日本列島に初めて人が住みはじめてから、さまざまな時代がおとずれました。 さあ、どんなふうにその時代は変わっていったのでしょうか? 今のわたしたちの生活はこんな時代をこえてできあがったのです。
11戦国時代 12安土(あずち)桃山時代 13江戸時代 14 明治時代 15大正時代 16 昭和時代 17平成時代 1旧石器時代 2 縄文時代 3弥生時代 4 古墳時代 5飛鳥時代 6奈良時代 7平安時代 8 鎌倉時代 9南北朝時代 10 室町時代 11戦国時代 12安土(あずち)桃山時代 13江戸時代 14 明治時代 15大正時代 16 昭和時代 17平成時代
旧石器時代 日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。 約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除き、次の縄文時代へ移行していった。
縄文時代 竪穴式住居 登呂遺跡 約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。 この頃の人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。 栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。 南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。
弥生時代 弥生式土器 紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。 当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。 北海道・東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。
古墳時代 大仙陵古墳(前方後円墳) 3世紀中後期から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。 古墳時代 大仙陵古墳(前方後円墳) 馬の埴輪はにわ 大仙陵古墳前方後円墳 3世紀中後期から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。 3世紀中葉に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が大和地域を中心として急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これについて初期国家の段階ではなく、王権の連合(連合王権)に過ぎないとする見解もある。
4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。この時期の前方後円墳は応神天皇陵や仁徳天皇陵など特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場すると政治混乱の収拾が図られた。一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。 この時期の後半、5世紀ころからオホーツク海沿岸地域ではオホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
飛鳥(あすか)時代 6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代(あすか)と呼ばれる。 法隆寺五重塔 飛鳥(あすか)時代 6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代(あすか)と呼ばれる。 6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子と蘇我氏(馬子(うまこ)―蝦夷(えみし)ー入鹿-いるか)により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。
7世紀中葉の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内は国制整備で一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。 なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。 東大寺大仏
奈良時代 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。 東大寺大仏 薬師寺東塔 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。 この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民(地缘统治的中央集权制度)思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。 文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。
平安時代 8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。 平等院鳳凰堂 8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。 平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。 奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。 南西諸島においては、12世紀ころからグスク時代に入る。以降の南西諸島の
鎌倉時代 12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。 蒙古襲来絵詞 12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。 源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その後の過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。源氏の将軍は三代で断絶し、御家人(御家人家臣)筆頭(ひっとう)である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立。また、承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。 文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。 北海道においては、13世紀ころからアイヌ文化が成立した。
南北朝時代 14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。 慈照寺銀閣 北山文化 南北朝時代 鹿苑寺金閣 东山文化 14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。 大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。
室町時代 天橋立図(水墨画) 14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。 足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。
