精神衛生運動の前進をめざして 回顧と展望 第20回日本精神衛生会精神保健会議 記念講演 秋元波留夫 越前海岸東尋坊
1.はじめに 日本精神衛生会が主催するこの「日本精神保健会議」、「メンタルヘルスの集い」も1987年、昭和62年2月21日に、第1回を開いて以来、回を重ね、今回、第20回を開催するはこびとなりました。回を重ねるごとに盛んになり、今回もこのようにたくさんの方々のご参加を頂きました。これもひとへに、会員の皆さん、市民の皆さんのご支持、ご協力のおかげであり、厚く御礼申し上げます。 原田憲一理事長からこの会議発足20年の記念の意味をこめて、わたくしに「思いで話」をするようにとのきつい要望があり、お断りできずお引き受けすることになりました。皆さんのお役に立つお話ができるか、どうかわかりませんが、お聞き頂ければ幸いであります。 Mental Hygiene精神衛生にかわってMental Health精神保健という言葉が用いられるようになったのは戦後のことでありますが、私たちが、私たちの組織を敢えて今日も「精神衛生会」と呼んでおりますのは、この言葉の由来、とくにその歴史を大切にしたいと念願するからにほかなりません。
2. 何のための回顧か まず、わが国の精神衛生運動が歩んだ100年の歴史の回顧から話をはじめたいと思います。精神障害者の処遇改善に端を発する精神衛生運動の歴史を回顧する時,先覚者の努力が大きかったことは誰も疑いません。しかし,彼らをゆり動かしたのは、社会から隔離され,監置されていた多くの精神障害者の存在であり,彼らに対する社会の無視と偏見でありました。欧米の精神衛生運動のはじまりが、近代ヒューマニズムの勃興と深い関わりがありますように,わが国もまた同様であります。あとでお話するように反ヒューマニズムそのものである戦争が精神衛生運動に破綻を齎した歴史的事実はその何よりの証拠であります。 この歴史的事実を回顧することなくしては、精神衛生運動の未来を正しく展望することはできません。未来の展望に役だつ回顧を述べることが私の願いであります。
3. 先駆の時代 相馬事件 この事件は統合失調症と思われる旧相馬藩主をめぐるお家騒動で,患者の診療にあたった東京帝国大学教授榊俶(呉秀三の前任者)、東京府癩狂院(都立松沢病院の前身)の院長中井常次郎らは,旧藩主を精神病者にしたて病室に監禁した罪を問われ取調べをうけ,中井のごときは投獄の憂き目さえみたのであります。時の内務省衛生局長後藤新平らの有識者をはじめ世論は,この事件を告発した「忠臣」錦織剛清に同情的で,彼の著わした「神も仏もなき闇の世の中」(明治25年10月発行)は当時のベストセラーになったということです。
東京府巣鴨病院と同居した東京大学精神病学教室と 呉秀三教授 東京府巣鴨病院と同居した東京大学精神病学教室と 呉秀三教授
病院医療改革と拘束具の廃棄 東京大学の精神医学教室が同居していた巣鴨病院を主宰することになった呉秀三(1865-1932)がまず行なわなければならなかったのは、呉が学んだヨーロッパ先進国に比べ著しく立ち遅れているわが国の精神医療を改革することでありました。東京府当局と談判して巣鴨病院病棟の全面的改築など矢継ぎ早やのを改革が実行されましたが、しかし,建物の改造にもまして画期的であったのは患者処遇の革新であり、その第一着手として着任怱々の1901年11月,それまで公然と使用されていた手革,足革,縛衣などの拘束用具の使用を厳禁するとともに、それらをすべて破棄したことです 。
精神病者慈善救治会設立の頃 1902年 精神病者慈善救治会創立当時の役員(大隈邸) 園遊会の行なわれた早稲田 大隈邸
精神病者救治会機関誌「心疾者の救護」 1928年、大正13年に発行されたこの機関誌の表紙の図案は帝展派の洋画家多々羅義雄の筆により,慈善の女神が大地に慈愛の水を零しているところだということです(池田隆徳:救治会30年の回顧,救治会報,59号,昭15. による)。この表紙には呉先生の筆になると思われる明治調の「精神病者救治会」のアピールが載っています
