私の予科練記 元予科練 15 期飛行兵長 渡辺勝男
予科練概略 昭和 4 年 12 月 、 海軍省令により予科練習生の制度が設けられた 。 「 将来 、 航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼 」 とされ 、 昭和 5 年 6 月 、 第一期生が横須賀海軍航空隊へ入隊した 。 昭和 11 年 12 月 、「 飛行予科練習生 」 へと改称 。 昭和 12 年 5 月 8 日海軍省令 10 号で甲種飛行予科練習生制度創設され 、 これ までの飛行予科練習制度を乙種飛行予科練習生と改称された 。 同年 9 月 、 第一期甲種飛行予科練習生 250 名が横須賀海軍航空隊に入隊 。 開戦までに第九期甲種飛行予科練習生が入隊した 。 予科練には先程の甲種 、 乙種の他 、 昭和 15 年に丙種予科練習生制度も導入 されており 、 これらも甲種同様逐次増員されていった 。
太平洋戦争が始まった翌年の昭和 17 年 4 月 1 日に第十期甲種飛行予科練習生 1097 名が土浦海軍航空隊に入隊 。 同年 10 月 1 日に第十一期甲種飛行予科練習生 1191 名が 、 土浦 、 三重海軍航 空隊に入隊 。 翌昭和 18 年 4 月 1 日に第十二期甲種飛行予科練習生 1960 名 ( 第一次 ) が 、 土浦 、 三重 、 鹿児島海軍航空隊に入隊 。 昭和 18 年 5 月 22 日に甲種飛行予科練習生の採用年齢を旧制中学校 3 学年修了 程度 ( 満 15 歳以上満二十歳未満 ) と改訂された 。 同年 6 月 1 日 、 第十二期甲種飛行予科練習生 493 名 ( 第 2 次 ) が 、 土浦海軍 航空隊に入隊 。 同年 8 月 1 日 、 第十二期甲種飛行予科練習生 762 名 ( 第 3 次 ) が 、 鹿児島海軍 航空隊に入隊 。
同年 10 月 1 日に第十三期甲種飛行予科練習生 11,092 名 ( 第 1 次 ) が 、 土浦 、 三重 鹿児島 、 松山 、 美保海軍航空隊に入隊 。 同年 12 月 1 日に第十三期甲種飛行予科練習生 16,896 名 ( 第二次 ) が 、 土浦 、 三重 松山 、 奈良海軍航空隊に入隊 。 第十四期甲種飛行予科練習生は昭和 19 年 4 月 1 日より 10 月 15 日迄の期間 、 12 次にわたり募集され 、 総計 41,410 名が入隊した 。 昭和 19 年 4 月 6 日に甲種飛行予科練習生の受験資格を旧制中学校 3 学年 1 学期 修了と改訂された 。 昭和 19 年 9 月 5 日に甲種飛行予科練習生の受験資格を旧制中学校 2 学年修了と 改訂された 。 第十五期甲種飛行予科練習生は同じく昭和 19 年 9 月 15 日から 12 月 20 日迄の 4 次にわたり募集され 、 総計 36,717 名が入隊した 。
最後に当たる第十六期甲種飛行予科練習生 2 は昭和 20 年 4 月 1 日から終戦たる 8 月 15 日迄の 10 次に渡り行われ 、 25,034 名が入隊している 。 養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され 、 土浦航空隊の他に三沢 、 清水 、 滋賀 、 宝塚 、 西宮 、 三重 、 奈良 、 高野山 、 倉敷 、 岩国 、 美保 、 小松 、 松山 、 宇和島 、 浦戸 、 小富士 、 福岡 、 鹿児島の 19 か所に増えた 。 昭和 19 年夏以降は飛練教育も停滞し 、 この時期以降に予科練を修了した者は 航空機に乗れないものが多かった 。 