豊臣秀吉(1537 ~1598) 豊臣秀吉の統一過程 1537 秀吉、尾張中村の農家に生ま     れる → 信長に仕える  → 近江長浜城主 1577.10 中国攻めに出発 1582. 6 備中高松城を攻略中 本能寺の変   → 和睦の上、引き返す → 山崎の戦.

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 豊臣秀吉(1537 ~1598) 豊臣秀吉の統一過程 1537 秀吉、尾張中村の農家に生ま     れる → 信長に仕える  → 近江長浜城主 1577.10 中国攻めに出発 1582. 6 備中高松城を攻略中 本能寺の変   → 和睦の上、引き返す → 山崎の戦    → 明智光秀を滅ぼす「天下分け目の天王山」 ◇検地(太閤検地)の開始→ 秀吉の死まで継続 1583. 4 1.賤ヶ岳の戦 → 柴田勝家(越前)を滅ぼし、     信長の後継者としての地位固める

賤ヶ岳の戦

柴田勝家、織田信孝の最後  名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破したが、清洲会議では織田の後継者は甥の三法師に決まり、三法師の後見役として美濃国岐阜城主となる。 その後、柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介。三法師を擁し挙兵するが、降伏。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで再度挙兵。兄・信雄に居城の岐阜城を包囲され、勝家も北ノ庄城で自害。織田信孝も岐阜城を開城して秀吉に降伏。尾張国の大御堂寺(源義朝が暗殺された場所)に送られ、自害。享年26。 織田信孝の無念腹

1583. 11 大坂城築城開始 1584. 4 2.小牧・長久手の戦      → 織田信雄(信長の次男)と結んだ徳川家康と 争う →のち和睦(以後、家康は秀吉に従う) 1585. 3 根来・雑賀一揆の平定 1585. 6 四国攻め     →長宗我部元親を屈服させる 1585. 7 関白に就任 →惣無事(全国の平和)をよびかける 1586.12 太政大臣に就任、後陽成天皇から「豊臣」の 姓を賜る 1587. 5 九州攻め→ 島津義久を屈服させる 1587. 6 3.バテレン追放令の発布=九州平定の途上、       博多で発布 1588. 7 海賊禁止令、刀狩令を発布   

小牧・長久手の戦 1584(天正12)年 秀吉包囲網の形成 小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成。 小牧の戦い3/18 家康が清洲城に到着。 酒井勢は森勢を一気 に奇襲。森勢は潰走。 家康小牧山城を占拠。 長久手の戦4/9 秀吉大坂城を出発。 4/5楽田に着陣。4/9 池田恒興勢が岩崎城 の攻城を開始、占拠。 家康・秀吉両軍が激 突。 3/17 4/5 3/18 3/13 4/9 死闘2時間余、恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の大勝利。

その後の戦い 羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出た。秀吉は2万人の軍勢を率い、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康はこの間に小幡城を出て小牧山城、ついで清洲城に帰還した。秀吉もこの報を聞き、5月1日大坂城に帰還した。8月15日に秀吉は美濃に出陣、双方、対陣するも戦闘は無く。9月9日には家康に呼応した佐々成政が前田利家と戦い、退却した。 休戦・講和へ 秀吉は合戦から半年以上経って、信雄に講和を申し入れ、信雄は受諾。家康陣営も兵を引いた。その後、秀吉は使者を浜松城に送り、家康との講和を試みた。 家康は返礼に結城秀康を秀吉の養子として大坂に送った。 小牧の役は幕を閉じた。 秀吉包囲網の瓦解 信雄・家康が秀吉と単独講和、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立、後の紀州攻め・四国攻めで制圧される。 天下の趨勢は秀吉政権確立へと進んでいくが、秀吉と家康が講和までには、まだ2年もの月日を必要とした。

・天皇を聚楽第に迎え、諸大名を集め関白たる秀吉に忠誠を誓わせる 1590. 7 小田原攻め(小田原の陣)=4 ・天皇を聚楽第に迎え、諸大名を集め関白たる秀吉に忠誠を誓わせる 1590. 7 小田原攻め(小田原の陣)=4.北条氏政滅ぼす。 このとき伊達政宗、小田原に来て秀吉に下る 1590. 8 奥州平定=伊達政宗ら服属→ 全国平定完了 1591  関白を養子の秀次に譲る  →秀次を失脚させる(1595)←秀頼誕生のため 1592. 4 朝鮮出兵(5.文禄の役) 1594. 3 伏見城築城開始 1597. 1 朝鮮出兵(6.慶長の役) 1598. 8 秀吉、伏見城で死す、   朝鮮出兵を諌められ激怒する秀吉 秀次 秀頼

