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6月28日(金)5限 第11回「道徳発達の心理学②-ギリガンのもうひとつの声-」

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1 6月28日(金)5限 第11回「道徳発達の心理学②-ギリガンのもうひとつの声-」
道徳教育(他学部) 6月28日(金)5限 第11回「道徳発達の心理学②-ギリガンのもうひとつの声-」

2 前回の感想より① もし第六段階の誰の立場に置かれても成り立つ判断というものが存在するならば、普遍的な道徳は存在することになると思う。しかし、その普遍的な道徳が存在し、証明できるとするならば、ハインツのジレンマのように人間らしさみたいなものがなくなってしまうのではないだろうか。誰の立場、どんな状況でも成り立つ判断がないからこそ、人は人らしく、徳を探求しつづけるのだと思う。(園芸学部 緑地環境学科) コールバーグの「道徳性の発達段階の普遍性」は第一段階では個人の中の単純な感情から始まり、欲求が加わり、社会の目からその行動が善か悪かを判断する、という風に進んでいくと思います。第五、六段階に至ってもその行動は善とも悪とも捉えられます。異なる捉え方があるのに、「普遍的な道徳」などあるのだろうかと疑問に思いました。(「普遍的な道徳の捉え方」は間違っていないように思いますが。)(園芸学部 緑地環境学科) 普遍的な道徳が、みんなが善いと考えることだとしたら、それは良心だと思うのですが、本当にそれを証明できるのでしょうか。世界中の人が一人も違わないで「善い」と考えることなどあるのでしょうか。私にはよくわかりません。(文学部) レジュメを見て気付いたのだが、ハインツのジレンマの状況においては数々の賛成と反対を選び、行動を選択するということを無意識にしていたということ。自分だったら薬を盗むという行動をすぐに選択しただろうが、それが正しいと思いつつ、心に引っ掛かるものがあって、それが無意識のうちに切り捨てていた盗むという犯罪行為とその周囲への影響の考えだったということに気付いた。(理学部)

3 前回の感想より② コールバーグの道徳性発達段階は最初はうまく当てはまっているように思えたが、よく考えてみると納得できない部分がいくつかあることに気付いた。その一つは道徳性が第一、第二・・・と段階を踏んで発達するかどうか疑わしいのではないかという点である。始め、私たちは自分に害があるかや、損得を考えるという第一、第二段階を経て、慣習的水準に至ると言うが、子どもの頃は損得を考えていただろうかと疑問に思う。また、法律に従うことを善と考えていても、自分の損得で行動したりすることもあると思うので、第三、第四段階から第一、第二段階へと立ち返って判断や行動をすることもあるのではないか。すると、道徳性が発達していくというよりは、その時に何を基準に道徳的行為を行ったかを示す選択肢のようなものではないかと思った。(文学部) 第六段階の「人命尊重の原則」に対して疑問を抱きました。これは命は尊いものであり、粗末にするべきでないという考えに基づいた「原則」であると思います。世間一般ではこの考え方が常識とされている印象があります。私の場合、思想の根幹には生物学があるので、しばしば世間の意見と対立することがあります。なぜかと言うと、「生物にとって最大の目的は子孫を永続的に伝えていくことであり、個人の欲望(長生きしたい、幸せになりたい)は二の次である」という考えがあるからです。まあ、二の次を求めることができるほど、人類が豊かになったとも言えますが。ようやく最近になって延命治療の是非が大きな議論になりつつあります。私はこの動きを前向きに評価したいと思います。(園芸学部 緑地環境学科)

