図書館とメディアの歴史2 後藤嘉宏(筑波大学)
情報流通やメディアを通じた歴史の時代区分
1)マーシャル・マクルーハン(1911-1980)『人間 拡張の原理(メディア論)』(1964)における時代 区分
無文字社会-対等性。小さな範囲での交通(交流) 文字の発明-抑圧(支配・被支配関係)の開始、官僚組織の基盤 特に抑圧の強さでいえば、西洋>東洋 なぜなら表音文字(アルファベット、等)は表意文字(漢字、等)より も抽象的で、普遍的(よって拡大主義的) さらに印刷術の発明(グーテンベルク)は、この文字文化の抽象性を 強めた。 電子メディア(テレビ~コンピュータ)の時代。無文字社会的な双方 向性が復活
マクルーハンの時代区分を年号化してみると 無文字社会 理想郷 象形文字の社会(くさび形文字が紀元前3000年くらい)抑圧の開始 アルファベットの発明(紀元前8世紀、フェニキア人) 印刷術の発明 1439年頃(グーテンベルク) 抑圧の強化 テレビの発明 1843年にその技術開発の端緒、1941年にアメリカ で放送開始 理想郷の復活
熱いメディアと冷たいメディア
2)中井正一「委員会の論理」(1936)の時代区分
http://www. geocities. jp/m_ikinobu/kyoudokenkyu/kaihou22 http://www.geocities.jp/m_ikinobu/kyoudokenkyu/kaihou22.htmlとhttp://www.google.co.jp/imgres?hl=ja&sa=X&tbo=d&biw=1280&bih=709&tbm=isch&tbnid=taOm6r5VMCecOM:&imgrefurl=http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1068.html&docid=BJJ1ouK9FqyEIM&imgurl=http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/image2/senya1068/106806.jpg&w=118&h=140&ei=A5DZUKSvK8zRkgXrmYD4AQ&zoom=1&iact=hc&vpx=12&vpy=167&dur=20&hovh=112&hovw=94&tx=46&ty=56&sig=100990456428961348754&page=1&tbnh=112&tbnw=88&start=0&ndsp=19&ved=1t:429,r:0,s:0,i:85
中井正一(1900-1952) 緒方正清(緒方洪庵の孫)医師の執刀の下、日本最初の帝王切開 で生まれる 広島県竹原市生まれ。尾道で育つ。広島高等師範学校附属中学→ 旧制第三高等学校(現、京大大学院人環)→京大哲学科美学美術 史専攻→京大文学部大学院→35歳で京大講師→37歳で治安維持 法違反で逮捕→45歳で尾道市立図書館長→48歳で国立国会図書 館副館長→52歳で死す。
対等性と双方向性 ミッテル・・・対等性・水平性 メディウム・・・垂直性 垂直性に対する水平性
垂直性(神と人)(死者と生者)(後世の人へのコミュニケーション) (貴族と平民)(知識人と大衆)etc次元の異なる者相互が交わらずに 場所・領域としてのみ存在している状態・・・メディウム (それら相互 に動き・交流があればミッテル) 透明でない媒介
対等性と双方向性 interactivity 透明な媒介 1)基本的に次元の同じ者のやりとり 2)次元の異なる者を同じと見なして行うやりとり しかし次元の本来違うものが対等性を発揮しようとするから、その壁 こえのエネルギーが意味を持った。[今は逆。単なる水平性の増加と しての対等性]([]部分はどちらかといえば後藤の評価)。 (情報媒体の相対的な稀少性の減少も背景に考えて)
マクルーハンと中井正一の印刷本(印刷メディア)への評価 マクルーハンの評価・・・このような印刷本の空間性を表音文字の普 遍性に還元して批判 文字文化の問題を、写本より活字本は強化 中井正一の評価・・・印刷本・・・複製可能、商品・・・写本より一方向 的。しかし多様な解釈の可能性。目の見える関係での合評会・相互 討論(書き込みすれば大量の「異本」の流通とも捉えうる)→逆に双 方向性への兆しにも
