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12 Peace History Lectures

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Presentation on theme: "12 Peace History Lectures"— Presentation transcript:

1 12 Peace History Lectures
(第七回講義) ベルサイユ・ワシントン体制、国際連盟、集団的安全保障と幣原外交 The Versailles-Washington System, the League of Nations, Collective Security and Shidehara Diplomacy

2 US President Woodrow Wilson
1-2 国際連盟は、当時からみても、現代から振り返ってみても、間違いなく「ハーグ世界国家同盟」もしくは(シッキングが命名した)「(ハーグの)国家連盟」の正当な後継の組織である。 ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ大統領)(1856-1924)は、1918年7月4日に次のように布告した。「我々が求めるものは、被統治者の合意に基づき、人類の組織された(公的な)意見によって維持される、法の支配である。」 US President Woodrow Wilson Clemenceau Lloyd George, George Clemenceau, and Woodrow Wilson

3 3 Versailles ベルサイユ Negotiating at Versailles
1918年11月11日の停戦は、世界が待望していた平和をもたらし、ヨーロッパやアメリカの責任ある人々は、将来の大惨事を防ぐために、一種の国際的な組織の設立を真剣に求めた。 3 Versailles ベルサイユ Negotiating at Versailles Signing of the Versailles Treaty in the Hall of Mirrors

4 このシステムは、一種の執行権である集団的安全保障機構と呼ばれる。
4-5 その目的は、恐怖のバランス(戦争による威嚇と脅し)だった、戦争の前にいまだ存在している武力均衡を、法律による安全保障と軍縮を可能にするシステムにより代替することだった。 このシステムは、一種の執行権である集団的安全保障機構と呼ばれる。 1919年1月18日に、フランスの首相ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)は、パリの外務省で27の勝戦国から派遣された70名と共に平和会議を開催した。 1月25日、その会議において“国際協力を促し、国際的な義務の履行を確保し、戦争に対する安全保障を確立する”ために国際連盟の創立が決議された。 Nitobe Inazo, the League of Nations Unter-Secretary The League of Nations Assembly in Geneva

5 国際連盟 1919-1946

6 6 The “Big Four” at Versailles (including Italian Orlando) ハーグ会議が、第一次世界大戦を防げなかったので、その目的は「終戦後、あらゆる戦争を終結させるために」、いかなる犠牲を払っても、更なる大惨事を防ぐことにあった。

7 THE HORRORS OF WAR Destruction of Ypres Belgium 1914
Ruined French town end of WWI

8 1920年3月、アメリカ上院では、新たな大統領の選出のあと、期待に反してベルサイユ条約と国際連盟へのアメリカ合衆国の加盟は認められなかった、とりわけその理由は、アメリカの上院が、日本の(中国)山東地域の軍事的支配にかかわる国際連盟の決定に同意しないことであったが、かなりの数の上下両院議員にとって、ベルサイユ条約の規定が、超国家的な統治機関の方向に十分進められていなかったためである。 The League of Nations building in Geneva, Switzerland 7

9 8 ワシントン海軍軍縮会議 (1921年1月12日から1922年2月 6日)は、国際平和の保全と国際秩序の強化に対するさらなる一歩であり、重要な貢献であった。 Building this Lexington class warship was cancelled

10 1923年2月、ワシントン会議が成果を上げて終了した後で、長年外国交渉委員会の議長を務めた( )ウィリアム・エドガー・ボーラ(1865‐1940)は、アメリカ上院で長年議論されるだけに留まっていたことについて決議を提起した。それは制度としての戦争の撤廃を求めるものであった。 Senator William Borah 9