4 前回の感想より③ 「普遍的な」「道徳」の証明には二つの語義のゆらぎが見られるので、統一しなければ話が合わない。どこまで普遍的であるのかを決めたかった。例えば、世代や時代を越えても成立するのかどうかとか。証明すること自体は可能である。そのために全ての国民、全ての人種、全ての年齢の人に一言一句受け取った情報が全て同じになる非常に事例を何千個の質問をすればいいからである。(園芸学部 応用生命化学科) 第六段階は普遍的な道徳があると仮定した上での話だと思った。コールバーグは「今現在、普遍的な道徳の存在が証明できていない」ということから「道徳は相対的である」という結論は出ないと言っている。それならば、もちろん、「普遍的な道徳がある」という結論も出ない。そして、この人は「道徳は相対的である」と仮定した議論をしていない。よってフェアな議論になっていない。しかし、ここでコールバーグは「議論はフェアであるべき」という価値観を密かに持ち込んでいるのだ、と言うだろう。(文学部 行動科学科) 世の中に普遍的な道徳があるかはわからないけど、必要な気がします。(価値だけを求めるようになるのがいいとは思わないけれど)ただ、そうなると倫理学を追求する形になるけど、倫理学と心理学なら心理学(人の心)の方が重要だと思うから、普遍的な道徳にはなかなか辿りつけないと思う。(人の心はそれぞれ異なるため)心理学を倫理学で補完するのはいいけど、普遍的な道徳を決めるのは早いと思います。(園芸学部 緑地環境学科)

5 前回の感想より④ 私はある本で大学に入るのは文化的多様性を学ぶためだと読んだ気がします。多様性を認めずに自文化、自民族などの優越性を誇ってきたことで、過去に人類が大きな過ちを犯してしまったからだそうです。しかし、多様性を認めるということは、一つの価値判断に囚われる、または思考停止になってしまい、普遍的心理や法則の探求がおろそかになりはしないか?とコールバーグが主張しているように今の私には思われました。また、自然主義的誤謬のあたりの文章については普遍的心理があるともないとも断定できず、結局懐疑論に陥ってしまうように思えました。しかし、今現在の事実から誤った価値判断を導いてはいけないという主張には納得させられました。(文学部 史学科) 普遍的な道徳は存在しないと思う。育った環境、かかわりを持つ人々の影響、進行している宗教、メディア、本などなど、様々な意見、見方、考えの中から“自分”というアイデンティティをつくりだしていく。だから、それは生まれながらにもっているものではなく、後天的に得たものである。自分のアイデンティティに内在する“私の道徳”は後天的なものであり、それは国や地域、育った環境、親のスタンスなどで様々になるだろう。一方で、「人を殺してはいけない」という一見普遍的な道徳もあるように思える。だが、これはこう考えてみればよいのではないか。全ての人は必ず異なる道徳観をもっている。しかし、たまたまその中には全ての人に共通するような道徳観があるのだと。(理学部 物理学科) 個人的に、心理学と倫理学を用いて導いた道徳も自然主義的誤謬を含んでいるのではないだろうかと思った。(園芸学部 緑地環境学科)

6 前回の感想より⑤ 普遍的な道徳の証明にはコールバーグの言う「心理学」と「倫理学」を互いに交えていくことが必要だと思った。しかし、この考えで難しいのは「心理学」と「倫理学」を完璧に分けることが容易ではないことである。二つの微妙なライン引きには個人の価値観が表れるかもしれない。(理学部 数学情報数理学科) 第三者として他人のことを分析するとき、大部分の人は冷静に理由を言いながら、倫理、法律などに従ってどうすべきかということを言えると思う。しかし、自分が実際にハインツのジレンマのような状況に直面したら、大部分の人は自分の心に従ってどうすべきかを判断すると考えられる。(文学部 国際言語文化学科) 道徳に普遍性はないと考えます。心理学と倫理学は文化ごとに「道徳発達論」的なものを作って、各文化の相互理解につなげるようにできればいいんじゃないかと思いました。(文学部) 今日先生の意見を聞き、普遍の倫理学を考える上で、価値観と現実を行き来して吟味していくという考えを知り、なるほどと思いました。ただ、自分はそれを理解するだけの理解力がなく、単純にコールバーグの第一段階から第六段階までの考えに納得がいきました。(理学部) 数学的に言うと、1+1=2なのではなく、2=1+1ですよ。2を1+1と定義しているのです。これは大多数の人間に受け入れられると思います。道徳の場合、定義しても受け入れられないという人が多すぎるので普遍化できないと思う。個人の気持ちを排除するのはいいと思うけど、それは圧倒的少数の場合のみ可能だ思います。(理学部)

