『発見された倭京―太宰府都城と官道』出版記念講演会 第二特集「九州王朝の古代官道」 全ての道は太宰府に通ず

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1 『発見された倭京―太宰府都城と官道』出版記念講演会 第二特集「九州王朝の古代官道」 全ての道は太宰府に通ず
『発見された倭京―太宰府都城と官道』出版記念講演会 第二特集「九州王朝の古代官道」 全ての道は太宰府に通ず 西村論文 「五畿七道の謎」・補完論文「南海道の付け替 え」 山田論文 「東山道十五國」の比定 ―西村論文「五畿七道の謎」の例証― 紹介と説明:山田春廣

2 日本国の令制「五畿七道」の話 ・各「道」に属する諸国 ・蝦夷の領域と官道の関係 ・東山道が果たした役割 ・東山道がその役割を担えた理由 ・景行紀にある“東山道十五國” ・従来説の“東山道十五國”の説明

3 日本国の令制「五畿七道」 五畿七道(ごきしちどう)とは古代日本の律令制における行政区画で ある。
五畿あるいは畿内は、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。 七道は伊賀から東へ東海道(とうかいどう)、 近江から東へ東山道(とうざんどう)、若狭から東北へ北陸道(ほくろく どう)、 丹波から西へ山陰道(さんいんどう)、播磨から西へ山陽道(さんようど う)、 紀伊から南西へ南海道(なんかいどう)、そして九州の西海道(さいかい どう)。 ただし、先に行政区画と書いたが、そのエリアを所管する政庁が 常設されたのは、大宰府のあった西海道のみである。 (西村論文「五畿七道の謎」より一部抜粋)

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7 蝦夷の領域(陸奥国・出羽国) 陸奥国…七世紀に常陸国より分立(陸奥国は東山道に属するとされている)。
出羽国…712年越後国出羽郡(現在の山形県、秋田県の一部)を割いて建てる。         同年10月陸奥の国の最上・置賜(おきたま)両郡を出羽国に編入。         1869年、羽前国と羽後国に分割され消滅。 石城国(いわき) …718年に陸奥国より分立。数年後に再編入消滅。前図d 石背国(いわしろ)…718年に陸奥国より分立。数年後に再編入消滅。前図e 諏方国…721年に信濃国より分立。731年に再統合され消滅。 1869年に建てられた諸国 岩代・磐城・陸前・陸中・陸奥(むつ)・羽前(うぜん)・羽後(うご)。

8 《蝦夷と境を接する三国》 ・常陸国(東海道) ・下野国(東山道) ・越後国(北陸道) 《蝦夷征服の拠点国》 下野国→陸奥国の領域
越後国→出羽国の領域 常陸国から分立された陸奥国は東山道に所属

9 北陸道側の侵攻状況 ・書紀“大化三年”(647)…渟足柵(沼垂城とも、阿賀野川河口近く?) ・斉明天皇四年(658) …都岐沙羅柵(山形県?所在地不明) ・和銅元年(708)…越国の一郡として「出羽郡」を置く ・和銅二年(709)…出羽柵(山形県庄内地方最上川河口?) ・天平五年(733)…出羽柵を「高清水岡」(秋田城の前身)に移 す。 (高清水岡=秋田市雄物川河口部高清水 丘陵)

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11 侵攻速度の遅さ 約2.916 ㎞/年(3㎞/年以下)の侵攻速度 である。 渟足柵(647年)~ 秋田城(733年)は足掛け87 年、
・書紀“大化三年”(647)…渟足柵(阿賀野川河口近く?) ・・・ ・天平五年(733)…出羽柵を「高清水岡」(秋田城の前身)に移す。               (高清水岡=秋田市雄物川河口部高清水丘陵) 渟足柵(647年)~ 秋田城(733年)は足掛け87 年、 渟足柵(阿賀野川河口) と秋田城(雄物川河口)の直線 距離は約 km(河口間の距離を測る)。 満86年間で約2.475 ㎞/年の侵攻速度と、極めて 遅い。 百済情勢が緊迫した斉明六年(660年)~天武元年(672)の13年間 を除いても、 約2.916 ㎞/年(3㎞/年以下)の侵攻速度 である。