4. 日本精神衛生協会の設立と救治会 の衰退 1930年、昭和5年5月、世界ではじめての「第1回世界精神衛生会議」がアメリカ合衆国ワシントンで開かれ、わが国から参加したのは、その前年1929年、これは私が東京大学を卒業した年ですが、定年退官した呉の後任となった、東京大学教授三宅鉱一と慶応義塾大学教授植松七九郎の2人でありました。そして、その翌年、1931年、昭和6年、6月13日,三宅鉱一のよびかけで、「日本精神衛生協会」が、芝公園内日本赤十字社参考館講堂で発会式を挙げております。しかし、「日本精神衛生協会」という新しい組織が出来ても、救治会はそのまま存続しましたから、わが国には目的を同じくする精神衛生組織が二つ存在することになりました。
15年戦争のなりゆき 1931(昭和6)年 柳条湖事件。関東軍満州侵略 1932(〃 7)年 満州国建国 15年戦争のなりゆき 1931(昭和6)年 柳条湖事件。関東軍満州侵略 1932(〃 7)年 満州国建国 1933(〃 8)年 国際連盟脱退。満州開拓移民団結成 1937(〃 12)年 7月7日北京郊外盧溝橋事件。日中全面戦争 1938(〃 13)年 戦争中国全土に拡大。国家総動員法発令 1940(〃 15)年 日独伊三国軍事同盟締結。佛印侵略 1941(〃 16)年 真珠湾爆撃。米国、英国に宣戦布告。太平洋戦争突 入 1944(〃 19)年 米軍マーシャル群島占領。B-29東京空襲 1945(〃 20)年 米軍沖縄占領。本土空襲激化、広島、長崎原爆被災。 ポツダム宣言受諾。全面降伏。敗戦(8・15) 1946(〃 21)年 天皇神格否定の詔書、国号日本国 1947(〃 22)年 5月3日、日本国憲法公布(11.3)
5. 15年戦争と精神衛生運動 精神衛生運動にもこの統制の波は押しよせます。日本精神衛生協会と救治会の2団体のほかに日本精神病院協会をも加えて新団体を作るという動きであります。厚生省(1938年設置)の強制によって日本精神衛生協会、救治会、日本精神病院協会の3団体が「発展的解消」を遂げ、「臨戦体制に即応」し,「大同団結して強力な新団体を結成」したのは1943年8年7月のことです。新団体は「精神厚生会」と呼ばれ,おもな役員は,会長厚生大臣小泉親彦(前陸軍省医務局長),副会長三宅鉱一(元日本精神衛生協会会長),副会長高杉新一郎(前海軍省医務局長)らであり、事務局は厚生省衛生局に置かれました。役員の顔ぶれからもわかるように、軍部独裁の御用団体であり、この会が行なった事業は戦力増強に関係のあることばかりで、国民の精神衛生とはまったく無縁のものでありました。戦争によって精神衛生運動は壊滅したのです。まさに、戦争の精神衛生運動に及ぼす打撃がいかに深刻であるかの証言であります。
6. 戦後再建の時代 ―壊滅した救治会の精神的復活としての日本精神衛生会 6. 戦後再建の時代 ―壊滅した救治会の精神的復活としての日本精神衛生会 戦後の精神衛生運動の再建、というよりは新しい出発は、精神厚生会に呑み込まれて壊滅した「救治会」の精神的リバイバルとしての日本精神衛生会でありました。私は、1941年、昭和16年太平洋戦争のはじまった年から1958年、昭和33年4月、東京大学に転任するまで17年間、金沢大学の教職についていて、もっぱら学生の教育と診療、研究に専念しており、精神衛生運動についてはまったくの傍観者であったことを告白しなければならなりません。 私が救治会の昔に立ち返り、再び精神衛生運動に関わるようになったのは、東京大学に移った以後のことであります。日本精神衛生会の事務局は東京大学を定年退官した内村祐之の主宰する神経研究所晴和病院に置かれ、私も理事のひとりでありましたが、1965年、昭和40年6月、内村理事長のあとを受けて、日本精神衛生会の理事長の仕事をすることになりました.そのとき、真っ先に考えたのは、日本精神衛生会は日本の精神衛生運動の源流である呉秀三の創設した[精神病者慈善救治会]の「慈善救治」、すなわちヒューマニズムの精神に立ち返り、そこから再出発すべきだということでありました。
