日本語音声における ピッチ平坦化現象の試行的研究 ~変異理論的観点から~ 高野 照司 北星学園大学 太田 一郎 鹿児島大学 社会言語科学会 第16回研究大会 2005年10月2日 於 龍谷大学
本研究の背景 柴田武 (1995)による指摘以来、本格的な検証は行われていない・・・ (1)語彙アクセントの平板化について 「‘新しい’‘若々しい’‘都会的だ’というイメージを伴いながら仲 間うちのことばとして爆発的に普及している」(182~183頁) 例 か’れし(結婚した女性にとってはその夫) か れし(人に言えないパートナーの男性) (2)イントネーションの平坦化について 「アクセントの平板化と明らかに連動している現象に文末イントネー ションの平板化がある」(185頁) 「(語アクセントの平板化と同様に)目立たないものを目ざすというこ と」(185頁) 「このことに気づいた時間的順序から言うと、語のアクセントの 傾向が文アクセントに及んだと考えたくなる。しかし、ことが らの性質からすると、こういうイントネーション、あるいは、さら に大きく、話し調子全体の傾向が語のアクセントに及んだと推定 したいところである」(185~186頁) (3)平板化と地域方言について 「ここでとりあげるアクセントは、すべて、首都圏における東京 アクセントである。地方の実情は、まだわかっていない」(186 頁)
本研究 研究課題 分析資料 (1) 若い世代で話し調子(ピッチ)の平坦化が進行しているという柴田 (1995)の仮説を検証する。 (1) 若い世代で話し調子(ピッチ)の平坦化が進行しているという柴田 (1995)の仮説を検証する。 (2) 東京方言だけではなく、他地域方言におけるピッチ平坦化の実態を 検証し、当該変化の全国規模での展開の可能性とその社会的背景 について考察する。 分析資料 起伏式アクセントを持つ語彙のみから成る三つの文章の読み上げタスク (x’は語彙アクセントの位置、/xx/はアクセント句境界を示す。) (1) /バ’スは/ /な’いから/ /ある’いて/ /いこ’う/ (2) /ど’りょく/ /して’も/ /い’みが/ /な’い/ (3) /よ’めば/ /よ’むほど/ /ゆ’かいな/ /はなし’だ/
北海道(日高)被験者: 鹿児島被験者: 北海道南部の太平洋沿岸に位置する日高地方(静内町・三石町)出身者 若年層10名、老年層10名 若年層 鹿児島市出身、若年層10名 鹿児島市 日高地方 若年層 グループ 10 名、 10代後半~20代前半 男性7名 女性3名 老年層 50代半ば~70代前半 男性5名 女性5名 若年層 グループ 10名、 10代後半~ 20代前半 女性10名
◎ どのようにピッチの平坦化をとらえるべきか 分析方法 ◎ どのようにピッチの平坦化をとらえるべきか ピッチが平坦化している発話では … (1) 各アクセント句の基本周波数 (F0)が弱化しているはず。即ち、平坦化していない 発話に比べ、各アクセント句のピッチアクセントの頂点が低く実現されるはずで ある。 (2) 上記(1)の各アクセント句のピッチアクセントの弱化に伴い、傾斜のきつい ピッチ曲線が実現されるはずである。 ◎ どのようにピッチの平坦化を測定するべきか (図1参照) ステップ1: 各発話のピッチレンジ(ピッチ最頂点のF0 - ピッチ最低点のF0)を測定する (図1①) ステップ2: 各アクセント句のピッチ最頂点のF0値を測定する(図1②) ステップ3: F0傾斜率 ピッチレンジに対するピッチ最頂点の減少割合(%)を測定する。 (計算式)第一アクセント句のF0ピーク③ - 第二アクセント句のF0ピーク 第三アクセント句のF0ピーク 第四アクセント句のF0ピーク = F0傾斜率 ステップ4: F0上昇率 ピッチレンジに対する各アクセント句ピッチの上昇の割合(%)を 測定する。 (計算式)先行するアクセント句の句末F0 ④ - 後続アクセント句のF0ピーク = F0上昇率
① ② ③ ④ ピッチの平坦化を含む発話では … (1) F0傾斜率の値が大きい。 図1: /どりょ’く//して’も//い’みが//な’い/ 静内町出身、65歳女性 (注: 共通語的アクセントの「ど’りょく」ではなく、「どりょ’く」になっている) ピッチの平坦化を含む発話では … (1) F0傾斜率の値が大きい。 顕著なピッチの盛り上がりが実現されなく、文末へ向け比較的平坦で傾斜の激 しいピッチ曲線が実現されるはずである。 (2) F0上昇率の値が小さい。 各アクセント句のF0ピークの盛り上がりが小さい。 ① ② ③ ④
3文中2文において、F0傾斜率およびF0上昇率の世代間格差が統計学的に有意 文2: /ど’りょく//して’も//い’みが//な’い/ 分析結果 3文中2文において、F0傾斜率およびF0上昇率の世代間格差が統計学的に有意 文2: /ど’りょく//して’も//い’みが//な’い/ F0減少率 (ピッチレンジに対する割合%) /ど’りょく/ /い’みがない/ 若年層話者グループ -33.4 老年層話者グループ -21.2 p < .05 F0上昇率 (ピッチレンジに対する割合%) /して’も/ /い’みがない/ 若年層話者グループ 36 老年層話者グループ 70.5 p < .01
