1.創部と戦争の頃 藤原工業大学山岳部として発足(1939 年~1944 年) 1.創部と戦争の頃 藤原工業大学山岳部として発足(1939 年~1944 年) 旧制高校的な青春謳歌と自己修練の場として1939年12月20日に発足 部長 酒井 将 先生 右から5人目酒井先生 広河原 野呂川徒渉点 赤倉スキー合宿の記録 回転の練習 1940年12月 赤倉スキー合宿 藤原銀次郎理事長別荘 1944年8月 南アルプス北岳 1939年に山岳部が誕生すると、早速、岩原でスキー合宿。戦争が始まっても、1942年くらいまでは山に登っている。1943年に大学生徴兵猶予停止。豊川海軍工廠での生活が始まると登山どころではなくなる。1944年9月に1期生が卒業すると同時に慶應義塾大学工学部となる。1945年4月日吉空襲。校舎炎上。工学部は、目黒、溝口、登戸、そして小金井へ。
2.小金井時代 慶應義塾大学藤原記念工学部山岳部 (1949 年~1972 年) 2.小金井時代 慶應義塾大学藤原記念工学部山岳部 (1949 年~1972 年) ・1949年 小金井において新制慶應義塾大学藤原記念工学部発足 1949.12. 松廣講師遭難 ・三田 体育会山岳部との連携を通じて大学山岳部としての活動の模索 ・1954年 医学部山岳部富士山遭難事故を契機としてOB会発足 ・1961年 日吉の一年生部員を迎え「4年制」として活発な活動が始まる ・そして夏の活動の場は北ア千丈沢、涸沢から自ら拓いた横尾谷右俣へ ・しかし、1967年、1972年と2度の遭難事故を起こすこととなり、OB会を含めた山岳部全体の 反省、議論がなされた。 そして Leadership / Membership は山岳部全体の行動規範として 現在に引き継がれている。
3.矢上時代 ① ( 1972 年~1980 年代 ) ・年間を通じて全員参加の合宿と有志参加による自主山行が活発に行われた 3.矢上時代 ① ( 1972 年~1980 年代 ) ・年間を通じて全員参加の合宿と有志参加による自主山行が活発に行われた ・1983年には創部40周年を記念して海外遠征を実施し、インドヒマラヤ・キャシードラル山 ( 6400m ) 登頂 1974年夏山合宿・千丈沢 1978年初冬合宿・鹿島槍 1979年初冬合宿・遠見尾根 1983 Mt. Cathedral Caravan (Batal-Shigri) 1980年夏山合宿・剣岳 1981年春山合宿・笠ガ岳
4.矢上時代 ② (1980 年代 ~ 2006 年) ・慢性的部員不足はより深刻になり、1996年、2006年は部員0人 4.矢上時代 ② (1980 年代 ~ 2006 年) ・慢性的部員不足はより深刻になり、1996年、2006年は部員0人 となる。 しかし、その都度入部希望者により山岳部は復活し、 幸いにも歴史は続いている。 ・1991~1996年北米マッキンリー山気象観測プロジェクトに参画。 観測機器を設計制作し、第3 第4 第5次登山隊として登頂した。 1987 年3月 飛騨沢・槍平小屋付近のラッセル 1990年12月 氷瀑登攀 八ヶ岳 ジョウゴ沢 1986 年11月 雪上訓練・富士山 2000年8月 丹沢 玄倉川 小川谷廊下 2001年8月 剣岳・源次郎尾根 1994年マッキンリー山 気象観測機設置作業
5.矢上時代 ③ 創生プロジェクト ( 2006 年~ ) 経緯 ・1970年代より部員減少傾向 ・1996年と2006年で部員がゼロ 5.矢上時代 ③ 創生プロジェクト ( 2006 年~ ) 経緯 ・1970年代より部員減少傾向 ・1996年と2006年で部員がゼロ ・2006年創生プロジェクトが山岳部長 及びOB会の合同企画として始まる 目的 理工学部山岳部の文化/普遍的理念を現代の学生に伝える 目標 OBの意識を含めた山岳部の自己変革により、山岳部の新しい機能的価値を見つけて、現代の社会/大学/学生に受け入れられる山岳部を創生すること 成果 2007年新入部員5名入部 2008年春、環境シンポジウム実施 同年秋、土壌肥料学会にて発表 2009年以降も継続して入部者を迎え、 定期的に山行実施している
6.明日の山岳部を目指して : 現役部員たち 部 長:相吉英太郎 教授 6.明日の山岳部を目指して : 現役部員たち 部 長:相吉英太郎 教授 4年: 宮下、林、丸田 3年:横田、奥村、2年:松本 留学生:フォッケン 2012年9月 南アルプス北岳 2012年8月 留学生部員を交えた富士山 70年間で社会や大学は大きく変貌した。 そのなかで、山岳部は、山という フィールドにおいて Pioneer work、Leadership Membership という文化を、学生たちに伝え続けていきます。 2012年5月 丹沢・塔ノ岳