「気前のよい神の子供たち」 “Children of the God Who Loves to Give” マラキ書 3章6~12節
・2つの事実 1.神様は物惜しみしない方で、ご自身の民においても そうであって欲しいと、望んでおられます 1.神様は物惜しみしない方で、ご自身の民においても そうであって欲しいと、望んでおられます “必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる ” (申命記15:10) 2.私たちが持っている全てのものは、神様のものです “私がこれを所有している。私に権利がある” から始まるのではなく、“ありがとう!天のお父様” という 感謝から始まる。
主は、私たちに与えてくださった全ての10%を返すように教えています。 “こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである” (レビ記 27:30)
何が “与える” ことを難しくするのでしょう? 何が “与える” ことを難しくするのでしょう? シラキュース大学のアーサー・ブルックス氏 による、アメリカにいる人々が持つ 「与える」 ことに関する姿勢についての調査によると、人々が与えない一番の理由は・・ 与えたいけれど、“与えることができない” ということでした。 しかし、面白いことに、「与えるだけの余裕がない」 という主張は、貧しい人々より、お金のある人々によるものだったのです。
Passing the Plate の著者たちが、アメリカの教会の調査で、 別の厄介な事実を見つけました。 それは、“教会やその他の宗教グループがそのお金を有効に使ってくれると信頼できるのであれば、捧げることができる” というものでした。 多くの教会は、受け取ったお金を、個人や家族がお金を使うように使っています。つまり、ほとんどを自分たちのために費やしてしまっているのです。
また、“あまり捧げない”もうひとつの主な理由は、“捧げることを求められない”ということでした。 神様は、私たちひとり一人に同じ額のお金を献金するように言っているのではありません。同じ割合の捧げもの(犠牲)が 私たちの目標としてはふさわしいと思います。 ここまでは、神様が私たちに教えてくださっているいくつかの大切な教えと、それに従うにあたっての、私たちが実際抱えている難しさを見てきました。
次に、このトピックに関して、人々がよくするいくつかの質問を考えてみたいと思います。 “ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます” (Ⅱコリント9:7) そうならば、与えることは自由意思に任せて、与えたい時に与えれば良いのでは? 聖書全体を見ていくならば、神様の働きの為に “与える”ことが“自由意思に任せる” という種類のものではないことが明らかです。
神様は私たちに、神様の導きによって、計画的に、思慮を持ってお金を捧げることを教えています。 神様が私たちに望んでおられることは、パウロがコリントやガラテヤの教会に教えたことと一致します。 “さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい” (Ⅰコリント16:1-2)
別の質問は・・ 十分の一献金というは、旧約の律法の一部です。恵みによってもう私たちは自由にされていますよね? 確かに、律法主義はとても危険です。 しかし、神様の十分の一献金は、律法的に行われることを意図していません。心の在り方であり、神様と私たちとの関係によるものです。 十一献金は律法が与えられる前、イスラエル国が創立される前から始まっていました。その本質は創世記(4:2-3)のカインとアベルの話の中に見られます。
イエス様 ご自身が新約聖書の中で、十一献金について明らかに教えています。 “忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません” (マタイ23:23)
神に敬意を払うことと人に敬意を払うことは、切り離せない一つのことなのです。 更にイエス様のメッセージの中心は、ヨハネ3:16に書かれています。 “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである” (ヨハネ3:16) 律法主義ではなく、心のこもった愛によって、与えることが導かれているのです。 これが神様の方法であり、私たちも同じことが求められています。
次の質問は・・ 私は自分の時間を与えているので、お金は捧げる必要はないですよね? 神様は、私たちが得たどんなお金であっても、その中から捧げることを教えています。神様にお返しするお金と何かを交換するという選択肢は、本来の神様に従う目的からは逸れてしまいます。
こんなことを考えたことがあるかもしれません。 十一献金は、自分の総所得の十分の一? それとも 純所得の十分の一? こんなことを考えたことがあるかもしれません。 十一献金は、自分の総所得の十分の一? それとも 純所得の十分の一? “十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。万軍の主は仰せられる。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ” (マラキ3:10) 普通は、神様をためすことは良いことではありませんが、ここでは、神様は、「わたしをためしてみよ」と言っておられます。 あなたは、総所得を祝福していただきたいですか、それとも純所得? この質問が、より良い答えを与えてくれるでしょう。
借金がある時は、献金するべき? この質問については、確信を持ってこうすべきと言うことは難しいですが、最善の方法は、“祈る”ことだと思います。 神様は私たちに、様々なケースにおいて、同じ行動をすることを導いていないかもしれません。真剣に神様に従っていくことができるように求め続けていくならば、その方法を導いてくださいます。
また別の難しい問題もあります。 教会にいくら献金が与えられれば十分ですか? 教会が赤字でなけれは良い? 神様の大きいビジョンを描かれます。神様は貧乏でもケチな方でもありません。私たちを、偉大な働きに召してくださり、信頼するならば、それに必要な物を与えてくださいます。 私たちが望みもしなかったような、想像もできなかったような方法で、現在どのようにして私たちを導いてくださっているのでしょうか。
もし自分が捧げなかったらどうなるの? “あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる” (マラキ書3:9) “のろい”というのは、神様がハリーポッターのように呪文をかけるという意味ではなく、“行動が結果を招く”ということです。
最後の質問です。 理解はしているけれど、従うことを恐れていると感じていたら? あなたが、たとえもし従わなくても、神様は今と変わりなく、完全に、十分にあなたを愛してくださいます。しかし、もう一度マラキ書の神様のチャレンジを見てみましょう。 “十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。万軍の主は仰せられる。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ” (マラキ3:10)
私たちが神様の教えを実行するなら、神様の導きはより明らかになります。こんな約束をして、このことを示している教会があります。 あなたの収入の10%を3カ月間捧げてみて、その結果に満足しなければ、お知らせください。文句なくお金を返金いたします。 たくさんの人が、人生全体においての大きな成長の始まり(特に神様との関係において)であったと報告しています。オープンドアでも挑戦してみるのは良いアイディアではないでしょうか?
自分の給与から直接10%引き出せるように調整してみてはいかがでしょうか、どんなプラス、マイナスが出てくるでしょう? 今日の最後にもう一度、イエス様の言葉に耳を傾けます。 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 (ヨハネ12:24) イエス様はお金について私たちとは全く違う見方をしていました。
イエス様の捉え方 得る、失う → 植える、刈り取る 私たちがお金や持っているものを全て御手の中に置く時、神様は、その資産を何倍にもして、自分の為に蓄えているよりもはるかに偉大な形にして与えてくださいます。 今日のメッセージを通して、神様があなたに何を望んでおられるかを考えてくださり、お金に関して神様に委ねることについて、あなたの選択の約束、また再約束について導きがありましたら、そのようにしてくださることを願います。
どうか、プレッシャーを感じて、また十分理解できていないのに、無理して決断をすることがないようにお願いします。 心に神様が示されている通りにしていただくことを願います。 祈り 主よ、あなたが私たちに物惜しみせずふんだんに与えてくださる方であることを感謝いたします。 私たちも同様に、物惜しみせず捧げることができることを学ばせてください。 私たちの経済を含むすべての領域をあなたの御手にお委ねすることができますように。そして日々あなたにより頼むことによって、あなたがどれほど信頼でき、頼るに値する方である方を知ることができますように。 アーメン