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Berkley のNewtonのFluxionとLeibnitzのDifference批判との比較 北村 正直
ある科学歴史家の 微分の言いぬけ説 Berkley のNewtonのFluxionとLeibnitzのDifference批判との比較 北村 正直
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The Analyst George Berkley Newtonと同時代の哲学者 微分法(Method of Fluxion) の批判
彼はニュートン力学、万有引力の法則も批判 Du Motu (運動について On Motion) 彼の哲学は相対主義的
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The Analyst Ⅲ節 The Method of Fluxions is the general Key, ・・
・・ And such Velocities are called Fluxions: and the Quantities generated are called flowing Quantities. These Fluxions are said to be nearly as the Increments of the flowing Quantities, generated in the least equal Particles of time; and to be accurately in the first Proportion of the nascent, or in the last of the evanescent, Increments. Sometimes, instead of Velocities, the momentaneous Increments or Decrements of undetermined flowing Quantities are considered, under the Appellation of Moments.
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The Analyst Ⅳ節 By Moments we are not to understand finite Particles. These are said not to be Moments, but Quantities generated from Moments, which last are only the nascent Principles of finite Quantities. It is said, that the minutest Errors are not to be neglected in Mathematics: that the Fluxions are Celerities, not proportional to the finite Increments though ever so small; but only to the Moments or nascent Increments, whereof the Proportion alone, and not the Magnitude, is considered.
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The Analyst Ⅴ節 The foreign Mathematicians are supposed by some, even of our own, to proceed in a manner, less accurate perhaps and geometrical, yet more intelligible. Instead of flowing Quantities and their Fluxions, they consider the variable finite Quantities, as increasing or diminishing by the continual Addition or Subduction of infinitely small Quantities. Instead of the Velocities wherewith Increments are generated, they consider the Increments or Decrements themselves, which they call Differences, and which are supposed to be infinitely small.
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Infinitesimal 無限小とは △t → 0 という極限操作の中で現れる
△t は極限が実現されて0となる。これがmoment、瞬間であるとBerkleyは考えた Leibnitz: 無限小は数ではない、傾向である
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村上の微分の言い抜け説 私たちは、時間幅のない時刻に設定される「速度」を「瞬間速度」などと呼んで、あたかも実質的に存在する何ものかであるかのように考えているが、かつては、この概念を「速さ」もしくは「速度」と呼ぶことはできないと考えられ、「速度の度合い」などという判ったような判らないような名前で呼んでいた。ガリレオの時代でもそうであった。
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村上 - 続き 私たちは、微分という算法を使ってこの難関を切り抜ける。小さな「時間幅」――それをΔtと置く――を設定し、その間は「速さ」が変わらないものとする。僅かでも時間幅が与えられれば、その間に動いた距離も算定できるから、「速さ」も意味を持つことができる。こうしておいて、そのΔtを次第にゼロに近づける。この、ゼロではないが、しかし無限にゼロに「近づける」という操作 (考えてみると、見事な三百代言流のペテンとしか言いようがない) を主張することこそが微分のみそであり、そこから「瞬間速度」という概念が可能になる。
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村上 ー 続き 中学校では微分のこのトリックが使えないので、仕方なく言葉の魔術で切り抜けるのが常道である。今この瞬間の速さで一時間動くと六〇キロになるとき、その瞬間の速さを「時速六〇キロという速度」であった、と表現するのだ、というのがその説明である。まともに考えると、これは実はひどい言い抜けでしかない。 (村上陽一郎、科学哲学の窓:時間を巡って、『図書』1999年2月号、34-35頁より)
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村上 ー 続き 瞬間速度という概念が、微分という便宜的な算法を使わずには成り立たない、あるいは概念上の困難がある、ということを前回に述べた。日常的な考えに従えば、速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。
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村上 ー 続き それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。
村上 ー 続き それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。 それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである。 (村上陽一郎、科学哲学の窓:時間を巡って (承前)、『図書』1999年3月号、58-59頁より)
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村上の誤解(曲解?) ゼロに近づく △t → 0 と ゼロになる △t = 0 とを同じと見る
収斂する数列{a1,a2, a3, a4, a5, a6,・・ }の一要素と極限値とを同じレベルで見ることに相当する。 無限小は正の実数 R+上のゼロに収斂するCauchy数列 各要素はゼロではない
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