3代将軍足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き、すなわち一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
戦国時代 15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。 川中島の戦い 15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。 この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。 川中島の戦い
そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。 この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、日本社会に一定の影響を与えた。
安土桃山時代 豊臣秀吉 織田信長 織田信長は将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。 秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施織田信長 を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。 秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が展開した。
江戸時代 慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。 徳川家康 江戸時代 慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。 豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任じられ、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度で朝廷や大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。幕府はキリシタンを禁止し、島原・天草一揆を経て鎖国を完成させ、オランダや清との長崎の出島における交易がわずかに行われた。李氏朝鮮とは朝鮮通信使による交渉が保たれた。 政治が安定すると経済が発展して、徳川綱吉の時代には好景気に沸き商人や町人が力を伸ばし元禄文化が栄えた。
浮世絵(『富嶽三十六景 - 凱風快晴』葛飾北斎 中期には幕府の財政が悪化し、徳川吉宗は享保の改革を行い一時財政を立て直すが、再び悪化し、その後に寛政の改革、天保の改革などで建て直しが図られたが、根本的な解決にはならなかった。貨幣商品経済の発展にともない、化政文化などの町人文化が栄える一方で、旧来の米の年貢収入を基盤とする大名や旗本は窮乏化した。大名は藩政改革を行い、長州藩や薩摩藩はこれに成功して後に雄藩と呼ばれるようになる。
末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、ペリーが来航して日米和親条約などの不平等条約が結ばれ鎖国は崩れた。開国にともない尊皇攘夷の考えが強まり、半ば内乱状態になり幕府の権威は弱体化して、遂に徳川慶喜は大政奉還を行い朝廷に政権を還した。 元禄文化や化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋や藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。
明治時代 明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。 明治天皇 明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。 朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令や戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府では天皇が大権を有し、欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。その流れで琉球王国や蝦夷地(現在の北海道や千島列島など)を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。
文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。
大正時代 大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。 日本は第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになる。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動により、普通選挙が実施され政党政治が成立した。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。
昭和時代 昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。 長崎原子爆弾 昭和時代 東京タワー 昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。 大正期から続いた不景気から回復できないまま、世界恐慌が直撃し、社会不安が増大する。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中華民国との泥沼の日中戦争(支那事変)に発展する。アメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退。日本は国際的に孤立してドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟を結び、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。
日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、原爆を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領の下で、日本国憲法が制定され、天皇は象徴とされ、国民主権や平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれ、冷戦下の西側陣営となる。政治的には自民党と社会党の保革55年体制が続く。経済的には高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。昭和の末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。
平成時代 平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる。 昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、長い不景気に苦しみ、経済面での構造改革が進められた。その効果もあって、平成14年ごろから景気が回復し始め、平成18年にはいざなぎ景気を超える長期間の景気拡大を達成した。政治面では冷戦が終結した結果、自民党と社会党との55年体制が消滅して保守化傾向が進展した。そのため、長年タブーだった自衛隊の海外派遣が行われ、憲法改正や教育基本法改正が論議されるようになった。
