否定的にしか示すことができない無、すなわち対象aを食べ、あらゆる要請が物質的な水準の問題として処理されてしまう世界に対して、欲望という穴を穿つのです。

18 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 さて、次にラカン派の拒食症論を外観していきましょう。ラカン派の拒食症論というのはそれほど多いわけではないですが、ここで参照するのは、ジャック=アラン・ミレールのセミネール、あるいはイタリアの拒食症を専門とするラカニアンであるマッシモ・レカルカティの著作と論文、そして精神自動症に関する論文で本邦にも知られるヴァンサンの拒食症論、そしてこの度、翻訳書『天使の食べものを求めてー拒食症へのラカン的アプローチ』が出版された、ジネット・ランボーらの著作です。

19 拒食症の発病状況論(1) 1.享楽の場としての性的身体の現実界との遭遇
Recalcati, M.: Triggering determinants in Anorexia. Lacanian ink 30, 2007. 1.享楽の場としての性的身体の現実界との遭遇 2.主体のファルス的・想像的同一化を害する分離体験を伴う喪 の経験との遭遇 3.恋人のディスクールにおける外傷的な加入 4.主体に安定的同一化を保証する想像的カップルの崩壊 5.大他者の享楽への主体の暴露 マッシモ・レカルカティは、拒食症の発病状況をめぐる論文を書いています。その中で彼は、拒食症は次の5つの発病状況によって発病すると述べています。1.享楽の場としての性的身体の現実界との遭遇:たとえば、父のもっていたポルノ雑誌をみた後に発症した神経症の例などが挙げられています。2.主体のファルス的ー想像的同一化を害する分離体験を伴う喪の経験との遭遇:これは、留学や旅行などの大他者からの分離が問題となる状況で発症する類型です。3.恋人のディスクールにおける外傷的な加入:婚約者の裏切りなどによる事例がこれにあたります。もともとの同一化が安定したものではなく、ナルシシズム的に同一化しており、出来事の偶然性に対して脆弱となっていることがその要因とされます。4.主体に安定的同一化を保証する想像的カップルの崩壊:これは精神病の場合です。仲の良い二人組が壊れることによって、他者と同一であることが不可能となったとき、拒食が二人の差異を示すためのものとなるといった事例が挙げられています。5.大他者の享楽への主体の暴露:これは、母親の享楽に対する治療的行為として拒食が働く場合です。例えば、潔癖症の母によって強迫的に洗浄されていた子どもが、痩せることによって洗浄行為を逃れることができた事例が挙げられています。

20 拒食症の発病状況論(2) 神経症と精神病の鑑別が前提 神経症では、発病契機は事後的に作用する 性的出来事の事後性
Recalcati, M.: Triggering determinants in Anorexia. Lacanian ink 30, 2007. 神経症と精神病の鑑別が前提 神経症では、発病契機は事後的に作用する   性的出来事の事後性   「拒食症は象徴秩序のなかに統合されえない現実界との主体の遭遇 の——身体を通じた——回帰として構造化される」 精神病では、(1)精神病の発病に際しての一過性の拒食、(2)すでに 発病した精神病を縫合、ないし代償するものとしての拒食。(3)主体に 新たな想像的同一化を与えて発病が怒らないようにするサントームが 考えられる これらの発病状況の類型化は、神経症と精神病の鑑別診断を前提としています。なぜなら、神経症では、発病契機は事後的に作用するのに対して、精神病では必ずしもそうではないからです。女性として欲望されること、あるいは自分が女性であることを自覚することが、拒食症の発病のきっかけとなっていると思われる症例は数多くみられます。それは、事後性との関連でいうなら、女性にとっての思春期が、みずからの身体が性的なものであることを、後になってから再発見する契機だからと言えます。そのとき、自分がこれまですでに女性の身体を生きていたことに後になって気づかされることになるのです。子供時代にはわずかな働きしかしていなかった性的な経験は、抑圧され隠されています。しかし、思春期になると性的な身体の問題が事後的に活発化しはじめます。このとき、子供時代の〈他者〉、すなわち母親との関係がふたたび問題となり、欲望の問題が急浮上することが、拒食症の主要な発病契機となります。拒食症が思春期の少女に発症しやすいのは、この時期に彼女たちが性の現実界(リアル)に直面するがゆえに「女性らしさとは何か?」「何を欲望するのか?」という問いに直面するからなのです。 一方、精神病では、拒食症の発病は、次のような機能をもっています。(1)精神病の発病に際しての一過性の拒食、(2)すでに発病した精神病を縫合、ないし代償するものとしての拒食。(3)主体に新たな想像的同一化を与えて発病が怒らないようにするサントーム、です。

21 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 次に、拒食症における父性機能の問題をみてみましょう。

