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逃げずに闘うことを選んだとき、 若者は大きな代償を支払うことになった。

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1 逃げずに闘うことを選んだとき、 若者は大きな代償を支払うことになった。
島崎藤村ー破戒 逃げずに闘うことを選んだとき、 若者は大きな代償を支払うことになった。

2 島崎藤村(1872~1943)

3 一、作家紹介

4 島崎藤村(しまざき とうそん) 明治5年(1872年)生まれ、生家は代々、本陣や問屋をつとめる地方名家で、父の正樹は17代当主で国学者だった。(満71歳没) 慶応義塾分校出身、明治学院入学。在学中は、恩師の影響でキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉などの古典書物も読みあさった。 20歳の時に、明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、「文学会」(浪漫派の機関誌)に参加し、詩作にふけり、第一詩集「若菜集」を発表して文壇に登場した。 以来、四冊の詩作集を世に送り、明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。

5 詩作から小説へ 1899年(明治32年)、長野県に赴任したとともに結婚し、翌年長女のみどりが生まれた。この頃から現実問題に関心が高まり、創作方法もその反映なのか、詩作から散文へと展開する。 1905年(明治38年)、長野での仕事を辞し上京。翌年、「破戒」を自費出版。発売した間もなくに売り切れとなり、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛されあ。(ただし、この頃栄養失調により、3人の娘が相い次いで没し、のちに「家」で描かれることになる)

6 明治41年、妻が四女を出産後死去したため、次兄の次女(藤村の姪子に当たる)のこま子が家事手伝いに来ていたが、彼女を犯し妊娠させた。
この不祥事のため、藤村は留学という名目で三年間パリで過ごしたが、帰国したのちにも、こま子との関係が再燃してしまう。 1917年(大正6年)、留学経験の持つ藤村は、慶応義塾大学文学科講師となるが、1918年「新生」を発表し、姪子こま子との不倫関係を清算しようとした。 このため、こま子は日本にいられなくなり、台湾に渡ったが、その後再び日本に戻り、享年85歳で死去。

7 不倫事件のその後 姪子とのあやまちについては「新生」に著されているが、芥川龍之介は「或る阿呆の一生」において、「「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはない」と書いた。 こま子のことは、昭和12年にこま子が入院したことが報じられ、「「新生」のモデルのその後」が東京日日新聞をはじめ、マスコミで報じられ、広く知られることになった。 その後、藤村は見舞金50年(同年4月の値上げによる葉書が2銭であり、現在の貨幣価値で10万円程度か)を、妻静子に病院に届けさせた。

8 考えてみよう! (1) 今、あなたの心に誰にも告白できない秘密があるのか。 あるとしたら、それは何なのか書いてください。
(1) 今、あなたの心に誰にも告白できない秘密があるのか。     あるとしたら、それは何なのか書いてください。      (○○に関する秘密) (2) なぜそれを秘密にしたのか。     誰にも言えないのはなぜなのか。(何に脅えて、何が不安なのか) (3) たとえ、勇気を持ってそれを打ち明けたら、最悪、どんな結果になるか。     そういう結果になったら、自分はそれに耐える自信があるのか。     どんな犠牲・代償を支払うことになるのか。

9 二、作品紹介

10 あらすじ 瀬川丑松が生涯にわたって隠し続けなければならなかった秘密とは、彼の一族が被差別部落の出身だということであった。
  ※ 被差別部落=江戸時代からの身分制度。歴史的にエタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼び、定着した。 まだまだ多くの人々が旧態依然とした不合理な差別に苦しんでいた明治時代の日本で生きていかねばならない丑松にとって、父親より与えられた戒めは非常に大きな意味を持っていた。 被差別部落のリーダー(酋長)であった丑松の父親は、丑松の将来を思って、育ち生まれた故郷を捨て、親友を見捨て、一家を遠い田舎の方に連れて身を隠すことを選んだ。死ぬ際さえ、故郷の親友にも連絡せず、その遺骨を異郷の大地に残るという。 丑松をそこまで守って育った父親からの遺言は   「決して身の上を自白するな」、「隠せ」、「一生忘れるな」であった。    ※ 補足資料

11 父親のその戒めを固く守りながら、丑松は、二十四歳のときに、信州飯山の小学校で教鞭を執る青年教師となった。
そして、教師となってからも、丑松は父の戒めを懸命に守り続けていた。彼は親友にさえ出自の秘密を隠している。 「いつ、自分の身の上がばれるか」という疑心暗鬼の生活を送っているうちに、自分の出自と似通っている「猪子蓮太郎」と知り合った。 猪子蓮太郎も元教師であったが、その出自(被差別部落出身)が学校側に知られたため、教師の仕事は失われるようになったという。そこから、彼は一変して差別撤廃のための解放運動をするようになる。 「我乃穢多」。蓮太郎のその堂々とした生き方に、丑松は複雑な憧れを抱くようになるが、にもかかわらず、父親の顔を思うと、自分の出自を蓮太郎に打明けることすらできなかった。

12 近代的な精神が覚醒するとともに、丑松の中でも不合理で不当な差別への怒りは強まっていた。喀血をおして孤独な闘いの中に身を置く蓮太郎の姿は、世の中の妥協のために身を偽る丑松を煩悶させる。
丑松を躊躇させていたものは、現世の歓楽への未練(安定なる経済面、尊敬される社会地位など)のほか、零落への恐れであった。 零落していく人たちへの描写。―零落というものに大きな恐怖を感じる。 (1) 元の同僚で没落士族である風間敬之進が酒におぼれる姿。 (2) 小作農たちが貧困に喘ぐ姿。   ※ 補足資料   ※ 有権者(学校の校長など)の生活と貧困者のそれとの差を描くことによって、現世への歓楽(現在持っているもの)と零落への恐れ(将来失うもの)のギャップが一層鮮明になる。