日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説とよべるものはない。しかしながら、一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なる。 また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化~などとする区分もある(詳細→日本の文化#歴史
1、日本国的起源 绳文时代的文化作为可考证的最早的文明,到公元前3世纪为止,在日本持续了近1万年。这时的日本人主要以狩猎、捕捞和采集来进行生产和生活。农耕技术和铁器从中国大陆经朝鲜传入后,日本进入弥生时代。这时日本开始逐步以水稻耕作为中心进行生产。伴随私有制的产生,部落间发生战争,导致首领人物的出现以及社稷的产生。
2、古代国家的形成和发展 各小国之间经过连年战争,逐步形成了部分的联合体,其中较大的邪马台国最早与中国有了往来。后来,以近畿一带为中心的大和政权作为日本的朝廷,经倭的五王不断派使节到中国朝贡,开了中日间朝贡贸易的先河。以后经圣德太子派遣隋使及后来的遣唐使,从中国传来佛教和生产技术。这些文化支撑了中央集权制,日本模仿中国制定律令,土地归国家所有以及租、庸、调、摇役制度。在中央行政组织方面建立了二官、八省,地方设立了国司、郡司、里长,并健全了户籍和计帐,以便于贡纳管理。在日本古代,由于汉字的传播及政治制度、生产技术的传授,中国对日本的文化、政治、经济等各方面都给予了极大的影响。
3、中世及近世的武士社会 由于庄园的产生和私有土地的扩大,为保卫庄园及私有领地而产生的武士不断壮大,逐渐形成了武士集团;最终由源赖朝建立了廉仓幕府的军政府。当时的朝廷实质上成为一种形式,天皇也只是一种象征性存在。 为了恢复天皇的统治,历史上出现了后醍醐天皇的建武新政,形成天皇与幕府对峙的状态,史称南北朝时代。之后足利义满在京都建立了室町幕府。 织田信长及他的后继将军丰臣秀吉经南征北战最后消灭了足利家族统治的室町幕 府、从而结束了室町末期的战国时代。自廉仓时代开始的历时400年的中世社会,从此划上了句号。
接着,丰臣秀吉开创的安土、桃山时代在内政外交上都进行了大胆的尝试。 首先进行了检地,也就是建立全国统一的土地制度并收取贡租;另外,为满足豪商要求,允许进行政府许可下的“朱印贸易”。但由于对朝鲜进行了耗尽财源的出兵侵略,至使由织丰政权起家的安土、桃山时代被江户幕府(德川幕府)所取 代。日本从此进入到江户时代。江户的政治体制称为幕藩体制,其实质是将土地进行重新分配。这样一方面从经济上支撑了幕府(中央)的统治,另一方面将全国70%的土地分给各地2,700名大名藩主,各自收取贡租,以维持幕府的政治地位和地方上的安宁。后来随着基督教的传入,西部地方大名的对外贸易迅速发展,致使幕藩的势力均衡遭到破坏,因此幕府下达锁国令,断绝了除同中国和荷兰之外的所有对外联系,开始,长达200多年的闭关锁国。
4 近代(19世纪-战前) 受美国逼迫恢复了国际间的交往,天皇重新掌握政权并实行“明治维新”。为了赶上各国,以工业为中心,对发展产业实行了奖励政策。自1889年颁发“明治宪法”以后,随着日本近代天皇制的确立和中央集权的资本主义国家的形成,为了进一步加强统治,明治政府在教育改革中,力图将近代教育纳入以宣扬忠君爱国、纲常伦理以及日本神道主义精神的轨道,这就把日本的教育改革引上了为军国主义政治服务的歧途。1929年的世界性经济危机爆发,日本走上了通往军国主义的道路。 日本的近代天皇制政权经历了几个不同的历史阶段。从天皇的更替来看:1868年~1911年为明治时代,是睦仁天皇当政的时期;1912年~1925年为大正时代,是嘉仁天皇当政的时期,从1926年起为昭和时代,是裕仁天皇在位的时期。现今天皇是明仁,年号平成。
明治维新开始不久,此时的日本迫不及待地走上侵略扩张的道路,给其周边的朝鲜、中国等国家带来深重的灾难。1894年对中国发动了"甲午战争",侵占了台湾和澎湖列岛。1904年进行日俄战争。1910年侵占朝鲜半岛。后来参加第一次世界大战,攫取了德国在太平洋上的岛屿和在中国的特权。1931年发动了"九·一八"事变,侵占中国。1944年12月发动太平洋战争。
中、美、英三国于1945年7月26日发表促令日本投降的《波茨坦公告》。1945年8月6日和9日,美国向日本的广岛和长崎投掷原子弹,8月9日,苏联红军正式参战,迅速击溃日本关东军,给日本帝国主义致命的打击。8月15日,日本天皇向全国广播,宣布接受《波茨坦公告》。9月2日在美国军舰“密苏里号”上,日本签字无条件投降。 1950年6月25日,朝鲜战争爆发。1952年4月28日,“旧金山和约”和《日美安全条约》同时生效,盟国对日本的全面军事占领宣告结束,盟国占领机构取消,日本被缔约国承认为独立国家。美国军队根据《日美安全条约》继续驻在日本。美国对日本保持着半占领地位。正由于朝鲜战争,日本获得了战后经济增长的最初动力,并在美国军事保护下,一心一意地发展经济。 1959年,池田勇人内阁登台执政。为了稳定政局,缓和国内矛盾,增强日本的经济实力,池田表示要实行“新政策”,对内要为“国民经济的繁荣”和“社会福利的增长”而努力,对外要“丢掉从属于美国的屈从思想”,“对一切国家都采取睦邻友好政策。”到1971年,日本国民生产总值由1960年的430亿美元增加到2184亿美元。日本的国民生产总值1966年超过法国,1967年超过英国,1968年超过联邦德国,成为仅次于美国的资本主义世界“经济大国”。
日本历史 (2)古代 绳文时代 从洪积时代起,人类祖先就在日本列岛上生活而日本人种及日语原形的形成则被认为史前1万年前至公元前3世纪前后的绳文期.当时.人们数人或10人一户住在竖坑式草屋,以狩猎,捕捞,采集为生,构成了没有贫富与阶级差别的社会.
さて、縄文時代で特筆すべき出来事の1つは、定住が開始されたことです (といっても、同じ場所に生まれてから死ぬまで住み続ける人は少なかったでしょうが)。 つまり、これまでの洞窟の中に住みながら、常に獲物を追って東へ西へ移動・・・という状況から、ある1カ所に一定期間住み始め、こうした生活に便利なように竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ) を建造するようになりました。
竪穴式住居の定義は色々ありますが、地面をある程度掘って踏み固め、そこに主柱を建て、棟木、垂木を通して骨組みを完成。それに、樹皮、カヤなどを使って屋根を葺いた住居です。地域によって異なりますが、関東では10年に1回ぐらいのペースで建て替えられたようですね。 ちなみに竪穴式住居というと、縄文時代と弥生時代のオリジナル住居のような印象を持たれる人もいるかも知れませんが、庶民の住居としては長らく愛用(?)され、大和時代はもちろん、平安時代ぐらいまで使われていたようです。バリエーションも色々あるようですよ。
日本历史 (2)古代 弥生时代 公元前3世纪,水稻种植和金属器具使用技术由朝鲜传入九州北部.稻作技术给日本社会带来了划时代的变化,它扩大了生产,产生了贫富等级之差,使农村共同体趋向政治集团化.农耕带来信仰,礼仪,风俗习惯也逐渐传播开来,形成了日本文化的原型. 据「三国志」的「魏志.倭人传」记载:公元3世纪,在九州北部出现了一个邪马台国,据说这个国家统治了20多个国家.国王的名字叫卑弥呼(ひみこ ),以宗教权威为背景治理国家.
