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4/2朝日(朝刊)の報道を見る限り、私は理研の調査員会はおかしいと思いますね。

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1 4/2朝日(朝刊)の報道を見る限り、私は理研の調査員会はおかしいと思いますね。
1。画像が博士論文と酷似が捏造という件は朝刊2面にあるようにネイチャーで使うはずだったという画像で良いとおもう。 2。遺伝子解析を切りはりが改竄という件は朝刊2面にあるように最初のリンパ球のぼんやりの元画像を載 せれば良かったのです,はっきりと示す為にこう言うことをやっただけだと思います。 不正指摘の6件のうち4件はOKですから。誰かが早く再現実験をやれば良い。 小保方さんはNature誌に Errataを出せば良い

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3 小生がPhys.Rev. Lett.に出したErrata

4 キリシタン大名ー慶長3年の日本人クリスチャンは 70万人*もいたー大河ドラマ黒田官兵衛もクリスチャンだった
2014.5.22パソコン研究会 キリシタン大名ー慶長3年の日本人クリスチャンは 70万人*もいたー大河ドラマ黒田官兵衛もクリスチャンだった 二松五男 1。鉄砲伝来ーヨーロッパ文明の到来 2。ザビエルの来日とポルトガル領マカオ 3。高山右近と信長の保護政策 4。秀吉も聞いた少年使節のバイオリン *戦国時代(1600年)の日本の人口は1227万人(6%がクリスチャン?!現在は0.7 %の90万人)

5 激動の天正年間(1573−1592)―西洋文化の到来 前触れ 天文12(1543)ー種子島にポルトガル人が鉄砲を伝える
             激動の天正年間(1573−1592)―西洋文化の到来 前触れ 天文12(1543)ー種子島にポルトガル人が鉄砲を伝える 天文18(1549)ーフランシスコ・ザビエル長崎に上陸キリスト教伝わる 永禄3(1560)ー桶狭間の戦い,信長今川義元を破る 永禄5(1562)ー大村純忠洗礼を受ける(初のキリシタン大名) 天正 元年(1573):8月20日 ー 足利幕府滅亡     8月28日 ー浅井長政が織田信長に攻められ自害(小谷城の戦い) 3年(1575):5月21日 ー設楽ヶ原(したらがはら)で信長・家康軍が武田勝頼軍を鉄砲で破る(長篠の戦い) 6年(1578):   荒木村重が信長に背くー信長キリスト教の布教を条件            に高山右近を通じて説得 10年(1582):1月28日 ー大友宗麟天正遣欧少年使節の4人を欧州に派遣         6月2日 ー 本能寺の変が起こる(信長自害)       6月13日 ー山崎の戦いが起こる(明智光秀農民に殺される) 11年(1583): 4月21日ー 賤ヶ岳の戦い(信長の妹お市自害) 13年(1585):7月11日 ー 豊臣秀吉、関白となる       6月19日 ー 豊臣秀吉がバテレン追放令を発布 15年(1587):7月11日 ー明智玉子がキリスト教に洗礼 18年(1590):4月5日 ー 少年使節帰国、秀吉聚楽第でバイオリンを聞く 19年(1591):2月28日 ー キリスト教に理解を示していた千利休が切腹 後ぶれ 文禄元年年(1592):4月12日 ー 文禄の役が始まる、8月徳川家康江戸城に入る 文禄2(1593) 豊臣秀頼が誕生 慶長3(1598) 秀吉死去  慶長5(1600) 三成の兵が細川屋敷を包囲,細川ガラシャ死去、関ヶ原の戦い 天正遣欧少年使節

