第二次世界大戦における 生物戦 講義 その3 本講義に関する追加の情報は、以下のスライドに設けられた右の各リンクボタンより参照可能です。 講義 その3 本講義に関する追加の情報は、以下のスライドに設けられた右の各リンクボタンより参照可能です。 ビデオリンク 追加情報
1. 目次 フランスの生物兵器計画 イギリスの生物兵器計画 日本の生物兵器計画 アメリカの生物兵器計画 スライド 2 - 3 スライド 4 - 11 日本の生物兵器計画 スライド 12 - 16 アメリカの生物兵器計画 スライド 17 - 20 注釈:この講義の目的は生物兵器計画の第二世代と呼ばれるものを検討することである。これらは初めて効果的な生物兵器を生産し、人間に対して近代生物兵器を使用した最初の試みである。特に記載されていない場合この講義の基本文献は「講義その2」でも使用されたSIPRI No.18(以下参照)による。 Ref: Geissler, E., and van Courtland Moon, J. (2001) Biological and Toxin Weapons Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945 (SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies No. 18). Oxford: Oxford University Press. 追加情報
2. 1935年から1940年までの フランスによる生物兵器計画 (i) 1925年のジュネーブ議定書の寄託国という立場に影響されてか、1926年から1934年の間フランスにおける生物兵器計画は相対的に不活発であった。 特に生物兵器防衛における適切な科学的能力の維持を目的として、技術的な側面に研究は縮小化された様である。 1934年までのドイツの再軍備化は生物兵器攻撃に対する新たな懸念をもたらした。非病原性の細菌を使用した実験がパリの地下鉄にて行われ、攻撃に使用可能性な生物剤をまとめた表にボツリヌス毒が追加された ドイツとの戦争に高まる懸念を背景に1937年より以前にLe Bouchetにおいて専門研究施設が設立された。 注釈:フランス(の生物兵器計画)はドイツの行動たいする恐怖の反動から進められたことを受講生が確認することは重要である。 実際はドイツは第二次世界大戦中に攻撃的生物兵器に関して殆ど関心を持っていなかったが、当時の敵対国にとってそれは明らかではなかった。諜報活動の失敗とその分析に関してはDando, M. R. (2006) Bioterror and Biowarfare: A Beginner’s Guide. Oxford: One World 第8章を参照のこと。
3. 1935年から1940年までの フランスによる生物兵器計画(ii) 1938年、(仏生物兵器計画)監視委員会の総会はボツリヌス毒の空中散布及びリシンに対する防衛に関する報告書を聴取した。パリの地下鉄における実験結果は一般市民に病気の蔓延をもたらす可能性を示した。 計画は1939年に急速に加速し、リシンを用いた攻撃とそれに対する防衛の両方が研究され、甲虫や真菌剤を用いたドイツの主要農産物に対する攻撃が検討された。 破傷風もしくは壊疸に汚染された飛翔物による対人用攻撃の研究作業も行われた。 1940年の初頭牛科のペスト性病原菌のエアソゾル散布により家畜を感染させる実効性の高さが報告された。 注釈:ドイツによる占領の数年前にフランスは明らかに人間、動物及び植物に対する生物兵器の非常に多くの潜在的な使用例を模索していた。 Ref: Centre d’Etudes du Bouchet (CEB), Vert-le-Petit, Commission de Prophylaxie veterinaire contre la guerre modern, proces-verbal no 3, reunion du 10 fevrier 1949 a l’etat-major de la defense nationale [Commission for Veterinary Prophylaxis against Modern Warfare, Minutes no. 3, meeting of 10 Feb. 1949at the National Defence Headquarters] pp. 3-4 Cited at p. 87 Lepick, O. (1999) ‘French activities related to biological warfare, 1919-45’,. In: Geissler, E. and van Courtland Moon, J. E. (eds.) Biological and Toxin Weapons: Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945. SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies, no.18. Oxford: Oxford University Press. pp. 70-90. 追加情報