11 10-13 1924年に、諸議会の諸議会が取り組んだ重要な提案こそ、「戦争の憲法による禁止」であった。
1924年8月27日にベルンで開催された第22回列国議会同盟の会議の決議には、“第22回列国議会同盟会議は、第4回の国際連盟会議で立案された相互援助条約の草案を含み、侵略戦争は国際犯罪であるという事をはっきりと示した取り決めを採択した”とある。 この会議は、国際連盟の定款の第16条に基づいて同意された義務を保留して、何らかの戦争にかかわる決定を行うことの禁止を目的とした、憲法改定案をそれぞれの議会に提出するよう諸国民のグループに勧めた。それと共にシッキング教授は、近いうちに列国議会同盟の交渉にさいして憲法が即座に改正されるならば、戦争は宣言されるにすぎない、という見解を示した。 かくして国家の憲法に受け入れられるべき「戦争の原則的な禁止」は、「当然、場合によっては国際的な執行権によって個々の国家に課されうる義務が実現するという前提でのみ、」妥当することになろう。 更に、「仲裁裁判所に訴える義務」が指摘され、会議が「すべての国家が世界裁判所の規約の第36条の選択的な条項に対する同意を宣言することに、特別の価値を置いていることが強調された。 10-13

12 13a-b  すでに1924年には国際連盟第五部会がジュネーブプロトコルを採択することによって拘束力を持つ仲裁を支持し、異なる三つの政策を作成した。武器の規制、紛争の平和的解決および集団的行為である。これ以降これらは「安全三原則」とみなされるようになった。 ジュネーブプロトコルは国際連盟に牙「実力」を与えることになった。不運なことにイギリス政府の変化が主な理由で、これは批准されずに終わった。このことは後退であった。だが、この後退にもかかわらず、時代の動きは明らかに超国家的グローバルな方向へ向かっていた。 Voting in the League of Nations Assembly

13 1920年代の日本では、外務大臣の幣原喜重郎が、不干渉政策を貫徹していた。
 1920年代の日本では、外務大臣の幣原喜重郎が、不干渉政策を貫徹していた。 幣原外務大臣がしばしば掲げた目標は、「世界人類と共に戦争なき世界の創造」だった。 14 Shidehara

14 15 Frank B. Kellogg Aristide Briand Uchida Kousai
1928年のケロッグ・ブルアン条約(=不戦条約(正式名称:「戦争放棄に関する条約」))で、ついに戦争の禁止が達成された。この条約は、組織された平和主義の歴史における重要な一段階を意味した。 フランス外相アリスティド・ブリアン( )、アメリカのフランク・ビリングズ・ケロッグ国務長官( )、(ドイツの政治家)グスタフ・シュトーレーゼマン( )、日本の全権使節内田康哉( )、その他との間で交渉後、1928年8月27日パリにて当初9ヶ国が調印した。この条約には、戦争が始まるまでに、ソ連と中国(1931年)も含めて、事実上すべての国家(64ヵ国)が参加した。 Aoki Shuzo Gustav Stresemann at the League of Nations

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17  戦争がはじまると、「交渉による平和」をめざす中立国家や平和主義団体によって、強力で国際的な運動が起こった。特にアメリカ合衆国では、女性運動が、交渉によって戦争を終結させるために尽力した。
1915年2月末、合衆国下院に更なる決議が提出された。この決議は、「中立的な海洋管理の視点にたつ提案」を準備するために、そして「あらゆる中立国」と「可能ならば戦争遂行国」の支持をそのために得るために、そしてこれにより「仲裁裁判権、あるいは現在行われている戦争を調停する他のやり方」によって紛争を解決するための新たな刺激をあたえるために、ひとつの「特別委員会」を設置するというものであった。 Women‘s Peace Delegation to The Hague 1915 Jane Adams Women Peace activists for World Federation 10-11

18 1909年オランダでは「法律による平和」協会が創立された。この協会は、開戦後1914年10月に「オランダ反戦委員会」を設立し、この委員会は、1915年4月ハーグにて大規模な国際平和会議を開催した。
1916年1月、下院で、世界同盟の創設を求める決議案が提出された。この戦争中、将来の国際連盟のために、様々な計画が立てられた。 この戦争中、東アジアの進歩的な政治諸勢力の共同行動のために、様々な計画が立てられた。 12-13 Convention