6 鉄砲伝来 1543年(天文12年)8月25日,九州南方の種子島にやってき た一隻の中国船に,ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗し
ていた。彼の持っていた鉄砲に着目した時の島主種子島時堯は, 金2,000両を投じてこれを譲り受け,使用法を教わる。鉄砲の 威力を知った時堯は,種子島在住の鍛冶・八板金兵衛清定に命 じて早速その複製をつくらせた*。その後、鉄砲の製作は,またた くまに全国にひろがり,やがて滋賀県国友や,大阪府堺などで 大量につくられるようになった。   *日本に伝えられた火縄銃は、引き金を引くと、バネの反発力で瞬時に火皿の火薬に火縄を叩きつけて撃発する。火薬の爆発力が弾丸に伝わるため、火縄銃の後ろはその爆発力を受け止めなければならない。受け止めに失敗すれば、暴発となり、周囲に被害を発生させる。  「筒底をネジでふさぐ」という方法が必要なのだが、当時の日本にはネジがなかった。あったのはくさび、もしくは溶接であり、不十分な溶接による火縄銃は暴発の危険が憑き纏っていた。これをとく鍵は? 八板金兵衛は妹の若狭(処女)をポルトガル人に献上して 秘密を得た!?ー>若狭は日本人妻となってマカオに赴き、やり方を 聞いて,帰国する。

7 天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル船の船長ピントオは
殿様に鉄砲を差し出す。殿様は刀鍛冶の金兵衛(東野英治郎、黄門様)に コピー製作を命じる。特許権などない時代・・・。 で、なんだかんだで金兵衛の娘の若狭(若尾文子)とピントオが恋仲になる と・・・。 「鉄砲伝来」(若尾文子主演の大映映画)

8 鉄砲が実戦で初めて使用されたのは、天文十八(1549)年五月、
島津貴久の家老伊集院忠朗が加治木城 (鹿児島県加治木町) の肝付兼演を攻めた際(黒川崎の戦い)とされる。翌年には京 の洛中に於いて、細川方が撃った鉄砲によって三好方の兵が死 亡したという記録が残っている。ー>伝来から僅か6年後?! しかし、種子島に鉄砲が伝来(1543年)してから普及までのスピ ードが異常に早過ぎる為、種子島以前にどこか別の地域(堺と か)に鉄砲が伝来していたのではないかとする説がある。 鉄砲の本格的使用 1555年 川中島の合戦 ー>12年後 1575年 長篠の合戦 ー>32年後

9 ザビエルのキリスト教布教 ポルトガル*は16世紀、アフリカ大陸最南端を航海する喜望峰航路をいち早く開拓し
て、大航海時代を築きあげた。ヴァスコ・ダ・ガマは1548年西インド航路を開拓し、コ ロンブスのアメリカ大陸発見の先導となった。さらにマゼランは1522年に世界一周 を達成し、ポルトガルは海上帝国を築き上げた。ヴァスコ・ダ・ガマもマゼランもいず れもポルトガル人だった。スペイン、フランスと並ぶカトリック教国のポルトガルは、 当時ヨーロッパを席巻しつつあった、宗教改革に危機感を覚え、巨万の人口を抱え る中国やアジアに着目、カトリック布教の為にイエズス会を組織してアジアへフラン シスコ・ザビエル等の宣教師を派遣した。ポルトガル人は日本に鉄砲も伝えた。こ の時、ポルトガル人が日本進出の拠点としたのがマカオだった。フランシス コ・ザビエルはスペイン人だが、ポルトガル王の求めで東洋への布教に旅立った。 1549年ザビエルは日本にやって来た。ザビエルが日本で布教をしたのはわずか2 年3ヶ月であった。ザビエルはその後日本を去り、中国への布教の為中国へ行った。 そして中国の広東省で亡くなったとされる。ザビエルの遺骨はマカオにあるといわれ てる。 日本人として初めてヨーロッパへ旅立った、天正少年使節の4人 (中浦ジュリアン、 伊東マンショ、原マルチーノ、千々岩ミゲル)も、イエズス会の巡察使・ヴァリアーノ と共に、ヨーロッパへの旅立ちの途中マカオに10ヶ月滞在した。 * 安倍首相ポルトガル訪問「470年に及ぶ両国交流の歴史をベースにし て・・・・・」と挨拶 ( = 471)