豊臣秀吉政権樹立へ 信長の統一事業 清水宗治羽柴秀吉が出した小船の上で、自害 中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦い 秀吉、天正10年(1582年)に備中国に侵攻 →毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻め 援軍要請5/17 羽柴秀吉軍 2万人 毛利輝元・小早川隆景・ 吉川元春の援軍1万人 織田信長 6/3捕捉 5/17援軍を命令 密使 6/2謀叛 5カ国の割譲と城主 清水宗治の切腹を条件 明智光秀 1万3000の兵 本能寺の変 6/4 清水宗治羽柴秀吉が出した小船の上で、自害 「信長を討った。よって、秀吉を東西から挟撃しようではないか」密使の内容 高松城水攻め

山崎の戦いへ 秀吉が事実上の盟主となった(名目上、信孝が総大将となった)。 羽柴秀吉は、高松城から兵を撤収 7日に姫路城、 11日に尼崎 6/6 羽柴秀吉は、高松城から兵を撤収 7日に姫路城、 11日に尼崎 「中国大返し」 明智光秀は、縁戚であった細川藤孝・忠興父子が3日に「喪に服す」と称して剃髪、中立の構えを見せ、筒井順慶は参戦に応じ配下を山城に派兵していたが、極秘裏に秀吉側に寝返る。また、予想を越える秀吉軍の進攻に体制を十分確立できぬまま光秀は決戦に望む羽目となる。 摂津衆は清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方。四国征伐へ大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも味方。 秀吉が事実上の盟主となった(名目上、信孝が総大将となった)。 山崎の戦いへ

山崎の戦い 羽柴軍(約40000) 高山右近・木村重茲:2000、中川清秀:2500、池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000 、丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)、織田信孝:4000(秀吉本隊(蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・黒田官兵衛・神子田正治・蜂屋頼隆など):20000 、秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、増田長盛、仙石秀久、田中吉政といった顔ぶれもいた。 明智軍(約16000) 斎藤利三・柴田勝定:2000 、 阿閉貞征・明智茂朝:3000、 松田政近・並河掃部:2000、 伊勢貞興・溝尾勝兵衛・ 諏訪盛直・御牧兼顕:2000 、 津田信春:2000、 光秀本隊:5000 その他、小川祐忠なども参加していた。

六条河原で磔刑 自刃 日和見を「洞ヶ峠(を決め込む)」

× 織田信長 明智光秀 1万3000の兵 6/3 1582.5 備中高松城を包囲、梅雨時を待ち水攻め 自害 姫路 高松城 「信長を討った。よって、秀吉を東西から挟撃しようではないか」密使の内容 明智光秀 1万3000の兵 5/17援軍を命令 6/3 1582.5 安国寺恵瓊計交渉に当っていたが、清水宗治に、「城兵を助けるのは、あなたしかいない」 備中高松城を包囲、梅雨時を待ち水攻め 6/2謀叛 織田信長 自害 × 姫路 高松城 城主の清水宗治のほか 5000人が籠城 援軍 密使 援軍要請5/17 清水宗治 6/6 「衆命に代わって明日4日に自決する」という手紙 6/4 6/3捕捉 羽柴秀吉は、高松城から兵を撤収 清水宗治 羽柴秀吉が出した 小船の上で、自害 羽柴秀吉軍 2万人 5カ国の割譲と城主 清水宗治の切腹を条件 5/末 講和案 「高松城の全員の助命を 条件に、備中・備後・美作・ 因幡・伯耆は割譲する」 毛利輝元・小早川隆景・ 吉川元春の援軍1万人 和談 決裂 吉川元春の嫡子吉川元長は、「秀吉を追撃すべし」と主張。父吉川元春は「誓紙の血が乾かない内に、これを破るは不義であり、信長の喪に乗ずるは不祥である」と諭して、本国へ引き上げた 6/6 伊賀雑賀衆 「本能寺の変」 知らせる急使