22 ≪父の名≫の書き込み 母親の在、不在(+、-)のランダムな交代 → 前駆的な象徴システムの形成 母が欲望するもの = 想像的ファルスの想定
  → 前駆的な象徴システムの形成 母が欲望するもの = 想像的ファルスの想定 父の名の隠喩が介入し、母の欲望を父の名が置き換える 1960年代の理論では、父の名の機能は「疎外と分離」における「分離」と してとらえられるようになる。(cf. 松本卓也「ラカン派の精神病研究」、『思想』 2012年8月号) ラカン派では、子供への象徴的システムの書き込みを二段階で考えます。まず、母親の在、不在、つまり子供の前に母親がいることといないことが、プラスとマイナスの二項対立となり、セリーを形成することによって前駆的な象徴的システムが生じます。これに対して、子供は母親の在不在の交代の理由が何を意味するのかを問い、その答えとして母が欲望するものとしての想像的ファルスを想定するようになります。しかしそれは不安定なシステムなので、ここに父の名が介入し、母の欲望を置き換え、象徴システムを安定化させます。これを父の名の隠喩といい、この隠喩が起こらないことが「父の名の排除」と呼ばれ、これは精神病の構造的条件であるとされます。これが50年代の理論です。60年代の理論になると、この父の名の機能は、「疎外と分離」における「分離」としてとらえられるようになり、「分離の失敗」が精神病の条件となります。)

23 拒食症では≪父の名≫の書き込みが弱い Recalcati, M.: L’ultima cena: anoressia e bulimia 「父の名」のシニフィアンが主体の無意識に十分に書き込まれ ていない 父は力が弱く、ファルスの価値を一切認めない母性的大他者 によって去勢されている 拒食症: 弱い父性隠喩の書き込みを補助するために、独自 の分離(「疎外に対する分離」)を導入する レカルカティは、L’ultima cenaつまり最後の晩餐という著作で、拒食症では「父の名」のシニフィアンが主体の無意識に十分に書き込まれていないことを指摘しています。これは、必ずしも精神病であるというわけではありません。父はいるものの、力が弱く、一方で、母親はファルスの価値を一切認めず、父親や先祖からの歴史をないがしろにしているのです。そういった母性的大他者によって去勢されているのが拒食症なのです。そこで、拒食症者は、弱い父性隠喩の書き込みを補助するために、独自の分離を導入することになります。この特殊な分離の操作を、レカルカティは通常の分離とはく区別して「疎外に対する分離」と呼んでいます。

24 拒食症の「疎外に対する分離」 Recalcati, M.: Les deux «riens» de l’anorexie. Cause freudienne 48, 2001 「拒食症者は逆転の力を示している。つまり、主体と大他者のあいだ の力関係を裏返すのである。…「無を食べること」によって、拒食症者 は大他者のなかに穴を開く。…大他者を去勢へと差し向けるのである。 …欲求という必要性の・生物学的な・自然な次元と、欲望との構造論 的差異を保持するのはこの無である。」 「拒食症者は、大他者との偽-分離pseudo-séparationを遂行すること によって主体の欲望を保持する。これを偽-分離と呼ぶのは、拒食症 者の分離は否定の純粋な活動として、そして大他者への一方的な対 立として燃え尽きるからである。これが、私が「疎外に対する分離」 séparation-contre-aliénationという公式で描写しようとしていることに 他ならない」 拒食症における疎外に対する分離とはどういうものでしょうか。具体的に、レカルカティの記述を読んでみましょう。「拒食症者は逆転の力を示している。つまり、主体と大他者のあいだの力関係を裏返すのである。…「無を食べること」によって、拒食症者は大他者のなかに穴を開く。…大他者を去勢へと差し向けるのである。…欲求という必要性の・生物学的な・自然な次元と、欲望との構造論的差異を保持するのはこの無である。」「拒食症者は、大他者との偽-分離pseudo-séparationを遂行することによって主体の欲望を保持する。これを偽-分離と呼ぶのは、拒食症者の分離は否定の純粋な活動として、そして大他者への一方的な対立として燃え尽きるからである。これが、私が「疎外に対する分離」séparation-contre-aliénationという公式で描写しようとしていることに他ならない」 つまり欠如のない母性的大他者に対して、ひとつの欠如を導入することによって、欲望の次元をみずから創設するのが、疎外に対する分離なのです。

25 両親への依存を脱却すること Vincent, T.: L’Anorexie. 2006.
「拒食症に入ることは、つねに両親のまなざしへの疎外を拒絶 することを示している」 拒食症の標語 「私は自分自身で脱出する/なんとかする(Je m’en sortirai par moi-même)」 ラカン: 子どもは拒食によって母親を自身に依存させることが できる。拒食は、母の全能に対して主体が行使できる唯一の 「否」 (Lacan J., Séminaire IV La relation d'objet, p.184.) ほぼ同じことを、ヴァンサンは両親への依存という観点から検討しています。「拒食症に入ることは、つねに両親のまなざしへの疎外を拒絶することを示している」と彼は述べています。さらに、拒食症の標語は「私は自分自身で脱出する/なんとかする(Je m’en sortir par moi-même)」であると言います。つまり、両親の欠如のない要求の網の目のなかに完全に疎外されている状態から、自ら欠如をうがつことによって脱出するのです。ラカン自身も、拒食症と母親への依存の関係について言及していました。それによれば、子どもは拒食によって母親を自身に依存させることができるといいます。それは、拒食は、母の全能に対して子供の主体が行使できる唯一の「否」であるからです。