13 丑松は、蓮太郎にいつかは自分の出自を告白すると煩悶している矢先に、蓮太郎は政敵の放った刺客の凶刃に倒れてしまう。
蓮太郎のその壮絶な死にショックを受け、慟哭する中で、丑松はとうとう決意を固めた。    -すべてを明らかにして、「偽りの生涯」を終わりにしよう、そうやって蓮太郎の解放運動に続こう、と。    ―父の戒めを破る=破戒 だが、ちょうどそのときであった。

14 丑松の学校で、丑松が被差別部部落出身である噂が教師や生徒の間で流れている。
  (学生に人気のある丑松を気にくわない校長ら(有権者)が、わざと流した噂である。これを利用して、丑松を学校から追い出すと企む。)   ※ 補足資料 蓮太郎の壮絶な死のショックによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破り、その素性を打ち明けてしまう。 丑松のその苦しい決意とともに、作品はクライマックスを向かう。

15 クライマックスな一幕 丑松は小学校の教室で、生徒たちを前に告白をはじめる。「我乃穢多」という素性を打ち明ける際、丑松は教壇に跪いて生徒たちに詫びる。それと同時に、今まで真実を隠してきたことを謝る。 ※ 補足資料      ↓↓その結果     丑松は学校を追われることになる。      ↓↓告白後の新生活    新天地として選んだのは、アメリカのテクサスの地である。(親友や家族を捨て、一人で旅に立つ)

16 整理してみよう! (1) 丑松の心に潜んでいる秘密は何か? (2) なぜそれを秘密にしたのか。
(1) 丑松の心に潜んでいる秘密は何か? (2) なぜそれを秘密にしたのか。     誰にも言えないのはなぜなのか。何に脅えて、何が不安なのか。 (3) 勇気を持ってそれを打ち明けると、どんな結果になるか。 (4) 丑松は、自分の出自を親愛なる生徒の前に告白するとき、跪いてしまったが、そこまでする必要はあるのか。(のちに論争を及んだ) (4) ストーリーの結末はハッピーエンディングなのか。    学校を辞めさせられて、相親相愛の志保の気持ちを知りつつ、一人で遠い遠い異郷(アメリカのテクサス)に旅立つという結末。 (5) ほかの感想など・・・

17 補足資料― (1) 「破戒」の社会的影響力 (2) 予期せぬ批判 (3) 封印された「破戒」

18 (1) 「破戒」の社会的影響力 藤村が「破戒」を発表したのは明治39年のこと。初版は自費出版(当時の2000円)での刊行であった。
(1) 「破戒」の社会的影響力 藤村が「破戒」を発表したのは明治39年のこと。初版は自費出版(当時の2000円)での刊行であった。 部落問題という特殊な題材を扱うこの小説は、当時の日本人に大きな衝撃と影響を与えた。 この作品が発表された当時、「破戒」に触発されて部落問題についての自身の見解や態度を改めようとする知識人も少なくなかったという。 その意味では、「破戒」という作品は、単に小説であるということを超えて、部落差別という根の深い社会問題の解消に資することがあったのである。ーー社会小説

19 (2) 予期せぬ批判 ところが、大正末期から昭和初期にかけて、「水平社」(改革運動の結社)による部落解放運動や身分差別撤廃運動が勃興する中で、「破戒」に批判的な目が向けられるようになる。 皮肉にも、それは藤村が同情を示した差別される側の人々からの批判であった。 解放運動に携わる人々の間から、「破戒」の作者が作品の中で部落出身者に向ける視線は、あまりに侮蔑的だという声が上がるようになった。 この予期せぬ批判に対応するため、藤村は「破戒」を再版する際に、一部差別後などを言い換えたり、削除したりした。だが、それにしても、部落解放全国委員会からも、呼び方を変えても差別は変わらないとして批判されている。

20 (3) 封印された「破戒」 こうした経緯もあって、結局、「破戒」は絶版に追い込まれることになった。
(3) 封印された「破戒」 こうした経緯もあって、結局、「破戒」は絶版に追い込まれることになった。 ようやく再版された「破戒」も、様々な事情への配慮から、ところどころに改変が施されたという。 例えば、「蓮華寺では下宿を兼ねた」というのが初版「破戒」の冒頭であるが、これが再版「破戒」では「蓮華寺では広い庫裏の一部を仕切って、下宿するものを置いていた」というように改められている。叙述が親切になった分、やや間延びしてしまっている印象を受けるのではないかと思われる。 ちなみに、1971年の第59刷からは初版本を底本に変更している。(1929年「水平社」の批判を受けて以来、1954年の新潮文庫版「破戒」以外は、すべてが{親切に}施された再版本である。)

21 映像化作品 ※ 映画化 (1) 1948年版 監督:木下恵介 (2) 1962年版 監督:市川崑 ※ テレビドラマ化
※ 映画化 (1) 1948年版 監督:木下恵介 (2) 1962年版 監督:市川崑 ※ テレビドラマ化 (1) 1954年版 日本テレビで放送 (2) 1961年版 NETテレビで放送 (3) 1961年版 日本テレビで放送 監督:市川崑


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