4. 第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (i) フランがドイツに抱いた懸念と同様、英国帝国防衛評議会は1936年11月、生物戦に関する小委員会を設置した。 イギリスは1930年にジュネーブ議定書を批准していた。他の多くの国と同じく、イギリスは本議定書に留保を示していた。留保の内容は、他の締約国との関係においてのみ議定書の効力を認め、議定書を遵守している他の締約国とその同盟国にたいしてのみその効力を認める、というものであった。 1939年後半、 生物戦に関する小委員会は生物戦に関する戦時閣僚会議として再開され、「攻撃的視点」に基づいてその作業を進める権限を付与された。 英国における計画はカナダの計画と深く関係しており、その後アメリカの計画とも繋がってゆく。 注釈:イギリスの事例に関してここで再び明白なことは、1925年ジュネーブ議定書の影響により、もともと防衛的な目的で進めえられていた計画がドイツに対する恐怖から報復的抑止の必要性を認識するに至る点である。 Ref: Balmer, B. (2001) Britain and Biological Warfare: Expert Advice and Science Policy, 1930-65, New York: Palgrave Macmillan. Carter, G. B., and Pearson, G. S (2001). ‘British Biological Warfare and Biological Defense: 1925-45’, in Geissler, E., and van Courtland Moon, J. (eds.) Biological and Toxin Weapons Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945 (SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies No. 18). Oxford: Oxford University Press. pp. 168-189. 追加情報
5.第二次世界大戦における イギリスにおける生物兵器計画 (ii) 英国政府及び軍部との関係によりカナダはイギリスの生物兵器計画に関与し、フレデリック・バンティング卿を含む優れた科学者が計画に関わった。 インシュリンの共同発見及び、トロント大学に於ける医学研究所における優れた業績により生理学と医学においてバンティングは1923年にノーベル賞を受賞している。彼には名声と人脈があった。 1937年、ドイツの活動に関する報告書を受け、バンティングは生物剤を使った攻撃に関する詳細な研究を準備し、その中で彼は深刻で緊急な脅威を確認した。 注釈:バンティングは影響力のある科学者であり、カナダとイギリスにおいて生物兵器に関する懸念を啓発する点で重要な人物であった。バンティングと生物兵器計画とのかかわりについては Jeanne Guillemin(以下の参考文献)において詳細に議論されている。 Ref: Guillemin, J. (2007) Biological Weapons: From the Invention of State-Sponsored Programs to Contemporary Bioterrorism, New York: Columbia University Press. 追加情報
6.第二次世界大戦における イギリスにおける生物兵器計画 (iii) 戦端が開かれたとき、バンティングは生物戦に関する問題を研究するためにイギリスへの派遣団を率いた。彼は生物戦の対処を含む業務を行うため1941年に再びイギリスへ向かうその途中で殺害された。 しかしながら、すでに彼は生物戦に関する研究にその他の著名なカナダの科学者達を関係させていた。 バンティングは次のように考えた、「あらゆる兵器に対する 唯一の安全な防衛的体制は、その兵器の攻撃的使用の準備を完全に理解することでのみ達成することができる」。 注釈:イギリス及びアメリカにおける生物兵器計画とカナダのつながりは第二次世界大戦中及び大戦後を通じて重要であった。詳細については以下を参照。 Ref: Avery, D. (1999) ‘Canadian Biological and Toxin Warfare Research, Development and Planning’, in Geissler, E., and van Courtland Moon, J. (Eds.), Biological and Toxin Weapons Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945 (SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies No. 18). Oxford: Oxford University Press. pp. 190-214 at p. 197 追加情報
