六甲 金鳥山の旗振り場跡探索 2015年12月大橋正規 (イメージ写真は柴田氏の旗振り山から転載) 六甲 金鳥山の旗振り場跡探索 2015年12月大橋正規 (イメージ写真は柴田氏の旗振り山から転載) 須磨旗振山 尼崎辰巳橋
六甲山のハイキングで、風吹き岩から保久良神社へ下山する途中金鳥山の少し上に赤錆びた鉄骨の塔が有るのをご存じでしょうか。 私は昔の旗振り櫓だと思い込んでいましたが、江戸時代の鉄骨櫓が今まで残っているわけもなくそれでは何なのだろう? 各方面の方に聞くとあれは火の見櫓であって旗振り櫓ではないとのこと。では本当に旗振りをやっていた場所は何処なんだ。諸説紛々で調べる価値があると思い取り組みました。 まず、柴田昭彦氏の著書「旗振り山」を購入して読んだところ非常に面白いことがつぎつぎと判明しました。(びっくりポンが続々) まず、米相場の旗振りはどのようにして行われていたのか。 江戸時代に米相場(今で言う先物取引)を旗1枚で短時間に江戸や九州まで正確に伝達していた。電信が導入されても明治時代から大正初期まで旗振りが行われていたのは何故なのか。 私が知り得た旗振り通信のことを少しだけご披露いたします。
①ご存じのように昔の経済は米中心に動いていました。 徳川幕府になっても大阪が日本経済の中心で堂島の米相場が最大関心事。 ②その米相場の情報をどうやって入手するか。 ③従来の狼煙では正確な情報が伝えられない。 飛脚便では遅すぎる。 ④そこで登場したのが「旗振り」技法。 ⑤先ず堂島の米相場会所の屋上で「旗」を振り全国の 中継点を経由して江戸や九州まで短時間で伝達した。
⑥旗は白色(青・赤も)で大きさは2m強×1m強、3m位の竿で振る。 ⑦中継点は見晴らしの良い小高い山で6kmから24km位まで、昔は空気も澄み眼も良く(世襲の旗振り人の視力は3~4)望遠鏡を使った。 ⑧信号は1~10までの数字といろは48文字の組み合わせで米1石当たりの値段を伝達した。 ⑨大阪から江戸まで箱根超え飛脚を含め8時間(旗信号だけなら1時間40分)、広島まで27分と言う記録があるそうです。
⑩昭和56年西宮のボーイスカウトが堂島~岡山までを1日3回実験したら各回約2時間掛かったそうです。 ⑪明治初期には電信もありましたがコストが高く速度も遅かったため大正初期まで行われていました。その後は電話の普及で消滅しました。 ⑫徳川幕府は飛脚便業者を保護するため旗振りを禁止していましたが無視して続けていました。 柴田氏は自著「旗振り山」の中(39ページ)で「本山村誌」に書かれている「火の見櫓」の場所は間違いであると言っているが私には権威ある同誌が間違っているとは思えません。
金鳥山の旗振り場はどこにあった? 最近まで「火の見櫓」が旗振り櫓だと思っており(鉄塔の足元に間違った旗振りの解説板があったため)、恐る恐る登ってみました。バスタオルで作った白旗と50倍の望遠カメラを持って登るのはとても怖かったです。 郷土史誌「本山村誌」(昭和28年本山村発行)にはここが旗振り場だと記されているが柴田氏はこれが間違いの元だと主張されています。
堂島=尼崎辰巳橋=金鳥山=須磨旗振り山
鉄塔の上から須磨の旗振り山は肉眼では山の形だけで50倍の望遠カメラだと綺麗に撮影出来ました。 地面からは樹木が邪魔になり全く見えません。 尼崎の辰巳橋は朝の逆光で撮影出来なかった。
尼崎の辰巳橋(大阪との市境左門殿川)はビル群で判然としませんが、おおよそ此処だと思います。(後日撮影)
本当の旗振り場は? 柴田氏の主張する場所
12月17日、それらしき場所が判明しました。 柴田昭彦氏の本「旗振り山」の中の略図を見ながら探しました。 送電鉄塔の少し下でハイキング道を東へ入った小高い丘です。 誰が行ったのか草や柴が綺麗に刈られそれらしき雰囲気なっていました。処がパトロール隊員だと言う変なオジサンが近づいて来たので旗振り場のことを訪ねると「火の見櫓」が「旗振り櫓」で天辺に小屋があったと頑固一徹主張していました。地元の人も「本山村誌」の記事を信じているようです。(その記事によって作られた旗振り山の看板は今は撤去されていますが。) 確信が持てたので予め用意していた木札を木に付けて写真を撮りました。木札は写真撮影後外して持ち帰りました。 周囲は樹木が生い茂り尼崎も須磨も見えませんが当時の六甲山は丸裸で櫓でなく地面からでも良く見えたものと思います。
どちらが正しいか私の推論 柴田氏が権威ある「本山村誌」及び「東灘歴史散歩=田辺眞人著」の記述を否定している根拠は1老人の記憶であり、私は同氏が本山村誌が間違っているとの主張を肯定することは危険であると思います。 「本山村誌」は昭和28年に発行され編纂委員の殆どは明治生まれで、中には実際に旗振りを見た人も居たと想像されます。 旗振り業者は複数有ったとも言われ、両方正しく、またこの2箇所では高取山が見えず高取山に向けて振ったのはもっと下(南)の展望台ベンチの下の方と思われます。 従って金鳥山周辺には数箇所あったと思われます。
本山村誌及び東灘歴史散歩の記述にある火の見櫓の場所 北緯 34.4433 東経 135.1644 標高 389m 柴田氏の主張する旗振り場跡 北緯 34.4428 東経 135.1644 標高 371m 地理院地図を基にしたカシミール3Dで計測
赤錆びた「火の見櫓」は誰のものか? 昭和の初期に本山・魚崎・本庄地区が山火事防止用に合同で建てたものだと言うが、今は誰が管理しているのか? 高さは20mもあるのに囲いも立ち入り禁止看板も無く、至って無防備開放的で小さな子供でも年寄りでも誰でも登れる。私も2回登ったがちょっと油断すると落ちそうで大変危険な代物である。 自己責任とは言え事故が起きたらどうするのか、気になったので近くの国交省六甲砂防事務所、電話で林野庁兵庫森林管理署(営林署)・東灘消防署・東灘警察暑へ問い合わせたが何処も管轄外と言うつれない返事であった。 昭和初期なら建設して90年も経っている、今にも朽ちそうで台風や地震で倒れるかもしれない。私が心配することではないかも知れないが、国立公園のハイキング道沿いにこの様なものが放置されていて良いのだろうか?