終戦間際は予科練自体の教育も滞り 、 基地や防空壕の建設などに従事する事 により 、 彼等は自らを土方 ( どかた ) にかけて 「 どかれん 」 と呼び自嘲気味 にすごした 。 昭和 20 年 6 月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され 、 各予科練航空隊 は解隊した 。 一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は 、 本土決戦要員とし て各部隊に転属となった 。 ( 千葉県甲飛会 第十回総会記念誌 + ウィキペディアより )
私事 昭和 4 年 所謂世界恐慌といわれた年に生まれ 、 現在 86 才になりました 。 77 才で悪性リンパ腫を煩い昨年 4 月には心不全で現在ペースメーカーを装着障害 1 級の 身となっております 。
そして私は昭和 19 年 9 月海軍飛行予科練習生として三重海軍航空隊奈良分遣隊 15 期生と して入隊 。 約一年間軍人教育をうけました 。 私たちの後輩として 16 期生が最後の予科練となりました 。
さて予科練は海軍にあって甲 、 乙 、 丙があり甲は 、 中学校 3 年以上の学力のある ものとされております 。 昭和 19 年 4 月に中学 3 年生となり 予科練を受験 同年 9 月 15 日三重海軍航空隊 奈良分遣隊に入隊式を迎えることに なりました 。 そして 20 年 8 月 15 日の終戦まで 約 1 年近く海軍の飯を食う事になり終戦時の階級は海軍飛行兵長でありました 。
昭和 19 年 8 月の末頃かと思いますが 、 中学の 3 年ほど先輩が同じ予科練に入隊す ることになり 、 大きなのぼりと肩に掛けた寄せ書きの日の丸で市川駅に並んで 見送られ東京駅で夜行列車待ち 合わせで夜まで待たされたのも 記憶の中にあります 。 列車の中で同席したのは国鉄の車掌さんでした 。
当番で貨物列車の最後尾に乗っているとき怖い思いをすることがある 。 昭和 10 年代の千葉県はそれこそ寂しい田舎でした 。 真夜中寂しい山道を走っている時 、 地蔵様が立って居るところに自殺者が居て その場所だけは目をつぶって通り過ぎる 。 夜の貨物列車ではなるべく眠っておきたいと昼間肉体労働で疲れさせるんだ 。 あそこの地蔵様はもう通り過ぎたのだろうと目を開けると丁度地蔵様の所を 通り過ぎていて 、 その地蔵様がニッコリと俺の方を見て笑っているんだ 。 ぞおおと背筋が寒くなるよ 。 そんなとき 。 ゲラゲラ笑いながらそんな話を聴きながら翌朝丹波市につきました 。
入隊すると私服は全部故郷に送り返される 。 そのついでに身体検査 。 真裸で 4 つん這えになり痔の検査 、 そして M 検 。 そして官服が支給される 。
一番の違和感はフンドシでした 。 フンドシが外れるとズボンの下からフンドシの端が出て歩く度に転げそうに なります 。 この年になっても未だに靴下の繕い 、 ワイシャツのボタン付けは自分でやります 。 このフンドシの洗濯を長い間サボっていると いつの間にかシラミがたかりたまの休みに ひなたぼっこをしながら左右の親指の爪で シラミをぷつん 、 ぷつんとつぶして 良い暇つぶしもありました 。
練習生は兵舎の外へ出たら常にかけ足で目的地に行かねばならない 。 2 人以上が出れば必ず歩調を合わせねばならない 。 一人の不注意が艦全体を危険にさらす 。 常に全員が一緒の行動に全力を挙げねばならない 。
座学の中で重要な科目はモールス信号でした 。 イは ・- ロは・ - ・ - ハは - ・・・そして最後のンまでそして濁点があって 半濁点があって数字が あってこれを短時間で 全部覚えねばならない 。