7.第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (iv) 1940年8月フランスの降伏の後、 生物戦に取り組むための新たな部局がポートンダウンに創設された、ここではすでに化学防衛実験施設が設置されていた。 この新たな部局はミドルセックス病院の細菌化学局を統括していたポール・ フィルデスによって指揮された。 緊急に必要であると考えられたのは報復的抑止のための準備であった。 これは、戦時においてドイツの主要畜産物に深刻な被害を与えることのできる対動物炭疽菌兵器の生産により獲得された。 羊、馬、畜牛に対する致死量を決定するために実験が行われ、同時に、これらの動物は牧草地にランダムに分布された アマニ粕の固形肥料を(自ら)発見し摂取できることが確認された。 注釈:受講者にとって重要な点は、もし必要であれば使用可能で効果的な兵器を用意するために、英国の生物兵器計画においては慎重な実験的(科学的)手法が採用されたいたことである。 Ref: Hammond, P. M., and Carter, G. (2002) From Biological Warfare To Healthcare: Porton Down 1940-2000, New York: Palgrave Macmillan. 追加情報
8.第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (v) 固形肥料はロンドンの石鹸会社により生産されポートンダウンへ週に25万個送られた。単純な機械作業により、1010 ml の芽胞懸濁液から0.05mlが各肥料へ注入され乾燥されて封がなされた。 要求された5百万の炭疽菌混入肥料が1942年後期に完成し、1943年の初めに4百ずつ梱包された。 ドイツにおいて牧草地として開発された土地の比率、予測される畜牛の数、そして作戦時の飛行高度と速度が概算された。 1250機の航空各機から、固形肥料入りの箱を9から10箱づつ、時速200マイルで18分から20分の間に連続的に投下するという、大規模な襲撃が攻撃シナリオの1つとして考えられた。 注釈: 対農業用攻撃は生物兵器を議論する際多くの人が第一に想起するものではないが、主要作物や畜産物の破壊を目的とした生物兵器の使用可能性に関する数多くの詳細な科学的分析例が公文書として残されている。 追加情報
9.第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (vi) 対動物兵器開発の間に、フィデルスと彼の同僚は対人生物兵器の開発に研究を集中させた。 ポートンダウンにおける化学兵器専門家は人々を感染させる最も効果的な方法は呼吸管の経由であると結論した。それによりもし生物剤が爆薬を使用してエアロゾル散布された場合、高い感染効果が発揮できる。 研究施設において細菌雲を作る器具が発明され、 実験動物が容易に感染することが確認された。 それらの明白な理由からほとんどの実験に炭疽菌が使用された。 この生物剤はコードネーム 「N」と称された。 注釈:スライドで示された実験室における実験結果は、後の実地試験においても同様に結論され、後の攻撃的計画におけるエアロゾル散布用兵器の生産企画につながった重要な発見であった。
10.第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (vii) ポートンダウンの研究所で確認された実験結果と同じ結果を弾薬を用いた実地試験で確認する必要があった。そのため、スコットランド沖の離島にて実地実験が行われた。 1942年の夏ポートンダウンチームと軍部によりその実験が行われた。「改変により炭疽菌の懸濁液を装填した30ポンド級の爆弾の爆発が致死効果を生み出すことは確実である」と結論した。 爆弾は地上4フィートの高さに装填され電気装置により爆破された。(実験用の)羊と大気資料・サンプル装置は爆発物に対して弧状を描く形で風下にセットされた。一連の実験は致死効果が少なくとも爆心地から250ヤードの距離で確認されることを示した。 注釈:これらの実験は実験室における実験結果を承認したが、実際の兵器としての実験がさらに必要であった。 Ref: Center for Disease Control and Prevention (2006) ‘History of Bioterrorism: Anthrax’, Podcasts at the CDC [Online] CDC [retrieved at 15 June 2009]. Available from http://www2a.cdc.gov/podcasts/player.asp?f=1# ビデオリンク
11.第二次世界大戦における イギリスによる生物兵器計画 (viii) 1942年9月ウェールズ沖の離れにおいて兵器の実験が行われた。 ブレンヘイム爆撃機により、950フィートの高度から爆弾が投下された。 1つの爆弾が標的の上空20ヤードから投下された。120から320ヤード(110メーターと295メーター)の円弧上に囲われた羊は後に炭疽菌の影響で死亡した。 この実験は対ヒト生物戦が可能であることを示した。 羊に対して設定された最小致死量 (LD50) は風下500ヤードにわたり深刻な致死リスクがあることを示した。 重量比較に基づくと、炭疽菌爆弾は当時のイギリスが有した化学兵器に対して100-1,000倍の潜在性を有した。 注釈:イギリスによる第二次世界大戦中の計画に関する更なる記述はSIPRI No18におけるカーター&ピアソンの章において確認可能である。