卑弥呼(ひみこ)(生没年不祥/3世紀) 邪馬台国の女王。神に仕える巫女として国を治めた。 ただ一人の男性が政治を助けた。 壮大な宮殿には、1000人の召し使いがつかえていた。 239年に魏(ぎ)に使いを送っている。 两面人---传统的宗教、国际意识 卑弥呼的延伸"宗女壹与"
日本历史 (2)古代 古坟时代 公元4世纪中期,大和政权统一了割据的小国.随着国家的统一,以前方后圆坟为代表的古坟扩大各个地方.这个时期使中国许多知识,技术传入日本的时期.4世纪,大和政权吸收了大陆的高度物质文明(中国六朝文化) :5世纪,来自朝鲜半岛的外来人(归化人)带来了铁器生产,制陶,纺织,金属工艺,土木等技术,同时已开始使用中国汉字.6世纪,正式接受儒教,佛教也传入日本.
墓 古い墓 埴輪
弥生時代後期になると、各地に大きな墳丘をもつ豪華な墓・・・すなわち墳丘墓や、方形周溝墓(四角形を基本的なプランとし、方形に溝を掘りその中に遺骸を埋葬する墓制)が造られるようになってきます。 この頃は、地域色の強いさまざまな形の墳丘墓が作られていましたが、3世紀半ばになると、これらの発展ヴァージョンともいえる古墳が造られるようになります。 代表的なのは、円形と長方形の塚を組み合わせた鍵穴のような形の前方後円墳。前が四角、後ろが丸いという形です。 こいつが全国で造営されるようになっていった頃が古墳時代の始まりとされています。そして、前方後円墳は次第に巨大化していき、古墳時代中期の大仙陵古墳(大阪府堺市)で最大となります。この古墳は形が前方後円墳で、墳丘それ自体の長さが486m。さらに、三重の周濠を巡らすという巨大なシロモノです。
日本历史 (2)古代 古坟时代 *遣唐使(けんとうし) 公元592年第一位女皇-推古天皇即位,由推古天皇的侄儿-圣德太子摄政,圣德太子致力于政治革新,并以”大化改新”为契机,着手建立一个以天皇为中心得中央集权国家.这个做法仿效了隋,唐,而且此时开始更加积极地摄取大陆文化,至9世纪末期先后共派出10多次谴隋使,遣唐使. *遣唐使(けんとうし) 古时日本朝廷为学习唐朝文化而向中国派出的使者。据相关研究,自公元630年第一批遣唐使至894年停派,其间共派遣19批。比较著名的遣唐使有在唐朝曾任高官的阿倍仲麻吕、回日本后创立真言宗的空海和尚等。
推古天皇是日本历史上的第一位女天皇,她是日本第29代天皇钦明的公主。18岁时,美貌的推古被自己同父异母的哥哥敏达天皇纳为妃子,5年后成为皇后。敏达天皇死后,推古一开始并没有挤入皇室的统治核心,但是随后发生的一件大事却将她推上了天皇的宝座。公元592年,在位的崇峻天皇被权臣暗杀身亡。在平息叛乱之后,推古的儿子竹田皇子和侄子圣德太子为争皇位闹得不可开交。由于两派人马实力相当,相持不下,最后只好达成妥协,两人都不当天皇,共同拥立38岁的推古为天皇。 尽管身为女性,但推古天皇极具政治头脑,她没有对曾与自己的儿子争过皇位的圣德太子秋后算账,反而将他立为摄政王,辅佐自己执政。她通过自己的宽容,弥合了皇室内部的裂痕,在她执掌大权的36年中,皇室内部再未发生争夺皇位的动乱,社会也因此而获得了稳定。
推古天皇死后仅过了14年,皇极天皇成为了日本第二位女天皇。值得一提的是,她的一生中曾两度登上帝位。 皇极天皇原为第34代天皇舒明的皇后。舒明天皇驾崩后,日本皇室又陷入长时间的争位危机。公元642年,各方终于达成妥协,于是产生了一位过渡的女天皇———皇极天皇。 皇极执政期间,最大的贡献是从权倾朝野达百年之久的苏我氏家族手中重新夺回权力。皇极登基后,大臣苏我入鹿的权势急剧扩张,他倒行逆施,滥杀无辜,甚至处死了一位皇子。在皇极的默许下,皇族成员与朝中不满苏我氏专权的大臣们联合,准备借韩国使者进献贡礼之机,诛杀苏我入鹿。645年6月12日,毫无防备的苏我入鹿被骗入皇宫,中大兄皇子(皇极的儿子)亲率武士将其剁成肉泥,随后发兵剿灭了苏我氏家族。经历了这场惊心动魄的政治斗争后,身心疲惫的皇极主动宣布退位,将皇位让给了孝德天皇。
聖徳太子(しょうとくたいし)(574~622) 593年に推古天皇の摂政となり、蘇我馬子とともに国政を主導する。 冠位十二階、十七条の憲法を制定する一方、遣随使を送って大陸文化の摂取に努めた。法隆寺を建立。 小野妹子(おののいもこ)(生没年不祥/6~7世紀) 607年、遣随使の大使として髄に渡り、煬帝(ようだい)に国書を献じた。翌年、髄の使いの裴世清(はいせいせい)を伴って帰国した。同年、再び遣随使となり、学問僧 高向玄理(たかむこのくろまろ)らと共に髄に赴く。
