明治維新 日清・日露戦争 第2次世界大戦とその後 日本の外交 明治維新 日清・日露戦争 第2次世界大戦とその後
海外からの波 外国船の来航と日本の対応 侵略への予感 日本の外交の混迷 ラックスマン(ロシア)の函館来航(1793) 無二念打払令(1825) モリソン号事件(1836) 侵略への予感 アヘン戦争(1840.6.28~1842.8.29) 日本の外交の混迷 薪水給与令(1842)
政治の思想と現実 破滅か屈服か 神国日本という思想 思想優先の結末 敵を知らず己を知らず 願いと事実の混同 元寇という先例 真実を告げる者を排斥する姿勢 神国日本という思想 元寇という先例 思想優先の結末 ユダス・マカボイスとユダヤ滅亡
開国へ オランダ風説書 ペリーまでのアメリカ外交 ペリーの浦賀来航(1853.7.8) アメリカの砲艦外交を予告 最後のオランダ商館長Jan Hendrik Donker Curtius ペリーまでのアメリカ外交 ビッドル太平洋艦隊の浦賀来航(1945.7) プレブル号長崎来航(1849.4) アメリカ人捕鯨船員の引き渡し ペリーの浦賀来航(1853.7.8) 神奈川での外交交渉(1854.3.8~) 日米和親条約の締結(1854.3.31)
尊皇攘夷 徳川幕府と朱子学 幕末における尊皇思想の確立 日米和親条約締結における幕府と天皇 徳川政権の根拠 両刃の剣としての朱子学 攘夷問題 天皇からの将軍任命 両刃の剣としての朱子学 水戸家の役割 幕末における尊皇思想の確立 攘夷問題 日米和親条約締結における幕府と天皇 幕末史における孝明天皇の役割
明治維新 大政奉還と王政復古(1867) 維新政府の成立 裏切られた人々の怨念 内戦の回避をめざして 幕府勢力の抹殺 版籍奉還、廃藩置県 戊辰戦争(1868~69) 版籍奉還、廃藩置県 富国強兵 裏切られた人々の怨念 思想の先鋭化
明治政府の外交政策 外交の課題 アジアとの協調の模索 独立の確保 夷をもって夷を制す 朝鮮との協力関係の模索 米、英、露、仏、蘭 無視された提案 征韓論
日清戦争 対朝鮮政策の衝突 混迷する朝鮮の外交政策 天津条約(1885) 朝鮮の内政改革要求と王宮占領(1894.7.23) 日本の砲艦外交 日朝修好条規(1876.2) 混迷する朝鮮の外交政策 開国派と攘夷派の対立と政変 天津条約(1885) 朝鮮の内政改革要求と王宮占領(1894.7.23) 日清戦争(1894.7.25~1895.11.30) 黄海海戦(1894.9.17)
日露戦争 日露の利害対立 日露戦争(1904.2.8~1905.9.5) 日韓併合(1910) 義和団事件(1900)とロシアの満州侵攻 日英同盟(1902) ロシアの満州撤退拒否 日露戦争(1904.2.8~1905.9.5) 日本海海戦(1905.5.27~28) 奉天会戦(1905.3.1) 日韓併合(1910)
坂の上の雲の後に 日本の転換点としての日露戦争 大国をきどる日本 日露戦争のもたらしたもの インテリジェンスの無視 第一次世界大戦の教訓無視 仲間褒めと日露戦争の誤った評価 旅順攻略の問題点 アメリカの役割の無視 夜郎自大への道 大国をきどる日本 インテリジェンスの無視 第一次世界大戦の教訓無視
軍縮 八八艦隊の虚妄 建艦競争の阻止 条約派と艦隊派の対立 国力を無視した戦略論 ワシントン海軍軍縮会議(1921.11.11~1922.2.6) 5・5・3をめぐって ロンドン海軍軍縮会議(1930.1.21~4.22) 補助艦艇の比率決定 条約派と艦隊派の対立 海軍部内での権力闘争
統帥権干犯 ロンドン海軍軍縮条約の余波 政略優先の政治 テロの時代へ 艦隊派が条約を統帥権干犯として批判 政友党の民政党内閣攻撃 浜口雄幸内閣 政友党、犬養毅、鳩山一郎 政党政治の終焉 テロの時代へ 協調外交の終焉
民主政治の崩壊 五・一五事件(1932.5.15) 二・二六事件(1936.2.26) 自由な言論の圧殺 海軍の青年将校による暗殺事件 犬養毅首相暗殺 助命嘆願運動と二.二六事件への影響 二・二六事件(1936.2.26) 陸軍青年将校によるクーデター計画 自由な言論の圧殺 空気の研究