26 拒食症者の家族神話(1) Raimbault, G. & Eliacheff, C.: 『天使の食べものを求めて—拒食症への ラカン的アプローチ』(三輪書店、2012年刊) 「拒食症者は、血縁関係の社会的伝達と精神的伝達を身体的 に問うている。人間が〈父の名〉の機能によって印づけられるた めには、この象徴的な位置が母親にとって存在していなけれ ばならない」 「私たちが強調したいのは、単に母親が父親という人間をどの ように甘受しているかではなく、いわば父親の語り(パロール)に 対して、言い換えれば父親の権威に対して母親が与えている 評価を検討すべきであるということである。言いかえると、母親 が法の昇進において〈父の名〉のために残しておく場所を検討 すべきであるということだ 」 (Lacan, J.: Ecrits. p.579) ここまでの議論をまとめると、拒食症では、父の名という歴史性をもつ書き込みが弱く、さらに現実の両親がそうした象徴的秩序をないがしろにしています。加えて、両親は自分たちの世代の論理で子供を疎外しています。この疎外に対して、拒食症者は抵抗し、現実の価値だけしかみようとしない両親の論理に欠如を穿ち、偽の分離を行い、それによって父の名がもつ歴史的な機能を問い返そうとしているのです。ランボーらは、そのような事態を次のように論じています。「拒食症者は、血縁関係の社会的伝達と精神的伝達を身体的に問うている。人間が〈父の名〉の機能によって印づけられるためには、この象徴的な位置が母親にとって存在していなければならない」。これは、まさにラカンが父の名について述べた事柄と同じものです。つまり、母親が〈父〉のパロールにどれだけの価値を与えているのかが重要だ、ということなのです。

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28 拒食症者の家族神話(2) 子供は誕生以前からすでに「家族の物語」のなかに書き込まれ ている
先に亡くなった誰かの「代わり」としての位置が与えられること。 死者が弔われておらず、その死者の代わりをさせられること   → 拒食症者は、「2つの死の間」のフィギュールを体現する 家族の要求の網の目のなかに囲い込まれること。欠如が存在 しないこと   → 無への欲望(何も食べないこと)は、彼女たちにとって象徴 的なもののなかで生きる唯一の手段となる。欲望に関して譲ら ないこと。 『天使の食べものを求めて』では、こうした家族の歴史、家族神話の観点から拒食症が分析されています。まず、拒食症であろうとなかろうとも、子供は、その誕生以前からすでに「家族の物語」のなかに書き込まれているということができます。例えば、「今度は男の子が欲しいね」「名前は何にしよう」「こういう子供に育つといいな」といった両親や親族の話によって子供の象徴的な位置は先取りされているのです。さて、 『天使の食べものを求めて』で著者らが指摘する、拒食症者に与えられている典型的な象徴的位置とは、「先に亡くなった誰かの代わり」という位置です。これは例えば、先に亡くなった者と同じ名前をつけたり、新しく生まれてきた子供を誰かの生まれ変わりとみなしたり、そういった状況が考えられるでしょう。そうなると、先に亡くなった死者は弔われておらず、子供は生きながらにして死者の代わりとして生きることになるのです。こうして、拒食症者はラカンのいう「2つの死の間」のフィギュールを体現するようになるのです。こうして家族から役割を規定されて生まれてきた子供は、家族の要求の網の目のなかに囲い込まれ、そこには欠如が存在しないようになります。このとき、無への欲望(何も食べないこと)は、彼女たちにとって象徴的なもののなかで生きる唯一の手段となるのです。これはラカンが倫理のセミネールのなかで示した「欲望に関して譲らないこと」のひとつの姿であると言えます。

