昭和13(1938)年「阪神大水害」における神戸区町会連合会の対応

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1 昭和13(1938)年「阪神大水害」における神戸区町会連合会の対応
加藤 尚子 (元東京大学大学院博士課程) こんにちは。元東京大学大学院博士課程の加藤尚子です。 今日はご覧のようなタイトルで自然災害と地域社会について論じていきます。 お手元に本日お見せするパワーポイントをプリントアウトしたもの(13頁)を1部と、資料1から資料6までを綴じたもの1部、それから参考資料のリストを1枚、私の論文の抜き刷りを1部お配りいたしました。ご確認ください。 本日のシンポジウムの共通論題は「自然災害と地域社会――農業史研究の視点から」ということで、先の皆さんは農村を対象にお話しされました。 私の場合、確かに「自然災害と地域社会」を論じてまいりますが、実際に災害が発生いたしました昭和13年当時、阪神地域は既に大都市でありまして、果たして農業史研究と言えるのかどうか、不安なところもあります。 しかしながら、資料1の明治18年の地形図と、資料2の大正12年の地形図を見比べていただければお判りのように、この大都市神戸も明治中期においてはまだまだ農地が広がっておりました。 よって、この災害は、「急激に都市化が進んだ農村における災害」とも言うことができるのではないかと思います。

2 目次 はじめに 昭和13(1938)年「阪神大水害」とは? 史料『神戸区水害復興誌』について 神戸区の“独創性” 神戸区の被災状況
神戸区の「復旧作業」                              おわりに 本日はこのような流れでお話しさせていただこうと思います。 まず、はじめに、で先行研究について若干触れたのちに、一般論としての「阪神大水害」発生メカニズムについて述べさせていただきます。 次に、史料の説明をし、神戸区のオリジナリティについて述べたいと思います。 そのうえで、神戸区の被災状況と復旧作業について述べ、最後にまとめとしたいと思います。 ---- 配布物に訂正がいくつかございます。 お渡ししたレジュメの目次では「おわりに」となっておりますが、一番最後のページは「まとめ」となっております。目次と本文が一致していませんことお詫びいたします。 それから、レジュメの11頁の下の図ですが、6頁の下に移動します。 それと、お配りした参考資料のリストにある『神戸区水害復興誌』の発行者が神戸区復興委員会となっておりますが、西村荘三です。 重ねてお詫び申し上げます。

3 <先行研究> はじめに 吉田律人「軍隊の「災害出動」制度の確立-大規模災害への対応と衛戍の変化から」
『史学雑誌』第117編第10号、史学会、 北原糸子「関東大震災の行政対応を生み出した大正6年東京湾台風」 『歴史都市防災論文集』Vol.1、立命館大学歴史都市防災研究センター、 川本三郎「『細雪』とその時代-谷崎の大水害描写を助けたもの」『中央公論』第122巻3号、 土田宏成「関東大震災後の「市民総動員」問題について-大阪の事例を中心に-」 『史学雑誌』第106編第12号、史学会、 神戸市赤塚山高等学校地歴部『「昭和13(1938)年の阪神大水害」についての聞き取り調査報告書』 神戸市赤塚山高等学校地歴部、 衛戍(えいじゅ) --- では、はじめに先行研究について、 近代の災害に関して先行研究が殆ど見当たらないというのは事実で、それでもパラパラとはあります。 ここに挙げた先行研究は発表年が新しいものから順に並べてありますが、阪神大水害をとりあげた川本さんのと、赤塚山高校のものは厳密に言うと学術論文とは言えません。 近代の風水害への災害対応ということでいうと、調べた限りでは、北原糸子さんのものが唯一かなと思います。