太平洋戦争への道 日独伊三国軍事同盟 日華事変の泥沼化と国の内部分裂 南部仏印進駐(1941.7.28)とアメリカの石油禁輸 英米協調か親独か 日華事変の泥沼化と国の内部分裂 陸軍の政治関与 バスに乗り遅れるな 海軍の反対 条約反対三羽ガラス 米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長 南部仏印進駐(1941.7.28)とアメリカの石油禁輸
真珠湾攻撃(1941.12.8) 負けると決まった戦い 戦術的勝利と戦略的敗北 言霊思想と儒教(陽明学) アメリカ精神の読み違え 忠臣蔵に見る日本人の精神構造 戦術的勝利と戦略的敗北 アメリカ精神の読み違え 通告遅延事件 戦争終結構想のない開戦
ミッドウェイ(1942.6.5~7) 構想外の事態へ 終わりの始まり 飛行機の戦い 日本海海戦の再現の不可能性 どう終わるか、誰が終わらせるか
敗戦 小磯国昭内閣(1944.7.22) 鈴木貫太郎内閣(1945.4.7) 東条英機の退場 米内光政海相の敗戦工作 ポツダム宣言受諾決定 井上成美次官の就任 鈴木貫太郎内閣(1945.4.7) ポツダム宣言受諾決定 決断までの長い道のり 陸軍内でのクーデター計画 日本の一番長い日
占領期 アメリカの占領政策と知日派 冷戦とアメリカの対日戦略の変更 東京裁判の問題 天皇責任論 冷戦の勃発 日本の戦略的位置 中華人民共和国政府の成立(1949.10.1) 朝鮮戦争(1950.6.25~1953.7.27) 日本の戦略的位置
占領の終了 講和条約における論争点 サンフランシスコ講和条約 中国、ソ連との関係 冷戦時代の日本の選択 1951年9月8日調印 政治の現実と論壇の批判 サンフランシスコ講和条約 1951年9月8日調印 1952年4月28日発効
安保改訂 反米世論の盛り上がり 新安全保障条約、地位協定 ダレス国務長官の焦燥 安保改訂の提案 理念と現実の乖離 調印(1960.1.19) 「真に相互的な」条約へ 条約適用地域の限定 日本国憲法改定せずに可能な範囲は 理念と現実の乖離 新安全保障条約、地位協定 調印(1960.1.19) 衆議院採決(1960.5.19)自然成立(1960.6.18深夜) 批准書交換(1960.6.23)
ベトナム戦争 アメリカの挫折 パックス・アメリカーナの終焉 ベトナム戦争(1959~1975.4.30)の悪夢 宣戦布告なき戦いと銃後の混乱 代理戦争 戦争における情報戦の意味 宣戦布告なき戦いと銃後の混乱 パックス・アメリカーナの終焉 経済力の低下 「大砲もバターも」の無理 国際政治に対する姿勢 指導層と国民の乖離
日中国交正常化 アメリカの外交方針転換 日本の混乱 大平外相、日中共同声明署名(1972.9.29) 日中平和友好条約調印(1978.8) キッシンジャー国務長官訪中 ニクソンの訪中(1972.2) 日本の混乱 田中角栄首相の訪中(1972.7.7) 大平外相、日中共同声明署名(1972.9.29) 日中平和友好条約調印(1978.8)
二つのショック ニクソン・ショックとオイル・ショック ニクソン・ショック(1971) オイル・ショック(1973) パックス・アメリカーナの終焉 日本の外交戦略の必要性 ニクソン・ショック(1971) ブレトン・ウッズ体制の終焉 オイル・ショック(1973) 中東の産油国への対応
日米経済摩擦 レーガン政権による双子の赤字 アメリカの対日不信 貿易摩擦から経済摩擦へ(1985) フェアでない日本という宣伝 日米円ドル委員会設置(1983.11) 日米円ドル委員会報告書(1984.5) 前川レポート(1986.4.7) 日米構造協議(1989~90) フェアでない日本という宣伝 アメリカの対日不信 日本の外交姿勢見直しの必要性
湾岸戦争とその後 湾岸戦争(1991.1.17~2.28)の勃発 日本外交の失敗 9.11(2001)とテロとの戦い 湾岸戦争はなぜ起こったのか 日本外交の失敗 感謝されなかった日本 Show the Flag! 9.11(2001)とテロとの戦い 日本の外交戦略のあり方 突きつけられる現実
日本の外交の将来 アメリカの外交姿勢 中国の外交戦略 日本の外交戦略 アメリカのアジア戦略 中国の世界戦略 商人国家論でも超大国志向でもなく アメリカの対日戦略 アメリカの対中国戦略 中国の外交戦略 中国の世界戦略 中国の対アメリカ戦略 中国の対日政策 日本の外交戦略 商人国家論でも超大国志向でもなく インテリジェンスの重要性