それからが大変であった 。 寝ても覚めても・ - ・ - 覚えねばバッター 。 声を掛け合って覚えるに必死であった 。 ベッドの上で一寸の休みの時もモールスを練習した 。 最初の頃はゆっくりした速度の信号でしたが だんだんと早くなって行く 。
私はモールス信号だけは覚えが早かった 。 最高速度頼信紙 120 字 (1 分間 ) 採ることが出来た記憶がある 。 このモールス信号を利用して発光信号も覚えねばならなかった 。 ただ長い発光信号は瞬きが出来ない事もあり一寸つらい作業であった 。 感の悪い奴が居て受信の度にミスがあり 一カ所間違えるとバッター 1 本 、 2 カ所で 2 本いやいや大変でした 。
覚えねばならないものとして手旗信号があります 。 左右に赤白の旗を持ち横一から始めます 。 終わりが叉一です 。 これを一時間やっているとさすが疲れます 。 手が下にさがろうものなら尻を蹴飛ばされます 。 実際手旗を相互にやっている時は瞬きは禁物でした 。 練習生の中には何人かののろまな奴がいて 、 必ずモールスでも手旗でも発光信号でも間違います 。 そしてバッターをもらっていました 。
いやじゃありませんか軍隊は 金の茶碗や竹の箸仏様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや 一班人数は 15 名ほど 。 食卓番は 2 名 。 烹炊所からアルミ製の大食器に味噌汁 、 その蓋におかず 中食器に麦飯を抱えて居住区に持ってきます 。 そして当番の盛りつけを眺めている 。 自分の所だけ詰め込み上にふわっと飯を盛り いかにも少なそうにみせる 。
いずれにせよ毎日の激しい訓練でいつでも腹が空いている 。 班長が盛りつけが終わった食卓を見て 、 右 2 ツといえば自分の 正規の席から 2 つ右の席に移らねばならない 。 せっかく盛りつけた自分の席を移らねばならない 。
我々の分隊は 12 月の年の瀬も迫ったある日奈良から新しく設立された清 水海軍航空隊に転勤した 。 清水海軍航空隊は 、 美保の松原の中に木造のお粗末な兵舎を 3 棟ほどで 作った練習航空隊であった 。
そして 、 清水の冬は冷たかった 。 生まれて初めて出来た凍傷 。 今でも私の指には生まれて初めて 、 そして生涯に一度のしもやけの後がある 。 手袋も暖房もあるわけでなく暖かくなるのを待つばかりの冬であった 。 何度か診療所に行ってリノリウムを塗るだけであった 。
部対抗の棒倒し 。 何もない 2 メーターほどの電信柱のような棒 その下には 4 人ほどの練習生が車座になって座り込む 。 そして廻りには 10 重 20 重の練習生が囲む 。 一番外側には柔道の猛者が並び攻め側の攻撃陣を殴る蹴る何でもありで守る 。 凍傷でただでさえ痛い指が攻撃にさらされると何度もぶつけられる 。 私にとっては泣きそうな棒倒しでした 。 結局負ければ反省会の後バッターが全員に下されました 。
時々海岸縁でかけ足をすると足が砂に埋まりものすごくきついかけ足になった 。 海岸の松林の間に大きな海岸砲がいくつも並んでおりましたが 、 噂では弾が無い海岸砲とのことであった 。
14 班厠 異常なし 巡検当番で厠の前で巡検将校に敬礼 報告 厠はまさしく水が小川のようにいつも流れて居るようで綺麗であった 。
静岡県はミカンの産地として有名で 、 清水空では季節の 10 日に 一回くらい一班に石油箱に入ったミカンの配給があり 一人あたり 20 数個位になったでしょうか 。 夕食の派とミカンはするりと腹の中に収まり残った 。 皮を手箱にしまい込み 、 これを翌日の夕食の後のデザートと して食べました 。 こんなにおいしい酒保はありませんでした 。