○推古朝の政治 さて、推古天皇の下で朝廷の体制がさらに整えられていきます。 まず603年、都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。飛鳥は、現在の奈良県明日香村ですね。 そして、これまでの姓を使った授位のあり方に変えて、冠位十二階の制が定められます。これは、徳・仁・礼・信・義・智の6つをベースに、それぞれ大小に区分。つまり、合計12の位を設置し、豪族達は冠の色と飾りで自分達の朝廷内での等級が一目瞭然で区別されることになったのです。また、これは才能や功績によって上がることが出来るため、豪族達のやる気を引き出します。
もっとも、蘇我氏のような有力氏族は自分達の地位が脅かされる危険があるため、反発が予想。 そのため、有力な豪族は対象としませんでした。また、長い年月をかけて位は13,19、26,48,そして逆戻りで30階に落ち着いています。 そして604年に聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。 これは、今の憲法とは異なるもので、朝廷内における人々の心構え、すなわち倫理規定を定めたものです。和をもって貴しとなし・・・とか、仏教を篤く敬えとか・・・全国の人民はすべて大王を主とあおげとか・・・。こうして、豪族達を地方の有力者から朝廷の役人へと次第に性格を変貌させていくことになるのです。考えてみれば、かなりの改革ですね。 ただし、実際に施行されたかまでは記録に残っておらず、不明です。
また、聖徳太子と蘇我馬子は歴史書である「天皇記」「国記」の歴史書の編纂にも乗り出します。 これによって、これまでの歴史が不明にならないように文字で後世に残し、同時に現政権の正統性も強調する狙いがあったのだと思います。ちなみに、蘇我馬子の子孫は後ほど述べる通り天皇に対する反逆者として滅亡に追い込まれたため、必然的に蘇我馬子についての功績も小さく描かれていますが、こうした大きな改革を蘇我氏の力無くして実現できたとは思えず、聖徳太子と蘇我馬子の二人三脚で新たな国家体制を意欲的に整備していったと考えられています。
○隋との外交 さて、これまで百済を通じて大陸の文物を取り入れ、互いに積極的に使者を交換していた大和政権でしたが、中国ではこの頃、ようやく小国分立状態が解消され、隋という大陸全土を統一した国家が誕生していました。そこで607年、聖徳太子は小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、中国の歴史書「隋書」には600年にも倭国からの使者が来た、と記されています)。 この時、聖徳太子は日本側がへりくだった交渉を嫌い、対等に交渉せよと指示しました。そのため、日本側の国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記しました。つまり、我々日が昇る国の天子が、日が没する国の天子にお手紙差し上げます。お元気でしょうか?と記したわけです。 これを見た隋の皇帝である煬帝(ようだい 位604~618年)は「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです。しかし、隋は朝鮮半島の高句麗と戦っていたこともあり、わざわざ日本を敵に回すこともないと考え、翌年、外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした。 ともあれ、こうして隋との国交が樹立した大和政権は、斐世清を隋に送り返すと同時に、高向玄理(たかむこの げんり/くろまろ)、南淵請安(みなみぶち しょうあん)、および僧である旻(みん)らを留学生として派遣し、長期にわたり学習させました。彼らは後の政治改革で少なからぬ役割を発揮しています。
法隆寺 中门 金塔堂 5重塔
