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源頼朝はなぜ、鎌倉に幕府を開いたのか? 6年藤組 椎名優衣.

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1 源頼朝はなぜ、鎌倉に幕府を開いたのか? 6年藤組 椎名優衣

2 目次 砂鉄の多い砂浜 三方が山一方が海という地形 何が裏目にでたのか? 続き 味方の多さ 滑川の利用 交通の要地
鎌倉幕府の成立 頼朝は鎌倉で政治をとるために、侍所、政所、問注所の3つの役所をおいた。  1185年、頼朝は朝廷にせまって、守護、地頭をおく事を認めさせた。  1192年、頼朝は征夷大将軍に任じられ、名実ともに鎌倉幕府が始まった。 目次 砂鉄の多い砂浜 三方が山一方が海という地形 何が裏目にでたのか? 続き 味方の多さ 滑川の利用 交通の要地 西日本から離れていた方がよかった。 朝廷のある京都から離れていた方がよかった。 使った資料 まとめ

3 砂鉄の多い砂浜 鎌倉の近くの稲村ケ崎の海岸には普通の砂と混じって砂鉄がある。
その砂鉄には武士に必要な刀などの原料になるので、幕府の近くで原料がとれるのはとても便利。  この事も理由のひとつと思われる。

4 三方が山一方が海という地形 鎌倉のまわりは三方が山、一方が海に囲まれていて、守りやすい地形だった。これも理由にでている。
(しかし、最後には裏目にでている。)

5 何が裏目にでたか? 三方の山は、敵が攻め込んで来た時に攻めにくく守りやすくて、海も守りやすく、いざと言う時には船で脱出することが出来る。
 三方の山は、敵が攻め込んで来た時に攻めにくく守りやすくて、海も守りやすく、いざと言う時には船で脱出することが出来る。  この天園ハイキングコースは、敵が攻めにくく、守りやすいと言うのが、良く分かる。その理由は、  (1)高い木等に上れば、敵の居場所が見わたせる。      (2)上り坂で待ち伏せして、弓矢を放ったり、岩を転がしたりして攻撃する事が出来る。  (3)敵が来る前に水や油をまいておけば、敵の軍の兵隊が、泥で足を滑らせて転落させる事が出来る。  (4)山が険しい為、敵の軍の体力を減らす事が出来る。又、体力の回復に使う食量も、減らす事が出来る。  (5)道が曲がっている所の近くの森を切り開いて違う道をつくり前の道に戻し、道を逆に歩かせる事も出来る。  (6)山が急なので、馬が通りにくい。    以上の様な事が、予想される。    しかし、武将の新田義貞は鎌倉に攻め込む事が出来た。            新田義貞は、最初切り通し(その中に化粧坂切り通しと言う物がある)と呼ばれる山を削り落として作った狭い崖道を通って攻めましたが、幕府軍が必死に守っているので、突破出来ない。そこで義貞は、海に大きく突き出した断崖の稲村ヶ崎と言う場所に軍を集めた。 干潮の状態では山と海の間に道が出来ています。義貞はこのすき間を通って攻め込んだと言う訳。義貞は、この時、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼつ)潮をひかせたまえ」と唱えて黄金の太刀を海にしずめていったと言う伝説がある。

6   これは、幕府を倒して、天皇中心の政治をしようと考えていた、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、幕府に不平を持つ武士を味方につけ、幕府を倒そうとして企てた事でしたが、この計画は2回も失敗した。しかし、やがて戦上手の楠木正成や、新田義貞、源氏の名門足利尊氏達の武将が味方して、良い地形を持ちながらも鎌倉幕府は滅びました。頼朝が鎌倉幕府を開いてから、140年あまりたった、1333年5月22日の事だった。   12世紀末、源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし、征夷大将軍( せいいたいしょうぐん)となり、鎌倉に幕府を開いた。初の武士による政治がこの時から始まり、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られた。 幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始、都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となった。   源氏が3代で絶えた後も、頼朝の妻政子の実家だった北条氏が実権をにぎり、その下で、京都をしのぐ事実上の首府でした。最盛期には3万人もの人口を数えたといわれている。   経済の発展に伴って、当時の築港である和賀江島(わかえじま)を通じて中国の宋や元との交易も盛んに行われ、禅宗、禅宗様建築、仏像彫刻、彫漆など様々な中国文化がもたされました。   大仏の造立、建長寺や円覚寺など禅寺の建立が盛んだったのもこのころです。

