19世紀ヨーロッパは 西ヨーロッパにおいて、工業化が一つ の生活様式として確実に勝利を収めた 概説世界経済史学習ノート 第8章 19世紀の経済発展 :基本的決定要因 19世紀ヨーロッパは 西ヨーロッパにおいて、工業化が一つ の生活様式として確実に勝利を収めた 近代的工業形態 イギリスに発し ベルギー、フランス、 ドイツ、その他のヨーロッパ諸国へ 更に、アメリカへ 遅れて世界の他の地域にまで拡大 ロシア 日本
経済とは 人間の衣・食・住 である生活行動 に伴う生産・流通・消費の 社会関係総体 産業の近代化 人口増大 生産拡大 流通拡大
近代化とは、産業化を中心として、 それに関連した 政治的・社会的・心理的その他、さまざまな変化 農耕社会から産業社会へと変化する過程 近代化とは、産業化を中心として、 それに関連した 政治的・社会的・心理的その他、さまざまな変化 農耕社会から産業社会へと変化する過程 生産性の向上 投資の拡大 規制緩和 技術革新 工業化
19世紀 工業化の歴史 農業を主体とする社会から工業主体の社会への転換 経済発展における三つの活動領域 1.農業 2.金融と銀行 3.経済に対する国家の役割 「この変革は地域ごと国ごとで、それぞれの地域固有の環境、工業化開始のタイミングの違いによって、異なった形をとった。」 (第8章 19世紀の経済発展:基本的決定要因)
コロンブス交換(Columbian Exchange) 1.農業 西欧の中世から近代への契機 新航路の発見→南北アメリカ大陸へ 西欧人による征服戦争 銃による先住民を虐殺 ヨーロッパ人が持ち込んだ病原体 →原住民へ感染による大量死 先住民からの金の略奪→ヨーロッパへ 新発見の植物・動物・食物→ヨーロッパへ コロンブス交換(Columbian Exchange) 19世紀の経済における構造変化の特徴 農業の生産性の向上
人口 17世紀初期or半ばから18世紀半ば=停滞 → 1740年頃からふたたび増加 ヨーロッパの人口 → 1740年頃からふたたび増加 ヨーロッパの人口 1800年:約2億人(推定世界総人口約9億人の1/5強に増加)→19世紀にはヨーロッパの人口増が加速 1900年:4億人超(世界総人口約16億人の1/4) 1950年: 5億5000万人超(世界人口25億人の1/5強) ヨーロッパ系人口の比率 世界人口の30%以上に膨張(アメリカ、イギリスの自治領,ラテンアメリカ等の諸地域を含める)
工業化と人口増加の関係 19世紀: イギリス、ドイツの成長率: 年1%で1世紀で、 イギリスは2.6倍弱、 ドイツは2.3倍弱 イギリスは2.6倍弱、 ドイツは2.3倍弱 フランスは1.4倍強 最も工業化の遅れていた国 ロシアの成長率:年2%で 人口増は3倍である。 「もう一つの重要な工業国であるフランスは、19世紀初めには西ヨーロッパ最大の人口を擁していたが、 とくにその世紀の後半に他の国に大きく水をあけられることになり、19世紀全体ではその増加率は年平均約0.4%程度にとどまった。したがって、工業化と人口成長のあいだには明確な相関関係はないことになる。」 (第8章 19世紀の経済発展:基本的決定要因P5)
世界人口の増加の趨勢 19世紀における農業生産の飛躍的増加理由 「世界界人口は農業の発明から18世紀末まで、ほぼ1000年ごとに倍増してきた。19世紀にはヨーロツパの人口は100年も経たないうちに2倍となり、20世紀になると世界全体の人口の増加はこの増加率さえも上回った。現在の自然増加率でいくと、世界の人口は25年から30年で2倍に増えることになろう」 19世紀における農業生産の飛躍的増加理由 1.耕作地の面積が拡大:特に未占有地が豊富なロシア 及び東ヨーロッパの一部、スウェーデン。 西ヨーロッパでさえ、休閑地の廃止や,以前の限界地や 荒地が耕作された。 2.新しい、科学的な技術の導入で農業生産性(1人あたり 産出量)が増加した。