世界遺産価値基準に適合する根拠 法隆寺金堂(1)法隆寺西院の金堂・五重塔・中門・回廊・法起寺三重塔などの8世紀以前の建造物11棟は、現存する世界最古の木造建造物である。 (2)これらの歴史的建造物は、全体のデザインのみでなく、エンタシスをもつ太い柱、雲形の肘木や斗などに代表される細部のデザインにおいても、洗練された芸術的に優れたものである。 (3)これら建造物のうち、7世紀から8世紀はじめに建造された金堂・五重塔・中門・回廊は、石窟寺院や絵画的資料からうかがうことのできる6世紀以前の中国の建造物と共通する様式上の特色を備えている。これに対して、それらに引き続いて8世紀のうちに建立された経蔵・食堂・東大門や東院の夢殿・伝法堂では、新しい唐の様式の影響を認めることができる。このように、法隆寺地域の仏教建物は、当時の中国と日本の間、ひいては東アジアにおける密接な文化交流の証人となっている。さらにまた、1地域のなかに7世紀以降19世紀に至る各時代の優れた木造建造物が集中して保存されている点でも他に類例がなく、日本の、そして東アジアの木造の仏教寺院の歴史を物語る文化遺産がここに統合されているといってよい。 (4)仏教がインドから中国・朝鮮を経由して日本に伝来したのは6世紀中頃である。聖徳太子は当時仏教の普及にきわめて熱心であり、太子ゆかりの法隆寺は日本に伝来した仏教の最も古い建造物を多数保存しており、宗教史上も価値が高い。 (5)法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として1,300年間の伝統のなかでそれぞれの時代の寺院の発展に影響を及ぼしており、日本文化を理解する上で重要な遺産となっている。
日本历史 (2)古代 奈良时代 公元710年日本定都平成京(现在的奈良市以及近郊),迎来了律令国家的兴盛时期.但是,此时农民贫困,游民增加,由于庄园扩大而导致公地公民制的实质上的崩溃等,矛盾开始暴露出来. 这个时期由于国家极力保护佛教,因此,佛教文化,特别是佛教美术繁荣起来.例如,7世纪初期开创日本佛教文化的飞鸟文化:7世纪后期在显示人类青春活力方面独具一格的白风文化:8世纪中叶在唐代鼎盛期文化的影响下以写实手法体现人类丰富情感的天平文化等.
日本历史 (2)古代 奈良时代 堪舆佛教美术相媲美,这个时期文化方面的金字塔似<万叶集>. 《万叶集》是日本最早的和歌集,编者大伴家持。<万叶集>收集了8世纪中叶前约4百年间,下自庶民庶民上至天皇所作的大约4500首诗歌,如实反映了古代日本人的朴素的生活感情,至今仍受到广大日本人民的喜爱.此外,现在还保存着的日本最古老的历史书籍<古事记>(712年),最古老的敕撰历史书 <日本书纪>(720年)最古的汉书集<怀风藻>(751年)等都是这个 时期的文化遗产.
日本历史 (2)古代 平安时代 但由于公地公民制的崩溃,国家陷入了财政困难.894年派出最后一批遣唐使后便告终止,就此不在大量摄取大陆文化. 8世纪末,首都移到平安京(现在的京都市),曾试图重建律令体制 但由于公地公民制的崩溃,国家陷入了财政困难.894年派出最后一批遣唐使后便告终止,就此不在大量摄取大陆文化. 10-11世纪,藤原氏垄断政权,以庄园为经济基础,势力最为强盛. 但是,由于地方政府的混乱,导致治安混乱,武士集团强大起来. 到11世纪末,为对抗藤原开始实行院政(太上皇代天皇执政), 于是,武士进入了中央政界.
日本历史 (2)古代 平安时代 直接交流断绝以后,便产生了日本独特的贵族文化.其代表 平安时代以本国文化为特色.9世纪时受唐朝影响,密教和汉文学方面的弘仁,贞观文化还十分繁荣.但是,10世纪后与大陆的 直接交流断绝以后,便产生了日本独特的贵族文化.其代表 有第一部的敕撰和歌集<古今和歌集>(10世纪初),世界上 最古老的长篇小说<源氏物语>(11世纪初),随笔<枕草字> (公元1000年前后)等一批文艺作品.
中世纪 (3)(12—16世纪) 镰仓时代 12世纪末,源赖朝在镰仓建立幕府,从此诞生了武士政权.此后大约一个半世纪内,东部镰仓的武士与西部京都的朝廷相对立,形成了封建社会.13世纪后期幕府的武士统治开始面临困难,幕府逐渐走上灭亡的道路. 在文化方面,以过去的贵族文化为基础,摄取宋朝时传入日本的禅宗文化,培育了生动,写实,朴素的独特的武家文化.
中世纪 (12—16世纪) 镰仓时代 宗教方面,由法然,亲鸾,日莲等著名僧人创建了镰仓佛教,获得了各阶层的信仰.12世纪传入日本的禅宗受到了关东武士的重视,艺术领域也出现了新的倾向.文学方面,为迎合武士所好,出现了<平家物语>(原作诞生于13世纪初)之类的军事小说的杰作.
