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わかりやすい 郷土の歴史 香椎 町並み形成 (写真提供) (企画・作成) 相野裕治氏.本郷英一氏、 藤野庫充氏

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1 わかりやすい 郷土の歴史 香椎 町並み形成 (写真提供) (企画・作成) 相野裕治氏.本郷英一氏、 藤野庫充氏
香椎 町並み形成 1..わかりやすい郷土の歴史(香椎町並み形成) 自己紹介 柳瀬英昭と申します。 約12年間名島に住み、香椎に越してきて34年になります。 現在、住まいは御島崎1丁目香椎フラワーハイツ第2です。  叔母が香椎花壇を経営しておりましたので、香椎には昔から何か興味がありました。私自身、昭和も22年頃(5才頃)まで香椎本通りの茂藤さんの住宅に住んでいました。  現在、「さんぽ会」歴史ガイドボランティアの会で広報活動をしております。また、香椎のWebページ(香椎タウンストーリー)を公開して13年目を迎えます。 スライドスタート  本日は、校区の方々から提供を受けました資料を基に「香椎、町並み形成」と題して、写真資料と共にお話させて頂きます。  また話の中で皆様と、お考えに差異がございましたら後ほどお知らせください。 (写真提供) 相野裕治氏.本郷英一氏、 藤野庫充氏 香綾会(香椎高校同窓会)、和白公民館 .etc (企画・作成) 『香椎タウンストーリー』 栁瀬英昭 (出典) さんぽ会

2 濱男片へら町 耳塚 濱尾の町 兜塚 文政4年(1821年) 頓宮 甲岩 濱男社 御島
浜男地蔵堂高台 香椎の町は、埋め立ての歴史、JRや西鉄の交通機関の歴史と相まって発展して参りました。 2.浜男片へら町    浜男は画面でも、お分かりのように、海岸に開けた小さな漁村のようでした。明治初期までは、浜男通りは海岸だけの20戸余りの宿場町で、字名を「宿」と云われていました。    宿場町であるが故に香椎宮への崇高は厚く、同宮に背を向けて家を建てることをせず、反対側(海岸側)しか家を建てなかったそうです。 左//筑前名所図絵の「唐津街道 香椎一の鳥居」 右//明治33年浜男の地図  ①唐津街道(青柳道・よろい坂)  ②甲塚・耳塚  ③六地蔵が祀られていたという「浜男地蔵堂高台」   昭和41年1月に焼失した「公会堂」や浜男神社  ④同高台は浜男で一番高いところ⇒昔灯台らしき物があったとか。 文政4年(1821年) 旧唐津街道 頓宮 甲岩 濱男社 御島

3 濱男(はまお・はもお) 大字香椎とは 発祥の地 長谷、香椎1番地 ⇒香椎宮勅使道⇒ 唐津街道浜男本通り⇒ 田原眼科まで =大字香椎
発祥の地  長谷、香椎1番地        ⇒香椎宮勅使道⇒         唐津街道浜男本通り⇒         田原眼科まで        =大字香椎 大字濱男とは 田原眼科を境に下原(現在のオークタン入口付近) までを言う。=大字浜男 3.濱男(はまお・はもう)  現在、香椎駅前の町名は駅前1丁目から3丁目まで有りますが、「浜男」とか「よろい坂」の方が通りが良いと思われます。 「はまお」お年寄りは「はもお」とも言われます。 大字香椎⇒ どこから、どこまでを言うのでしょう。 発祥の地、長谷に香椎1番地があり、勅使道を経由し、唐津街道の浜男本通りに入って旧田原眼科までを大字香椎と言います。 では、大字浜男の地域は何処でしょう。浜男の地名は、旧田原眼科を境に下原(現在のオークタウン入り口付近)までを言います。

4 旧香椎地区に多い名字 下原 秦 天野 中尾 尾崎 唐原 田代 高倉 森 さきむら 浜男 本郷 橋口 桜井 木下 柴田 香椎 石川 西尾 三苫
安河内 唐原 田代 高倉 さきむら 浜男 本郷 橋口 桜井 木下 柴田 香椎 石川 西尾 三苫 武内 長谷 黒木 長  (谷口) 4. 旧香椎地区に多い名字を計上 注:谷口は長谷ダムの下をいう 順不同