29 アンティゴネーの家族神話と拒食症(1) 『オイディプス王』: 〈法〉から逃れようとする主体。しかし、〈法〉 はむしろその逃走のなかに運命を刻みこむ 『コロノスのオイディプス』: 〈法〉に従って自らの運命につきす すむ主体 『アンティゴネー』: 父オイディプスの志をうけつぎ、共同体の 法よりも、書かれてはいない〈法〉を尊重する。〈法〉をないがし ろにしてはいけない、と共同体に徹底抗戦する主体   「おまえの法が、人に神の法を犯すのを許すほどに大きな力を 持つとは、まず思えぬ。神の法は書かれていない法だが、それ に触れることはできぬ」 こうした家族の歴史のなかにおける拒食症者のあり方の実例を、ランボーらも取り上げているアンティゴネーの例を使いながらみてみましょう。アンティゴネーの物語は、その父オイディプスの話から始まる3部作として記述されています。話の筋はみなさんご存知でしょうから、象徴的法との関係からこの3部作を整理してみます。オイディプス王では、〈法〉から逃れようとする主体オイディプスが描かれます。しかし、〈法〉はむしろその逃走のなかに運命を刻みこむことになります。つまり彼は父を殺し、母をめとるという予言から逃れるために祖国をさるのですが、その道中で、自分のほんとうの父親に出会い、彼を殺してしまうのです。 ≪法≫ を避けようとした結果として、 ≪法≫の実現をみるわけです。つづいて『コロノスのオイディプス』で描かれているのは、周囲の様々な妨害に負けず、みずからが受けた神託という〈法〉に従って自らの運命につきすすむ主体オイディプスです。『アンティゴネー』は、父オイディプスの志をうけつぎ、共同体の法よりも、書かれてはいない〈法〉を尊重します。彼女は、〈法〉をないがしろにしてはいけない、と共同体に徹底抗戦する主体なのです。国王は、法律で定められているということを理由にアンティゴネーの兄の埋葬を認めないのですが、アンティゴネーは家族を弔うことは共同体の法律よりもずっと重大な、神の法に属することであると、次のような厳しい口調で国王に反論するのです。「おまえの法が、人に神の法を犯すのを許すほどに大きな力を持つとは、まず思えぬ。神の法は書かれていない法だが、それに触れることはできぬ」

30 アンティゴネーの家族神話と拒食症(2) クレオンのアンティゴネ―への言葉(ラカンが引用するバージョン)
  「地下の神々への忠誠がお前にどう役に立つかが解るだろう。お 前には死者たちに捧げられる供物という食べものがある。それで、 どれだけお前が生き延びられるか解るだろう」(780行)   アンティゴネー=拒食症者の行為は次の3つの価値を集約する       1.父から受け継いだ象徴的な〈法〉を守ること       2.死者の弔いをすること       3.自ら「2つの死の間」を体現すること さて、アンティゴネーのこのような姿は、象徴的なものの価値を認めない両親に対する拒食症者の姿とよく似ています。さらに、国王クレオンがアンティゴネー大して述べた次のような言葉は、彼女が拒食症的な主体であることを暗示してはいないでしょうか。これはラカンが倫理のセミネールで引用しているバージョンです。 「地下の神々への忠誠がお前にどう役に立つかが解るだろう。お前には死者たちに捧げられる供物という食べものがある。それで、どれだけお前が生き延びられるか解るだろう」 ですから、拒食症者としてのアンティゴネーの行為は次の3つの価値を集約するものであると考えることができます。1つ目は、父オイディプスから受け継いだ象徴的な〈法〉を守ること、2つ目は死者、つまり兄弟の弔いをすること、3つ目は、自ら「2つの死の間」を体現すること。この3つです。

31 アンティゴネーの家族神話と拒食症(3) 不毛性=不妊症(stérilité) というシニフィアンの反復
『オイディプス王』 国家を襲った干魃、すなわち作物の不毛性 『アンティゴネー』 子を産まずに死んでしまうことを嘆く  → オイディプスの父ライオスは、ペロプスの息子クリュッシポス に二輪馬車の操縦を教えているうちに、この若者に恋をし、同 性愛的強姦を行う。その結果、クリュッシポスは死んでしまう。 ペロプスは、ライオスに対して、彼の一族が根絶やしになるよう に断罪する呪詛を放つ。ラブダコス家の遺伝子は、これ以上続 いてはならない… さらに、ランボーらは『天使の食べものを求めて』の中で、オイディプスの家系ラブダコス家の家族の歴史をさかのぼり、その家族神話を分析しています。そこで見出されたのは、オイディプスの物語における「不毛性=不妊症(stérilité)」というシニフィアンの反復です。つまり、『オイディプス王』は国家を襲った干魃、すなわち作物の不毛性から話が始まり、『アンティゴネー』は子を産まずに、つまり不妊のままで死んでしまうことを嘆くアンティゴネーの姿で終わるのです。この不毛性はさらに遡ることができます。オイディプスの父ライオスは、ペロプスの息子クリュッシポスに二輪馬車の操縦を教えているうちに、この若者に恋をし、同性愛的強姦を行っていました。その結果、クリュッシポスは死んでしまいます。ペロプスは、ライオスに対して、彼の一族が根絶やしになるように断罪する呪詛を放っていたのです。ラブダコス家の遺伝子は、これ以上続いてはならない…、と。

32 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 さて、ここまで聞いてくださった皆さんは、過食症はどうなんだ、という疑問をもったこととおもいます。摂食障害の病態は、現代は過食型や、拒食と過食を繰り返すタイプなど様々になっており、過食を示すタイプのほうが重症度が高いなどと言われています。ラカン派では過食症をどのようにみるのでしょうか。

