鎌倉幕府の滅亡について 6年萩組 大塚 愛
●もくじ 元について 元寇について 文永の役 公安の役 日本軍が勝った理由 御恩と奉公 苦しくなった御家人の生活 御家人の不満 鎌倉幕府滅亡 まとめ
●元について 元とは蒙古=モンゴルのことで、この元の皇帝は『フビライ•ハン』といった。この『元』は、東は高麗•中国から、西のヨーロッパまで領土とする史上最大の国でした。
●元寇について 元寇は合計2回の戦いがあり、1回目は『文永の役』、2回目は『弘安の役』といいます。なぜこの戦いが起きたかというと、元の皇帝のフビライから来た国書を、日本は無視したからです。これは元軍が戦のときにきていたものです⇨
●文永の役 文永の役は、文永11年10月5日。今でいうと西暦1274年11月4日に起きました。この時、1日目はちゃんと元軍は日本まで来れましたが、2日目は、台風によって、元軍は日本まで来れませんでした。そのため、この文永の役は日本軍の勝ちということで終わりました。
●公安の役 公安の役は公安7月1日。今でいうと西暦1281年8月16日に起きました。この戦いのときも台風が元軍を襲い弱った元軍を日本軍が攻めて勝利しました。またもや日本軍は台風に勝たせてもらったのでした。これは日本軍が作った塀⇨
●日本軍が勝った理由 博多地方の海岸線に防塁を築き、敵の上陸をはばんでいた。 元軍の先方は文永の役のときに分かっており、前回に比べて、御家人の統率が聞いていた。 夜になると軍船を個々におそうゲリラ戦が展開され、これが効果を上げていた。 元軍は東路軍・江南軍の2軍に分かれていたため、互いの連絡が悪かった。そのあいだ兵士らの船に乗りっぱなしで、疲労していた。 元軍といっても多くは宋や高麗の兵であり、『やる気』が強くなかった。 嵐が元軍の船を襲った。
●御恩と奉公 御恩と奉公とは、将軍と御家人との関係の事です。御家人は領地を認めてほしいから、源頼朝のために戦で戦いました。その事を『奉公』といいます。そのかわり将軍からは、御家人の領地を認めてあげて、守ってあげたりしました。これを『御恩』といいます。だけど、そのうちこの関係が崩れていって、鎌倉幕府滅亡につながる事になりました。
●苦しくなった御家人の生活 あてにしていた恩賞はなかなかもらえず、戦の後も防衛のための出費が続く御家人の生活は次第に苦しくなっていきました。元寇はもともと、恩賞の少なかった戦いでした。一方、国内では大きな戦争はなかかったために、各御家人の子供達に与える領地が不足していきました。そこで御家人の収入が減ってしまう。こうしたことからも、御家人の生活はますます苦しくなっていったのです。
●御家人の不満 弘安の役の恩賞は5年間というより長い時間をかけておこなわれた。しかもその内容は貧弱で『分割相続』で領地はへり、元寇は出費のかさんだ御家人は幕府政治に次第に不満を持つようになりました。これが鎌倉幕府滅亡の最大の原因です。
●鎌倉幕府滅亡 このときの戦で幕府は、足利尊氏の軍に天皇を攻めさせようとしましたが、足利尊氏はしっけんの北条にかわって力をもとうと考えていたので、途中で幕府にそむきます。天皇軍に加わって、京都にある幕府六波羅探題の役所を攻め、そこにいた北条氏の一族を滅ぼします。同じころ、こうずの国(群馬県)にいた新田義貞という武将も北条氏にそむいて鎌倉へ攻め入りました。途中でたくさんの武士たちが天皇軍に参加したので、鎌倉幕府と北条氏は滅ぼされてしまいました。これは1333年(元弘3年・正慶2)のことでした。
●まとめ 鎌倉幕府滅亡の一番の理由は、元寇の戦いの恩賞が少なくなって、武士からの信頼がうすれていったからだと思います。将軍のために戦ったのに、恩賞が少なかったら、誰だって信頼がうすれていくと思ったからです。でも、140年も鎌倉幕府が続いたということはとてもすごいと思います。