10 鹿児島と山口のザビエル の家には質問したくてたま らない群衆が大勢集まっ た。 日本人は知識欲に飢え ている。 日本人は忍耐強い 清潔である

11 荒木村重が信長に背く キリシタン大名高山右近 父高山飛騨守もキリシタン  当初は反キリスト教で仏教を 信仰していたが、宗教論争で 負けて熱心な信者になってしまった 高山右近は細川ガラシャや千利休等 をクリスチャンに導いた。   荒木村重が石山本願寺、足利義昭、 毛利輝元と結んで信長に背いた時、信長はキリスト   教の布教を条件に荒木村重の家臣である高山右近を   通じて説得したとされている。 信長は安土にセミナリオなどの教会の建設を許可

12 荒木村重の妻「だし」もクリスチャンー高山右近の影響

13 秀吉の聞いたバイオリン 天正少年使節は8年間の旅を終えて帰国した。そのとき西洋の 楽器を持ち帰り聚楽第で秀吉の前で弾いた 『関白は4人の少年使節を呼び、ヨーロッパで習いたる音楽を奏 でてもらいたいと所望した。されば、チェンバロ、アルべ、レウト, リベカがなり始めその響きに関白はひたすら聴きほれて、同じ楽 3たび繰り返すように所望した。終わって彼らに話しかけ、そちらが 日本人であることを大変嬉しく思うと述べ、繰り返し関白の家臣に ならぬかと述べた』(ルイス・フロイスの「日本史」より)

14 細川ガラシャ夫人 明智光秀の娘,お市と並ぶ 戦国一の美女 夫細川忠興(細川元首相の先 祖らしい)の弟、次男、長女 も洗礼。
栗原小巻演じる細川ガラシャ

15 キリシタン大名 大友義鎮:当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関 心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国に 版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に 敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国ま でに衰退した。 大村純忠:永禄6年(1563年)、宣教師からキリスト教について 学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼 を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内で は最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の 約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。純忠の入信 についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が 根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は 妻以外の女性と関係を持たず、死にいたるまで忠実なキリス ト教徒であろうと努力していた。

16 有馬晴信:家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、
天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名 を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年) には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を 派遣している。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すま で、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個 人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。文禄・慶長の役で は、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍。 小西行長:、1584年には高山右近に後押しされたこともあって 洗礼を受けキリシタンとなった。天正13年(1585年)小豆島で 1万石を与えられ。小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリ スト教の布教を行う傍ら、島の田畑の開発を積極的に行った。 また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易と なった高山右近を島にかくまい、秀吉に諫言している。朝鮮出 兵の際クリスチャンの「おたあジュリア」を連れて日本に帰った。

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18 黒田孝高(管兵衛):慶長9年京都伏見藩邸にて死去。59歳。死の
間際、孝高は自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持って くるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。 自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、息子の長政が領 内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエ ス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、 1000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること、 である。 蒲生氏郷:キリスト教に入信する前、高山右近に追い回されるほど しつこくキリスト教の話を突き付けられたことがあった。興味がなか った氏郷は頑なに耳を塞いでいたが、右近が茶の湯の話を持ち出 すと急に興味を持ち出すようになり、キリスト教に入信する。その 後、逆に氏郷が右近を追い回すほど深く没頭してしまった。ちな みに黒田官兵衛がキリスト教に入信したのは、氏郷に勧められた からである。

19 伴天連宣教師ヴァリニャーノ 書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後 の来日では日本布教における先発組のイエズス会
巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。従者 として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づ けられて信長の直臣になっている。日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成の ために教育機関を充実させた。それは1580年(天正8年)に肥前有馬と近江安土に 設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内に設けられた大神学校(コレジオ) 、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のた めの施設、修練院(ノビシャド)であった。また、日本布教における財政システムの問題 点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せ ることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、 ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。 1590年 (天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を 伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚 楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めて の活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる 書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後 の来日では日本布教における先発組のイエズス会 と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対 立問題の解決を目指した。1603年(慶長8年)に最 後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでそ の生涯を終えた。

20 ルイス・フロイス イエズス会士として戦国時代の日本で 宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。 戦国時代研究の貴重な資料となる『日 本史』を記し、日本におけるキリスト教 宣教の栄光と悲劇発展と斜陽を直接 目撃し、その貴重な記録を残した。


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