4 2007年:「昭和13年「阪神大水害」における旧本山村(現神戸市東灘区)の災害対応
(神戸市水害鳥瞰絵図) 『神戸区水害復興誌』より転載 2007年:「昭和13年「阪神大水害」における旧本山村(現神戸市東灘区)の災害対応        と復旧支援」『自然災害科学』26-3、pp 史料=『本山村水禍録』本山村役場、128p.、1940年3月. 特徴=村議・区長・役場が一体となって活動 村の外から来た奉仕団の活動は「第二小学校」に限られていた 2008年:「昭和13年「阪神大水害」の被災地と勤労奉仕団」日本農業史学会2008年        度研究報告会個別報告2. 史料=『湊区水害誌』湊区役所・湊区教化協同会、805p.、1939年6月. 特徴=復興委員会結成、委員長は区長        復旧方針は「隣保協力」「自立自営復興」「町会中心」        奉仕団・支援物資などの配分は「区」の担当 そこで、ここでご紹介するのは私の研究で、上のものはお配りした抜き刷りです。下のものは報告だけはしたのですが、まだ論文にはまとめていません。 この2つの研究では、主として奉仕団に注目しました。(スライド) 本研究で取り扱った『神戸区水害復興誌』でも同様に奉仕団について分析しようと試みたのですが、この本の場合、外からの奉仕者への感謝は確かに記録されていますが、それ以上に強調されているのは区民の力で復旧・復興を遂げる過程にありました。(後述)つまり、本によって、強調したいテーマが異なるために、必ずしも研究者の側が欲しい情報が得られるわけではない、ということがわかりました。 参考までに、 この絵図の原図は神戸市役所に所蔵されており、「縦三尺一寸、横一丈三尺九寸」のものを1/36強に縮尺したものが、「「水害大観絵巻」として『神戸市水害誌付図』に収録されたものを、『神戸区水害復興誌』では「神戸市水害鳥瞰絵図」として転載収録したものである。

5 1. 昭和13(1938)年「阪神大水害」とは? 自然地理的条件 気象的条件 梅雨前線豪雨による土砂災害
1. 昭和13(1938)年「阪神大水害」とは? 自然地理的条件 気象的条件 六甲山系は極めて風化しやすい花崗岩から出来ている⇒これが頂上近くでは50°以上に傾斜している その下は水を通さない母岩 母岩から上の土中が、多量の水により飽和状態に達し、それが斜面であったために各所で山崩れが起こった 6月30日に台風が房総半島近くを通過 その通路あたりに梅雨前線が停滞 3日夕方には太平洋高気圧の勢力が一層増した 等圧線の走向が南南西へ⇒神戸地域へ梅雨に豪雨をもたらす形 3日の梅雨前線は4日に消えたが、北陸沿岸に新たに発生したものが瀬戸内西部のものと結合し、さらに東の端にあたる奥羽地方に低気圧を誘発し、日本海の高気圧が南東に押し下げられ、結果的に、5日に梅雨前線が再び神戸地方に停滞し豪雨となった では、「阪神大水害」の概要について、述べさせていただきます。 (スライド) --- 「オホーツク海気団と小笠原気団の境に梅雨前線ができた」 つまり、 梅雨前線豪雨による土砂災害

6 人為的条件 安政5年(1858)「安政仮条約」により兵庫開港が決定する 慶応3年(1868)神戸開港
外国人居留地の工事未完成⇒生田川(東)~宇治川(西)への雑居認める 土木事業の展開    →生田川付替:居留地へ氾濫し外国人から苦情→東へ付替(新生田川)    →旧生田川河川敷の埋め立て:約60000坪(加納宗七等請負⇒払下げ)    →旧居留地8万坪の再埋立(新政府)    →仲町一帯98000坪の区画整理    →神戸運河    →湊川付替:明治29大水害で具体化⇒新湊川(旧湊川は埋立てられ新開地に)    →市内河川の暗渠化⇒遊歩道へ 産業の勃興 六甲山のリゾート開発:別荘地、ドライブウェイ、スキー場、ゴルフ場など 平坦地の市街化⇒六甲山南麓の傾斜地の市街化(東西へ) 都市化の拡大、人口増加 開港期限は慶応3(1867)年

