高 瀬 舟 森 鴎外
高瀬川(たかせがわ) 京都府京都市 一級水系 9.7km 高瀬川(たかせがわ) 京都府京都市 一級水系 9.7km 江戸時代初期(1611年)に角倉了以(京都の豪商)・素庵(土木事業家・貿易家)父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。 現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。 京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、また桜の名所ともなっている。
作 者 森 鴎外 (もり おうがい) 1862年2月17日 (文久2年1月19日) - 1922年(大正11年) 7月9日
森 鴎外 本名: 森 林太郎(もり りんたろう) 石見国津和野(現島根県津和野町)出身 東京大学医学博士、のち文学博士 森 鴎外 本名: 森 林太郎(もり りんたろう) 石見国津和野(現島根県津和野町)出身 東京大学医学博士、のち文学博士 小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等) 第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称される
生まれ立ち 代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。 生まれ立ち 代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。 藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。 1872年(明治5年)、10歳で父と上京。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。
陸軍軍医としての任官 1873年(明治7年)11月、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学。 陸軍軍医としての任官 1873年(明治7年)11月、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、11歳で入学。 定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作った。 なお語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たってドイツ語など西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。
陸軍軍医としての任官 1881年(明治14年)、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。 陸軍軍医としての任官 1881年(明治14年)、19歳で本科を卒業(今後も破られないであろう最年少卒業記録)。 文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。同期生の小池正直(のち陸軍軍医総監)の熱い推薦と、同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)の薦めで、同年に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。 妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の鴎外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたりした。
ドイツ留学 1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日、明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月に出国し、10月に到着。同月に首都ベルリンに入った。 1887年、第4回赤十字国際会議の日本代表の通訳官として出席。同月、万国衛生会に日本政府代表として参加した。 1888年に帰国し、陸軍軍医学舎の教官に補され、後陸軍大学校教官の兼補を命じられた。
初期の文筆活動 1889年(明治22年)1月3日、読売新聞の付録に「小説論」を発表し、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。 8月、訳詩集「於母影」を発表し、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。
初期の文筆活動 このように、外国文学などの翻訳を手始めに、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。 1889年(明治22年)に東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
日清戦争出征と小倉 1894年(明治27年)夏、日清戦争勃発により、東京を離れ、翌年、第2軍兵站部軍医部長を経て、台湾で4カ月勤務した。 日清戦争出征と小倉 1894年(明治27年)夏、日清戦争勃発により、東京を離れ、翌年、第2軍兵站部軍医部長を経て、台湾で4カ月勤務した。 1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴・斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。
日清戦争出征と小倉 1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。19世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。 私生活で、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、とくに後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。 1900年(明治33年)1月に先妻が結核で死亡したのち、明治35年(1902年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動 1902年(明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、『芸文』を創刊。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲にかかわる活動が目立っていた。 1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征。1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した。 なお同年9月、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任になった。
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動 1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。 同年7月、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「ヰタ・セクスアリス」が発売禁止処分を受けた。 1910年(明治43年)に慶應義塾大学の文学科顧問に就任。同年、「ファスチェス」(発禁問題)、「沈黙の塔」(学問と芸術)、「食堂などを発表。
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動 1911年(明治44年)に「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。 同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」とした上で、「無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」と結んだ。
軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動 1912(明治45年)、「かのように」「槌一下」「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。 1912年(大正元年)から、「羽鳥千尋」「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)、 これを機に歴史小説に進み、「阿部一族」、「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斎」に結実した。1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。 1916年(大正5年)には、後世の鷗外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。
晩 年 1916年(大正5年)4月、トップの陸軍省医務局長を退き、その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。 1922年(大正11年)7月9日、親族と親友が付きそう中、萎縮腎、肺結核のために死去。満60歳没。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻された。
第一段落 背景紹介 高瀬川 高瀬舟 「黙許」――親類の同行 同心(性質など)――嫌われていた
第二段落 主人公登場 喜助 → 弟殺し 「神妙」「おとなしい」「晴れや か」「目に輝き」「楽しそう」 庄兵衛 → 細かく注意した
第三段落 欲 ②いる場所が落ち着く(島) 驚 が ③二百文がもらえる 異 な ↓ い ありがたいこと 庄兵衛 「踏みとどまって見 境遇説明 喜助 ―― ①牢に食がある 欲 ②いる場所が落ち着く(島) 驚 が ③二百文がもらえる 異 な ↓ い ありがたいこと 庄兵衛 「踏みとどまって見 せてくれる」
第四段落 事件説明 喜助 ―― 弟の自殺を手伝った ↑ 庄兵衛 ―― 疑問に思う…が、 オオトリテエに従うほかない…が、 腑に落ちぬもの 事件説明 喜助 ―― 弟の自殺を手伝った ↑ 庄兵衛 ―― 疑問に思う…が、 オオトリテエに従うほかない…が、 腑に落ちぬもの ⇒ 安楽死は罪??
「どうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ」その理由は? 「大いなる懸隔」 具体的に整理しよう。
喜助が弟を殺すに至るまでの事情をまとめてみよう。 喜助の弟殺しの話を聞いて、庄兵衛はどのようなことを考えたか、まとめよう。
次の情景描写は、どのような効果をあげているか、まとめよう。 ①「そういう罪人を乗せて、・・・下るのであっ た。」 ②「その日は暮れ方から風がやんで、・・・夜であった。」 ③「しだいに更けてゆくおぼろ夜に、・・・滑っていった。」
感想文 (八百字程度)