33 拒食症:過食症=「いいえ」:「はい」 Recalcati, M.: L’ultima cena: anoressia e bulimia 「主体が大他者に直面したときには、然りsì(過食症)と否no(拒 食症)の2つの方法がある。拒食症者は否!と言い、大他者か らの分離の原則を導入する。一方、過食症者は主体を大他者 に、つまり大他者の意志に引き渡すようにみえる」 レカルカティは、拒食症と過食症を、欠如のない大他者に主体が直面したときにとりうる、主体の2つの態度であると考えています。「主体が大他者に直面したときには、然りsì(過食症)と否no(拒食症)の2つの方法がある。拒食症者は否!と言い、大他者からの分離の原則を導入する。一方、過食症者は主体を大他者に、つまり大他者の意志に引き渡すようにみえる」 拒食症者の世界は、欲望という欠如を認めない両親によって、空虚のない要求でいっぱいになっています。過食症は、この要求の充満性に自ら従属し、自らを飽和させるのだということができるでしょう。

34 ボードリヤールの肥満論 「肥満はまるで肉体が外の世界とは対立せず、逆に空間をまる ごと消化しようと試みてきたかのごとくだ。…その結果肥満はも はやなにも気にせず、コンプレックスも忘れ、無造作にまるで自 己の理想さえなかったかのごとく生き続ける。」   Baudrillard, J.: Les Stratègies fatals このような見方は、ボードリヤールが肥満について述べた事柄ともよく似ています。「肥満はまるで肉体が外の世界とは対立せず、逆に空間をまるごと消化しようと試みてきたかのごとくだ。…その結果肥満はもはやなにも気にせず、コンプレックスも忘れ、無造作にまるで自己の理想さえなかったかのごとく生き続ける。」

35 拒食症:過食症=分離:疎外 Laurent, É., Miller, J-A.: L’Autre qui n’existe pas et ses Comités d’éthique. 「JAM:言うなれば、拒食症は分離の側にあると公式化することもできる でしょう。…実際、過食症はむしろ疎外の側にあります。そのうえ、過 食症は社会的関係における主体をそれほど切断しません。一方、拒 食症はそれを極限まで行うのであり、これが拒食症の全面にあらわれ てきています。それは、まさに大他者の拒絶であり、特に栄養を与えて くれる母親の拒絶です。… EL:そうですね、その拒食症の問題に関しては、ラカンは治療の方針 の論文のなかで、「生の脳みそを食べる男」を神経性食欲不振症とし て語っています。この症例は、疎外の拒食症の一種でしょう。彼はシス テムのなかに捉えられています。実際、拒絶、つまり栄養を与えてくれ る母親に対して「否」というような、母から分離するのとは違うタイプの 拒食症があるのです。」 (21 mai 1997) 「過食症を拒食症のひとつの派生形態として位置づける」 (28 mai 1997) ジャック=アラン・ミレールとエリック・ローランは、1997年のセミネールのなかで、拒食症と過食症を、それぞれ分離と疎外として位置づけています。わかりやすいのでちょっと読んでみましょう。「JAM:言うなれば、拒食症は分離の側にあると公式化することもできるでしょう。…実際、過食症はむしろ疎外の側にあります。そのうえ、過食症は社会的関係における主体をそれほど切断しません。一方、拒食症はそれを極限まで行うのであり、これが拒食症の全面にあらわれてきています。それは、まさに大他者の拒絶であり、特に栄養を与えてくれる母親の拒絶です。…EL:そうですね、その拒食症の問題に関しては、ラカンは治療の方針の論文のなかで、「生の脳みそを食べる男」を神経性食欲不振症として語っています。この症例は、疎外の拒食症(…つまり過食症)の一種でしょう。彼はシステムのなかに捉えられています。実際、拒絶、つまり栄養を与えてくれる母親に対して「否」というような、母から分離するのとは違うタイプの拒食症(つまり過食症)があるのです。」 先にレカルカティが拒食症を「疎外に対する分離」として位置づけていましたが、ミレールらの見方もそれとよく似ており、拒食症の主体を分離の只中にあるものとしてみています。そして、過食症はむしろ疎外に従属するのです。ミレールらは、「過食症を拒食症のひとつの派生形態として位置づける」ことを提案しています。

36 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 次に、拒食症と精神病との関係を簡単にみておきましょう。

37 拒食症における神経症と精神病――2つの無 Recalcati, M.: Les deux «riens» de l’anorexie. Cause freudienne 48, 2001 神経症: 「拒食症者は逆転の力を示している。つまり、主体と大他者 のあいだの力関係を裏返すのである。無によって、「無を食べること」 によって、拒食症者は大他者のなかに穴trouを開く。そして、おそらく は大他者を去勢へと差し向けるのである」(再掲) 精神病: 大他者の欲望ではなく、享楽が問題となる。大他者の根源 的な拒絶。オロフラーズの特徴を示す。無の欲望ではなく、欲望を無 に還元する。無機栄養の、無-性の、ファルスや去勢との関係を持た ないような享楽の様態。自己の純粋の消滅。涅槃原理   → ラカンが『家族複合』で「死の食欲」「幼生の欲望」と呼んだもの ここまで確認してきたように、拒食症は、父性機能の書き込みが弱いとはいえ、基本的には神経症の近縁にあるものです。しかし、レカルカティは、精神病の構造における拒食症も、とりわけ重症例に存在することを指摘しています。そして彼は、この2つの拒食症の違いを、それぞれが直面する「無」の2つのあり方によって明確化しています。まず、神経症では、拒食症者は「無を食べること」によって、大他者のなかに穴を開き、去勢します。そうすることによって、大他者への依存を克服し、力関係を逆転させようとするのです。一方、精神病では、もはやこうした大他者の欲望は問題となってはいません。そこで問題となっているのはむしろ享楽の水準です。これは、大他者の根源的な拒絶を示し、シニフィアンにおいてはオロフラーズの特徴を示します。さらに、欲望に関しては、神経症のような無の欲望ではなく、むしろ欲望を無に還元するようなあり方です。こうして、自己の純粋の消滅や、涅槃原理といったものにたどりつくものが精神病構造の拒食症であるとレカルカティは述べています。

