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江崎利一(江崎グリコ創業者) の創業理念と商いの精神 創業時代からのお客様第一主義

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1 江崎利一(江崎グリコ創業者) の創業理念と商いの精神 創業時代からのお客様第一主義
創業者江崎利一は、佐賀市近くの蓮池村で、父親の開いた薬種業を引き継ぎながら商売の 道を志した。家業の合間をみては独学に励み、近所の楢村佐代吉先生に師事する。 先生の教えを通じて「事業即奉仕」の商道精神を学んだ。 やがて葡萄酒業で成功するが、このころ近くの有明海で、カキの煮汁に含まれたグリコーゲン と出会い、人生の新たな転機を迎えた。  事業を通じて、社会に貢献したいと願う利一は、栄養価の高いグリコーゲンを活用して 広く国民の健康に寄与したいとの考えから、栄養菓子グリコを創製した。  利一の理念は栄養菓子グリコを通じて実現され、創業の精神「食品による国民の体位向上」 として現在も生き続けている。  創業期のマーケティングにも、既にお客様第一主義に根ざした製品づくりや広告と販売の 実例がみられる。これらは今日の当社の企業活動の原点となっている。

2 企業理念 「キャナルシティー博多」地下1Fにあるグリコの商品を専門に取り扱っている「ぐりこ・や」 キャナルシティー博多
「『おいしさと健康』-おいしさの感動を 健康の歓びを  生命の輝きを-Glicoはハート・ヘルス・ライフのフィールド でいきいきとした生活づくりに貢献します。」 キャナルシティー博多

3 現在の江崎グリコ(株)本社             (大阪) 現在の取締役社長 江崎勝久氏

4 江崎グリコ株式会社の財政状態及び経営成績
○増収増益 第99期貸借対象表及び損益計算書 ○増収減益 第100期貸借対象表及び損益計算書 ○減収増益 江崎グリコ決算報告 単位:百万円 会計期間 第99期 第100期 売上高 134,677 129,697 利 益 888 1,177

5 江崎 利一年譜 No.1 年月 西暦 年齢 内 容 明治15年 1882年 0歳
江崎 利一年譜 No.1 年月 西暦 年齢 内       容 明治15年 1882年 0歳 12月23日佐賀県神埼郡蓮池村(現在佐賀市蓮池町)に生まれる。 明治30年 1897年 15歳 芙蓉高等小学校4年を卒業。家業の薬種業に従事。塩売りも始める。 明治34年 1901年 19歳 父清七死去。家業を継ぐ 明治39年 1906年 24歳 結婚。戦功により勲八等白色桐葉章を受け、その慰労金で外国製自転車を買う。 明治40年 1907年 25歳 初めて大阪を見物し、薬を安く仕入れる。このころ広告・販売などを独学 明治44年 1908年 26歳 長男 誠一誕生 大正4年 1915年 33歳 九州で葡萄酒販売高のトップクラスとなり、大阪進出の資本蓄積に努める。 大正8年 1919年 37歳 早津江川土手にてカキの煮汁に出会い、その分析を九州帝国大学付属医院に分析を依頼。 大正9年 1920年 38歳 カキエキスの臨床効果を長男の誠一の病気の際に確認 大正10年 1921年 39歳 蓮池を去り、一家を大阪へ移す。曾根崎の店を南堀江に移し、工場隣に住む。合名会社江崎商店を設立し、社長に就任。栄養菓子グリコを試験販売。 大正11年 1922年 40歳 栄養菓子グリコを三越で販売。公徳販売器、風味袋、クーポン券付きチラシ、オマケカードなどユニークな販売法を創案。 昭和2年 1927年 45歳 豆玩具オマケを創案し「食べる」「遊ぶ」の子どもの2大天職を満足させる商品化を図る。