p < .05 p < .01 p < .01 p < .05 文3: /よ’めば//よ’むほど//ゆ’かいな//はなし’だ/ F0減少率 (ピッチレンジに対する割合%) /よ’めば/ /よ’むほど/ /よ’めば/ /ゆ’かいな/ 若年層話者グループ -37.4 -36.7 老年層話者グループ -10.3 -11 p < .05 p < .01 F0上昇率 (ピッチレンジに対する割合%) /よ’めば/ /よ’むほど/ /よ’むほど/ /ゆ’かいな/ 若年層話者グループ 14.9 35 老年層話者グループ 51.4 64.9 p < .01 p < .05
個人分布: 文2 北海道(日高)被験者
個人分布: 文3 北海道(日高)被験者
世代別・地域別ピッチ曲線:文2
まとめと考察 ◎ 若い世代でピッチの平坦化は生じている 老年層の特徴 若年層の特徴 ◎ 若い世代でピッチの平坦化は生じている 老年層の特徴 ・F0の減少率が小さく(即ち、ピッチ曲線の傾斜が緩く)、上昇 率が大きい ・各アクセント句のピッチアクセントの実現が安定しており確実 ・顕著なピッチの山が実現され、F0の動きが躍動的 ・ピッチのリセットが頻繁に生じる 若年層の特徴 ・F0の減少率が大きく、上昇率が小さい。即ち、ピッチ曲線の傾 斜が急勾配 ・東京方言的(共通語的)特徴とされるピッチの「カタルシス」 (ピッチレンジの累積的狭窄現象)に類似した傾向がある ・ピッチの山が低く、ピッチが弱化傾向にあるため、ピッチ曲線 が全体的に平坦
◎ 全国規模で展開している言語変化であ る可能性大 ◎ 全国規模で展開している言語変化であ る可能性大 ・北海道若年層と鹿児島市若年層のピッチがともに平坦化しているだけでなく、ピッチ曲線の形状までもが一致 (世代別・地域別ピッチ曲線グラフ参照) ・直接接触する機会がほとんどない若年層話者 たちに,同じようなpitch contourが生じて いる
◎ 若い世代におけるピッチ平坦化の起因 はなにか ・全国で同様のピッチ平坦化が進行しているとすれば,テレビの影響と考えるべきか? ◎ 若い世代におけるピッチ平坦化の起因 はなにか ・全国で同様のピッチ平坦化が進行しているとすれば,テレビの影響と考えるべきか? ・これまで社会言語学者はテレビの影響については懐疑的(cf. Trudgill 1986, Chambers, 1998) ・しかし,英語に関しても,ロンドン付近の発音(/th/-frontingなど)をグラスゴーの青少年が獲得している理由をテレビの影響ではないかと推測する研究がある (Timmins & Stuart- Smith 2005)
・直接テレビの影響と断じるのはなかなか むずかしい ・しかし,他に理由が考えにくいのも事実 ・メディア研究の方法論等を援用して検証 する必要あり
今後取り組むべき課題 (1)自然発生的談話の検討 ・文脈から切り離した単独文の読み上げタスクから得られた資料は、現実の自然発生的談話から乖離している可能性がある。 ・様々な社会場面(レジスター)やスタイルに目を向けて、そこで観察される規則的変異(Systematic Variability)を分析することこそ、日本語ピッチの全体像に迫るアプローチと言える。 ・例えば、方言形を用いるような場面設定でのロールプレイ、朗読タスク、物語のリコール(回想)タスクや特定の発話行為(Speech Act)を促す談話完成タスクなどを通して、より自然発生的談話に近い音声資料を分析する方法論を検討し、日本語ピッチの変異・変化をより多角的・総合的に捉えたい。
(2)共通語化との関連 (3)共通語化とテレビの役割 NHKニュースなどのアナウンサーによるニュース原稿読み上げ時の共通語的ピッチと、若年層話者による同一ニュース原稿の読み上げピッチがどの程度類似しているのか、あるいは異なっているのかを分析し、ピッチの平坦化が共通語化の一端をなす言語変化なのかを見極める。 (3)共通語化とテレビの役割 ・南北遠くかけ離れた地域に住み、全く接触の機会を持たない若年層話者が共通語的ピッチを共有していることが判明した。 ・言語変容を進めるテレビの役割について、社会言語学ではその影響力をとるに足らないものとする主張が主流であるが、それらのほとんどは実証的研究に基づいたものではない。 ・ラジオ・テレビの視聴時間の長さと方言形式使用の頻度を問うなど単なる相関主義的な方法論から脱却し、若年層の言語変異・変化の直接的起因としてのラジオ・テレビの役割を検証する方法論の開発が必要である(cf., Timmins & Stuart-Smith, 2005)。