人口の移動が容易化 土壌化学の知識の進歩、 また肥料においても―最初は 天然のもの、後には化学の一の使用量増加により、今 土壌化学の知識の進歩、 また肥料においても―最初は 天然のもの、後には化学の一の使用量増加により、今 までの耕地での産出量が増加。荒地も耕作し、収穫可 能に。鉄のコスト低下で、効率的な道具や農具の利用を 促進。蒸気で動く脱穀機や刈り取り機などの農業機械も、 その世紀の後半に登場。(第8章 19世紀の経済発展:基本的決定要因) 人口の移動が容易化 1.海外からの食料の大量輸入可能にする輸送の改善 2.安価な輸送費はまた人口の移動を容易にした。 3.イギリスでは、移動に国内移動,国際移動の二つのタ イプがあった。 1815年~1914年の間、移民として約 6000万人がヨーロッパを去った。 ブリテン諸島(アイルランドを含む)は約1800万人、 最大の数の移民を送った。
7.フランスは、イタリア人、スペイン人、スイス人、ベルギー人をも引き寄せた。 8.イングランドもヨーロッパの各地から移民を受入れた。 4.イギリスの国際移動のタイプとその内訳 ①アメリカ合衆国→3500万人、②カナダ→500万人、 ③ラテンアメリカ→約1200万人~1500万人(主にアルゼンチンとブラジル)④残りの大部分はオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカに向かった。 5.ドイツ、スカンディナヴィア諸国では 1890年頃からイタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシア 帝国(ポーランド含む)からも多数の人々が去っていった。 6.ヨーロッパ内での移動では、 一時的なものもあったが、多数のポーランド人、スラヴ 人、ユダヤ人がドイツ、フランスなどへ移動した。 7.フランスは、イタリア人、スペイン人、スイス人、ベルギー人をも引き寄せた。 8.イングランドもヨーロッパの各地から移民を受入れた。
5.国内移動のタイプ =19世紀経済発展過程の基本的な要因 1)都市への人口集中: 19世紀初め~ 最も根本的な変化は、人口の都市集中シフト =19世紀経済発展過程の基本的な要因 1)都市への人口集中: 19世紀初め~ 最も根本的な変化は、人口の都市集中シフト 人口の約30%は2000人以上の住民のいる集住地で暮らしていた。(イングランドはすでに最も都市化していた) 首都アムステルダムは、1700年には約20万人と急増。そ後150年程度はほぼ横ばい。首都アムステルダムの支配するホラント州では50%以上にのぼった。 イタリアの長い都市の伝統をもつ低地地方もおそらく同様な比率であった(都市の伝統をもつが、近世には主要都市は人口減少に見舞われ、19世紀初めには、都市人口はおそらく総人口の1/4~1/5を占める程度に。 フランスやドイツでも比率はこれとほぼ同じであった。
9.ロシアでは、ロシア皇帝が1861~1914年の間 1)シベリアに強制定住→多くの犯罪人・政治的流刑者と 約150万人の小農民家族。 約150万人の小農民家族。 2)上記の強制移動以外は、ほとんどは自発的なもの だった。 3)政治的な告発や弾圧を逃れる移民もあったが、大多数 は国内での経済的圧力、海外での生活向上を目指して の移動。 4)1845年のジャガイモ飢饉(8年間続く) アイルランド人120万人以上→①アメリカ合衆国へ ②イギリスへ③カナダ、オーストラリア、ニュージーランド へ(ほとんど空地といっていいような海外の土地も,続々 と移入民一ほとんどはブリテン諸島から) 5)イタリア人、ドイツ人では、南アメリカの経済的に最も先 進的な諸国となる地域に移動。