12. 第二次世界大戦以前・戦中の 日本による生物兵器計画(i) 生物兵器の開発及び使用に向けた大規模な計画において軍医石井四郎が中心的役割を果たしたことに疑いは無い。 1925年のジュネーブ議定書を確認した後、石井四郎は「もし当該兵器が禁止事項に抵触するのであれば、日本は来る大戦において敵国に優位に立つためそれを製造するべきである」と考えた。 4つの主要な攻撃的生物戦部隊が設けれらた。最もよく知られているのは満州ハルビンにおける731部隊である。補助部隊を加算すればおそらく1万5千人に上る部隊であった。 第二次大戦後、日本の生物兵器計画に関する情報と交換にアメリカは(計画従事者の)戦争犯罪を免責した。 注釈: 次のスライドは Seldon Harris’ article in SIPRI No.18を中心に展開される。ここで紹介される二つの主要な文献は英語で利用可能であるが史実に関してはその多くが不明瞭である。 追加情報
13.第二次世界大戦以前・戦中の 日本による生物兵器計画(ii) 石井四郎は彼が行った生物学研究が因習道徳に逆らっていることを明確に認識していた。 多くの場面において次のように述べたと報告されている。 「細菌戦研究にはAとBという2種類の研究がある。 A は攻撃用研究であり、Bは防衛用研究である。ワクチン研究は後者であり、日本で行うことができる。 しかしながら、前者に関しては海外でのみ実行可能である」。 石井四郎は1932年に満州に配属された時点で攻撃用研究の実施が可能となった。同計画は捕虜を用いた潜在的生物剤の大規模な実験を含んだ。 また、石井四郎は日本軍が戦時中に広範囲に使用した浄水制度を開発した。 注釈: 冷戦期におけるソ連の計画に関する記述の分析においてより詳細に注目することになるが、科学者のいくらかは彼らが何を実施しているかを明確に理解していた。その他の者達は(生物兵器計画に関する)異なるレベルの知識と関心を持っていた。 追加情報
14.第二次世界大戦以前・戦中の 日本による生物兵器計画(iii) この攻撃的計画は大規模であった。長期にわたり石井四郎の年間作戦費用は1千万円もしくはそれ以上(現在約50億円)を計上した。 平房は、「行政」棟(収容等)を含む76の頑強な下部建設を含む施設であった。 北野政次は石井の直属の部下であり、後の1942年に本施設の統括を引き継いだ。北野は石井の激しい(政治的)競争相手であったが、科学者としてはより優れていた。 若松有次郎は吉林省郊外で第100部隊を指揮した獣医である。この部隊の主な関心は対動物・植物戦であった。 増田知貞は南京において第1644部隊を指揮した。彼は石井の友人であり機会ごとに石井に協力した。 注釈:このスライドは計画の規模と範囲そして計画に携わった科学者の数を示すことを目的とする。 追加情報
15.第二次世界大戦以前・戦中の 日本による生物兵器計画(iv) 石井部隊は彼の発明した方法により大規模な量の細菌の生産が可能であった。1939年における炭疽菌の年間生産能力は500 – 600 キログラム、ペスト菌は300 キログラムであった。 攻撃用研究の主な目的は それぞれの生物剤が人に対して50%の確立で感染もたらす最小感染量の判定であった。 農産物攻撃用の生物剤に関しても同様の研究がなされた。特に 満州とシベリアで育った全ての穀物や食用野菜に実効的な効果をもたらすため、糸状菌、 細菌、そして線虫が研究された。 石井部隊はウイルスやリケッチア研究用の施設を備えておらず、毒素に関しては限られた研究は行われていた。 注釈:これが広範囲な計画であったことは明白である。しかし、実用可能な兵器の獲得のための有効な指揮と調整は行われていなかった様である。にもかかわらず、次のスライドが示すように、実地試験は非常に大きな規模で実施された。
16.第二次世界大戦以前・戦中の 日本による生物兵器計画(v) 大砲の砲弾、 航空機からの散布そして空中投下された爆弾を通じた散布といった3種類の散布技術が試された。爆弾実験が最も成功したと考えられ、さまざまな種類の爆弾が開発された。 1939年 ソ連軍との交戦において日本軍は一連の大敗を喫した、そこで石井はソ連軍の陣地に対する妨害工作として、サルモネラとチフス菌を散布する許可を得た。 大砲の砲弾も使用された。 731部隊はこの作戦を評価され、1939年から1942年にかけて中国において一連の生物兵器の実地実験が行われた。 チフス、コレラ、炭疽菌、そしてペスト菌が異なる場所における全ての主要な作戦において使用された。その中には破壊的な効果を発揮した例も確認された。 注釈: この計画に関して多くのことは不明確であるが、生物兵器を効果的に開発及び利用するための深刻で多くの場合震撼させるような取り組みが行われたことに疑いの余地は無い。 Ref: Table 7.5 produced in Harris, S (1999) ‘The Japanese biological warfare programme: an overview’, In: Geissler, E. and van Courtland Moon, J. E. (eds.) Biological and Toxin Weapons: Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945. SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies, no.18. Oxford: Oxford University Press. pp.127-152 追加情報