7 味方の多さ  鎌倉の周りには三浦氏などの強い武士団は自分たちの土地を認めてもらうために味方だったので、周りの守りを固められるので、理由のひとつ。関東地方には源氏とつながりの深い武士が多く、鎌倉には昔、源頼朝の祖先『源頼義』が治めた 土地だった。

8 滑川の利用  鎌倉の町の中心には滑川が流れている。この滑川は物資輸送もとても便利だった。このことも理由のひとつ。(滑川の使用法は流れ出る海岸の『材木座海岸』という名前からも分かる)

9 西日本から離れていた方が良かった。 交通の要地
 鎌倉は都から遠く離れていたが、東海道に近く、交通上の要地だった。鎌倉は都と東海道のちょうど真ん中辺りに位置していた。鎌倉は東国と京都を結ぶ交通上、重要な土地だった。     西日本から離れていた方が良かった。 源氏は、平氏を西へと追いやっていき、最後には平氏が勝った。そのため、西日本には平氏が沢山いた。だから、源氏である源頼朝は、平氏が沢山いる西日本に近づかず、そこから離れている東日本の方で政治を行った。

10 朝廷のある京都から離れていた方がよかった。
この理由は複数ある。 2.京都では、お寺が政治に口出しをしているので、頼朝の政治にくちだしをさせないため。 3.平氏は、最初は源氏に勝ったのに調子にのって、貴族のような暮らしをしていて、なまってしまって最終的に源氏に負けてしまった。 (平氏の失敗をくりかえさないように、京都から遠くはなれた土地を選んだ。) 鎌倉はそんなに広い土地ではない。はっきり言って、狭い方だと思う。では、なぜ、わざわざそんなに狭い場所に、幕府を開いたのだろう? 兵農一致」とは、普段は農業をして自給生活(自分達で農業等をし、生活に必要なものを作って、それで生活する事)をし、武力が必要な時だけ武士になることです。源頼朝は、武士達(特にそれほど位が高くない者)に消費生活(仕事をして給料をもらい、その給料で生活に必要なものを買って生活する事)をさせず、自給生活をさせ、兵農一致をさせようとした。(武士に消費生活をおくらせないで、兵農一致(ふだんは農業をし、いざ鎌倉の時だけ武士になる)をさせるためにわざとせまい鎌倉を選んだ。)しかし、高い位の人々までが、みんな自給生活をしていたかと言うと、そうではない。また、政治の中心である幕府では、色々な物が流通している。つまり、幕府がおいてある鎌倉の中は、色々な生活用品が出回っていると言うことです。だから、そういった武士達を鎌倉の中に住まわせてしまうと、結局消費生活を始めてしまうかも知れない。だから、源頼朝は、そう言った位が低めの武士を、鎌倉には住まわせず、その周辺に住まわせた。そして、武力が必要な時のみ、「いざ鎌倉」と言って、皆で鎌倉に集まり、戦争をしたのだと思う。そして、そのためには、政治・流通の中心地は、狭い方が良かったのだと思う。

11 まとめ 私は三方が山一方が海、という事と、味方の多いと言う事が、一番のポイントだと思います。
 私は三方が山一方が海、という事と、味方の多いと言う事が、一番のポイントだと思います。   幕府を開くには攻められないように地形を工夫して、万が一攻められても味方が沢山いれば攻められないので沢山の味方がいた方がよく、又、地形も条件にあっていた。そして、そのほかにもぴったりと条件があっていたから鎌倉に幕府を開いたのだと思います。

12 使った資料 http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh211.htm#L3
         使った本 中学歴史の精解と資料(文英堂)


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