19 補足 1911年頃の事件(辛亥革命)は、東アジアにとっても重要な意味をもっていた。中国の共和主義革命と満州王朝の没落は、東アジアの進歩的な政治勢力が共同して行動する可能性を開いた。 1898年から1914年まで、中国に対する日本の影響は無視できないものだった。中国革命は、なかでも日本で学んだ、あるいは康有為のように日本に亡命していた(追放されていた)中国の改革者によって準備された。 日本では外交官の幣原喜重郎(1872-1951)は、西洋の政治理念と平和の国際法的な諸問題に関心があった。彼は1904年から1911年まで外務省の機密情報局長を務め、1907年の第二回ハーグ平和会議では、ハーグの日本の代表団と連絡を保った。 幣原は1912年9月から1913年12月までの間、ワシントンで、カリフォルニアの、なかでも日本国籍を持つ者に対する差別的な移住規則を廃止するための交渉を行った後、ロンドンを経由してハーグに赴いた。ハーグでは、1914年の6月から1915年の9月まで、オランダおよびデンマーク公使の職についていた。 1918年10月から1924年6月に外務大臣に就任するまで、幣原の名前はハーグの常任仲裁裁判官名簿に記載されていた。 幣原は、「国際連盟」の創立をめぐる計画や理念を熟知し、外務次官として、1916年初め「日独戦役講和準備委員会」の議長を引き受けた。 14a-f Shidehara Kijuro

20 11月30日、「政務局」のヨーロッパ部局の長小村きんいちは、覚書きを提示し、そこで次のような要請を行った。
(1) 日本は、同権の原則の受け入れを求めて努めなければならない。 (2) 日本は、活発な世界平和政策と友好的な外交政策を行わなければならない。 (3) 日本は、その横柄な中国政策を根本的に修正しなければならない。 この覚書は、項目(3)に対し、日本は中国大陸における特別属地と勢力範囲を率先して廃止し、「義和団」事件の現在進行中の損害賠償の支払いを放棄し、中国から全軍隊を撤退し、米国の四国借款団を支援しなければならないと、述べている。 わずか数日後、平和会議の全権使節、牧野伸顕(1866-1946)は、外交調査会で小村の提案を採り上げた。 内田外務大臣は、全ての点で同意した。 12月8日の外交調査会会議で、国際連盟は承認された。 Makino Nobuaki 14i

21 ドイツの平和協会は、1892年オーストリアの女性作家ベルタ・フェリツィタス・ゾフィー・フライフラウ・フォン・ズットナー(1843‐1914)と平和主義者アルフレート・ヘルマン・フリート(1864‐1921)によって創立された。 5c

22 平和な時期に行われ、啓蒙運動によって十分に準備されていたこの会議、すなわち軍縮のための諸国による最初の公式会議は、時宜をえたものであった。
25-27 ロシア皇帝二コライⅡ世(1868‐1918)とオランダのヴィルヘルミナ女王(1880‐1962)が、1899年5月に第一回ハーグ平和会議に招待された時(とき)、数多くの平和構想の中に現れていた数世紀/にもわたる古くからの夢が実現したと思われた。 Queen Wilhelmina 平和な時期に行われ、啓蒙運動によって十分に準備されていたこの会議、すなわち軍縮のための諸国による最初の公式会議は、時宜をえたものであった。 国際的な平和運動は19世紀に、インドや東アジアでも声高にその関心事を表明していたし、世論に影響を与えていたし、世論を動かしてもいた。 疑いもなく存在する関心事の共同体のために、いまや相応の国際的な組織が見いだされねばならなかった。 Tsar Nicholas II

23 フランスやアメリカの革命は、新時代のヨーロッパと新世界のための準備だったのだという。
Voltaire 37-39 フランスやアメリカの革命は、新時代のヨーロッパと新世界のための準備だったのだという。 商業や文化的な相互 作用が世界中に広がり、相互 依存が次第に増えると全世界的な平和団体(連合)が必要不可欠になった。 Jeremy Bentham Immanuel Kant ヴォルテール(1694~1778)、イマーヌエル・カント(1724~1804)、ジェレミー・ベンサム(1748~1832)、ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)などの学者達にはとっくに知られていた。 イギリスやアメリカでは、19世紀初頭に最初の平和会が創立され、この時代からハーグ平和会議へ通じていった。 Rousseau French Revolution

24 Japanese enlighteners
後で、日本でも同様に植木枝盛(思想家・政治家、1857~1892)が、効力のある国際公法を万国公法と名づけ、世界議会様式を万国供議政府と名づけた。 Itagaki Taisuke 40

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