都市への人口集中 「産業革命後、工業の集積でロンドンが巨大化。数百万人規模の都市となり、19世紀中葉において世界最大の都市となった。その後、各地で工業化が進むにつれ、人口100万人を越える大都市が複数生まれた。」(ウィキペディア) ヨ ―ロッパの他の殆どの国、或いは世界の他の地域 都市人口は総人口の精々10%程度 「1800 年当時の諸都市の人口は、ロンドン86 万人、北京90 万人、上海5万人、パリ54 万人、ニューヨーク6万人と推定されている」 http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jugoki/2002/02qdj210003.pdf 都市化は19世紀に工業化と歩調をあわせて進行した。イギリスはこの点でも先陣を切った。1850年にはイギリスの人口の半分以上が2000人以上の都市や町に住んでおり、1900年にはその比率は3/4にも達した。
世界の他の地域との比較 「この頃には他のほとんどの工業国も少なくとも50%は都市化され、農業中心の国でさえも都市化への強い傾向を示すようになった。たとえば、帝政ロシアでは、全体としてみれば人口のせいぜい125%が都市部に住んでいる程度だったが、モスクワとサンクト・ペテルブルクは100万以上の人口を誇ることができた。 工業国の人々は、ただ都市に住んでいればよいといぅゎけではなく、大都市に住むことを好んだ。たとぇば、イングランドとウェールズでは、小都市(2000人から2万人の住民からなる)に住んでいる人口の比率は、19世紀の初めから現在まで約15%とほぼ一定しているのに対し、大都市(2万人以上)に住む者の比率は27%から70%へと増加した。
1800年には10万人の人口をもつ都市はヨーロッパに20あるかないかで、西半球には一つもなかったが、1900年にはその規模の都市はヨーロッパと北アメリカで150以上、1950年には600以上にもなった。20世紀中頃には、人口100万人以上(それよりはるかに大きな規模のものもある)の都市の数は、1800年における10万人の人口をもつ都市の数よりも多くなった。」(第8章 19世紀の経済発展:基本的決定要因)
前工業化社会の非農業人口(職人・役人等)の大部分 近代経済成長における資源の重要性 前工業化社会の非農業人口(職人・役人等)の大部分 農村地域に居住。 工場制度の勃興 都市集中 あらゆる職種の職人等の労働力集中 食糧や原料等 織物・鉄等工業の 工業の最終生産物 運輸・交通の改善 食糧・原料の運搬 遠隔地市場に運ぶ 安上がり 都市の成長の要因は経済的なもの イングランドのブラック・カントリー、 ドイツのルール地方、北フランスのリール川辺地域、アメリカのピッツバーグといった、最大級の工業中心地のいくつかが石炭埋蔵地またはその近辺で生まれた。
「人が都市に住みたがるのには多くの社会的、文化的理由がある。歴史的にいえば、都市の成長を制限するおもな要因は経済的なものであった。つまり大きな都市人口に生活必需品を供給できない、 といぅことである。近代工業の技術改良にともなって、この制限は緩和されたばかりでなく、経済的な理由で都市の成長が必要とされるような場合もあった。前工業化社会では、非農業人口でさえその大部分は農村地域に住んでいた。織物とか鉄とかいった工業の最終生産物を遠隔地の市場に運ぶほうが、職人の集中する地域へ食糧や原料を運ぶよりも安上がりだった。蒸気力と工場制度の導入、製鉄用燃料の木炭からコークスヘの転換、さらに運輸・交通の改善により、状況は一変した。工場制度の勃興は労働力の集中を必要とした。石炭の重要性が新たに高まったため、イングランドのブラック・ヵントリー、 ドィッのルール地方、北フランスのリール川辺地域、アメリカのピッツバーグとぃった、最大級の工業中心地のいくつかが石炭埋蔵地またはその近辺で生まれた。これらの例はまた、近代経済成長における資源の重要性を予告するものである。」 (第8章 19世紀の経済発展:基本的決定要因)