清洲会議 × 天正10年(1582年)6月27日 清洲城で信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた。 織田家筆頭家老 柴田勝家 明智光秀討伐の 戦功があった秀吉 × 信長の嫡男 織田信忠の長男 三法師 (後の織田秀信) 信長の三男 織田信孝 後見人 妥協案 信長の後継者 池田恒興 佐久間 盛政 丹羽長秀

信長の遺領分割 織田信雄→尾張、織田信孝→美濃、織田信包→北伊勢と伊賀、細川藤孝→丹後、筒井順慶→大和、丹羽長秀→滋賀・高島15万石の加増、池田恒興→摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政→近江佐和山、勝家→近江長浜(秀吉の領地)12万石、秀吉→丹波国や山城国(光秀の旧領)、河内国を増領=28万石の加増。領地においても秀吉は勝家に勝る 柴田勝家との対立 清洲会議後、秀吉の主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、京都奉行には秀吉一門をすえるなど、勝家や信孝らは秀吉の政権樹立の意思を見て、敵意を抱いた。秀吉と勝家の対立は、日増しに激化。→賤ヶ岳の戦い

豊臣政権 × 朝廷権威の利用 関白(1585)、太政大臣(1586)に就任 秀吉=百姓出身 源氏→征夷大将軍=幕府 権威付けの必要性 豊臣政権    × 秀吉=百姓出身 源氏→征夷大将軍=幕府 権威付けの必要性 朝廷権威の利用 天正13年(1585年)3月10日秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官 関白(1585)、太政大臣(1586)に就任 ・紀伊・四国 ・越中攻略 →九州征伐 →小田原の役 =天下統一(1590) 天下平定へ 全国の大名との戦い 大坂城を築城 石山本願寺の跡地 関白を養子の秀次(秀吉の甥)に譲り、 太閤と称する(1591)。「太閤」とは引退した関白の意。 後陽成天皇から「豊臣」の姓を賜る(1586)。 聚楽第に後陽成天皇を歓待し、諸大名に関白秀吉 への忠誠を誓わせる(1588)

秀吉の政治=兵農分離 1.国人・地侍等の既得権授益層の解体  「農業従事者=軍役従事者」(既存の体制) 「金銭で軍役従事者を雇用」(安定政権の樹立・天下統一)  覇権を確立し、惣無事令を発布  →検地、刀狩、海賊禁止令を施行=土地の支配関係  明確化→武士以外の武装権を剥奪→海賊勢力を  解体=水軍武士と漁民に分離  =封建主義的な身分秩序(階層意識)を固定化 2.秀吉の政治組織  =きわめて未整備←秀吉の個人的独裁のため  秀吉の家臣→同僚や先輩格の諸大名を家臣に組入 秀吉固有の家臣が少ない=政権期間が短い(10数年間)

3.五奉行・五大老 ・政務執行=7.五奉行(それぞれの担当はある)  秀吉の子飼の大名(秀吉の腹心の部下)  =浅野長政(司法)、増田長盛(土木)、石田三成(行政)、  前田玄以(宗教) 、長束正家(財政)        ・政策顧問=8.五大老←有力大名(秀吉のライバル)  徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、  宇喜多秀家、上杉景勝 4.秀吉の死後(1598~)  →家康、伏見城にて事実上の政務開始  ・家康は伏見城で政務担当、五奉行の職権を奪う  ・利家は大坂城で秀頼(秀吉の子)を養育   →家康と五奉行(石田三成ら)の対立   →関ヶ原の戦(1600)   =石田三成ら(西軍) vs 徳川家康(東軍)

経済基盤(直轄地) 1. 9.蔵入地=秀吉の直轄地、46カ国で約220万石(畿内   とその周辺が7割)  ※徳川氏(約240万石)、上杉・毛利氏(各約120万石)  →秀吉の直轄地は多いとはいえない 2.直轄都市=京、大坂、堺、伏見、長崎など  ・豪商を武器・兵糧・資材の調達や輸送に利用  ・重要人物   博多=島井宗室(「博多三傑」の一人で朝鮮貿易家)、 神屋宗湛(秀吉に気に入られ、朝鮮出兵の後方兵       站の補給役を務めた)   堺=千利休、今井宗久、津田宗及 3.直轄鉱山=佐渡相川金山、       石見大森銀山、但馬生野      銀山など