38 本日のアウトライン 拒食症の歴史と主体の問題 ポスト・フロイト派の議論(クラインとウィニコット) ラカンの拒食症論
ラカン派の拒食症論(1) 発病状況論 ラカン派の拒食症論(2) 父性機能の問題 ラカン派の拒食症論(3) 拒食症と過食症 ラカン派の拒食症論(4) 拒食症と精神病 ラカン派の拒食症論(5) 拒食症と現代社会 最後に、現代社会と拒食症の関係をみながら、主体の問題を探るいとぐちを見出していきましょう。

39 Thinspiration pictures (http://thinspiration-pictures.blogspot.jp/)
インターネット上に日々投稿されている、シンスピレーションという種類の画像があります。シンスピレーション、つまり細身の写真を示し、それによってインスピレーションを与えるものです。これは拒食症当事者やダイエットの実践者たちによって自主的に行われている活動の一貫で、欧米を中心にかなり盛んにみられる文化現象であるといえます。

40 拒食症は必ずしもモードではない Raimbault, G. & Eliacheff, C.: 『天使の食べものを求めて—拒食症への ラカン的アプローチ』 聖カテリーナ、オーストリアの女帝シシィ、アンティゴネー、シ モーヌ・ヴェイユといった歴史上(伝説上)の人物を取り上げる 拒食症というあり方を、ある種の超時代的な、主体のひとつの 存在様式とみなす 既成の秩序、欠如を欠いた充満に、身体を賭して欠如をきざ みこむ さて、こうした現代的な現象がありつつも、ランボーらは、「拒食症は必ずしもモード、流行ではない」と言います。それは、この著作のなかで聖カテリーナ、オーストリアの女帝シシィ、アンティゴネー、シモーヌ・ヴェイユといった歴史上(伝説上)の人物が拒食症として取り上げられていることからもわかるように、拒食症というあり方を、ある種の超時代的な、主体のひとつの存在様式とみなすからです。つまり、既成の秩序、欠如を欠いた充満に、身体を賭して欠如をきざみこむような主体は、時代を超えて存在してきたと考えるのです。

41 現代における欠如の無視 ――資本主義のディスクール
Recalcati, M.: L’ultima cena: anoressia e bulimia 資本主義のディスクール: 失われた対象があるが、それを喪 失とせずに享楽をリサイクルする。このサイクルを維持するため にだけ、絶えず欠如を、匿名の商品を生産し続ける。 「拒食症者は、少なくとも一方では消費の論理に背き、何も消 費しない。この観点から、欲望の可能な飽和というポスト資本主 義の観念が見出される。痩せていることは頑固であるが、それ は消費のシステムのなかで再利用されえない欠如の徴候を示 しているのである」 もし、拒食症が現代に増えてきているとすれば、それは大他者が、拒食症者が徹底抗戦するようなものに変容してきているからではないでしょうか。レカルカティは、1970年代のラカンが「資本主義のディスクール」と呼んだものと、拒食症の関係を問うています。資本主義のディスクールというのは、有名な4つのディスクールが変奏されたものです。そこには、通常の主人のディスクールと同じように、失われた対象がありますが、その対象はもはや喪失ではありません。次から次へと商品が提供されることによって、享楽はどんどんリサイクルされていくのです。そして、このサイクルを維持するためにだけ、絶えず欠如を、匿名の商品を生産し続けるのです。こういった循環的システムのことをラカンは資本主義のディスクールと呼んだのでした。このディスクールから拒食症を考えたレカルカティは次のように述べています。「拒食症者は、少なくとも一方では消費の論理に背き、何も消費しない。この観点から、欲望の可能な飽和というポスト資本主義の観念が見出される。痩せていることは頑固であるが、それは消費のシステムのなかで再利用されえない欠如の徴候を示しているのである」 つまり、物が飽和するようにあふれる資本主義の世界に、拒食症者は欠如をもって抵抗しているとみることができるのです。