5 度々紹介される画像で、香椎埋立の歴史を物語る記 録MAPです。 大正15年
貝塚線 大正13年開通 九州鉄道 明治23年開通 平成19年 昭和52年 平成11年 明治33年 昭和25年 5. 香椎埋立の歴史   度々紹介される画像で、香椎埋立の歴史を物語る記   録MAPです。 大正15年

6 埋め立て地を現在の地図と比べる 昭和25年当時と現在
香椎潟 香椎潟 香椎潟 6.埋め立て地を現在の地図と比べてみました。 昭和25年当時の千早(香椎団地)の写真と現在の地図を比較しました。 写真(香椎団地)赤の線から右は海。 ふくみつ病院他マンション群は海の中です。 現在の「ふくみつ病院」の位置

7 北西に開いた香椎潟に、御島神社の御島と、現在は 陸続きの妙見島が見えます。
名島水上飛行場跡 7. 昭和25年代の航空写真   名島・千早・香椎・香住ヶ丘   北西に開いた香椎潟に、御島神社の御島と、現在は 陸続きの妙見島が見えます。 昭和25年代の名島・千早・香椎・香住ヶ丘

8 御島崎(昭和37~38年) 御島崎団地等用地埋立前の風景
現在の住所   御島崎2丁目 御島橋 50年が経過して現在の写真 8.御島崎  (昭和37年~38年)御島崎団地等用地埋め立て前の風景  この海面一帯には「海苔ひび」が立っていました。  場所は今のアンピール香椎駅前裏側付近。 この部分は昔の波消しブロック

9 堤 防 跡(御幸保育園・ふくみつ病院前) 昔は海だった 白フェンスの右側 9.波消しブロックの遺構
堤 防 跡(御幸保育園・ふくみつ病院前) 昔は海だった 白フェンスの右側 9.波消しブロックの遺構  現在も、昔海岸線であった堤防跡が残っている箇所が有ります。   千早6丁目御幸公園交差点付近の遺構   (御幸保育園・ふくみつ病院前) 堤防跡

10 空から見る濱男のまち30年の推移 国道3号線 西鉄香椎駅 現在のセピア通り 1981年(昭和56年) 1948年(昭和23年)
10.浜男のまち30年の推移 浜男のまち30年の推移(町の姿を空から俯瞰した写真) 昭和23年から56年へ、30年以上を経過して香椎の町も大きく変わろうとしています。昭和7年に出来、14年には姿を消した「新香椎球場」は無く、23年には更地となり56年には住宅等が立ち進んでいます。 この30年間で顕著に変化したのは道路の整備ではないかと思います。現セピア通りの前身が姿を現し、町を横断する道は「ハクショウ通り」、から「みゆき通り」へと続き、香椎参道につながっています。 昭和23年 68年経過 昭和58年 35年経過 昭和7年代に香椎野球場があった場所 香椎宮参道 新しく整備された道

11 香椎浜男の町にあった新香椎球場 ・ いつ・・・・昭和7年 ・ 誰が・・・・西鉄の前身「博多湾鉄道汽船」
・ いつ・・・・昭和7年 ・ 誰が・・・・西鉄の前身「博多湾鉄道汽船」 ・ どこに・・・現在の福岡銀行香椎支店の場所        (位置的にはバックネット側) ・ どのような試合が・・・・戦前は学生や社会人の野球場として使用され、   学生野球大会には旧満州(中国北部)や台湾からも出場があった。 ・ 球場の出入り口はどこに・・・・現在の西鉄貝塚線セピア通りガード下   辺り。 ・ 球場はどうなったの・・・・昭和14年、同球場は約1㌔先の香椎花園に球場が完成し、まもなく取り壊され畑となった。 11 .いつ・・・・昭和7年 ・ 誰が・・・・西鉄の前身「博多湾鉄道汽船」 ・ どこに・・・現在の福岡銀行香椎支店の場所        (位置的にはバックネット側) ・ どのような試合が・・・・戦前は学生や社会人の野球場として使用され、   学生野球大会には旧満州(中国北部)や台湾からも出場があった。 ・ 球場の出入り口はどこに・・・・現在の西鉄貝塚線セピア通りガード下辺り。 ・ 球場はどうなったの・・・・昭和14年、同球場は約1㌔先の香椎花園に球場が完成し、まもなく取り壊され畑となった。