7 前回の感想より⑥ 人命尊重が普遍的だと誰が決めつけたのでしょうか。私はデザイン学科なので、芸術の観点で見てみると、人の命を犠牲にしてまで芸術を大切にする芸術優先主義(名前はうろ覚えですいません)というものだってあります。それを一概には否定できないと思います。(工学部 デザイン学科) 心理学は人間の心の事実を研究する学問である。その心理学を用いてある主張について、万人が善いものとして理解しているという事実に倫理学者が主張する善さ(主張)が付随していると言えなければ、善さは善さとして存在しえないだろうと思いました。普遍的な道徳の存在にかんしては、ないという結論には向かわない。向かったとしてもそれは悪魔の証明と同じ末路を辿ってしまう気がしました。しかし、かといって存在するとも私などには証明することができません。だれかいつの日か証明してくれることを願います。(園芸学部 緑地環境学科) 道徳は確かに存在していても、それは人間が理解できるしうることではないんじゃないかと思います。(例えるならば、カオス理論のような、一つひとつ咀嚼していけば因果が分かるけれど、人間の情報処理を超えている状態)きっとある状況でこういう環境で育ったA君がB君とある行為をして、結果どうなった、いくらの経済効果があった、第三者のC君は・・・と書き出していけば、やがて善悪の決着をつけることはできるでしょうが、そういた議論は不毛な感じがしてしまいます。(文学部)

8 Carol Gilligan アメリカの心理学者。 コールバーグの弟子であり、彼とともに道徳性の発達についての研究を行った。
しかし、コールバーグの発達段階の尺度では女性に多くみられる道徳的判断の独自性が正しく評価されず、その価値が低く見積もられてしまうことを問題視するようになる。 『もうひとつの声(In a different voice)』を出版し、権利と平等を重んじるコールバーグの正義(Justice)の倫理とは異なる、ケアと応答責任(Care and Responsibility)の倫理の存在を主張する。 ギリガンはコールバーグのような仮説ジレンマではなく、女性が実際に人生の中で直面するジレンマ(妊娠中絶)を研究の対象として、ケアと応答責任の倫理の発達を描く。

9 In a different voice コールバーグが最初に6段階の発達段階を提示した時、20年以上にわたって発達を追った84名の被験者は実は全員男性だった。 この段階説に従うと、多くの女性の道徳的判断は正しく理解されず、低く見積もられてしまう。 多くの女性(女性だけとは限らないが)は、コールバーグの尺度では測ることができない、「異なる声(different voice)」で道徳を語っている。これが、ケア(care)と応答責任(responsiblility)の倫理。 このケアと応答責任は、正義の倫理とは異なる人間関係の捉え方や現実の認識の仕方に基づいている。 二つの倫理の違いは、男女の生物学的な違いよりも、男女が生きてきた社会的な領域の違いに根差している。多くの場合、男性は公的な領域で生きることを、女性は私的な領域(家庭)で生きることを求められてきた。