42 資本主義のディスクールと過食症 Recalcati, M.: L’ultima cena: anoressia e bulimia 「過食症は資本主義のディスクールを完璧に受肉化している」 「吐くことを繰り返すことは対象の非一貫性を示すこと、そして あなたには根源的には何も残っていないのだということを示す ことに他ならない」 反対に、過食症は資本主義のディスクールを完璧に受肉化するものといえます。「吐くことを繰り返すことは対象の非一貫性を示すこと、そしてあなたには根源的には何も残っていないのだということを示すことに他ならない」とレカルカティは述べています。さきほどのボードリヤールの指摘とも通底しています。

43 拒食症者のヒロイズム? Recalcati, M.: L’ultima cena: anoressia e bulimia. 1997.
「一方では彼女は消費の論理に否と言い、欲望を生かし続ける。 しかし一方で、彼女は自ら母親になり、豊満な身体のフェティッ シュ化されたイメージの享楽を具現化したり、他者が消費する という享楽を見ようとしたりするのである(拒食症者―過食症者 においてもっとも有名な行動として知られているものの一つに、 他者のために食事を準備して、自分は他者が消費するのをみ て、窃視的光景の外側に居続ける、というものがある)。彼女が 動かしがたい欲望は、真に転覆的であるというわけではなく、 実際には弱さをみせている。彼女のなかの欲望は、…ラカンが 「精神分析の倫理」で、多少の批判とともに述べたような「善の 奉仕」である。」 では、拒食症者は現代の資本主義システムに対して革命を企てる英雄なのでしょうか。レカルカティは、必ずしもそうではないと言います。 「一方では彼女(拒食症者)は消費の論理に否と言い、欲望を生かし続ける。しかし一方で、彼女は自ら母親になり、豊満な身体のフェティッシュ化されたイメージの享楽を具現化したり、他者が消費するという享楽を見ようとしたりするのである(拒食症者―過食症者においてもっとも有名な行動として知られているものの一つに、他者のために食事を準備して、自分は他者が消費するのをみて、窃視的光景の外側に居続ける、というものがある)。彼女が動かしがたい欲望は、真に転覆的であるというわけではなく、実際には弱さをみせている。彼女のなかの欲望は、…ラカンが「精神分析の倫理」で、多少の批判とともに述べたような「善の奉仕」である。」  このような見解をとると、拒食症者は資本主義に対して欲望を絶対に譲れないものとして守りつつも、一方では消費のシステムに自ら依存する両義的な存在と考えることもできます。

44 アンティゴネーでありながらクレオンであることは如何にして可能か?
  一方、Raimbault, G.らは、Recalcatiが指摘するような母親を内 在化する拒食症の症例はむしろ特殊例だと考えている   「シシィは、母親であると同時に拒食症者でもあった。シシィは、 私たちが通常は2世代にわたって認めるもの、つまり母親と拒 食症の娘の二人を、一身に集中させているのである。」   (Raimbault, G. & Eliacheff, C.: 『天使の食べものを求めて—拒食症 へのラカン的アプローチ』) 一方、ランボーらは、レカルカティが指摘するような、母親を内在化するような拒食症の症例は、むしろ特殊例と考えているようです。『天使の食べものを求めて』で取り上げられるシシィは、母親であると同時に拒食症者でもあったとされます。つまり、シシィは、通常の拒食症では2世代にわたって認められる、母親と拒食症の娘の二人を、一身に集中させているとかんがえられるのです。それは、恣意的な法を、「法は法である」という理由だけで押し付けるクレオンと、絶対的な神の法を尊重しようとするアンティゴネーが一身に同化するような人物像であるといえるでしょう。

45 アンチ・マーケティング(1) 拒食症者は自分の家庭環境を「欲望のない世界」のように描写 する。決まりきった仕事と義務だけが支配する、乾燥した物質 的な世界 現代社会は「欲望のない世界」? いまや、あらゆる仕事は効 率の論理によって支配され、そこには文字通り「遊びがない」 マーケティングとは、欲求から導き出せる論理ですべてを解決 できると考え、またそうすることが幸福につながると考え、さらに は欲望すら計算可能なものとして扱うことによって、他なるもの としての欲望を無視する思想 拒食症者が述べる自分の家庭環境は、私たちが生きる現代社会とよく似ています。拒食症者は自分の家庭環境を「欲望のない世界」と描写するのです。それは、決まりきった仕事と義務だけが支配する、乾燥した物質的な世界です。この意味で、現代社会は「欲望のない世界」といえるのではないでしょうか。つまり、いまや、あらゆる仕事は効率の論理によって支配され、そこには文字通り「遊びがない」 のです。これを支配しているのは、マーケティングの思想であると私は考えます。マーケティングとは、どこの誰がどんなものを欲しがっているかということをデータとして扱います。そういった人間の生理的欲求から導き出せる論理ですべてを解決できると考え、またそうすることが幸福につながると考えるのがその思想です。マーケティングは、さらには欲望すら計算可能なものとして扱うことによって、他なるものとしての欲望を無視します。最近では東浩紀氏が一般意志2.0という概念を提唱し、フロイトのいう欲望をTwitterの書き込みから浮かび上がらせて政治に利用することを提唱しましたが、あれなんかはこうしたマーケティングの思想の最たるものだと思います。