7 実は水害常襲地 神戸地域の災害の記録(除く地震・火事) 近世の水害 近代の水害 しかし、普段は川に水はなく(しかも暗渠で
正徳 2(1712)年=武庫川~生田川、大洪水 元文 5(1740)年=生田川大洪水、湊川出水 宝暦 6(1756)年=生田川満水、水防を行う 天明 2(1782)年=住吉川大洪水 寛政12(1800)年=湊川出水 文化10(1813)年=住吉川氾濫 天保14(1843)年=湊川出水 慶応元(1865)年=湊川破堤、都賀川大出水 慶応 2(1866)年=天王谷川西堤防決壊 明治元(1868)年=天王谷川堤防決壊 明治 4(1871)年=暴風大雨、生田川出水 居留地以西一帯浸水 明治 7(1874)年2、6、7月 =湊川堤防決壊(7月は生田川も) 明治29(1896)年9月=10日連日大雨300ミリ超す 現兵庫区・中央区西部が大洪水 明治38(1905)年9月5日=時間最大雨量73.3ミリ 浸水一万余戸、死者3人 大正10(1921)年=台風通過。須磨区・兵庫区・ 中央区で土砂崩れなどで死者7人 大正13(1924)年=中型台風。 死者10人、浸水1495戸 昭和 9(1934)年=室戸台風 昭和10(1935)年6/28-29、8/10-11、8/28-29 =床上・床下浸水、山崩れ、石垣崩壊 実は水害常襲地 湊川、住吉川ともに阪神地域では比較的大きな河川だが、河川法的に言うと「二級河川」である。(加藤:2007、p.293) ・・・傾斜が急で、流路延長が短く、水量に比べて土砂の流出量が多いた    め河床が高く、この地域特有の天井川 しかし、普段は川に水はなく(しかも暗渠で 見えない)、水害には無縁な土地だと安心 していた人が多かった (古くからの住民は別)

8 2. 史料『神戸区水害復興誌』について 上製、函付き、横16cm×縦23cm、413ページ、被災地の絵地図(折り畳み)1葉
2. 史料『神戸区水害復興誌』について 上製、函付き、横16cm×縦23cm、413ページ、被災地の絵地図(折り畳み)1葉 1939年10月5日発行 編纂者=神戸区復興委員会、発行者=西川荘三(<神戸区復興委員会長) 編纂組織の詳細は不明だが、編集長は嘱託の加藤氏(神戸区記録係)であった 凡例によると、 地区(エリア・空間)⇒神戸区、活動主体⇒神戸区復興委員会乃至町会                   ↓ 「災害及び活動の上に、神戸区および区民の特性と真価を示そう」との試み 当時の新聞記事や、『神戸市水害誌』( 発行)に依拠している部分が大半で、そこに復興委員会の活動や町会長の報告を挟み込むような形になっている 「本書は、勝田市長の水災禍一周年に際しての放送を、請うて序説に代えた如く、各所に責任ある関係機関の言説を転載して、全市の大和総行進の光景を再現すると同時に、新しき「大神戸」の出発を祝福せんと試みた」 次に、本報告で取り上げる史料について申し上げます

9 「昭和十三年七月五日の神戸市大水禍はこの地方未曽有の災禍であったと同時に、市民的な生活とその活動に関する未曽有の記録を遺したと信ぜられる。
西川荘三氏による序文 「昭和十三年七月五日の神戸市大水禍はこの地方未曽有の災禍であったと同時に、市民的な生活とその活動に関する未曽有の記録を遺したと信ぜられる。  何にしても、須臾にして全市五割九分の地域に漲った濁水と、堆積した三十余万立坪の土砂は、好個市民的の試練と大和の機会を与え得て、能く大神戸のよき市民性の発揮と再認識を為さしめた。加ふるに、その泥土と濁水の中に逸早く手を伸ばされた近府県勤労奉仕団体六十万人の救援は、銃後の美しい国民性の再発見であった 。  殊に、水禍と共にこれを辱したる 畏き辺の勅使御差遣・御内帑金御下賜は、尊い国体的な感激であった。  この一巻は、その再認識と再発見と斯の深き感激を以て、雄々しくも泥土の中から起ち上がった、わが神戸区民の記念すべき生活報告である。或はこの国運を賭した聖戦下に於て、聖められたる国民的意識を以て生活した、感激すべき活動記録である。  災禍以来すでに一年有余、市区の復旧と応急処置は殆ど成り、復興また漸くその緒に就かんとしている。期待すべき『大神戸』は、国家の保護により、県民の支援により、市民の奮発により、次第に建設されようとしている。然れども、羅馬は一日にして就らず、永遠の楽土としての『大神戸建設』は新しき一大決心を以て起たねばならぬ。これはまた吾人に課せられたる長き価値ある試練であるであろう。わが神戸市民並びに区民各位が、克く今の意気と誠実と大和を以て、今次の災禍を転じて福光となすの熱意を継続されんことを切望するものである。」 須臾(しゅゆ)=少しの間、しばし、能く(よく)、畏き(かしこき)辺(あたり)、内帑(ないど)、吾人(ごじん)、克く(よく)