12 三塁側を見る(昭和8年7月)高校野球大会 木下季大君 打つ ◇中央左の丘は頓宮・その左に明石邸の大きな建物。 その横に浜鳥居。
木下季大君 打つ 12. ◇中央左の丘は頓宮・その左に明石邸の大きな建物。   その横に浜鳥居。 ◇三塁側スタンドに沿って電車線路の支柱。 ◇センター奥は香椎潟の海。右奥の丘は舞松原の「陣 の越」ではないだろうか。 ◇ホームベース辺りが現在の福岡銀行香椎支店。 ◇中央左の丘は頓宮・その左に明石邸の大きな建物。   その横に浜鳥居。 ◇三塁側スタンドに沿って電車線路の支柱。 ◇センター奥は香椎潟の海。右奥の丘は舞松原の「陣の越」ではないだろうか。 ◇ホームベース辺りが現在の福岡銀行香椎支店。

13 一塁側スタンドを見る 13.

14 昭和6年8月の香椎球場 14. 新香椎球場と命名される前の写真と思われます。
一塁側奥に見えるのは、香椎検番(桜井家)・ホームベース右側の建物は旅館「富士屋」(黒木家)。  故香椎公民館館長 本郷辰雄氏の小冊子の文中に 「球場のスタンドは、夏ともなれば絶好の夕涼みの場所となって、横には香椎検番があり芸者の夕涼みも乙なものであった」と書かれてあります。 新香椎球場と命名される前の写真と思われます。 一塁側奥に見えるのは、香椎検番(桜井家)・ホームベース右側の建物は旅館「富士屋」(黒木家)。  故香椎公民館館長 本郷辰雄氏の小冊子の中に「球場のスタンドは、夏ともなれば絶好の夕涼みの場所となって、横には香椎検番があり芸者の夕涼みも乙なものであった」と書かれています。

15 三塁側よりセンター方向・昭和8年7月 15. 16の画像説明 左手前 国鉄と博多湾鉄道汽船の線路 半島中央 名島火力発電所の煙突
15. 16の画像説明 左手前        国鉄と博多湾鉄道汽船の線路 半島中央       名島火力発電所の煙突 半島の先端     名島水上飛行場(クレーンがかすかに見える) 名島半島先の島  妙見島 中央奥左       能古島 中央奥右       志賀島 右の半島先端    長崎の鼻 すぐ横に旧香椎花壇     ◇左の突き出た半島は名島・火力発電所の煙突。 ◇半島の先端に名島水上飛行場のクレーンがかすかに。 ◇島は妙見島 新香椎球場のすぐ裏は香椎潟です。

16 頓宮から俯瞰(昭和7年代の香椎潟) 左手前 国鉄と博多湾鉄道汽船の線路 半島中央 名島火力発電所の煙突 16.古老の話
左手前        国鉄と博多湾鉄道汽船の線路 半島中央       名島火力発電所の煙突 半島の先端     名島水上飛行場(クレーンがかすかに見える) 名島半島先の島  妙見島 中央奥左       能古島 中央奥右       志賀島 右の半島先端    長崎の鼻 すぐ横に旧香椎花壇     16.古老の話 ① 当時、来日中であったベーブルースが新香椎球場へ来場。試しに打ったボールは外野フェンスを越え、香椎川へ落ちた。 そのボールを拾ったという方が現在も香椎におられますが、ボールの行方は現在わからないそうです。 ② 球場のスタンド脇の金網には、子どもが通り抜けることが出来る位の穴がありました。 お金を持たない、いたずら盛りの悪友が、スタンドの外から、後ろ向きにお尻を突っ込み、守衛さんから「どこから出よるか」と見とがめられ、晴れて無賃入場したと言うことを笑いながら当時のことを話してくださった。

17 JR香椎駅・西鉄香椎駅周辺 17,JR香椎駅・西鉄香椎駅周辺 (25年当時の浜男本通り)
17,JR香椎駅・西鉄香椎駅周辺 (25年当時の浜男本通り)  香椎町は埋め立て、鉄道、国道により大きく発展してきたと云っても過言ではありません。 町の発展の形成を写真で辿ってみましょう。 浜男本通り 浜男本通り西側より望む 昭和25年当時