7. 新生日本精神衛生会の活動と目指したもの 理事長を引き受けたとは言うものの、活動資金はわずかな会員の会費だけで、機関誌「精神衛生」を年に何回か出すのが精一杯の活動というありさまで、有名無実の団体にすぎませんでした。そこで私はまず精神衛生会の活動に、有能な若手の諸君の参加を要請することにしました。積極的に協力してくれたのは、五十嵐衡、井上晴雄、江副勉、小此木啓吾、小木貞孝、佐々木雄司、島崎敏樹,原俊夫、春原千秋、平井富雄、三木安正、徳田良仁、柴田洋子などの諸君でありました。先ず手始めの仕事は、生まれ変わった会の目的をひろく社会にアピールするために新しい機関誌を創刊することでありました。原俊夫君のアイディアで「心と社会」の創刊号が刊行されたのは1969年、昭和44年11月のことでありました。
機関誌「心と社会」の創刊1969年10月
機関誌「心と社会」全巻の出版 大空社、1998年 「心と社会」はその内容を高 く評価した出版社「大空社」か ら1998年、「心と社会のメンタ ルヘルス」13巻として出版され ました。精神衛生問題の概観 として役立っています。「心 と社会」の刊行はたいへんや り甲斐のある仕事であります が、それに加えて、精神衛生 会がなすべきことは何かにか について考えてきた私たちに とって、いわば起死回生の機会 となったのが、1985年、昭和69 年7月、ロンドン郊外ブライトンで開催された世界精神衛生連盟主催のブライトン会議でありました。
世界精神衛生連盟ブライトン会議 1985年7月イギリスブライトンで開催 世界精神衛生連盟ブライトン会議 1985年7月イギリスブライトンで開催 この会議で私が感銘を受けたのは、主催団体である「マインドMind」の活発な活動でありました。この組織が強力であるのは、メンバーとして、精神医療の専門家だけではなく、当事者を含めた、一般市民が多数参加するためであることがよく分かりました。この会議で精神障害当事者から強く主張されたのは、精神障害者に対する市民の擁護運動Advocacyに加えて、これまで無視されてきた障害者自身の自立運動Selfhelpの強化確立でありました。日本ではそのいずれも貧弱であり、精神障害者の人権がないがしろにされているのは、イギリスの「マインド」やアメリカの全米精神衛生会のような、世論と政府を動かす強力な単一組織が存在しないためであることを痛感させられました。
精神保健運動の発展を期する集い 1986年2月21日、上野精養軒にて開催 精神保健運動の発展を期する集い 1986年2月21日、上野精養軒にて開催 ブライトン会議から私が学んだことの一つは、わが国にもマインドのような強力な全国的組織が必要だということでした。わが国では、厚生省が「精神衛生団体」として認知する団体が幾つか存在し「精神衛生連盟」が作られていますが、運動体としての連携協力は無きに等しいありさまでした。これらの団体の協力、連携が是非必要であると考え、それに政府、大学人の参加を得て、意見交換と交流の場をもうけることにしました。たまたま、私が80歳になったということで、この集まりは秋元の「傘寿記念祝賀会―精神保健運動の発展を期する集い」という名目で、1986年2月21日、上野精養軒で開かれました。
「精神保健運動の発展を期する集い」の成果 この集いには、幸いなことに、全国からたくさんの方が参加され、また、協賛された方は600名をこえました(心と社会46号、浅井邦彦君の記事参照のこと)。協賛金はじり貧の日本精神衛生会のそのごの活動に役立つことになったのは有り難いことありました。この集いで多くの方々から頂いた苦言,忠言に基づいて、第一に、本会の理事に精神科医ではない、看護、社会福祉、当事者などひろく人材を選任すること、第二に、毎年一回、東京で「精神保健会議」を開催すること、第三に、毎年4回、全国各地の精神衛生団体との共催で「精神衛生シンポジウム」を開催すること、第四に、世界精神衛生連盟WFMHのメンバーとして、さらに一層協力連携の強化をはかること、第五に、会員の増加をはかり、日本精神衛生会がわが国を代表するにたりる力量を備えること、などでありました。 日本精神保健会議(メンタルヘルスの集い)は井上晴雄理事の提唱によるもので、厚生労働省、東京都、朝日新聞厚生文化事業団などの後援を得て、有楽町マリオン11階朝日ホールで、毎年3月開催され、1987年、昭和62年に始まり、今回で20回になります。その時々の緊急の精神衛生課題をテーマに取り上げ、講演とシンポジウム、フォーラムが行なわれています。