10 二つの声①-正義の倫理- コールバーグのジレンマに対するある11歳の男の子(ジェイク)の回答。盗むことが適切だと考えることの理由。
「一つには人間の命はお金より尊いからだよ。薬屋は千ドル設けたって暮らしはあまり変わらないでしょう。でも、ハインツが薬を盗らなかったら奥さんは死んじゃうじゃない。≪なぜ、お金よりも生命の方が尊いのですか?≫なぜって、薬屋は後で病気にかかっているお金持ちから千ドルなんてすぐに取れるかもしれないけど、ハインツは二度と奥さんを取り返すことはできないだろう。≪なぜできないのですか?≫だって全く同じ人を奥さんにすることはできないじゃない。」 ジェイクは、道徳を数学のように考えている。道徳的問題を方程式のように組み立てて、解を出す作業をしている。数学のように誰が解いても同じ答えが出るような道徳的問題の解決が目指されている。 これは、コールバーグの正義の倫理が目指す方向性と一致する。コールバーグの発達の六段階は、道徳的葛藤への論理的解答がより普遍的なものへと高まっていくプロセス。第六段階では、数学の問題のように全ての合理的な思考をする(つまり、同じ第六段階に属する)人が合意できる道徳的判断が成される。 正義の倫理は、人間は自立(他人から独立)していると考える。自立した個人が他人と生きていく時、ぶつかり合うそれぞれの要求を調整するために道徳的判断が必要とされる。

11 二つの声②-ケアの倫理(去年の感想から)-
今回はハインツ視点でのジレンマの検証であったが、薬屋さん側にもジレンマはあるだろう。双方のジレンマで成り立つ例だと思った。  薬を売らないと → 1人の命を失わせる  薬を売ると  → 収入がなくなり、自分の家計が・・  こう考えると、薬屋さんの立場も考えなくてはならない。     薬屋さんにも収入がないと家計が成り立たないような状況になるのかもしれない。つまり色んな事実(is)がある中でより善い何か(Ought)を育むのに自分の良心が必要になってくるのだろう。(園芸学部) 私はどうしても妻に感情移入してしまいます。たとえ自分が病気であり、助かる可能性のある薬があったとしても夫に盗みという行為をしてほしくありません。自分のために刑務所に入ることになったら私は苦しみ続けると思います。なので、妻の視点から考えるとすべきではなかったと思います。(理学部) 二人はジェイクとは違い、ジレンマの中に論理的な問題ではなく、複雑な人間関係の物語を見ている。論理的な問題ではないため、ケアの倫理の研究には仮説ジレンマは使えない。現実の道徳的葛藤を扱う必要がある。 ケアの倫理では、人間は他人との相互依存的な関係の中でしか生きられない(自立してはいない)と考える。そうした相互依存的な関係の中で相手を思いやり、自分が相手に対して果たすべき責任について考える。 正義の倫理は全ての合理的な人が合意できる解決方法を目指すが、ケアの倫理は複雑な人間関係の中では、どんな解決方法にも限界があると考え、解決されないままの葛藤を説明しようとする。

12 ケアの倫理の発達①-自分だけをケアする-
妊娠中絶のジレンマに直面して。 第一段階では、中絶決定は自己中心的な考え方で行われる。自分が完全に孤独な存在であると感じて(それぞれに孤独を感じざるをえない事情がある)、自分自身を思いやることに注意を向ける。 「それ(出産)を望んでいなかったということ以外、本当に何も考えませんでした。≪それはなぜですか?≫本当にそれを望んでいなかったし、準備さえできていなかったのです。それに、来年は最終学年ですから学校に行きたかったんです。正しい決心というものはないと思います。≪どうしてですか?≫だって、私は妊娠を望んでいなかったんですから」(18歳 スーザン) ※ ケアの倫理の発達は、コールバーグの発達段階とは違い、全     ての人に共通な道筋ではない。また、レベルの高い、低いを比べる   基準も基本的にはない。ここでいう発達は、ケアの倫理によって道   徳的葛藤に応えようとする人が、自分の考えを深めていくプロセス   を大まかに示したもの。