島井宗室 遺言状とも言うべき『島井宗室日記』は遺訓17条からなり、「賭け事はするな。縄の切れ端も捨てるな。飯を炊くとき、薪を使いすぎるな…」、さらに「(使用人は)下人・下女にいたるまで皆々、盗人と心得べき候」と 今井宗久

4.貨幣鋳造=金座、銀座の設置 ・金貨=天正大判(165g・73 鶴松が生まれる直前には、諸大名を呼び集めて、金銀31000枚もの金賦りを行なったほどである。 秀吉の金くばり

5.交通政策 ・全国の関所撤廃(1582~86) ・一里塚の築造(1592) =秀吉、1里を36町に統一 6.楽座政策の拡大 ・播磨龍野(1580、楽市のみ)、 筑前博多(1587、楽市・楽座)、 大山崎油座の廃止(1585) 志村一里塚 「織田右府(右大臣信長)の時より36町をもって1里(4km)と定め、1里ごとに「こう」(土偏に侯・里程標の意)を築きしめ標識せられしを豊臣家にて弥遵行(いよいよじゅんこう)有しが君(家康)関東へ移らせたまいし後同じく1里ごとに「こう」を築きその上に榎を植しめ給う」(「東照宮御実記付録」) 豊臣政権で中世的な座は解体され、江戸時代にも江戸・大坂をはじめ幕府の主要直轄地で座の結成が禁止されるなど、座の制度は近世に入って完全に崩壊し、それとともに大山崎油座の歴史も終焉した。

秀吉の土地・農民政策=兵農分離  1. 太閤検地=制圧する毎に検地を実施。制圧地を  確実に把握して全国統一の基礎とした  1582=山崎の戦の勝利を期に山崎を検地    ↓  1583=中部・北陸地方に拡大      →中国・九州地方に拡大(1587)  1589=検地条目の制定     家康 「五ヶ国総検地」大規模な検地実施。     この検地直後に関東移封。  1590=陸奥・奥羽地方に拡大(一応完了)  1591=諸国大名に検地帳と国絵図の提出を命ず。     検地帳は11.石高で統一                          山城検地・近江・能登の3国(太閤検地のはじまり) ↓ 貫高制などから石高制へ    (天正の石直し)

1594 (文禄3) =検地条目の制定(文禄検地)    検地の統一基準の制定→連続的に検地 太閤検地の完成期にあたる検地。全国征服の過程に行われた天正検地に対し、全国征服後の検地条目で実施された。 1.大名は石高に見合う軍役の奉仕 2.百姓は石高を基準として年貢納入 3.年貢は村の責任で一括納入(村請) 1598(慶長3)=秀吉の死で終了 太閤検地の体制 石高の測定 しんちょうけんち 織田信長によって大規模な検地(指出検地=信長検地)を実施、太閤検地の原型といわれ、太閤検地で各地の石高が確定された。その後江戸時代の幕藩体制の基礎となる石高制の基となり、江戸時代においてもこれに倣って検地が行われた。

従来の検地に比べ、規模・方法ともに一新した画期的な事業 戦国時代には大名の分国ごとにまちまちであった面積の単位を、秀吉は町段畝歩に統一し、枡の容量も統一した。 6尺3寸四方を1歩として300歩を一段とする段歩制を採用。耕地を上・中・下・下々の等級に分け、使用枡(ます)を京枡に統一、村ごとに検地帳を作って直接耕作農民の名を記し、耕作権を保証するとともに年貢負担者とする。

検地の統一基準の制定

東北地方の検地を命令 例:1590(天正18)年に浅野長政(五奉行のひとり)に宛てた朱印状 「自然相届かざる覚悟の輩之あるに於ては、城主にて候ハゞ、其もの城へ追入れ、各々相談じ、一人も残置かず、なでぎり申し付べく候。百姓以下に至るまで相届かざるニ付てハ、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。」 → 断固とした態度(検地反対一揆に対抗) 太閤検地

検地の方法= 手順 大名や家臣に 対しては知行 給付・軍役賦 課・家格など の決定基準 検地の方法= 手順 大名や家臣に 対しては知行 給付・軍役賦 課・家格など の決定基準 田畑各筆に1領主・1農民という一元的な領主-農民関係を樹立   検地奉行 帳付・竿取・見付役   検地役人 石高に応じて租税を負う 検地帳(水帳)への耕作者の記載 耕作者 石高の決定 (玄米収穫高) 村単位で租税を負担 各村の庄屋・名主ら 案内 小農民の自立 を促す 実際の検地業務 村単位で田畑屋敷を 一筆毎に測量し、 面積・等級を把握 土豪や有力農民は従来のように中間搾取を排除