中世纪 (12—16世纪) 室町时代 14世纪前半期,足利义满稳定了京都的室町幕府以后,2个多世纪内在政治,文化方面武士都压倒朝廷,处于优势.由于室町幕府聚集了各有势力的守护大名而建立的,所以其统治能力薄弱,进入15世纪后半期,全国各地的战国大名纷纷而起,战乱频频, 进入了所谓的战乱时代.战国大名成了统治当地土地,人民强有利的独立政权,于是出现了由武士统治农民的封建社会.
足利義満(あしかがよしみつ)(1358~1408) 室町幕府3代将軍。南北朝の合体を果たし、幕府の最盛期をつくる。勘合貿易実現し、1402年には明から日本国王の地位を認められた。北山に金閣をたてて住んだ。 ●足利義政(あしかがよしまさ)(1436~1490) 室町幕府8代将軍。夫人日野富子の政治への介入を許した。後継者問題から応仁の乱を引き起こし、東山山荘に隠居する。 銀閣を建立した。
中世纪 (12—16世纪) 室町时代 在经济方面,与明朝贸易等商业有了进展. 文化方面,贵族和武家的文化又受到禅宗的影响.14世纪末期以金阁为代表的北山文化,15世纪末期以银阁为代表的东山文化都十分发达.16世纪中叶,葡萄牙人,西班牙人来到日本传入枪炮和基督教,那是文化方面充满生机的时代.
近世 (4)(16—19世纪中叶) 安土 桃山时代 这是战国战乱平息,全国完成统一大业,织田信长与丰臣秀吉掌权的时代.随着国内的统一,与海外的交往也活跃起来,于是产生了华丽壮观的桃山文化.
織田信長(おだのぶなが)(1534~1582) 1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破って頭角をあらわす。68年、京都に進出し、76年には安土城を築いて天下統一をめざす。 1582年、本能寺で明智光秀に討たれる。 豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1536~1598) 信長の死後、全国を統一する。太閤検地や刀刈を行なって、封建的身分制を強化する。天皇に接近して関白(辅佐天皇的大臣)となり、豊臣姓を名乗る2度の朝鮮出兵に失敗し1598年に死去。
近世 (4)(16—19世纪中叶) 江户时代 德川家康于1603年在江户(现在得东京)建立幕府,此后260多年间德川家康统治全国.幕府严格控制天皇,贵族,寺院神社,并费尽心计统治支撑幕藩体制的农民,17世纪后期,第三代将军德川家光时期,由于闭关自守,幕藩体制迎来安定时期.但是,随着产业得发达,商品经济的发展,农民自给自足的经营体系崩溃,18世纪起幕藩体制开始动摇.
近世 (4)(16—19世纪中叶) 江户时代 庶民文化是这个时期的特色.17世纪后期至18世纪初期的元禄文化是以京东,大阪等上方(日本关东地方的人称京都,大阪为上方)地区为中心的武士和商人的文化,人偶净琉璃,歌舞伎,浮世绘,工艺等一片繁荣,19世纪初期的化政文化移至江户,小说,歌舞伎,浮世绘,文人画等呈现出绚丽多彩的商人文化.
徳川家康(とくがわいえやす)(1542~1616) 1600年、関ヶ原の戦いに勝利し、覇権を確立。1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開く。秀忠に将軍の位を譲った後も、大御所として実権を握った。 ●徳川家光(とくがわいえみつ)(1604~1651) 江戸幕府3代将軍。武家諸法度(ぶけしょはっと)の改訂、参勤交代の制度により、朝廷に対する優位を明確にする。また、農民支配を強化するとともに、鎖国を断交して貿易を統制した。
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(1653~1724) 浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎の作者。作品数は140余りで、武士を描いた時代物、町人を描いた世話物に大別できる。作風は、素朴な写実を否定し虚の姿の中に真実があるとするもの。 歌川(安藤)宏茂(うたがわひろしげ)(1797~1858) 浮世絵師。歌川豊広に師事。遠近法を大胆に取り入れた風景がを描く。1833年に刊行した「東海道五十三次」は評判になり、3万部以上版行した。 本居宣長(もとおりのりなが)(1730~1801) 伊勢松坂の医者で国学者。国学を大成。「源氏物語」の中に「もののあわれ」をみいだし、これを高く評価する。「古事記」を研究して、大著「古事記伝」をまとめた。