13 ケアの倫理の発達②-自分を犠牲にして他人をケアする-
第二段階では、妊娠中絶の決定をするにあたり、他人を思いやることが判断の基準になる。 女性は自分が大事にしている人間関係を維持するために、他人を傷つけず、他人を思いやることを「善い」ことだと考える。 そのために自分の要求を犠牲にして、他人(恋人、家族、生まれてくる子どもetc)の要求に応えようとする。ここでは自分の思いを表現することと、他人への責任は対立している。 責任という名を借りた自己犠牲は不満へと変わり、結果的に人間関係を危うくすることがある。 「どんな選択ができるというのでしょうか。妊娠を続けるか、中絶かのいずれかの選択肢しかないのです。私が悩むのはどちらも、自分自身を傷つけるか、まわりの人を傷つけることになってしまうからです。自分も他人も満足できるようなやり方があればよいのだけれど、そんな手立てはないのです。誰かを傷つけるか、自分自身を傷つけるかのいずれかしかないのです」(19歳 キャシー)

14 ケアの倫理の発達③-自分も他人もケアする-
第三段階では、自己犠牲と他人へのケアという対立を越えて、自分と他人の両方の要求を充たそうと努める。 他人だけではなく、自分もケアしなければならないと考えるようになると、妊娠中絶においては絶対的に正しい判断がないという現実に直面する。 道徳的判断は、自分と他人の関係の現実を見極め、できる限り両方をケアできるような選択をすることを意味するようになる。 誰もが第三段階への移行に成功するわけではない。自己犠牲と他人へのケアの対立を越えられず、道徳を放棄して、自分が生き抜くことだけを考えるようになるケースもある。 「(道徳問題に正しい答えを出す方法を問われて)私が知っている唯一の方法は、できるだけ意識を研ぎ澄ますことです。何が起こっているかにできるだけ気を配り、自分が何をしているかを意識することです。」 ≪あなたが従っている原理はありますか?≫ 「ええ、それは自分自身と他人に対する責任(responsibility)とケアにかかわる原理といってよいでしょう。ある時は責任を負い、ある時は負わないというものではありません。常に責任を負わなければいけないのです。そういうわけで万能の原理というのはなく、ある場合に上手くいった原理が他の場合には葛藤をもたらすことだってあります。」(30代 シャロン)

15 正義の倫理とケアの倫理 正義の倫理とケアの倫理は、人間関係や現実についての異なる見方に基づいているため、男女のコミュニケーションの中で誤解が生じ、関係が妨げられることもある。 しかし、二つの倫理は対立するばかりではなく、互いに補い合うことが可能。 正義の倫理は人間が自立して生きていることを前提にし、ケアの倫理は人間が相互依存的な関係の中にあると考える。 しかし、自律と相互依存は深いレベルではつながり合っている。人は他人とかかわって生きているかぎりにおいてのみ、自分が他人から独立した存在であるという事を知り、他人と自分を区別する限りにおいてのみ、真の人間関係を経験することができる。 ケアの倫理が焦点を当てる人間関係の複雑さは、正義の倫理が理想とする平等を達成することの難しさを明らかにする。つまり、現実の複雑な人間関係の中では、コールバーグが想定するような道徳的葛藤の論理的解決が通用しないことがある。 また、正義の倫理が焦点を当てる人間の平等な権利は、ケアのネットワークの中に他人だけではなく、自分も含めることの大切さを教える。つまり、相手をケアするだけでなく、自分もケアされる権利を持った一人の人間であることを確認させてくれる。

16 グループワーク ケアの倫理と正義の倫理について、(両者の違いも含めて)自分なりに理解したところをグループで話し合ってみて下さい。
自分が直面した道徳的ジレンマについて考えてみてください。その時、どんな風に判断を下しましたか?その時の判断基準は正義の倫理だったのか、ケアの倫理だったのか、両方用いていたのか、それとも正義でもケアでもない別の倫理を用いていたのか、考えてみてください。 その他、今日の話の中で考えたことを自由に話し合ってみてください。

17 感想シート y_yoshikuni@chiba-u.jp
今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なんでもかまいません。 必ず、名前、所属、学籍番号を書いて出してください。(所属は空きスペースに分かるように書いてください) 授業中に伝えきれなかった質問、意見は以下のアドレスまでお願いします。


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