6 江崎 利一年譜 No.2 年月 西暦 年齢 内 容 昭和4年 1929年 47歳 合名会社江崎商店を株式会社江崎に改組。オマケの小箱を考案
江崎 利一年譜 No.2 年月 西暦 年齢 内       容 昭和4年 1929年 47歳 合名会社江崎商店を株式会社江崎に改組。オマケの小箱を考案 昭和8年 1933年 51歳 酵母菓子ビスコを創製発売。豆文広告を開始 昭和9年 1934年 52 私財を投じ財団法人母子健康協会を創立、理事長に就任 昭和20年 1945年 63歳 空襲により大阪・東京工場を全焼し、海外資産も接収される。焼け跡に従業員を集め、「無一物となったが、まだ消費者の記憶にグリコの名前と信用が残っている」と励ます。 昭和21年 1946年 64歳 満州国名誉領事として使っていた外車を売って資金とする。 昭和30年 1955年 73歳 大阪府菓子商工協同組合連合会理事長、名誉理事長。アーモンドグリコ発売「1粒で2度おいしい」のスローガンを創案。 昭和35年 1960年 78歳 大阪ビジネス同友会会長、名誉会長 昭和40年 1965年 83歳 グリコ商事を設立し、会長に就任 昭和41年 1966年 84歳 体力つくり国民会議大阪協議会保健栄養部会長 全国飴菓子工業会名誉相談役 昭和42年 1984年 85歳 財団法人大阪科学技術センター理事。 第17回全国菓子博(札幌)名誉会長 昭和44年 1986年 87歳 日本菓子工業協議会顧問 昭和48年 1973年 91歳 江崎グリコ株式会社会長に就任 昭和52年 1977年 95歳 「商道ひとすじの記」発刊 昭和55年 1980年 97歳 2月2日呼吸不全により死去

7 創業者を育てた環境 明治15年(1882年)当時の神埼郡蓮池村 で生まれる。
創業者江崎利一は、明治15年(1882年)12月23日に、葉隠で知られた肥前の国、神崎郡蓮池村(現佐賀市蓮池町)で生まれた。蓮池は、旧蓮池藩鍋島家5万2千6百万石の城下町で、町並みには当時のおもかげを現在も残している。 明治15年(1882年)当時の神埼郡蓮池村 で生まれる。

8 大阪・北堀江の江崎商会(大正6~8年)

9 利一の生家:江崎薬店 大正14年

10 利一の生家(現在は神崎公民館)

11 “事業即奉仕”の教え 創業者を育てた環境 看護兵として活躍した利一(右) 明治37年 利一の父 江崎清七 (1845~1901)
“事業即奉仕”の教え  創業者を育てた環境 利一の父 江崎清七  (1845~1901) 利一の母 江崎タツ  (1856~1918) 日露戦争渡満時に母に送ったはがき明治37年 看護兵として活躍した利一(右) 明治37年

12 赤い箱を選ぶ ●佐賀県で販売されているグリコの商品 1粒300メートル、笑顔のゴールイン印(マーク)、何が出るかお楽しみの豆玩具・・・・・。
赤い箱を選ぶ  ●佐賀県で販売されているグリコの商品 次に箱の色をどうするのか。先発の森永ミルクキャラメルは黄箱で、他社も同じような色だった。黄色では他社を追い越すことは できない。「あっグリコだ!」とすぐに分かるものにしたい。  赤色なら、最高に人目を引き、しかも食欲をそそる色だ。色々な箱の中に赤い箱を置いてみた。たしかに目を引いた。しかし、 目立ち過ぎて、どぎつい印象は免れない。つまり強烈な印象を与えるものの品性に欠ける一面があった。そこで真っ赤ではなく、 上品な赤にしようと思った。色の配合に苦心しながら、文字やマークとのバランスを考え、やっと特長ある赤箱をつくることができた。 1粒300メートル、笑顔のゴールイン印(マーク)、何が出るかお楽しみの豆玩具・・・・・。 誰でもが子ども時代に親しんだ赤い箱のグリコが誕生するまでには40歳を前に佐賀から 菓子業界にうって出た、ある男の強い意志があった。

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14 ハート型の発想 他社にないものをつくりたい。利一は、飴の形にもこだわった。いろいろと考えた末に行き着いたのが「ハート型」であった。
ハート型の発想  他社にないものをつくりたい。利一は、飴の形にもこだわった。いろいろと考えた末に行き着いたのが「ハート型」であった。 ハートは人体の中心であり、真心を表す。栄養菓子グリコの象徴として、これ以上の形はない。それに角張ったものより 丸みのあるほうが幼児の口に入れた場合でも楽になめられ、舌ざわりもいいだろうと考えたのである。  しかし、ハート型につくるにはどうすればよいか分からない。専門家に聞くと、「キャラメルではハート型」はできぬ という。「それなら私が可能にしてみせよう」と決意した。寝ても覚めてもハート型の飴づくりに取り組んだ。 配合を変え、温度を調節し、失敗に失敗を重ねて、ハートの型抜きに成功したのは大阪に出てからであった。

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16 原材料名 かきエキス(グリコーゲンを含む)との記載有り

