聖徳太子
日本のお金
千円札
(1867-1916)明治・大正期の小説家。帝大英文科卒。明治三三年文部省留学生として英国に留学。独力で英文学の本質を究めようと苦闘。三六年帰国。一高教授、東京帝大講師として英文学を教える。高浜虚子の勧めにより、写生文を始め、『吾輩は猫である』(明三八)を発表、明治の功利的社会を諷刺し、あわせてそこに依存する知識人の内面を剔抉。三九年『坊ちゃん』『草枕』など多彩な創作活動を展開。四三年までに『虞美人草』『夢十夜』を経て、『三四郎』『それから』『門』と大作を発表。 夏目漱石
五千円
新渡戸稲造 (1862-1933)明治ー昭和期の教育者。札幌農学校教授、台湾総督府技師、京都帝大教授を経て、三九年一高校長となる。次いで東京帝大教授として植民地政策を講ずる。大正七年(1918)東京女子大初代総長に就任。日本において一般教養という教育精神の先覚者であり、人間の人格と普遍的な人間的価値を重んずる教育を実践した。
一万円
(1834-1901)幕末・明治期の啓蒙思想家、教育者。安政元年(1845)長崎に行き蘭学を学ぶ。翌年大阪の緒方洪庵の適塾に入門して蘭学の勉強を続け、のち塾長になる。同五年藩命で江戸中屋敷に蘭学塾を開く。翌年横浜で蘭語の役立たないことを痛感して英学に転ずる。万延元年(1860)咸臨丸により渡米。帰国後幕府の外国方に雇われ外交文書の翻訳に従事する。文久二年(1862)幕府の外交使節に随行して渡欧。仏、英、蘭、プロシア、露、ポルトガルの諸国を回る。のち幕府の外国奉行翻訳方に出仕。慶応二年(1866)『西洋実情』初編を刊行。同三年幕府の軍艦受取りの一行に加わり渡米。同四年塾を芝新銭座に移し慶応義塾と名づける。以後、義塾を本拠地に、教育と著作を中心とした多彩な啓蒙活動を展開。明治五年『学問のすすめ』初編を刊行。十二年東京学士会員初代会長に就任。十三年交詢社を設立。十五年「時事新報」を創刊。以後同士に『脱亜論』等重要な論説を発表する。晩年の著に『福翁百話』(明三〇)、『福翁自伝』(明三二)など。 福沢諭吉
岩倉具視 昭和44年発行された五百円札
岩倉具視 (1825-1883)幕末・明治期の公卿、政治家。明治政府では参与、議定、副総裁兼海陸軍務・会計事務総督、大納言を歴任。明治四年右大臣、次いで条約改正交渉と米欧視察のため特命全権大使として外国を巡回。
伊藤博文 昭和38年発行された千円札
伊藤博文 (1841-1909)明治期の政治家。明治一八年内閣制度を創設し首相。二一年枢密院議長となり、翌年明治憲法を制定した。二三年貴族院議長。二五年第二次内閣を組織、日清戦争に対処し下関条約に調印。三一年第三次内閣を組織。三三年立憲政友会総裁となり第四時内閣を組織。三八年初代韓国統監となり韓国併合を推進したが、ハルビンで安重根に暗殺された。
昭和33年発行された壱万円札および32年発行された五千円札 聖 徳 太 子
聖徳太子 用明天皇の皇子。推古元年(593)四月皇太子となり、推古天皇を補佐して摂政となった。同三(595)年五月高句麗僧慧慈渡来に際し、これに師事し仏法を学んだ。同一四(606)年七月勝鬘経を講じたとあり、法華経、維摩経講経を合わせ三経義疏をなしたという。国内政治の面では、同一一(603)年一二月冠位一二階を制定、同一二(604)年四月憲法十七条を作り、天皇中心の国家を建設しようとした。同一五、十六年、遣隋使を派遣した。 『新潮日本人名辞典』 から抜粋
推古天皇と聖徳太子との続柄