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人物伝 津田梅子 群馬医療福祉大学看護学部看護学科
人物伝 津田梅子 群馬医療福祉大学看護学部看護学科 2年 作成者 ○○さゆり
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津田梅子:アメリカへ 1871年明治政府は、欧米に使 節団を送った。大きい使節団だっ たが、その中に5人の小さい女の 子がいた。そのうちの一人はわず か7才で、津田梅子という名前 だった。 梅子の父親は、明治維新の前に 欧米に行ったことがあり、進歩的 な思想を持っていて、日本女性を アメリカで教育を受けさせて日本 の女子教育を向上させなくてはい けないという政府の方針に同意し て、娘をアメリカに送ったのだった。
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初めは、英語が全く分からず・・・ 梅子はワシントンDCの郊外に あるジョージタウンに住んで いるランマン夫妻の家で生活 しはじめた。ランマン夫妻は 敬虔なキリスト教徒で子供が いず、梅子をわが子のように 可愛がった。 梅子は初め英語が全く分から ずつらい思いをしたが、慣れ るに従って聡明さを発揮し、 学校で優秀な成績を取った。 わずか8才の時にキリスト教 の洗礼を受け、以後敬虔なク リスチャンとして一生を送っ た。
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日本語を完全に忘れて 梅子は、11年アメリカで生活して、 1882年日本に戻った。アメリカで はすべて英語だったため、梅子 は日本語を完全に忘れてしまい、 家族に日本語で話せず、帰国当 時は父親が通訳をしたほどで、日 本語の学習が梅子の一生の課題 になった。
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当時は未だに儒教の影響が強 く、幼い時は親に、結婚してか らは夫に、年を取ったら子に従 え、という男尊女卑の考えが 残っていた。
アメリカで自由な教育を受けて男 女平等の思想を教えられた梅子 は、男尊女卑を何とも思わずに 黙々と親、夫、子に従っている日 本女性の姿を見て驚き落胆して、 日本女性の考え方を変えなけれ ばならない、将来女性のための 教育をしよう、と考えた。
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アメリカへ 明治政府は女子教育を向上させると いう目的で5人の少女をアメリカに 送ったが、梅子達が帰国しても、梅 子達をどのように活用するか全く方 針がなく、梅子は何をすればいいの か分からなかった。 しかし、国費留学生として11年もアメ リカで自由に勉強させてもらったの で、梅子は国のために何かをしなけ ればいけないという義務感を強く感 じていた。帰国して半年ほどで女学 校で英語を教える仕事をして、その 後いくつかの学校で英語の教授とし て英語教育を専門にするようになっ た。当時梅子のように経済的に自立 していた女性は数えるほどしかいな かった。
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夢実現のために再びアメリカへ しかし、梅子は将来新しい女子教 育の指導者としてやって行くため には自分が受けた教育だけでは 十分ではないと自覚していたので、 再度アメリカに行って大学で勉強 したいと思った。 幸い教えていた女学校から2年 間の研究休暇を得たので、梅子 は1889年にフィラデルフィアの 郊外にあるブリンマー・カレッジに 入学して生物学を専攻した。この 大学の生物学の教授は梅子が非 常に優秀なので、将来大学に 残って研究を続けてはどうかとア ドバイスした。
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人生の選択 日本人として日本に戻って英語教師 として生きるか、アメリカに残って自 由なアメリカ人として科学者の生活を 送るか、梅子は選択を迫られた。女 性の地位が高いアメリカに残って自 由な雰囲気の中で自分の好きな研 究ができるというのは非常に魅力的 だが、日本女性の地位の向上を目 指すというはっきりとした目的を持っ ていたので、梅子は日本に戻ること にした。 梅子はブリンマー・カレッジに在学中 に寄付を集めて、2、3年に1人日本 人女子学生をアメリカに送るための 「日本婦人米国奨学金」という奨学 金を設立した。この奨学金のおかげ でアメリカで勉強して後に述べる梅 子が作った学校で教えた女性が数 多くいた。
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自ら大学を設立 梅子はアメリカの女子教育の現状 を調査するという条件でアメリカ滞 在を1年延長してもらい、1992年 に帰国し、前に教えていた女学 校に戻って英語を教えた。しかし、 アメリカから戻って来ても、日本の 女性の地位、考え方はあまり変 わっていなかった。 そこで、自分の学校を作って女性 の教育を始めようと思い、寄付金 を集めるために何通もの手紙を 書いた。梅子の魅力的な人柄に 引かれ、学校設立の主旨に賛同 した多くの人々、特にアメリカのキ リスト教関係者が多額の寄付をし てくれた。
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女子英学塾 そのおかげで梅子は1900年に「女 子英学塾」という学校を設立すること ができた。その学校の教育方針は、 熱意/忍耐/勤勉など精神面の重 視、個性を尊重した少人数教育、広 い視野を持つ人間の育成、であった。
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津田塾大学 その学校は今でも「津田塾 大学」として存在しているが、 梅子の意志を引き継いで日 本の社会のために貢献する 人々が数多く輩出している。
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終り
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