映画『桜田門外の変』を見るー彦根藩の二刀流武士と水戸藩 二松五男 パソコン研究会2011.1.27 映画『桜田門外の変』を見るー彦根藩の二刀流武士と水戸藩 二松五男 映画『桜田門外の変』を見た at 水戸COMBOX-310 on 29 Nov. 2010 映画の原作は「吉村昭」の同名の小説から 桜田門外の変で、果敢にも二刀流で応戦した武士が居た(津本陽の「宮本武蔵を語る」より)。 大洗の幕末と明治の博物館の人形 *
佐藤純弥監督 1932(昭和7年)年11月6日生まれ 東京都出身の日本の映画監督、脚本家。父は日本刀学者、兄は東京大学名誉教授の佐藤純一(ロシア語学者)。子に日本テレビ・ディレクターの佐藤東弥がいる。 東京府立第一中学校(現・日比谷高校)、東京大 学文学部卒業。 これ見た 2
2.26事件に酷似 桜田門外の変 天狗党の乱 井伊大老を暗殺することで、幕府は攘夷を実行し、 斉昭を救えると期待ー>薩摩藩、鳥取藩も挙兵し てくれるー>挙兵はなく、水戸藩 は幕府に味方 天狗党の乱 挙兵することで、幕府は攘夷を実行する。慶喜 から朝廷に直訴してもらおうと期待ー>加賀藩に 降伏、ニシン倉庫にぶち込まれる ー>後に、全員処刑 3
1840(天保11)年 中国アヘン戦争 日本もやられると危惧 1853(嘉永6)年 ペリー来航 斉昭幕府海軍参与 水戸藩の動き 1840(天保11)年 中国アヘン戦争 日本もやられると危惧 1853(嘉永6)年 ペリー来航 斉昭幕府海軍参与 1854 (嘉永7)年 日米和親条約調印 那珂湊に反射炉をつくり、大砲製造 1855(安政2)年 安政の大地震 藤田東湖死亡 1858 (安政5)年 井伊直弼大老就任 日米修好通商条約 幕府による詔勅なしでの調印を非難 安政の大獄 朝廷が水戸藩に攘夷を実行せよとの密勅を送る 斉昭永久蟄居 1860(安政7/万延1)年 感臨丸渡米 3/3 桜田門外の変 犯人は水戸藩の脱藩武士17名と薩摩藩武士1名 水戸藩はこの事件に関わりはないとした 1862 (文久2)年 和宮降嫁(公武合体政策) 1863(文久3)年 新選組結成(倒幕派を武力で制圧) 1864 (文久4)年 4カ国艦隊が下関砲撃 1864 (元治1)年 天狗党の乱 内部分裂(過激尊攘派vs保守佐幕派) 武田耕雲斎等敦賀で処刑(by彦根藩:桜田門 の仇討ちとばかり) 1866 (慶応2)年 坂本龍馬の薩長同盟成立 慶喜15代将軍に 1867 (慶応3)年 大政奉還 1868 (慶応4/明治1)年 明治維新 水戸藩は維新史上最も悲惨だった(そして,誰 もいなくなったー維新政府に水戸藩出身者はゼロ) 「明治:治まるめい」と読む 4
水戸藩は那珂湊でせっせと大砲を作って江戸に送った
印象的だった、素足に巻きつけられた紙と早足の行進シーン 井伊邸を出てすぐに襲われた 6
彦根藩士 河西忠左右衛門 二刀流の剣豪 河西忠左衛門良敬 は桜田門外で見事に散った井伊家屈指の剣術の使い手である。 「柄袋の掛った状況で突然襲われたが、冷静に抜刀し、二刀流の見事な剣術で相手に立ち向かい、彼の生きている間は誰も籠に近づけなかった」 という逸話を持つ。(ここでカセット「津本陽:宮本武蔵を語る」を聴く) 千波湖の野外スタジオ 7
大洗幕末と明治の博物館の人形
津本陽はここで目撃した人の話を語っている
稲田重蔵は河西忠蓙衛門と対決したが、大変苦戦し、 3人のテロリスト武士の加勢を得てやっとのことで河西 を倒す 事件の指揮者 薩摩藩有村次左衛門井伊大老を暗殺 稲田は大老の首をにやりと見てこの場で絶命 10
事件前後鳥取藩に現れた関鉄之助 幕末動乱の鳥取藩の藩主は、池田慶徳(いけだよしのり)で、水戸藩の徳川斉昭の五男であった。そのため、水戸学の影響を受け、尊攘派の旋風が藩内に巻き起こった。 藩内では元々、佐幕の思想が強かったが、新鮮味のある尊攘派思想に傾倒する藩士も多く出た。 藩主・慶徳も尊攘派思想で改革心の強い堀庄次郎(ほりしょうじろう)ら逸材を登用して藩政改革を推し進めている。 堀たちは軍制の整備や学問改革を成している。これら改革政策は「安政御改正」と呼ばれ、順調に藩政改革は成果を挙げていった。 一時は薩長土肥因(さっちょうどひいん※因は因幡のこと)と称されるほど雄藩として注目を集めた。しかし、藩内では常に尊攘派の改革一派と佐幕派の守旧一派の二極が存在し、藩の実権をめぐって抗争を成した。 事件の首謀者関鉄之助は、事件前鳥取藩に出向き支援を取り付ける、しかし事件後 再び鳥取藩に赴いた鉄之助は,鳥取藩の変身を知る、さらにお尋ね者として、剣道指南役に見つかり果たし合いとなる。ー>ここで鉄之助が勝つのは意外だった(このシーンは吉村昭の小説にはない) 11
水戸市見川の妙雲寺(天狗党の武田耕雲斎のお墓がある) この寺の碑には水戸藩士が大老の首を水戸に持ち帰ったとある。大老のお墓もここにある。
桜田門外の変で敵対した水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだ時期 彦根藩第15代藩主掃部頭(かもんのかみ) 籠の中で無念の死(伊武雅人) 桜田門外の変で敵対した水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだ時期 は、事件発生から110年後の1970年であった。水戸からは偕楽園の梅、彦根 からは堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫に あたる井伊家の当主で「殿様市長」として知られた井伊直愛であった。水戸 と彦根を和解させた都市は敦賀であったが、敦賀は水戸天狗党がことごとく 殺された土地である。水戸と敦賀が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだ 時期は1964年だった。 小生、中学校時代社会科の授業で水戸と彦根は今でも中が悪いと教わった(1961年のこと)
尊王攘夷は・・・・・・・ 攘夷:外国を追い払う 尊王:天皇を戴く 明治新政府は・・・・共和制に すべきだったのでは?! 水戸藩はフランスと仲が良かった。仏公使ロッシは明治新政府の法的合法性を疑っていた。慶喜も・・・・
好文豈に威武無しと謂わんやー来月は梅祭り* 水戸市役所入り口の漢詩 *小生(二松黎雲)紋付姿で弘道館で尺八披露予定(3/27(日))