「委員会の論理」(1936) 中井正一の戦前の代表作 「いわれる論理」・・・ギリシアの問答法(弁証法)。(vs文字・・・奴隷の フェニキア人の専有物)・・・双方向 「書かれる論理」・・・中世の写本・・・教会が文書を独占。聖書の解釈 権を独占・・・一方向 「印刷される論理」・・・近代の印刷本・・・大量の複製・・・それ自体は 一方向・・・しかし多様な読み方・読書会等を通じて多様な解釈・・・双 方向性の復活
『美学入門』(1951) 映画・・・カットとカットをつなぐ言葉(「・・・である」「・・・でない」「・・・か も知れない」「・・・に違いない」等々)がない。 →受け手が想像力で補ってつないで読みとる →受け手の主体性を喚起 ・・・マクルーハンの低精細度の議論に似つつも、より精緻かと。
少し文脈を切り離した(つなぐ言葉「繋辞(繋詞)」は「文脈」を指示) 理解を可能に。(花壇を椅子とみなすような機能概念的把握) すべてを「即」でつなぐ日本的な思想(西田哲学)等を意識している
2)ハンナ・アレント(1906-1975)『人間の条件』 (1958)の時代区分 昨年度、アレントの映画が一部で大ヒット、本屋で著書が平積み
ドイツの切手になった、ユダヤ系ドイツ人、アレント
ナチスの党員となり、積極的にナチスに協力した、恩師で元愛人のハイデッガー
アレントに注目する理由 1)オーラルなものと書き言葉(→書物等)との対比に着目した人物 2)コミュニケーション史の代表的な著作、ユルゲン・ハーバーマス 『公共性の構造転換』に、アレントの言論のギリシア・モデルが影響 を与える。 3)中井正一とギリシアの位置づけは同じ ただしアレント自体はメディア史よりも大きな射程で議論しているが。 しかし、ギリシア時代、オーラルなもの優位とされつつ、記録メディア が出て来た状況を考える格好の素材に
ギリシア時代・・・書き言葉に対する話し言葉の優越性を主張 市民はアゴラで言論=活動=自由な政治的討論を行う。 (書き言葉・・・不自由なものの象徴。我々を縛る) この政治的討論というのは経済的なものを排除した議論
オイコノミ=経済の語源=家政、家事・・・女性や奴隷の労働の領域 必要性の領域 市民=男性 自由の領域・・・討論の領域
アリストテレス・・・「人間は政治的動物である」・・・大学の『政治学』 の標準的教科書の冒頭に掲げられるフレーズ トマス・アクィナスが「人間は社会的動物である」と訳す アレントにいわせるとこれは聖トマスの誤訳(アクィナスは中世のアリ ストテレス復興者として知られているが) ギリシアでは、(政治と家庭を繋ぐ)社会なる存在は意識されていな い
アレントの「活動」と「労働」の対比 【ギリシア時代】 活動的生活の時代 1)活動・・・政治的言論・・・公的内容の討論・・・「卓越」を求めてなさ れる [自由] 2)仕事・・・?(ここでは保留。2枚後のスライドで) 3)労働・・・生活の必要の領域・・・女性や奴隷が担い手 [必要性] 【中世】 観想的生活の時代
ほぼ似たことを公私関係からいうと 私生活 肉体の維持 必然 暴力が支配 不平等者の空間(・・・「労 働」) 公的生活 自由 言論が支配 平等・対等な空間(自分を 自分が命令する立場)(・・・「活動」) (アレント特有の「権力」概念・・・支配することも支配されることも嫌が る人々の空間)
アレントの「仕事」概念に注目 →書くことの二重の評価(過渡期) アレントの「仕事」概念に注目 →書くことの二重の評価(過渡期) で、2ページ前に保留とした、至高のものである「活動」と卑しまれる べきものである「労働」に挟まれた、「仕事」とは? アレントの「仕事」への着目・・・書くことの歴史的な意味が分かる端 緒 「活動」と「仕事」の対比・・・オーラルと文字媒体の対比 (政治家。教授陣VS事務局。書記。官房。Secretary general, United States Secretary of State)