17 初期のトレードマーク ●マークの顔がこわい 大正12年頃、「顔がこわい」という女学生たちの指摘を受けて、利一はその表情を描き直す ことにした。この時参考にしたのが、極東オリンピックで優勝したカタロン選手をはじめ、パリオリンピック に出場した谷三三五選手やマラソンの金栗四三選手らのにこやかなゴールイン姿である。

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19 利益 利益 売り手 買い手 自分のため=世の中のため 売り手のもうけ(得)=買い手のもうけ(得)=社会全体のもうけ(得) 商品・サービス
販売 現金 利益 利益 商売の本質を学ぶ 楢村先生は以前寺子屋の先生をされていたことがあり、田舎では、稀に見る篤学の士であった。熱心に教えを乞う 利一少年に対して噛んで含めるように色々なことを話して聞かせた。  ある日、先生から商売について次のような話を聞かされた。「商売というものは、自分のためにあるが、 世の中のためにもある。売る人は物を売って利益を得るが、買う人もまたそれだけの値打ちの物を買って得をする。 この持ちつ持たれつの間柄、共存共栄がなかったら、ほんとうの意味の商売は成り立たないし、発展もない。 商売で大成しようとするものは、決してこのことを忘れてはならい。」15歳の利一少年は、子供心にこれこそ もっとも心理をついた商売の本質であると深い感銘を受けた。楢村先生のこの教えは、その後の利一のバックボーン となりつづけた。 楢村佐代吉先生 (1844~1906) 自分のため=世の中のため 売り手のもうけ(得)=買い手のもうけ(得)=社会全体のもうけ(得)

20 商品開発へのsuccess story カキの煮汁にグリコーゲンが・・・・ グリコーゲンを菓子化 かきのなんでも図書館のページへ
疲労回復や体力増強、糖尿病予防に グリコーゲン かきは、含有する糖質の50%がグリコーゲンです。これほどグリコーゲンを含有した食物は他に見当たりません。かきのうま味の主体でもあるグリコーゲンは、多糖類の一種で、体内のエネルギーが不足したとき、糖質に変化し血液中の糖度調節に使われます。そのため、疲労回復や体力をつける必要のある人に最適な栄養素です。 大正8年(1919年)3月のある日、江崎利一はいつものように自転車で、有明海に面した犬井道方面へ行商へ向かった。 筑後川下流の早津江川土手にさしかかった時である。ふと見ると船着き場の河原の小屋で十数名の漁師たちが忙しそうに 作業をしていた。何をしているのだろうと思って近くに行ってみると、むいたカキを大きな鉄鍋にどんどん放り込み、 さぁーっとゆでては取り出す。そのつど煮汁がこぼれ、あたりをぬらしていた。その時、利一の脳裏に天啓のように ひらめいたのが、いつか読んだ薬業新聞の記事であった。「世界的に称揚されているグリコーゲンは日本の貝類、 特にカキに多く含まれている」という内務省栄養研究所長の佐伯矩(さえき ただす)博士の発表によるものだった。 グリコーゲンは、当時、既に三共からグリコナールとして売り出されていた。 「この煮汁にグリコーゲンが入っているのでは?」と思い、忙しそうな中のひとりをやっとつかまえて話しを聞いた。 「ゆでたカキを干して、主として中国に輸出する。煮汁はそのまま捨ててしまう」とのことだった。煮汁を少し分けてほしい と頼むと、「どうせ海に捨てるものだから、いくらでも持って行け」と言う。煮汁を分けてもらい、家に帰った利一は、 すぐにその煮汁をガーゼでこし、水飴ぐらいに煮詰めた。九州帝国大学付属医院にその分析を依頼した。 結果はグリコーゲンが40~42%含まれており、ほかにカルシウムや銅分なども含まれていることがわかった。 「こりゃえらいものを見つけたぞ!」と利一は小躍りした。思えば劇的なグリコーゲンとの出会いであった。