18 国鉄香椎駅 18.国鉄香椎駅 「開業当初の香椎駅前は片男佐海岸で、線路のそばで水しぶきが上がっていた」と門鉄駅物語に記されています。小さな漁村で、お客も少なく開業の年(明治23年)の香椎駅1日平均   乗車人員をみるとわずか42人でした。 1907年(明治40)7月1日に九州鉄道が国有化 1910年(明治43)構内を拡張し、同年10月駅舎を改築(八代駅の古材)で建てられ、11月20日に移転(初代香椎駅)しました。 1987年(昭和62)4月1日に国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承、現在に至っています。 その間1988年(昭和63)3月13日(2代目)の南欧風香椎駅舎改築完成しました。 1996年(平成9)3月16日に駅舎は全面改築され、4階建ての駅ビルが完成(3代目)しました。 画像は、昭和35年の国鉄香椎駅。懐かしい駅前ロータリーを見ることできます。

19 南欧風な二代目駅舎(昭和63年3月~現駅ビル平成8年3月完成)
19. 南欧風な二代目駅舎(昭和63年3月~現駅ビル平成8年3月完成)

20 三代目のJR香椎駅(フレスタ香椎駅ビル)1996年(平成8年3月)
20. 三代目のJR香椎駅(フレスタ香椎駅ビル)1996年(平成8年3月)

21 国鉄香椎駅前町並み 21. (左)昭和12年 (右)昭和27年代 国鉄香椎駅前の風景。
 国鉄香椎駅前の風景。 (右写真)「丸屋旅館」は旧「フォトスタジオ・アイノ」さんのお店。

22 国鉄香椎駅前町並み 22 昭和30年代    道路は未舗装    (左)国鉄香椎駅前から西鉄踏切側を望む    (右)国鉄香椎駅を望む

23 国鉄香椎駅前町並み 23(左)昭和30年代      旧「よし本」側から国鉄香椎駅を望む。   (右)昭和34年代      国鉄香椎駅前から電車踏切側を望む。

24 ドラマのモデルとなった町並み 昭和30年~35年代の香椎の町 北野たけしさん主演のドラマ「点と線」のオープンセットのモデルとなりました。
24.ドラマのモデルとなった町並み 画像は昭和30年~35年の香椎駅前の町並みですが、北野たけしさん主演のドラマ「点と線」のオープンセット(横浜)のモデルとなりました。 昭和30年~35年代の香椎の町 北野たけしさん主演のドラマ「点と線」のオープンセットのモデルとなりました。 オープンセット

25 25:昭和40年4月 西鉄セピア通り踏切から国鉄香椎駅側を望む。
 香椎名店街などのお店と八百重旅館の看板も見える。

26 新香椎駅 26 昭和15年 新香椎駅 1924年(大正13)5月23日、西鉄貝塚線の 前身「博多湾鉄道汽船」の新博多駅(現在の
26 昭和15年 新香椎駅    1924年(大正13)5月23日、西鉄貝塚線の     前身「博多湾鉄道汽船」の新博多駅(現在の    西鉄千鳥橋バス営業所)から和白間が開通。    営業を開始し、同時に「新香椎駅」として開業    しました。    1942年(昭和17)9月に福岡県内の私鉄5社    が合併。    西日本鉄道誕生。新香椎駅は1950年(昭和    25)5月15日に「西鉄香椎」と改称。 高架前の西鉄香椎駅は、西鉄全線で唯一大正    時代および戦前の駅舎でした。

27 27 昭和30年代    西鉄香椎駅 トイレ横の香椎町案内板

28 28. 昭和34年    西鉄香椎駅構内

29 香椎駅の位置は海岸線の名残として、スロープ状の上にあり、ここが海岸線の波打ち際だとよく分かる地点です。
29:波打ち際だった香椎駅周辺 香椎駅の位置は海岸線の名残として、スロープ状の上にあり、ここが海岸線の波打ち際だとよく分かる地点です。 駅裏の古老の話では、前が海だったので、すぐ飛び込むことができたと言う。 旧西鉄香椎駅(印象的な清張桜)

30 30.西鉄香椎駅前にあった「香椎信用組合」 平成24年まで、旧駅前で営業。現在の名称は「とびうめ信用組合」。 香椎商工連盟昭和38年6月竣工。

31 平成13年12月 今では懐かしいセピア通りの西鉄踏切
31.今は、懐かしセピア通りの西鉄踏切 (平成13年12月) 平成13年12月 今では懐かしいセピア通りの西鉄踏切

32 32:香椎新浜町(3号線側を望む)(昭和44年4月)
 場所は旧香椎公民館に入る角(旧イナバビル)

33 33.