私たちの上官は殆どが大學または専門学校の生徒だった人達で 当時は偉く立派に見えました 。 それに比べ今の大学生の頼りないこと 。 日本の未来が思いやられるものです 。
いやだったのは巡検後のバッターでした 。 巡検終わりたばこ盆出せの命令で一日の課業が終わり一番くつろげる時間 。 教員室から 4 / 5 人の教員がそれぞれ樫の棒で作ったバッターを 床に打ち付けバタンバタンと寝室に入って来る 。 そして炭坑夫あがりの善行章 2 本 ( 海軍在歴 6 年以上 ) の先任下士官が 何人かの仲間を引き連れやってきた 。
今日は酒を飲んでいるが俺は酔ってはいない 。 今日の貴様等の態度はいったい何だ 。 海軍魂が入っていない 。 今夜は俺たちが貴様等に精神を入れ替えるようしごいてやる 。 一人ずつ出て来い 。 足開け 両手を挙げろ 前かがめ そして ペタペタ とバッターが尻に打ち込まれる音 。
疲れた変わってくれ 。 何人か殴った後新しい教員に打ち子が変わる 。 バッターで尻を何発か叩かれると瞬間尻の肉離れが起きたような感じで その夜はベッドで仰向けに寝られない 。 そのような夜故郷を思い 、 お袋の優しい声を思い出し涙するときもあった 。
教員は各班に一人づつおり大体水兵あがりが多かった予科練が 短期間の内に下士官になれるのをいじめの対象にしたのか 目の敵にされることもありました 。 それがバッター制裁につながります 。 どこかの戦場で負傷したのか目はむき出し鼻はない下士官も居ました 。
結局予科練の訓練は 20 年の 3 月で打ち切られました 。 結局乗る飛行機がなくなりましたそして国内の海岸線に特攻基地を 作ることになりました 。
最初に行ったのは横須賀海軍航空隊でした 。 今の日産追浜工場です 。
当時の横須賀海軍航空隊は海軍の航空機の実験工場で 、 私が見たのは秋水 ロケット迎撃機 三菱 J8M( キ 200) 秋水
連山爆撃機 4 発重爆撃機 中島 G8N 連山
天雷攻撃機 局地戦闘機 J5N 天雷
一式陸攻 三菱 G4M 一式陸上攻撃機
二式大艇 川西 H8K 二式飛行艇
ゼロ戦 三菱 A6M 零式艦上戦闘機
極光 双発夜間戦闘機 P1Y2 極光
紫電 殆どの海軍の実験機 実用機が並んでおりました 。 川西 局地戦闘機 紫電
廻りが小高い丘である滑走路は事故が発生しやすく滑走路で失速する飛行機 。 滑走路上で胴体着陸する飛行機 、 ぞの様な飛行機を随分沢山見ました 。
4 月の始め桜の花が咲いていました 。 空には対潜哨戒機 東海 なにかトンボを思わせるような感じの飛行機で 、 けたたましい音を 立てて飛んでいました 。 陸上対潜哨戒機 Q1W 東海
帝国海軍戦艦長門
4 月のある夜 、 そこで見たのは横浜大空襲で真っ赤に燃えている横浜でした 。
ある夜横須賀航空隊の上空に B-29 が通り過ぎたときの対空砲火はものすごく それを一式陸攻の下で眺めていた時 、 ぱらぱらと対空砲火の破片がハネに当たって 落ちてきた 。 あれがもし体に当たったら大変な怪我をしただろうと思う 。
4 月の終わりには一旦清水に帰り次の指令をまった 。 そのときに経験をしたのが濃尾大地震でした 。 なにかモッコを担いで作業をしているとき足下がグラグラして中気にでも なったかと思った 。 清水市内が大分地震でやられ日本軽金属清水工場に作業に行った記憶がある 。