一応、このことで連想されるのは、 何も書かなかった哲学者ソクラテス。弁論術の重視されたギリシア。 ソクラテスの弁証法(先述のように書くことは思考のとらわれであって 不自由) ・・・「一応」と表したのは、アレントのソクラテス学派の「何も書かな かった」ことへの評価はストレートではないから
まず「仕事」と「労働」の関係 仕事・・・職人的な作業で長く続くものを作る行為 労働・・・消費されるものを作る行為・・・必要性に支配される・・・種の 保存、新陳代謝にかかわるものを作る
次に「仕事」と「活動」の関係 英雄の事績(これは「活動」)を歴史的な事実あるいは神話として物 語る・・・「仕事」の意義 「仕事」は「不自由」で、「自由」な「活動」より下。しかし下だが「仕事」 があってはじめて「活動」は、意義あるものとして後世に知られる。 「活動」は卓越性を目指す行為であるが、その卓越性や「不死性」は 「仕事」によって保証される。
アレントのギリシア・・・口頭コミュニケーション中心 しかしこれは直接、ソクラテス学派のことを意味するのではない(読 み間違えやすい)。 演説・弁論重視≠弁証法(対話)重視 ソクラテス学派以降、ギリシア本来の形が変わったと、アレント。 「観想的生活」の走りとしてのソクラテス学派 以下の数枚はアレントの直接の発言ではなく、後藤の考察の準備
ギリシアの時代区分(ウィキペディアによる) 後期青銅器時代 紀元前1650年頃 - 紀元前1200年頃 ミケーネ文明 暗黒時代 (初期鉄器時代) 紀元前1200~1000年頃 - 紀元前800年頃 幾何学文様期と呼ばれる時代を含む 前古典時代 紀元前800年頃 - 紀元前500年末頃 ポリスの成立 古典時代 紀元前500年末頃 - 紀元前350年頃 ペルシア戦争、ペロポネソス戦争 ヘレニズム時代 紀元前350年頃 - 紀元前30年 アレクサンダー大王による王国からローマ帝国による占領まで ローマ時代 紀元前30年 - 330年 ローマ帝国統治下
ソクラテスと弟子、孫弟子・・・古典ギリシアの末期 ソクラテス(BC463-399) プラトン(BC427-347)・・・ソクラテスの弟子 アリストテレス(BC384-322)・・・プラトンの弟子・・・アレクサンドロス大 王の家庭教師でもあったので、ヘレニズム時代を知っている。 師プラトンの弁証法と対比的な、形式論理学を展開。
プラトン『プロタゴラス』 演説家の言葉・・・本のようで、一方向的 プラトン『ゴルギアス』 弁論家(演説家)・・・発言の正邪を無視して、言論で勝つことのみ目指す →近い時期の2著であるが、やや反対の観点から演説家を批判 アリストテレス『弁論術』 「弁論術は弁証法と相応ずる関係にある」
アリストテレス・・・弁論にも二種類 朗読用に書かれたもの 討論用のもの・・・議会用 法廷用
ソクラテス学派の動きと「仕事」概念 (アレントの「仕事」概念の位置への考察) ソクラテス学派の動きと「仕事」概念 (アレントの「仕事」概念の位置への考察) 弁論自体に書き言葉的要素が入ってきた(アリストテレス) 弁論家の相対主義への批判がプラトン・ソクラテスにもある 話し言葉の論理である弁証法から書き言葉の論理である形式論理 学への変化(アリストテレス) →ソクラテス学派自体、話し言葉優位から書き言葉優位への過渡期。 「仕事」の微妙な位置はこの過渡期的部分に対応しているのかも。
中世-観想的生活・・・「観想」とは contemplation 観想, 黙考, 観念念仏, 沈潜, 沈思, 瞑想, 冥想, めい想, 反省, 観照 contemplate 【動詞】 【他動詞】 1a〈問題などを〉じっくり考える,熟考する,熟慮する 【自動詞】 (沈思)黙考する. [ラテン語「(聖所で)瞑想にふける」の意
ヨゼフ・ピーパーのいうトマス・アクィナスのcontemplateのニュアンス。 ぼんやりと神のことを考えて、瞑想に耽ること。永遠を思うこと。
ギリシア、中世、通じてアレントにおける「書くこと」 以下のいずれにおいても書くことはsecondary 1)活動(不死を目指す)>仕事(作品として不死の活動を記録するこ と) 2)観想(永遠を目指す)>思考(書くこと)