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13 延喜式 卷第卌八 左右馬寮 (927年に完成したとされる)
延喜式 卷第卌八 左右馬寮 (927年に完成したとされる) 左馬寮【右馬寮准此】御牧 甲斐國…柏前牧, 真衣野牧, 穗坂牧。 武藏國…石川牧,小川牧,由比牧,立野牧。 (宝亀二年十月二十七日(771年12月7日)、東山道から東海道に入れ替わ る。) 信濃國…山鹿牧,鹽原牧,岡屋牧,平井手牧,笠 原牧,高位牧,宮處牧,埴原牧,大野牧,大室牧, 豬鹿牧,萩倉牧,新治牧,長倉牧,鹽野牧,望月牧。 上野國…利刈牧,有馬島牧,沼尾牧,拜志牧,久 野牧,市代牧,大藍牧,鹽川牧,新屋牧。

14 『延喜式』による勅旨牧の数 信濃国 16ヶ所 50.0% 上野国 9ヶ所 28.1% 武蔵国 4ヶ所 12.5% 甲斐国 3ヶ所 9.4%
信濃国 16ヶ所  50.0% 上野国 9ヶ所  28.1% 武蔵国 4ヶ所  12.5% 甲斐国 3ヶ所   9.4%  計  32ヶ所 100.0% うち東山道29ヶ所 90.6%

15 東山道以外で 海に面していない国 《東海道》 「伊賀」伊勢から分立 「甲斐」不明 《山陰道》 「丹波」丹後を分立 《山陽道》
「美作」備前から分立

16 元は海に面した国だった丹波国・美作国 『続日本紀』 《和銅六年(七一三)四月乙未(癸巳朔三)》 ○夏四月乙未。割丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。 熊野五郡。始置丹後国。割備前国英多。勝田。 苫田。久米。大庭。真嶋六郡。始置美作国。割 日向国肝坏。贈於。大隅。姶[ネ羅]四郡。始置 大隅国。

17 古代官道「七道」のまとめ ・「海に面した国で構成される〇〇道」はもと もと「海路」の官道だった ・「東山道」は唯一「陸路」の官道だった
・「東山道」は騎馬戦のための古代官道だった ・「東山道」は「軍用道路」の性格が最も強い 官道だった 「もともと」とは、時代を限定できませんので、「縄文・弥生時代以来」くらいの意味です。 「陸路」はその後に発達し、大量輸送の時代に再び「海路」が発達するという経過をたどります。

18 “東山道十五國” 《景行天皇》 五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國 都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、 東國百姓、悲其王不至、竊盗王尸葬於上野國。 【訓読文】 五十五年の春二月(はるきさらぎ)戊子(つちのえね)の朔壬辰(みず のえたつのひ)〔五日〕に、彦狹嶋王(ひこさしまのみこ)を以(も)て、東 山道(やまのみち)の十五國(とをあまりいつつのくに)の都督(かみ)に拜 (ま)けたまふ。是(これ)豐城命(とよきのみこと)の孫(みま)なり。 然(しこう)して春日(かすが)の穴咋邑(あなくひのむら)に到(いた)り て、病(やまひ)に臥(ふ)して薨(みまか)りぬ。是(こ)の時に、 東國の百姓(おほみたから)、其(か)の王(みこ)の至(いた)らざる ことを悲(かなし)びて、竊(ひそか)に王の尸(かばね)を盗(ぬす) みて、上野國(かみつけののくに)に葬(はふ)りまつる。          【岩波古典文学大系67『日本書紀 上』より抜粋】