10 この本が発行されるまでの経緯 昭和13(1938)年 7月14日 区内水害復興状況を撮影開始
7月14日 区内水害復興状況を撮影開始 7月25日 「水災物故者慰霊祭」について議論され始める 8月4日 「水害復興誌編纂ノ件」が初めて議題に上る 8月16日 「水災物故者慰霊祭」執行 8月26日 神戸区の水害復興写真が90余枚完成 9月30日 水災美談を市当局より求められ、回答する 昭和14(1939)年 2月2日 『神戸区水害復興誌』の資料提供を区内各町会長、学校長、各種団体長へ依頼 7月5日 水禍一周年。午前10時市民一同黙とう 神戸区では生田神社で一周年祈願祭を行う 7月25日 『神戸市水害誌』発行 9月3日 西川荘三氏、序文を書く 10月5日 印刷 10月10日発行

11 「神戸区復興委員会」の設立 =母体は「神戸区町会連合会」 各町会の「自力更生」のためのサポート 3. 神戸区の独創性
3. 神戸区の独創性 「神戸区復興委員会」の設立      =母体は「神戸区町会連合会」 (町会長もしくは町会の代表による連合会) 設立の目的=  各町会隣保の復興活動の後援  災害に対する応急措置、  復興計画の実行促進およびその統制  各町会の「自力更生」のためのサポート さて、この神戸区のオリジナリティはどこにあるのでしょうか。 ⇒神戸区には、そもそも「神戸区町会連合会」というものがあり、それが機能的に働いたということ。 --- 設立のきっかけ=市区当局の応急処置や各町会の自治的活動だけでは容易に対処できないということで、神戸区町会連合会」は7/9の夜、緊急町会長会議を開いた。そこで町会を主体として「神戸区復興委員会」を組織することが決まり、市区当局の復興の意図に呼応しつつ、各町会、すなわち現場の復興活動を後援し、今後の災害に対する応急措置と復興計画の実行促進とその統制に着手することを決めた。 (本報告では時間の関係で一番最後の「今後の災害に対する応急措置と復興計画の実行促進とその統制」については取り上げません。今後の課題といたします) つまり、区当局と復興委員会で役割分担。 神戸市・区当局とは協力関係にあったが、 あくまでも独立した組織として活動

12 「神戸区復興委員会」の体制 全体会(緊急町会町会も含む) 総務委員会 会長:西川荘三(神戸区町会連合会長)
副会長:永田良介・木下勢三(神戸区町会連合会副会長) 物資配給委員会 (後に救済慰問部) ⇒13名 衛生救済慰問委員会 (後に衛生部) ⇒12名 道路復旧委員会 ⇒15名 (7/13に4名追加) 交渉委員会 (後に財務部) ⇒8名 (8/1に5名追加) 西川氏は当時72歳。市会の長老、市長の政友。 副会長の永田氏は市会議員。   ⇒リーダーにも恵まれていた 本山村の場合、各係を置き、事務分担ごとに村議と役場吏員が配置されるという体制をとっていた。 湊区復興委員会のメンバーは各町会長・火防組合長・軍人会長・青年団長・各小学校長等(教化協同会顧問及役員)           ・・・教化協同会というものが何を目的に組織されたものかは不明 ⇒構成メンバーとしては神戸区とほぼ一致するが、異なるのは委員長が区長であり、委員会の役割と区当局の役割とが明確に分かれているとは言い難い点である

13 被害棟数=5108/11750棟 被災戸数=7434/16686戸 流出381戸、埋没206戸、 倒壊86戸、半壊415戸
4. 神戸区の被災状況 被害棟数=5108/11750棟 被災戸数=7434/16686戸 流出381戸、埋没206戸、 倒壊86戸、半壊415戸 床上浸水2792戸、床下浸水4302戸 死者49人、重軽傷者128人 被災世帯数=8271/17558世帯 では、神戸区の被災状況について見ていきましょう。 (スライド)