ローマ時代の終わり~中世初期 ローマの没落 キリスト教の福音・・・永遠の生を説く この二つが相俟って不死の努力はむなしい努力とされ 活動的生活<<<観想的生活に。
アレントにおける時代区分と時代移行 時代区分としては 古代・・・活動的生活 中世・・・観想的生活 となるが、変化の契機そのものはギリシアにあったし、ソクラテス学派 はどちらかといえば変化の側に与していた。
古代と中世の上昇のアナロジーの是非 古代 私的→公的(への上昇) 中世 世俗的なもの→宗教的なもの(への上昇) ・・・ただし宗教的な来世への関心は人々を結びつけない。(とアレン トはいうが、これはアメリカにいつつ、そういうのはやや不思議。ただ 古代との対比においてなら分かる)
アレントにおける「近代」-近代批判 近代 平等、画一主義 活動→行動の時代 労働が公的領域に入り込む 労働・・・種の再生産を目的とする(初期マルクス以来の観点) ・・・人としての尊厳がない(ハイデッガー流には)
近代 不死(古典古代的な)への関心の喪失と 永遠(中世的な)への関心の喪失
近代以前 富と財産との峻別(91) 私有財産・・・公的領域への参与資格(cfハーバーマス) 財産を殖やす必要性を感じないで済む。→自由な発言(94) 近代 近代の蓄積される資本と近代以前の私有財産の考え方は対立する (96-97) 富(蓄積される資本)は巨万の富であっても消費の対象に。
アレントにおける「言論のギリシア・モデル」(ハーバーマス) 公的領域・・・見せるもの 私的領域・・・隠すべきもの・・・人間存在の肉体的部分・・・労働者と 女を隠す 私的領域の剥奪性(deprived>privacy)
近代における「仕事」の位置づけ 活動と言論と思考・・・それ自体ではその高い価値が実現できない 物化の必要性・・・それをしてくれるのが「仕事」 しかし近現代は皆が「労働」者になる時代。 唯一残された聖域、「仕事」の許される人々は「芸術家」
参考 「すなわち、活動と言論と思考は、それ自体なにも「生産」せず、生ま ず、生命そのものと同じように空虚である。それらが世界の物となり、 偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、ま ず見られ、聞かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、 詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる 種類の記録、文書、記念碑など、要するに物にならなければならな い」(149)。
中井正一と比較した、アレントの3つの「活動的生活」 仕事・・・物化・・・後世に残す(垂直性)(ある意味メディウム的)ただ し中井正一と違って、これはポジティブ(肯定的)・・・ただし芸術とし ての垂直性というと、中井はどう考えていたか即答できぬ。 労働・・・消費物としてのコミュニケーション・メディア・・・水平的(その 意味ではミッテル的)・・・ただし中井のミッテルと違ってネガティブ。 活動・・・ともに水平的(ミッテル)・・・これは中井もアレントもポジティ ブ。ただしソクラテスをこの典型に位置づける中井に対して、アレント はソクラテスを逸脱し始める兆しとして位置づける。
3者の比較で 基本的に古い時代、ギリシアや無文字社会を理想とする点は共通 する。 マクルーハンの場合、単純に、理想(無文字)→抑圧(写本~印刷) →理想の復活(テレビ) 弁証法がないので循環するのみ 中井の場合、理想(無文字)→抑圧(写本)→双方を取り込んだ上で の発展(印刷本) 弁証法的
アレントの場合 理想(文字の支えある無文字中心「活動」「不死」社会)→やや落ちる 理想(文字中心であるが、文字の支えある「思考」を重んじる「永遠」 社会)→堕落した近代(「労働」の支配する動物的社会) 古い時代から現代を批判しようとする。 文字については時代区分しつつも移行的性格を適切に捉えている。