19 宇野純子さんの「古代東山道と神坂」から抜粋
東山道は古代の五畿七道の一つであり、その範囲に敷設さ れた官道の名称でもある。「東山道」は、彦狭嶋王を東山 道の十五国の都督に拝したという『日本書紀』の記事(景 行天皇55年2月壬辰条)が史料上の初見である。大場磐 雄氏はこの十五国について「東方諸国を示す語として用い られたもので、古道そのものを意味してはいない」と述べ ている。実際に、現在でも個別の国名を当てはめるのは難 しい(1)。『日本書紀』天武天皇14年7月辛未条の詔は 「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と 同時期に範囲が確定したとされ(2)、『延喜式』民部省式 上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出 羽の八国を東山道としている(図1)〔図は割愛〕 注1)大場磐雄 一九六九「古東山道の考古学的考察」『國學院大學大学院紀要』第一輯。以下、大場氏の論は本書による。 2)武蔵国が宝亀二(七七一)年十月己卯に東山道から東海道に移管される(『続日本紀』)等の変更はある。その変遷については木本雅康 一九九六「東山道―山坂を越えてー」木下良編 『古代を考える 古代道路』吉川弘文館を参照のこと。 (【『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』「補論2:古代東山道と神坂」から抜粋】)

20 『延喜式』の東山道 近江国・美濃国・飛騨国・信濃国・上野国・下 野国・陸奥国・出羽国の八ヶ国 仮にすべての国を上・下に分けてみても 上近江国・下近江国・上美濃国・下美濃国・上 飛騨国・下飛騨国・上信濃国・下信濃国・上野 国・下野国・上陸奥国・下陸奥国・上出羽国・ 下出羽国の 十四ヶ国にしかならない。

21 令制日本国の「五畿七道」の まとめ ・東山道は牧場の諸国(軍馬の飼育地域) ・従来説では“東山道十五國”は説明不能
・令制諸国はおよそ六十六ヶ国 ・東北地方(陸奥・出羽)は蝦夷の領域 ・北陸道側の侵攻速度は遅かった ・東山道は唯一の陸路の官道(騎馬の官道) ・東山道は牧場の諸国(軍馬の飼育地域) ・従来説では“東山道十五國”は説明不能

22 全ての道は太宰府に通ず 西村論文 「五畿七道の謎」 補完論文 「南海道の付け替え」 紹介と解説:山田春廣
     全ての道は太宰府に通ず  西村論文  「五畿七道の謎」    補完論文  「南海道の付け替え」                紹介と解説:山田春廣

23 「五畿七道の謎」      西村秀己  五畿七道とは古代日本の律令制における行政区画である。 五畿あるいは畿内は、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。 七道は伊賀から東へ東海道、近江から東へ東山道、若狭から東 北へ北陸道、丹波から西へ山陰道、播磨から西へ山陽道、紀伊 から南西へ南海道、そして九州の西海道。ただし、先に行政区 画と書いたが、そのエリアを所管する政庁が常設されたのは、 大宰府のあった西海道のみである。なぜ西海道だけに行政機関 が常置されてのか?という問いに対しては、「大陸との外交及 び防衛上の重要性」と説明されているが、これは単なる解釈に 過ぎない。現に大宰府は菅原道真の例にもあるように半ば流刑 地とされてきた。もちろん、九州王朝説の立場で見ればその理 由は明白だ。

24 北海道が欠けた令制「五畿七道」(西村論文続き)
 だが、「五畿七道の謎」とはそのようなものではない。 ヤマト一元主義の立場からは絶対に説明できないもの、 それは「北海道」の不在である。この「北海道」とは現 在の行政区分である北海道のことではない。「北海道」 という表現の不在を指す。「北海道」という言葉は明治 二年に北海道開拓使が設置されるまで日本史上に存在し ないのだ。「東海道」「西海道」「南海道」があるにも かかわらず、なぜ「北海道」だけがないのか。もっと 突っ込んでいえば、なぜ「北陸道」を「北海道」と名付 けなかったのだろうか。この謎は日本(倭国)の中心が 弥生時代から連綿と近畿地方(余談だが、この「近畿」という言葉は七〇一年以降に初めて意味を持つもので、 七世紀以前は九州を指していたに違いなく、古代史を論じる際は誤解の元となる。どなたかよい表現を提案戴けないだろうか)にあったと考 えている皆さんには絶対に説明できないのだ。