刀狩令と身分統制令 太閤検地と刀狩令→大名知行制の確立+兵農分離 1.刀狩令(1588)  1) 刀狩の先駆  ・柴田勝家(1576)  ・秀吉(1585)=大和多武峰・紀伊   雑賀一揆で実施  2) 内容  ・百姓の武器の所持禁止と没収  ・没収武器類の使い道   →京都13.方広寺の大仏                ・百姓の農業専念           全国初の刀狩を行い、その武器を農具や九頭竜川の舟橋を繋ぐ鎖に加工したという (高さ約20m、1586完成)に利用

3)目的 ・百姓の武器没収による一揆の防止 →検地に対する反対一揆など ・兵農分離=「14 3)目的  ・百姓の武器没収による一揆の防止   →検地に対する反対一揆など  ・兵農分離=「14.多聞院日記」(興福寺多聞院の英俊)   「内証ハ一揆停止の為也ト…」  ・没収時、刀は鞘のまま京都に送る   よう命ぜられ、刀狩で没収された   刀は、朝鮮出兵の武器調達を目的   という考え方もある。 4)成果の例 ・加賀江沼郡の発令翌月の  没収数=刀1073、      脇差1540、      鑓160など

2.身分統制令(1591) 1) 内容=・武家奉公人(侍、中間、小者ら)の百姓・町   人化の禁止(第1条)  ・百姓の商工業従事禁止(第2条)  ・人返し(第3条) 2) 目的=身分の固定=兵農分離・農民の土地への緊   縛化、文禄・慶長の役を控えて武家奉公人と年貢   を確保する意図があったとされている。 原文(「小早川家文書」所収) 一 奉公人侍中間小者あらし子に至迄 去七月奥州へ御出勢より以来 新儀に町人百姓に成者於在之者 其町中地下人として相改一切置へからす  もし隠置付而は 其一町一在所可被加御成敗事 一 在々百姓等 田畠を打捨 或はあきなひ或は賃仕事に罷出輩有之は 其者之事は不及申 地下中可為御成敗  并奉公をも不仕田畠も作らさるは 代官給人として堅相改置へからす  若出無其沙汰は 給人過怠にし其在所可被召上 為町人百姓於隠置は 其一郷同一町可為曲事 一 侍小者ニよらす 其主に不乞暇罷出輩一切抱へからす 能々相改請人をたて可置事 但右者主人在之て出相届は 互事ニ以之条搦捕 前之主之所ヘ可相渡 若此御法度を相背 其者逃し候ニ付而は 其一人之代ニ三人首をきらせ 彼相手之所へ可下渡 三人之人代於不申付は 不及是非之条 其主人を可被加御成敗事  右 條々斯定置所 如件  天正十九年八月廿一日 (秀吉朱印)

3.人掃令(1592)=全国の戸口調査 1) 内容=武家奉公人・町人・百姓の職業別戸数・ 人数を調査 2) 目的=15 3.人掃令(1592)=全国の戸口調査  1) 内容=武家奉公人・町人・百姓の職業別戸数・   人数を調査  2) 目的=15.朝鮮出兵のための武家奉公人や人夫確保   のため太閤検地、刀狩、身分統制令の意義   ①兵農分離の完成(士農工商の身分制)    =身分移動の禁止、中間層の否定   ②大名知行制の確立 吉川文書より抜粋。 「急度申し候 一、当関白様従り六十六国へ人掃の儀仰せ出され候の事。 一、家数、人数、男女、老若共ニ一村切ニ書付けらるるべき事 付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓者百姓、一所ニ書出だすべき事。                          天正十九年三月六日」

秀吉の外交 キリスト教は禁止、貿易は振興 1. キリスト教の禁教  1)大名・家臣の入信許可制(1587.6.18)   → 秀吉の側近の黒田孝高は棄教   するなどキリシタン大名には苦し   い状況となるが、右近は信仰を守   ることと引き換えに領地と財産を   すべて捨てることを選んだ。  ①内容=大名・家臣がキリスト教信者になる場合は   許可制  ・一般庶民のキリスト教信仰は容認  ②理由=キリシタン大名の領内布教、日本人を奴隷   として輸出