日本战国时代有三位先后统一天下的英雄:织田信长、丰臣秀吉、德川家康。这三位领袖因为个性截然不同,后人喜欢用一首和歌来比喻他们:「不啼叫的话,……,春晓杜鹃鸟」。中间那一句,若是由织田信长来填,必定是「快快拿下斩杀掉」;丰臣秀吉则是「我来让它展歌喉」;德川家康便是「耐守时候等它鸣」。 这三种比喻,国中生在「日本史」中都会学到,可以说是家喻户晓、众庶皆知。杜鹃鸟不啼,冷酷无情的织田信长会性急地下令斩杀;油腔滑调的丰臣秀吉则会动用策略,绞尽脑汁诱引鸟儿高歌;现实主义者的德川家康定会耐着性子痴痴等,鸟儿不啼就不啼,反正「总有一天等到你」。还有一首打油诗:「织田先捣舂,羽柴(秀吉)揉捏天下糯,坐享其成是德川」。这些歌、词不但幽默,又都恰如其分。 说起来很有趣,这三位历史上的名将,也是跟「三」脱不了关系。例如有名的三大合战(战役):「姊川合战」、「三方之原合战」、「长筱合战」;家康带领援军与信长合力在姊川击溃浅井长政(一五七○年),日后虽然在三方之原又败给武田信玄(一五七二年);但是最后仍在长筱与信长连手将武田胜赖打个全军覆没。 三位武将中,获得最后胜利的是德川家康,同时也揭开了持续二百六十五年之久的幕府时代(江户时代)序幕。家康为何能够坐吃天下大饼呢?当然不是「到底有没有让杜鹃鸟啼叫了」这个问题,而可能出在对女人的口味。秀吉出身贫贱,喜欢名闺,遗憾的是,不知怎的,当时越是家世好的女人,竟越是无法生子,结果秀吉只有一个儿子秀赖。家康却是不计较对方家世,只要性格开朗,屁股够大,管她是农妇或是商家寡妇,一律宠爱有加,理所当然便留下十一男七女的后代。
近代 ﹑现代 (5)(19世纪中叶~现代) 明治时代 为了赶上欧美发达国家,日本政府以富国强民,振兴产业,文明开化为宗旨,制定宪法,设立国会,修改不平等条约等,不断实行现代化的政策.并且,以此为契机,进行产业革命,国际地位也不断提高.明治文化朝着传统文化与欧美既对立,又统一的方向发展.
明治天皇(めいじてんのう)(1852~1912) 名は睦人(むつひと)。父は孝明天皇。維新後、1872年から全国を巡幸した。国家の発展期に在位していたため、国家のシンボルとして国民に広い支持を受けた。 福沢諭吉(ふくざわゆきち)(1835~1912) 豊前(大分県)中津藩士で啓蒙思想家。幕末、使節に随行して欧米の近代文明に接した。 1868年に慶応義塾を創立。「学問のすゝめ」など、著書も多い。 大隈重信(おおくましげのぶ)(1838~1922) 佐賀藩出身の政治家。明治14年の政変で政府を追われ、1882年に立憲改進党を結成した。同年、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設。 1898年に初の政党内閣を組閣。
近代 ﹑现代 (5)(19世纪中叶~现代) 大正、昭和时代 第一次世界大战后的日本,虽然出现过大正民主主义那种一度高涨的民众力量,但是,帝国主义的倾向逐渐增强,从昭和前期的30年代起发动了侵略战争,太平洋战争失败以后,日本才以新的面貌从新起步.
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思考题 简述弥生时代的政治,经济,文化等社会状况 武士在什么时代背景下产生的? 什么是锁国,是怎样产生的? 江户时期把人分成哪4等? 宪法17条的头3条是什么?
思考题 简述弥生时代的政治,经济,文化等社会状况 武士在什么时代背景下产生的? 什么是锁国,是怎样产生的? 江户时期把人分成哪4等? 是在庄园的产生和私有土地的扩大,为保卫庄园及私有领地而产生的.由于武士不断壮大,逐渐形成了武士团;最终由源赖朝建立了嫌仓幕府的军政府。当时的朝廷实质上成为一种形式,天皇也只是一种象征性存在。 什么是锁国,是怎样产生的? 禁令对外一切通商,贸易等往来,关闭自守. 江户的政治体制称为幕藩体制,全国70%的土地为各地2,700途大名藩主所有,各自收取贡租,以维持幕府的政治地位和地方上的安宁。后来随着基督教的传入,西部地方大名的对外贸易迅速发展,致使幕藩的势力均衡遭到破杯不因此幕府下达锁国令,断绝了除同中国和荷兰之外的所有对外联系,开始,长达200多年的闭关锁国。 江户时期把人分成哪4等? 武士,农民,手工业,和商人 宪法17条的头3条是什么?