34 セピア通り 34.

35 35:セピア通り完成祝賀パレード(昭和61年4月7日)
 セピア通り名称の由来  歩道を敷き詰めたレンガのセピア色に、ちなんで通りの名称 が決まったそうです。  この画像のバックに2代目JR香椎駅駅舎工事が進行しています。 横断幕にも逸話があり、  主催者は是非とも横断幕を設置したいが、警察からOKが出ません。そこで一考、「交通安全」を表示することで了解を得たとか。

36 濱男本通り 36. 濱男の町並み 昭和15年当時

37 昭和16年浜男本通りの消防分団車庫と火の見櫓
37:浜男本通りの消防分団車庫と火の見櫓(昭和16年) 戦争で、この櫓も軍に供出され、撤去されました。

38 38.

39 消防分団車庫 39.戦前まで在った香椎消防分団の火の見櫓は無い 萩尾文具店前 昭和38年当時

40 40:浜男本通りセントラル映画館(昭和37年) 当時、映画館は香椎に2軒あり浜男本通りと参道(現在のキ エイ会病院前辺り)にあった。 セントラル映画館 昭和37年代

41 香椎川付近 41.

42 国道3号線・片男佐海岸周辺 42:国道3号線・片男佐海岸周辺 (写真)国道3号線(30年~35年)
   (写真)国道3号線(30年~35年) 国道2号線として昭和8年に開通。御島橋付近は昭和10年に開通。昭和40年一般国道3号線となる。 バス停は、現在の位置より千早寄りにありました 昭和30年~35年代の国道3号線

43 太田別荘と太田曲がり 福富病院(火事で焼失) 43. 新国道2号線 昭和16年当時(御島橋付近)

44 44:朝日国際マラソン(現:福岡国際マラソン) 当時は雁ノ巣折り返しで行われ、香椎の3号線も賑わっていた。
(写真)昭和27年のレースもよう。 選手 クラレの寺沢 徹さん 昭和42年 2時間10分の壁を破った、オーストラリアの デレク・クレイトンVS佐々木精一郎のデットヒートは思い出に残るマラソンでした。 朝日国際マラソン・当時は雁ノ巣折り返しで行われていました(昭和年のレース)寺沢選手

45 45:国道3号線香椎交差点(昭和49年2月) ユニードの大看板はスーパー「アピロス」現在のマンション「アンピール香椎駅前」 香椎3号線交差点とスーパー「アピロス」 (現:アンピール香椎駅前)

46 ルネサンス香椎 46. 国道3号線御島橋付近

47 片男佐海岸 この辺りにボート小屋がありました 47. 岩礁地帯の片男佐海岸(昭和37年当時) 貝掘りを楽しむ人々

48 懐かしい緑の松原(片男佐海岸) 48:片男佐海岸貸しボートと緑の松林(昭和37年当時)
   昭和57年頃より埋立による潮流の変化で、現在は1本の松もない。 片男佐海岸(昭和37年~38年代) 松林と貸しボート(香椎花園裏の海岸)

49 49:片男佐海岸(昭和37年当時)御島神社と名島の妙見島
御島神社の鳥居 名島 妙見島 49:片男佐海岸(昭和37年当時)御島神社と名島の妙見島  以前は、御島神社は香椎宮の西方海上800㍍にあると言われましたが、現在は埋め立てられ、イオン側から歩いて渡ることもできる。  名島の妙見島は現在陸続きとなり、島の形を呈していない。  昔は、大潮時期には妙見島付近まで潮が引いていたそうである。 片男佐海岸の岩場(昭和37年代) 右「御島の鳥居」・左「名島・妙見島」

50 昭和35年当時の片男佐海岸(背景は公団香椎団地)
50:片男佐海岸(昭和35年当時)香椎花壇の生けす。    34年当時の子どもたちはプール代わりに、生けすで泳いでいたとか。 昭和35年当時の片男佐海岸(背景は公団香椎団地)

51 51. お わ り ご清聴ありがとうございました


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