B29 第二次大戦中に登場したアメリカの四基のエンジンを付けた大型爆撃機。ボーイング社製。日本への空襲はほとんど本機により行われ、広島・長崎への原爆投下にも使われた。
艦載機(Grumman F6F )
高射砲の残る農地 小笠原
灯火管制ポスター
灯火管制規定標準ビラ 屋内・屋外の灯火規定 灯火管制規定標準ビラ 屋内・屋外の灯火規定
電球(灯火管制用) 空襲の目的となることを避けるため、灯を外にもらさないように電球の真下に向く部分のみ光が出るように、周りは黒く色が付けられている。「防空電球」と呼ばれていた。
電灯カバー 電灯の光が廻りに漏れないようにこのような”防空電灯カバーが販売されていました。値段は10銭程度。
戦時中 生活のようす太平洋戦争中の家の内部のようすを再現したものです。窓には、爆風で割れないようにテープが貼られ、部屋の明かりが外部に漏れないようなカバーが電灯についています。防空頭巾やヘルメットといったものや軍艦のオモチャもおいてあります。江戸東京博物館
500ポンド(227kg)通常爆弾。主に軍事目標の爆撃に使用。
220ポンド(100kg)焼夷弾。 日本の各都市を焼け野原にしたのが、この焼夷弾。この焼夷弾が投下後に48個の子焼夷弾を空中で放出(破裂)し、燃えながら花火の様に市街地に落下。
焼夷弾の筒
松屋屋上での防空演習
防空演習の風景
防空訓練(児童画)
防空壕をつくる人々(熊谷市弥生町)
横穴壕 沖縄
市ヶ谷駅上空を飛行するB-29の編隊で、手前の三叉路は市ヶ谷駅前の交叉点、左側の外濠に架かる橋は市ヶ谷橋
一斉に煙を吹き始めた横浜
空襲のあと
神田の焼跡
山手から見た罹災地 フェリス女学院から石川町を見る
山手から見た罹災地 汐汲坂から中華街方面
罹災後の元町商店街
山手から見た罹災地 汐汲坂から県庁方面を見る
日本兵による張り紙。ビラには「直ぐ立ち上がり、この仇を撃とう」と書いてある。
臨時召集令状(赤紙)
出征兵士のぼり
兵隊送りの旗
兵隊送り(児童画)
千人針
出征軍人表札 出征軍人を送り出している家を示す札。玄関の表札の横に掲げていました。函館市博物館
靖国神社
靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。 初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。 後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。 明治維新7,751西南戦争6,971日清戦争13,619台湾征討1,130北清事変1,256日露戦争88,429第一次世界大戦4,850済南事変185満洲事変17,175支那事変191,238大東亜戦争2,133,823合計2,466,427
戦時中の「敵性語」追放運動 これは決してニューヨークやロンドンの街頭ではない。日本の街頭だ。しかもわれわれは、いま米英と戦っている。それにどうだろう、わが日本の都会にこの横文字看板が氾濫しているとは…かかる米英媚態の看板は断然やめようではないか
「これが日本人に売る日本商品だろうか!」米英臭のある品物を喜ぶ気持が、まだ銃後に残っていると知ったら、前線の将兵は、どんなに悲しみ、どんなに怒ることだろうか。この嘆き、この悲しみ、この怒りと同じ心で、もう一度身の回りを見回してみよう。学用品、化粧品、薬品… 童心を蝕み、婦道を傷つけ、果ては戦力を挫くもの、十二月八日の朝、既に消えてなくなっている筈のものがまだ残ってはいないだろうか。つくる人、売る人、買う人、みんな前線将兵と同じ日本人だ…
東京都警視庁(空襲)公示 「敵機は撃退された 帝都の守りは鉄桶だ 次の空襲に備えて 更に頑張れ」と書いてある東京都警視庁の公示です。11月27日15時10分とあります。江戸東京博物館
昭和19年10月20日に,朝日新聞 にのった大本営発表の一部分
戦死者も増え、食糧をはじめあらゆる物が不足するなか、日本は、日本が戦争で勝ち進んでいると発表することで,国民の戦意が落ちないようにしていた。 この時のアメリカ軍の被害は0
「ぜいたくは敵だ」 「欲しがりません勝つまでは」 「撃ちてしやまむ」 「鬼畜米英」 「進め一億火の玉だ」 「ぜいたくは敵だ」
湯島天神 学問の神様、菅原道真公 が祭られている。
八幡神社