21 予防こそ治療にまさる・グリコーゲンを菓子化
「われわれ医者は病気を治すことばかり研究しているが、これは国民保健の点からいうと実は消極的なことなんだ。予防こそ治療にまさる。病気になった者を治すよりは病気にからぬ体をつくることが大切なんだ」 グリコーゲンを一番必要とするのは育ち盛りの子どもである。それならば子どもが喜ぶ菓子の中に入れて嗜好品として売ったらどうか」と思い付いた。 「えっ、キャラメルをこれから始めるんですか?」江崎利一がグリコの製造・販売に乗り出したとき、菓子業界を知る人の多くが反対した。キャラメルへの新規参入は難しかったからだ。 日本で最初のキャラメルは、明治41年(1908年)に、森永製菓から発売された。 創立者の森永太一郎は、利一と同じ佐賀出身である。二番手は明治製菓。さらに次々と同業者が増え、一時は50以上も乱立したが、森永や明治の大きな力には対抗できず、それら業者の大半は撤退してしまっていた。 大正9年、8歳になった利一の長男誠一がチフスにかかった。チフスは峠を越したものの衰弱がひどく、医者もさじを投げるほどであった。 たまりかねた利一は、医者に尋ねた。「いま研究を進めているグリコーゲンのエキスを与えてみようと思います。よかですか」「私もやるだけのことはやってみたがどうも効果があらわれん。ひょっとということがあるからやってみなさい。」との返事。グリコーゲンの良さは一般に認められていたとはいえ、研究中の

22 一方、そのころ利一は、苦労がようやく報われ、佐賀で興した葡萄酒の販売業で
九州有数の店の仲間入りを果たしたが、40歳を目の前にしている。 これから商業の都大阪に出て、畑違いの菓子づくりに挑むと、危ぶまれたのも無理もない。 しかし、大正10年(1921年)、江崎商店は大阪でグリコを売り出す。森永キャラメル 発売の13年後だ。ただし、江崎利一に森永の後追いという気はない。彼はグリコを キャラメルとは別のものと考えていた。 “栄養菓子”これがグリコの商品としての立ち位置である。 グリコの名は、グリコーゲンから来ている。肝臓や筋肉に多く含まれるこの多糖質と 利一との出会いは、大正8年(1919年)にさかのぼる。  当時最新式の自転車で、行商中の彼が筑後川沿いの道を走っていると、河原で漁師 達が有明海でとれたカキを大鍋でゆでては煮汁を捨てる場面に出くわした。 

23 江崎利一が友人から教科書を借りて書写したもの。
家が貧しかった利一は、高等小学校4年までの学歴しかない。教科書も買えず、友人に 借りて筆写。だが、それが予習となり、主席で卒業している。

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25 江崎利一(江崎グリコ創業者)「商道ひとすじの記」より
子供の生活行動をよく観察していると、食べることと遊ぶことが二大天職のように思える。 食べながら遊び、遊びながら食べている。どちらか一方だけでは満足しない。つまりオヤツ とオモチャの世界に住んでいるのである。 子供にはオヤツとオモチャは切り離せない。手元になければ、あらゆる工夫をして自分たちでつくり出している。 子供は、つねに新しい遊びと新しいオモチャを探している。いつの時代でもそうであった。 そして、それに取り組んでいる子供の姿はまことにいじらしく、真剣である。その選択は子供の教育上からみても、人間形成の上からいっても重大な意義を持つ。だから私は栄養菓子を子供に与え、オモチャとしての豆玩具を提供しようと考えたのだ。 大阪呑気大事典より グリコと云えばオマケである。どんなオマケのオモチャが入っているのかは買って開けてみなければわからない。気に入ったオモチャが入っておれば得した気分になれるが、しょうもないのが入っていると一日気分が悪い。そしてもう一つ明くる日買うと同じモノが入っていたら、もうグリコは卒業したいと考える。最悪なのが、女の子向けの人形さんが入っていた時だ。何もグリコは男の子だけが買うとは限らないので女の子向けのオモチャが入っていても不思議ではないけれど、何かそのへんのブサイクな気分がグリコであり気恥ずかしい。(川崎ゆきお)

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29 江崎利一語録 ●商売は2×2=5(二二んが5) 2×2=4では当たり前、さらに人一倍の努力と工夫をすれば
 2×2=4では当たり前、さらに人一倍の努力と工夫をすれば  2×2=5にも6にもなるという考え方。  これは創業以来、グリコ精神の根幹をなしている。 ●(人のやらない)面倒なことをやらんば、商売は成功せんとよ  面倒な仕事だとか、これは出来ないとか簡単にあきらめず、  工夫に工夫を重ね粘り強く取り組むことだ。面倒の中にこそ  商売のチャンスがかくされているという教え。おまけを付けたり  アーモンドを粒のまま入れたり、まさに面倒くささの権化である。 ●消費者のハラの中に入り込め  いったん消費者自身になりきって、そこから相手の立場に立って  ものごとを考えよ。  特に製品開発や広告・販売の担当者へのアドバイス


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