(4)ピッチ平坦化の指標性 (5)韻律単位の認知に関する世代差 ピッチの平坦化が話者年齢を指し示す社会的指標となっているのかについて、音声合成技術を用いた知覚実験を行う。ピッチ以外の側面はできるだけ中立的な音声の合成を行い、ピッチが平坦な音声とそうでない音声を聞かせ、話者年齢を推定してもらうなどの「社会音声学」的実験を考えている(Thomas, 2002ab)。 (5)韻律単位の認知に関する世代差 ・老年層話者はピッチリセットの頻度が圧倒的に高い一方で、若年層話者はより頻繁に語彙アクセントの弱化、即ち、複数アクセント句を一つにまとめるチャンキングが頻繁に起こる。 ・意味、統語構造の両面で全く同一の文章であっても、韻律上どのように文を区切るかという認知的判断やピッチアクセントそのものに対する感受性が世代間で異なる可能性がある。 ・異なる世代に属する母語話者に対して音声知覚や識別、およびある音声への主観や態度を問うような「社会音声学」的検証が今後行われるべきである(Thomas, 2002ab)。
(6)世代グループ内の個人差 ・各世代内においてピッチ平坦化の個人差が顕著である。 ・各被験者の家庭・社会生活における方言話者(例えば、祖父母)との接触の密度や地元文化志向性(Cheshire, 1982)など、妥当と思われる社会的因子を体系的に組み込んだ研究が今後必要とされる。
参考文献 Chambers, J.K. (1998). Myth 15: TV makes people sound the same. In L. Bauer & P. Trudgill (eds.), Language Myths. Harmondsworth, UK: Penguin Books, pp. 123-31. Cheshire, J. (1982). Linguistic variation and social function. In S. Romaine (ed.), Sociolinguistic Variation in Speech Communities. London: Edward Arnold. Pp. 153-66. Kubozono, H. (1993). The Organization of Japanese Prosody. Tokyo: Kurosio. Labov, W. (1972). Sociolinguistic Patterns. Philadelphia, PA: University of Pennsylvania Press. 馬瀬良雄. (1981). 「言語形成に及ぼすテレビおよび都市の言語の影響」国語学 125号 ________. (1996). 「テレビと地域語の変容」日本語学 Milroy, L. (1980). Language and Social Networks. Cambridge, MA: Blackwell. Pierrehumbert, J., & Beckman, M. (1988). Japanese Tone Structure. Cambridge, MA: The MIT Press. 真田信治(編著). (1999). 『展望 現代の方言』白帝社 柴田 武. (1978). 『方言の世界 ことばの生まれるところ』 平凡社 _______. (1995). 日本語はおもしろい. 岩波書店. Takano, S., & Ota, I. (2005). A sociolinguistic study of pitch leveling in Japanese: A preliminary investigation. The 5th UK Language Variation and Change Conference, University of Aberdeen. Thomas, E. R. (2002a). Instrumental phonetics. In J. Chambers, et al. (eds.), The Handbook of Language Variation and Change. New York: Blackwell. ________. (2002b). Sociophonetic applications of speech perception experiments. American Speech 77(2): 115-47. Timmins, C. & Jane Stuart-Smith. 2005. A question of life: Investigating the effects of television on accent variation in adolescents. A paper presented at the 5th UK Language Variation and Change, 12th September 2005, at University of Aberdeen. Trudgill, P. 1986. Dialect in Contact. Blackwell.