17. 第二次世界大戦における アメリカによる生物兵器計画 (i) アメリカは1925年ジュネーブ議定書を推進し調印したが、上院の意向により批准はできずにいた。ゆえにアメリカは戦時において本議定書の規制の効力外にあった。 しかし、大統領は議定書の原則は支持したものの第二次世界大戦以前は生物戦の可能性を重大に疑問視していた。 第二次世界大戦への参加が濃厚になり、日本軍の中国における活動を含む諜報報告をうけて、アメリカは上記の認識を変え始めた。 1941年秋に特別委員会が設置され、 翌年2月の最初の報告書は「生物戦は明白に実行可能である」とした。 注釈:ここらの先のスライドはSIPRI No 18ムーンの章(以下参考文献)による。 Ref: The unpublished manuscript The Hisorical Report of the War Research Office, November 1944 Final. pp. 18-40. Cited at p. 219 in van Courtland Moon, J. E. (1999) ‘US biological warfare planning and preparedness: the dilemmas of policy’, In: Geissler, E. and van Courtland Moon, J. E. (eds.) Biological and Toxin Weapons: Research, Development and Use from the Middle Ages to 1945. SIPRI Chemical & Biological Warfare Studies, no.18. Oxford: Oxford University Press. pp. 215-254 追加情報
19.第二次世界大戦における アメリカによる生物兵器計画 (iii) 開始当初から本計画は最高機密として取り扱われ、攻撃的側面と防衛的側面に同等の考察がなされた。事実、最良の防衛は、攻撃にたいして効果的かつ全面的に対応できる能力を備えることであると考えられた。 1942年にはイギリスとの協力が開始し、ポートンダウンにおいて経験のある、少なくとも8人の細菌学者が米軍に任命された。 1943年5月イギリスは全ての生物戦の結果をアメリカ及びカナダに提供した。 このイギリスによる報告は1942年の炭疽菌の実験を含んだ。1943年アメリカは追加的な実験の実施に向けて兵隊を派遣した。 注釈:この協力は防衛的かつ攻撃的生物兵器に関するイギリス、アメリカ及びカナダの長期的な関係をもたらした。
18.第二次世界大戦における アメリカによる生物兵器計画 (ii) 1942年の特別委員会報告書は対人、対動物そして対植物生物剤を以下のようにリスト化した。 対人: ペスト、天然痘、デング熱、黄熱病、異なる種類の脳炎とマラリア、 対動物: 牛疫、口蹄疫 そして家禽ペスト 植物病害と害虫も考察され、防衛と攻撃の可能性に関する研究の実施令状が出された。 1942年6月の第二報告書は 驚くべきとこにこれまでは省略されていた炭疽菌とボツリヌス毒が追加された。 注釈:委員会は文民である細菌学者により指揮され、軍人に加え多くの文民科学者を含んだ。
20.第二次世界大戦における アメリカによる生物兵器計画 (iv) 日本から送られた数百の熱気球が太平洋を渡り米西海岸に急襲を加えるというシナリオでアメリカの生物戦に関する懸念は高まった。 諜報員はこれらが対植物生物剤を積んでいるのではないかと考えた。 第2次大戦の終わりにかけ、効果的に使用できると考えられる対植物剤をアメリカは生産していた。 稲の褐斑病 (コードネーム E) 稲のイモチ病 (コードネーム IR) 植物成長調整因子 (コードネーム LN) 1946年までに日本の稲作物の30%を破壊する計画が練られた、しかし日本の降伏の可能性が見え計画は実行されなかった。 注釈:大戦期においてアメリカは生物兵器の調査に関心を持っていなかったが、大戦後の大規模計画のための基礎は築かれていた (次講義参照)。 Ref: Whitby, S. (2002) Biological Warfare against Crops, New York: Palgrave Macmillan. Rogers, P., Whitby, M., Dando, M. (1999) “Biological Warfare Against Crops”, Scientific American 280(6) pp. 62-67. 追加情報
参考文献と質問 参考文献 例題