25 「〇海道」には 北だけが無い 「山陰道」「北陸道」 「山陽道」「東山道」 「南海道」「東海道」 「西海道」

26 九州王朝説に立てば簡単(西村論文続き)  ところが、九州王朝説に立てばことは簡単 だ。「道」がいくつあったのかは不明だが、 「東海道」「西海道」「南海道」があったの であれば「北海道」も存在したに相違なく、 おそらくそれは、壱岐・対馬・任那などのこ とであったろう。倭王武の上表文の「渡平 海北九十五國」がこれに相当するのでは あるまいか。

27 倭王武の上表文 (『宋書』倭國伝、抜粋) 封国偏遠、作藩于外。 自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧処。
倭王武の上表文 (『宋書』倭國伝、抜粋) 封国偏遠、作藩于外。 自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧処。 東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平 海北九十五国。  封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外(がい)に作 (な)す。  昔(むかし)より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を擐(つ らぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)して寧処(ねいしょ)に遑 (いとま)あらず。  東は毛人(もうじん)を征(せい)すること五十五国、西は衆夷 (しゅうい)を服(ふく)すること六十六国。渡(わた)りて海北を平 (たいら)ぐること九十五国。

28 太宰府から四方に向かう海の道(西村論文続き)
妄想のエリアに踏み込めば、西海道は五島から江 南に向かう道、南海道は多褹から琉球に向かい、 東海道は瀬戸内海から大和を含み東へ。文字通り 「海の道」であったろうと想像する。その際、若 狭をスタートとするかどうかはともかく、北陸道 はそのまま北陸道だった。論理的に考えるならば こうするほかはない。これが九州から大和へ日本 の中心が移動した後、現在も使用される「五畿七 道」になった。

29 全ての道は太宰府に通ず 西村論文 「南海道の付け替え」 紹介と解説:山田春廣 なお、論文末に発見の功績は今井久氏に帰するとの注記があります。
     全ての道は太宰府に通ず   西村論文  「南海道の付け替え」                                          紹介と解説:山田春廣 なお、論文末に発見の功績は今井久氏に帰するとの注記があります。

30 「南海道の付け替え」      西村秀己  五畿七道は古代の行政区分の名称であるが、七道は同 時に官道の謂でもある。 〔中略〕  この七道は九州の西海道を除いて全てその時代の首 都から出発する。従って遷都が行われれば、これらの 道も付け替わる。平城京の時代、例えば南海道は平城 京をほぼ南に向かって出発し大和国を通って紀伊国に 入っていたのだが、平安京の時代には山陽道とともに 南西に進み山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で分かれて河内 国を南下した。

31 「南海道の付け替え」  (続き1) 南海道は紀伊国に入った後、紀の川添いに西進し淡路国に 渡って阿波国へと向かう。つまり四国内部の南海道は阿波国 を起点とするのである。ところが、『続日本紀』養老二年五 月にこのような記事がある。 ◆庚子、土左国言、公私使直指土左、而其道経伊豫国。行程 迂遠、山谷険難。但阿波国、境土相接往還甚易。請、就此国、 以為通路。許之。 ◆庚子(七日)、土左国言さく、「公・私の使、直に土左を指せ ども、その道、伊豫国を経。行程迂遠にして、山谷険難なり。 但し、阿波国は境土相接ぎて往還甚だ易し。請はくは、此の 国に就きて、通路とせむことを」とまうす。これを許す。

32 「南海道の付け替え」  (続き2)  これは、これまで都から土左国府(推定高知県南 国市比江付近)へ行くのにわざわざ伊豫国府(推定愛 媛県今治市国分町付近)を経由しなければならな かったので、阿波国府(推定徳島県徳島市国府町) から直接行けるようにして欲しいという、土左国府 からの願いを許したものである。延暦十六年(七九 七)以降の南海道の分岐点である四国中央市から今 治市まではおよそ一〇〇キロメートル。つまり、土 左国への(あるいはからの)使いは二〇〇キロメート ルも回り道をさせられていたことになる。〔後略〕

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