第1回日本精神保健会議 1987年2月21日
第2回精神保健会議 あさやけ合唱団の演奏 この度の会議の圧巻はなんといっても、当日昼に行なわれたあさやけ合唱団の音楽構成「明日を信じて」の演奏でありました。東京都小平市の精神障害者作業所「あさやけ第二、第三作業所」(藤井克徳所長)に通う障害者約50人と、作業所職員、地域の音楽家ボランティアの皆さん、160名を越えるあさやけ合唱団による音楽構成「明日を信じて」が、小林光さんの指揮で演奏され、会場をうずめた参加者に深い感動を与えました。カセットテープに録音され発売されていますが、いまでも講演会などで利用されています。私はあの歌声は精神衛生運動が精神障害当事者のものでもあることの証しであると思っています。
日本精神衛生会日本精神保健会議 シンポジウム、フォーラムのテーマ 第1回(1987年)から第20回(2006年)まで 第1回 障害者の権利と自立を考える 第2回 精神障害者のリハビリテーション 第3回 精神障害者の地域サポートシステム 第4回 精神障害者を支える医療と福祉 第5回 高齢者社会における心の健康と福祉 第6回 障害者の社会参加」―精神障害者の福祉と 就労をめぐって 第7回 子どものストレス・家庭・社会 第8回 思春期のメンタルヘルス 第9回 心すこやかに21世紀を 第10回 高齢社会の地域ケアと福祉 第11回 精神障害者の自立・就労をめざして 第12回 思春期の現在 第13回 結婚と離婚のメンタルヘルス 第14回 子どもたちは今、こころの居場所を 求 めて 第15回 こころの癒しとしての音楽 第16回 21世紀のメンタルヘルスを考える 第17回 こころの健康と眠り 第18回 精神障害者と共にくらす地域づくり 第19 回 精神障害者と仕事―共に働く場を作る 第20回 医療と福祉の連携の近未来像
8. おわりに 精神衛生運動100年の回顧から学ぶもの 8. おわりに 精神衛生運動100年の回顧から学ぶもの 私なりに、この回顧から学んだことを二つだけ取り上げたいと思います。第一は15年戦争のもとでの精神衛生運動が壊滅した歴史事実です。精神衛生の前提は平和です。戦争の過ちを繰り返さないためにも、日本精神衛生会は、わが国を「戦争をする国」にしないたために、憲法9条を守る運動に率先参加すべきであります。戦争の放棄と軍隊の廃棄を定めた9条は、障害者のいのちと暮らしを守る至上の掟であります。「障害発生の最大の原因は戦争による暴力です。戦争と障害者のしあわせは絶対に両立しません。障害者は平和でなければ生きられないのです」と「障害者・患者9条の会」のアピール」は訴えています。 もう一つは皆さんもご承知の、いま問題となっている「障害者自立支援法」です。この法律は、社会保障、障害者福祉の基本である応能負担(利用者の負担能力を優先する遣り方を、利用者の負担を増やす応益負担に変えようとするもので、その目的が社会保障費を減らすことにあることはいうまでもありません。此処で、皆さんに想いだして頂きたいのは、日本精神衛生会が20年前の第1回精神保健会議で選んだメインテーマが「障害者の権利と自立」であったということです。それ以来このテーマの実現こそが日本精神衛生会の運動の目標でありました。この目標とは程遠く、この目標に逆行する今日の状況に対して、私たちが何をなすべきは自ら明らかであります。日本精神衛生会がわが国の精神衛生運動の前進に、真に役立つ全国的組織に成長するために、皆さんの一層のご協力、ご支援を願い、期待して私の話を終わります。