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寛政の改革=松平定信 (老中在任期間:1787~93)…
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天明 打ち壊し頻発 1787.5、江戸・大坂 など全国主要30
田沼政治 殖産興業政策・商業資本の利用 賄賂・縁故等 で腐敗が横行 幕府財政の立て直し 弱者 切り捨て 初期資本主義 への萌芽 天明 打ち壊し頻発 、江戸・大坂 など全国主要30 天明の大飢饉 1782~87 (天明2~7) 危機感 御三家・幕閣の保守派 ①田沼政治の否定、 復古的理想主義→ 享保の改革を目標 ②農村の維持 ③商業資本の抑圧 ④幕府の権威維持 寛政の改革 の基本路線 幕末までの 基本路線 文武の奨励 風俗取り締まり
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寛政の改革 田沼意次の幕政 貨幣経済・商品経済の発展 地方の百姓一揆の 田沼政治を「賄賂政治」 と批判→存在を疎まれる
増加などの政情不安 田沼政治を「賄賂政治」 と批判→存在を疎まれる 松平定信 反田沼派 黒幕=一橋治済 実子意知の暗殺 1786(天明6)年 将軍徳川家治の死 田沼意次の罷免 失脚 田沼派の一掃 長男家斉 を将軍職に 御三家の推挙 幼少の将軍家斉を輔佐 松平定信老中首座に 幕府財政基盤 の確立に成功。 幕府の備蓄金は 171万7529両= 綱吉以来の 最高値を記録 寛政の改革 田沼時代に健全化した財政は再び悪化 質素倹約・風紀取締 超緊縮財政 田沼時代の全否定
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2.改革の施策 ①農村の復興:出稼ぎ制限 2.旧里帰農令(1790帰村者に資金援助)
1.改革の基本路線 ①復古的理想主義→享保の改革を目標 ②商業重視の政策を改め農業を主とする政策に復帰(農村維持) ④士風を刷新し,幕府権威の再建(思想統制・文武奨励)を図る 2.改革の施策 ①農村の復興:出稼ぎ制限 2.旧里帰農令(1790帰村者に資金援助) ②社会政策:勘定所御用達登用(江戸の豪商10名・都市政策の推進)・3.囲米の制(1789発令 杜倉・4.義倉を設置)・人足寄場(1790 石川島に設置)・5.七分積金の制度化(1791)
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③朝幕関係:尊号一件(1789~93)=(尊号(太上 天皇号)宣下をめぐる処罰)
④財政緊縮:倹約令(1787)棄捐令(1789) →旗本・御家人の救済) ⑤思想統制:寛政異学の禁(1790) 儒官に柴野栗山ら登用 ⑥出版統制:出版統制令(1790) →洒落本6.山東京伝、黄表紙恋川春町,出版 元の蔦屋重三郎ら処分(風俗矯正) 7.林子平の『三国通覧図説』『海国兵談』の 版木没収(1792)→(幕政批判の抑制) ⑦海防強化:ラグスマンの来航により,諸藩に海防 を厳命(1792)定信,房総沿岸など巡視(1793)
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寛政異学の禁 天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として禁じた。幕府の学問所である昌平坂学問所の講義や、役人登用試験も朱子学だけで行わせた。諸藩の藩校でもこれにならうものも出、朱子学に反対する学問を唱えていた儒者は生徒が少なくなり困窮したものもあったという。なお、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。昌平坂学問所では異学の講義を禁じられたが、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。
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幕府の出版統制 享保頃(1716年~)から 1.出版統制の骨子 2.統制処分
1.出版統制の骨子 1)幕府の体制維持に反する出版を禁ずる 2)武家についての記述の制限 3)幕府の政治に対する批判を禁ずる 4)贅沢で豪華な出版物を禁ずる 5)風紀を乱す出版物の禁止 出版統制は徐々に厳しくなる→寛政の改革の統制を批判→一層厳格化(特に大衆小説は民衆の不満を喚起し扇動の効果があると神経をとがらせた) 2.統制処分 ①朋誠堂喜三二著「文武二道万石通」(定信の文武奨励を風刺していると譴責)天明八(1788)
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②春川恋町「鸚鵡返文武二道」(天明九年)→取調べ後怪死?。→歌界の巨頭で幕臣の大田南畝は身の危機を察して戯作界から姿を消した。
③喜多川歌麿の春画も風紀を乱すとして徹底的に取り締まられた。特にいやらしい歌麿の春画はねらい打ちにされた。歌麿春画は無名・版元印なしで行商により訪問販売専門となったが、それでも摘発を恐れた歌麿は筆を休め栃木に身を隠した。 ④蔦重と京伝が摘発をうける 表だって武家を処分できない幕府は民間出の戯作者を狙い打ちにする。その筆頭が深川木場の質屋の子として生まれた山東京伝(浮世絵師名北尾政演)と人気書肆蔦屋重三郎であった。京伝は蔦屋とのコンビで洒落本の第一人者となり、彼の著作物は製本で綴じるから売れるという異常な人気を集めていた。
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反骨精神の旺盛な京伝は定信をモデルにした天明八年刊「富士人穴見物」や、異学の禁を揶揄した寛政元(1789)年刊「孔子縞于時藍染」で当局を刺激し、寛政三(1791)年刊「仕懸文庫」などの洒落本三冊が摘発された。京伝は手鎖50日(在宅のままひょうたん形の手錠をはめられる)刑に処せられ、版元の蔦重は書籍絶版の上、財産の半分没収という苛酷な刑を受けた。以降、京伝は筆を折り、蔦屋は錦絵中心の経営にシフトした。ここで大活躍したのがほぼ蔦重専属のスター絵師喜多川歌麿である。歌麿は栃木から戻ると春画をやめ、蔦重から「浮気の相」「婦人相学十躰」「歌撰恋の部」などの美人画シリーズを次々に産み出しヒットさせた。しかし寛政二(1790)年出版に関する奢侈禁止令によって、多色摺版画、美人大首絵、花魁画などの華美な錦絵が禁じられた。
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さらに寛政四(1792)年には一枚絵に実在の女の名前を表示することが禁止され、さらに過度の重ね摺りの禁止、赤色の使用禁止が発令された。
赤色の禁止は歌麿に大きなダメージを与えた。歌麿は創作意欲を失った。代わって登場したのが武家出身絵師の鳥文斎栄之である。栄之を売り出した版元は芝神明前三島町に店を出す和泉屋である。和泉屋は貞享年間(1684~)に創業した老舗で、蔦重の強力なライバルであった。栄之は赤色抜きの「紅嫌い」と呼ばれるエキゾチックな版画を編み出し、和泉屋は蔦屋・歌麿の不振を尻目に栄之の美人版画を次々と売り出した。
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改革の結果 ①倹約と綱紀粛正の嵐で江戸の人々の生活は暗くすさんだものとなる。大量消費の実社会に逆行した農本回帰政策はことごとく失敗する。財政赤字は拡大し、不況の嵐が巻き起こり、厳しい統制や倹約の強要による民衆の反発。 ②経費節減に対する大奥女中との対立 ③尊号一件(1792)→定信失脚の直接的原因、 朝廷との協調関係の崩壊 (1793年,定信は老中在職6年で引退)
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