2.バテレン追放令(1587.6.19)=キリスト教は禁止  貿易は振興 →禁教は徹底しない 1)内容・宣教師(バテレン)の国外追放(20日以内の退去)    ・貿易は許可 2)追放令におけるバテレン追放理由  =キリシタン勢力の増大が統一支配の障害になる ・キリスト教は邪法 ・大村領の長崎がイエズス会に寄進   → 秀吉、没収して直轄領とする(1588) 3)京都の南蛮寺の破壊(1589) 3.17.サン=フェリペ号事件(1596)  →フランシスコ会宣教師・信者   26人を長崎浦上で処刑   (26聖人の大殉教)

秀吉の対外政策 1.積極的な貿易振興  1) 海賊取締令(1588)  → 後期倭寇の終焉  2) 長崎・京都・堺の商人に朱印状を出す(1592)   貿易の発展を期待する姿勢の表明 2.入貢の要求=秀吉の国際感覚(地理感覚)の欠如  1) 九州遠征中、対馬の宗氏を通じて朝鮮に入貢と、   征明の道案内を要求(1587)  2) ゴアのインド副王(ポルトガル総督)へ国書送付   (1591)  3) ルソンのスペイン政庁へ国書送付(1591)  4) 台湾の高山国へ国書送付(1593)

   朝鮮出兵(文禄・慶長の役)     1.出兵の理由  1)織田信長の遺志を継いだとも?  2)朝鮮、明の征服(秀吉の国際感覚or地理感覚の欠如)   =秀吉はフィリピンに書状を送り、入貢を求めた。  3)勘合貿易の復活=秀吉は貿易の発展を望む  4)大名対策(戦争がなくなって実力の発揮する場所   がなくなった大名のガス抜き) 2.経過 1587(天正15)九州遠征中、対馬の宗氏を通じ   て朝鮮に入貢と、征明の道案内を要求   →拒否1591(天正16)人掃令の発布=朝鮮出兵動員の   ための人口調査

名護屋城 朝鮮出兵の本営を設営 秀吉の朝鮮出兵の際に出撃基地となった。天守閣を備えた、桃山時代最大級の城郭が築かれた。

文禄の役・釜山城攻略/『釜山鎮殉節図』(1709年初筆を1760年に模写)

文禄の役1592(文禄1~96) 1592(文禄1)文禄の役(~96)秀吉、肥前名護屋城に本営を設営9軍・15万余りの将兵を派兵(第1軍:小西行長、第2軍:加藤清正、ほか)釜山上陸 → 漢城(現ソウル)・平壌を制圧 → さらに北上(清正は豆満江に到達)戦局の悪化 ・朝鮮義民軍の抵抗、李瞬臣率いる水軍の活躍 ・日本水軍の劣勢、戦病者の増加、厭戦気分の増大 ・明軍の来援和平交渉へ持ち込み(小西行長、宗氏らの  画策) ・小西行長の和平交渉は秀吉の意向を受けたものでは  ない交渉決裂=秀吉の無理な講話条件の提示 ・秀吉、朝鮮4道の割譲を要求

日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告 秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定 明との和平交渉

慶長の役1597(慶長2) 明(朝鮮の宗主国)の沈惟敬のもたらした国書=秀吉を日本国王に封ずのみ 再出兵 1597(慶長2)慶長の役(~98)将兵14万余りを派兵当初より戦局悪化 =戦場は半島南部に限定 ・朝鮮義民軍・明軍の激しい抵抗 ・日本水軍の劣勢=李舜臣の率いる朝鮮  水軍の抵抗 ・補給路断絶による食料不足 李舜臣の率いる朝鮮水軍の抵抗 厭戦気分の広がり1598(慶長3)8月、秀吉、 伏見城で死去 → 全軍撤退 朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍した。韓 国ではその功績を評価し、国民的英雄となっている。

戦争の終結  蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていた。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。 この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ豊臣秀吉が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する。

昌徳宮Changdeokgung창덕궁 1405年建造の朝鮮国の離宮。1592年に豊臣秀吉の朝鮮出兵で焼失したが、1611年に再建された。正門の敦化門は現存する韓国最古の門(1609年再建)と言われる。

朝鮮の軍艦の板屋船に鉄板でしめきられた蓋をかぶせて龍の頭をつけた発明よりは革新を通じて造られた新しい戦艦。