14 赤:家屋全壊または流失 ピンク:家屋半壊または土砂床上侵入 黄色:土砂床下侵入 青:浸水区域 「添付折込地図」『神戸市水害誌付図』神戸市役所、1939.より転載

15 5. 神戸区の「復旧作業」 「復興作業人車配置予定表」(神戸市土木課京橋出張所作成より)
5. 神戸区の「復旧作業」 「復興作業人車配置予定表」(神戸市土木課京橋出張所作成より) 次に、神戸区の復旧作業について見ていきましょう 予定とあるので、実際数は多少の増減があると考えられる。 7/23までは、各町会の要望を復興委員会の道路復旧委員会が集約し、車両・人員を配分していた。ところが、区当局と復興委員会とのコミュニケーション不足から、区当局が相談なしに各町会に同じことをしようとした。そこで両者は、市当局の復旧計画を事前に告知してもらい、それに沿って道路復旧委員会が各町会へ配分することにした。 神戸区復興委員会は、7/24以後、この予定表の提示を前日に受け、道路復旧委員会が各町会へ配分していた。 8/1以降は、市土木課の方針により、道路復旧委員会は各町会への配分数を「協議決定」するようになった。 道路復旧委員の中には、加納町一、二丁目、北野町、山本通三、四丁目など被害の大きかった町会の町会長が委員として出席し、復興作業がよく進んだ。 10/1以降は道路復旧委員会の会合の数は次第に減っていったが、人車配置作業予定表は、それまでどおり前日に提出された。 『神戸区水害復興誌』第一表(pp )より作成

16 神戸区内河川流域における災害復旧人員の状況(のべ人、7~8月)
資料4を元に作成したグラフ 中低所得者救済のため、市で人夫として雇用することになり、各町会で雇入れられた。宇治川流域で多いのは、宇治川流域が被差別部落の町会であり、また被害が甚大であったことが要因として考えられる。 なお、生田川流域と宇治川流域の復旧・復興は、被害があまりに甚大であるため、区の担当を離れ、市が直轄で進めることになった。 『神戸区水害復興誌』第二表(pp )より作成

17 神戸区内河川流域における復旧作業用車両の使用状況
資料5を元に作成したグラフ トラックの無料とあるのは、市が費用を負担したという意味である。 --- 次に資料6の表について この中でとりわけ目立つのは、国際地連合という町会である。桁違いの費用を負担することができた理由は、ここが旧居留地という神戸の一大ビジネス街であったことにある。 ビジネス街であるがゆえに、ここに居住している人は少なく、町会というものが存在していなかったので、企業が主体となって復興を行ってもらう必要が生じた。そこで7/13神戸市商工会議所内に事務所を置き「国際地連合町会」が設立された。多くの人夫・車両を雇入れ、作業にあたったほか、各企業は、社員を奉仕活動に動員した。7/25には経費予算を審議し、4万5千円は町内の寄付金でまかなうこととし、寄付金募集に着手した 町内には外国の企業も多く、外人商工会議所は1万210円寄付金を集めた。 『神戸区水害復興誌』第二表(pp )より作成

18 ・・・「記念すべき生活報告」(by 西川荘三復興委員会長)
まとめ 『神戸区水害復興誌』は、「災害の記憶を後世に遺すため」、「将来の災禍への教訓」あるいは「犠牲者の鎮魂」ではなく、被災後、日々いかにして区民が奮起し、復旧・復興に携わったかを記すことを目的に作成された。    ・・・「記念すべき生活報告」(by 西川荘三復興委員会長) 町会を中心とした隣保相扶による「自力更生」が中心にあり、神戸区復興委員会=神戸区町会連合会は、町会長(あるいは町会の代表者)や各種団体の長らによって組織され、より俯瞰的に災害復旧・復興に関わっていた。 旧居留地地区を中心とした国際地とよばれるエリアはビジネス街のため町会がなかったが、商工会議所を中心として速やかに町会を設立し、復旧・復興、さらには寄付金の募集に力を注いだ。 災害に関するの記載は、他の媒体から引用したものがほとんど。 神戸区復興委員会が力を入れた、もう一つの柱である「復興に関する建議書」については、今日は報告できなかった。 国際地の復旧・復興は主に有料の人夫や車両を使用し、神戸区内でも最もお金をかけていた


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