46 アンチ・マーケティング(2) マーケティングの論理は欲望の存在を徹底的に無視し、欲求 の満足と愛の要請の満足を同時にひとつの商品で提供しようと する   「あなたにはこれが必要です。そして、これを買えばあなたは 充実した生活が送れます」 → 要求1と要求2の混同 しかし、これではどうしても欠如、すなわち欲望が残る  「私がもとめていたものは、これではない。もっと他のもの(autre chose)があるはずだ」 マーケティングの論理は欲望の存在を徹底的に無視し、欲求の満足と愛の要請の満足を同時にひとつの商品で提供しようとします。たとえばアップルのMacやiPadなどのCMを思い起こしてください。あれは単に商品の機能を宣伝しているのではありません。商品を単に利用可能な商品として売るのではなく、 「幸せな生活」 「理想のライフスタイル」といったものを直接に買うことができるものであるかのように提示しているのです。「あなたにはこれが必要です。そして、これを買えばあなたは充実した生活が送れます」というメッセージを、ああいったCMは発しているのです。先に欲望のグラフを提示してお見せした、要求の2つの線を混同し、1つのものとしてしまうという拒食症の欲望の弁証法がここにみてとれるでしょう。しかし、こういったマーケティングの論理では、どうしても欠如、すなわち欲望が残ります。私たちは、「私がもとめていたものは、これではない。もっと他のもの(autre chose)があるはずだ」という感情を抱かずに、現代の消費社会を生きることはできないのです。

47 Pro-ana What is Pro Ana? What is ProAna (Pro Ana)? – Pro Ana is a group of people who have eating disorders and DO NOT want to recover. What’s the difference between Pro Ana and Pro Anorexia? – Pro Anorexia encourages members to get sicker and glorifies eating disorders as lifestyle choices rather than mental illnesses. Pro Ana does not. Are there similarities between the two? – Yes. Both groups post thinspiration (images of people with attributes that are desirable). The difference is Pro Ana does not promote emaciated images. Every attribute of a image may be different to some. I just want an Eating Disorder, can I join? – Absolutely not. Wanarexic behavior is never allowed. (出典:  ここにお見せしているのは、プロアナと呼ばれる運動の文言です。プロアナとは、アナつまり拒食に賛成、というもので、「摂食障害をもっているが治りたいとは思わない人たちのグループ」を指します。つまり、拒食を肯定するのです。さらに過激なプロアノレキシアというものもあって、それは拒食症は精神疾患ではなくライフスタイルの選択であると主張する、反精神医学的なものです。プロアナとプロアノレキシアは、両者とも先ほどお見せしたようなシンスピレーション画像を投稿するのですが、病的なまでにやせ細った画像はプロアナでは賛同を得られません。一番興味深いのは最後の文言です。「私は摂食障害になりたいんだけど、仲間にいれてくれますか?」「絶対ダメ。ワナレクシック行為は絶対に許可されません」。プロアナの戒律といってもいいでしょう。ワナレクシック、略してWanaと呼ばれる摂食障害のワナビーは固く禁止されているのです。つまり、拒食症は、無意識のうちにそれを選択していなければならず、拒食症になりたいという欲望を意識的にもつことは禁止されているのです。これは、拒食症が、無意識的になされた主体的選択であり、知らず知らずのうちに欲望を絶対的に守るというラカン派の拒食症論と響きあっていないでしょうか。

48 拒食症と精神分析 ――主体の復権は可能か?
拒食症は、ある意味では「倫理的」な生き方である。しかし、こ の生き方は必ずしも“主体的な”選択によって獲得されたもの ではない 拒食症を精神疾患ではなく個人が選択したライフスタイルのひ とつとして捉える「プロアナ」 ? 精神分析は、拒食症を欲求の問題には還元せず、また個人の ライフスタイルにも還元しない第三の道をとる 精神分析は、むしろそのようなライフスタイルの「選択」がどのよ うに歴史的に生じているのかを問いなおす機会を提供する、主 体についての実践である 最後のスライドです。ここまで見てきたように、拒食症は、欲望を譲らない、ある意味では「倫理的」な生き方であるといえます。しかし、この生き方は必ずしも“主体的な”選択によって獲得されたものではありません。拒食症を精神疾患ではなく個人が選択したライフスタイルのひとつとして捉える「プロアナ」 運動は、こうした主体のアポリアに直面しているように思われます。精神分析は、拒食症を欲求の問題には還元せず、また個人のライフスタイルにも還元しない第三の道をとります。それは欲望の道であり、現れることが可能な主体が現れうるような欠如を欠如のまま残しておく道であるといえます。精神分析は、拒食症というライフスタイルの「選択」がどのように歴史的に生じているのかを問いなおす機会を、拒食症者提供することができるでしょう。ここに、主体についての実践としての精神分析の価値があると考えられます。以上です。


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