昭和 20 年 5 月から 8 月 15 日終戦までの 3 ヶ月半小田原 、 真鶴 、 網代 、 下田 、 石廊崎それぞれの海岸に特攻艇 丸大 震洋などの特攻基地作りをした 。
真鶴では場所の選定が出来ず海岸で蛸取りをして遊んだりしていた 。 また岬の山に入って山芋取りをしたりのんびりしたものでした 。 網代では特殊潜行艇 海竜 が 3 隻湾内につながれ 、 7 月のある日山の端から 突如現れたグラマンに機銃掃射で 2 隻は沈められた 。 我々もその機銃掃射の洗礼を受け防空壕の上に大きな傷痕を残しておりました 。
7 月下旬網代作業部隊は下田に移動することになり半分が陸上移動 、 半分が海上移動で私は海上移動の一員となり夜 8 時頃艀から漁船 ( 武装していたので徴用船と思われます ) に乗り移るときに海に 落ち全身ずぶ濡れ 。 船の移動時は煙突のそばで寒くて暖を取っていました 。
その暖かさにうとうととして居たとき突然左舷潜水艦 巨大の大きさの潜水艦が我々と平行して走っている 。 こんな所に日本の潜水艦が居るはずがないと思い込み海を眺めた 。 波頭に夜光虫がきらきらと光る 。 遙か西には伊豆の山々が見える 。 泳いでゆくには随分と 遠いなーと 。 それこそ死を覚悟した 。 平行して走ること 10 分か 20 分 。 いつのまにか相手の潜水艦は消えていた 。 まんじりともしない夜が明け朝日がのぼり始めた海は実に美しかった 。 飛び魚が何匹も海の上を走って消えた 。
伊豆半島の突端長津呂 石廊崎 から東へ徒歩 20 分位の所に小学校の分校が あった 、 其処が我々の宿舎で三八歩兵銃が 10 丁猟銃が 10 丁あとは竹槍が 10 本 そして弾は無かった 。 近くの小高い丘に速射砲があったが弾は無かった 。 そこから見える御子元島がある日アメリカの潜水艦に砲撃されていたのを見た 。 弾着は潜水艦の飛行機が飛んでいる 。 その頃は兎に角何も出来ない日本の姿でもあった 。
終戦は長津呂に作業に行った日だった 。 なにやら今日は作業は休みらしい 。 そして重大放送があるとか 。 漁師の借り上げ家で寝転がって居たら 正午にラジオから何やら 放送があった 。 何を言っているのか さっぱり解らない 。 誰とも無く戦争が終わった らしいよと 。 その頃は予科練はなく 16 嵐 暁部隊となって 、 陸戦要員 として登録されていた様だった 。
16 嵐は戦争を続ける そして 16 日から 10 日ほど近くの山の麓で原子爆弾にも耐えられるような 防空壕を掘ろうとスコップとツルハシを持って穴を掘り始めた 。 宿舎の前が小さな湾になっていて其処に戦車用地雷をぶち込んで魚を取って 食べたりした 。 25 日の朝突然 、「 全員復員せよ 防空壕にあった非常用食料は好きなだけ 持って帰れ 」 とのこと 。 私は関東煮 ( おでん ) を幾つか背嚢に入れあとは衣類とか小物を担いで船の来る のを待った 。
昼頃漁船が着て伊豆半島の西側を北上 、 遙か沖合にいるかの群れが 泳いでいるのが見えた 。 清水港に上陸 何か給料をもらって東京行きの列車をまった 。 来る列車はみな復員軍人でいっぱい 。 何台目かの列車に窓から入れてもらって夜中に東京駅に着いた 。 すでに山手 、 京浜電車の最終電車は終わり天井のない東京駅 3 番ホームで 初電をまった 。
一番電車で市川駅に着いた 。 とぼとぼと駅を下り裏道を通り 6 軒長屋の我が屋にたどり着いた 。 室蘭にいた長兄 、 大井海軍航空隊にいた次兄はすでに帰っていた 。 関東煮がご馳走であったのは言うまでもない 。
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