キッズ赤十字 日本赤十字の誕生 ①キッズ赤十字 ②次は、日本赤十字の誕生についてお話します。 ③日本の赤十字は、西南の役のときにつくられた「博愛社」がはじまりです。 ・1877年:明治10年に「博愛社」がつくられ、 ・1887年:明治20年に「日本赤十字社」に名前が変わったのです。
その博愛社を造るときに活躍したのが、 ①写真の二人です。 先ず左の写真の人を紹介します。
佐 野 常 民 ①この人は佐野常民といいます。 ・佐野常民は1822年に、九州の佐賀藩・早津江で生まれました。 佐 野 常 民 ①この人は佐野常民といいます。 ・佐野常民は1822年に、九州の佐賀藩・早津江で生まれました。 アンリ・デュナンより6歳年上です。 ②子供のころから勉強が好きで、 江戸や京都、大阪の有名な先生から、 外国の科学や医学をまなびました。 ・ちょうどアメリカのペリ-が黒船にのってやってきたころです。
①9歳の時、佐賀藩のお殿様たちのお医者さんをしている 佐野常徴(さのつねみ) という人のもとで育てられることになりました。 ・ そして「弘道館」という 佐賀藩の学校に通います。 ②常民が15歳の 時 、お父さんと一緒に江戸へ 行くことになりました。 そして、古賀侗庵(とうあん)という 先生のもとで 新しい 学問を習うことになりました。 ・この先生は外国のことを良く知っていました。 ・先生は常民に「これからの日本のために、外国ともっと交流をして、 今の日本にない文化や技術を知っておくことが大切だ。」 と教えてくれました。 ・佐賀に戻った常民は、 「松尾塾」や「弘道館」で ・お医者さんになるために 一生懸命勉強し、 19歳でお医者さんになることができました。
①その頃 、佐賀藩のお殿様は、 藩を良くしていくために、 外国の文化や技術を取り入れていきたい と 思っていました。 ・お殿様は「日本には、外国のことに詳しい先生方がたくさんおられる。 その先生の所へ行って、勉強してきなさい。」と常民に 言われました。 常民は、日本各地で学ぶチャンスをもらったのです。 ・江戸や京都などで、「蘭学」という外国のことを色々と学ぶ学問に励みます。 また、お医者さんである常民は、大坂で有名な緒方洪庵先生に、 いいお医者さんであるために大切なことを、しっかり教えてもらいました。 ・そして、一緒に勉強していく、 たくさんのすばらしい仲間たちとの出会いもありました。 ②外国から黒船が日本に来るようになり、 日本ではこれに対抗する海軍をつくる必要がありました。 ・そこで、幕府は長崎に「海軍伝習所」という学校をつくりました。 常民たち佐賀藩の仲間48 名は、長崎へ海軍のことを勉強しに行きます。 ・そこで、外国の先生たちから、 船を動かす技術や知識などを教えてもらいました。
①36歳になった常民は、佐賀藩の海軍所の監督となり、 長崎で習ったことを活かして、 海軍のことを教える学校や船を造ったり修理したりする工場を造りました。 ・そして、多くの海軍さんや技術屋さんを育てました。 ②常民が42歳の時、蒸気船「凌風丸」を完成させました。 ・この船は、日本人だけの手によって造られた日本で最初の蒸気船です。 ・船を動かすエンジンは“ボイラー”といい、 その後、 ここで造った3機のボイラーを幕府に納めました。
①44 歳になった 常民は、 フランスのパリで 行われる 万国博覧会に 佐賀藩の代表として参加しました。 ・常民にとって、生まれてはじめての外国です。 見るもの聞くもの全部が常民の視野を広げていきました。 ・そして、ここで 赤十字のことを知った常民は強く心を打たれました。 ②明治維新をむかえ、 新しい政府に反対するお侍さんが各地で反乱をおこし、 最後は西南戦争が 始まりました。 ・どちらの軍もたくさんの人が 死んだり、 ケガをしたりして、とても悲惨でした。 ・東京で、戦場の大変な様子を聞いた常民は、 とても心を痛めていました。
大給恒と佐野常民との出会い 大 給 恒 岩倉具視 死傷者の救護を 佐野常民に相談を いわくら ともみ おぎゅう ゆずる いわくら ともみ 死傷者の救護を 佐野常民に相談を ①この戦いを見て、心を痛めている人がもう一人いました。 ②大給恒です。 ③岩倉具視に死傷者の救護を訴えたのです。 ・大給恒は、旧名を松平乗謨(のりかた)といって、 慶応二年には、老中にまでなった人です。 ・戊辰戦争のとき幕府と縁を切って、名前も大給と変えました。 ④岩倉具視は、佐野常民に相談するように言ったのです。 ・実は、岩倉具視もはやく先進国の仲間入りをしたいので、 赤十字を造りたかったのです。 ⑤大給恒と佐野常民との出会いとなります。 大 給 恒 おぎゅう ゆずる
・二人は、「博愛社 」をつくることを政府にお願いしましたが、 「 敵味方の区別なく救う」ということが理解されず、 許可してもらえませんでした。 ①常民は、その間でも多くの人が傷つき死んでいくのに心を痛め、 とうとう戦争が行われている九州の熊本へ乗り込んでいきました。 ②熊本に着いた常民は、早速、政府軍の総指揮官である 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を訪ね、 傷ついた者は敵味方の区別なく救う 「博愛社」をつくりたいとお願いしました。 ・総指揮官は、常民の熱意にうたれ、直ぐに許可を出しました。
博 愛 社 ①佐野常民は、熊本で人々を助け、 ②大給恒は東京で『博愛社』をつくる準備をしました。 お金は松平家が出してくれました。 お金は松平家が出してくれました。 天皇や皇后陛下もお金を出してくれたのです。 ・社員は38人でした。 ③これが『博愛社』のマークです。
①西洋では、国と国が 赤十字条約を結び、 お互いに協力し合いながら活動していました。 ・常民は、どうすれば日本もこの条約に加盟して、 世界の仲間入りができるのか一生懸命研究しました。 ②そして、ついに日本の加盟が認められ、 「博愛社 」は「日本赤十字社 」と名前をかえ、 ・ 64歳 になった常民は、日本赤十字社の初代社長になりました。
1877年5月1日 博愛社設立 1886年 ジュネーブ条約へ加入 1887年 日本赤十字社に改名 ①佐野常民は、切手にも登場しています。 1877年5月1日 博愛社設立 1886年 ジュネーブ条約へ加入 1887年 日本赤十字社に改名 ①佐野常民は、切手にも登場しています。 ②日本赤十字社の社長となった常民は、 病院をつくって病人やケガ人の治療をしたり、 ・看護婦さんの学校を造ったり、 病院船 を造ったりしました。 ③また、地震や火山の噴火 、津波などが発生した時の 災害救護活動や国際活動など、 人を救うため、いろいろな仕事に 一生懸命取り組んだのです。 ・赤十字活動の他にも、日本海軍を育てたり、 洋式灯台を造ったり、 博覧会を開催したり、 また、日本美術の振興などにも力を注ぎました。
日本赤十字社の社章 ①最初に見せたこのマーク。 ②このマークは日本赤十字社の社章です。 桐と、竹のえだに、鳳凰 がデザインされています。 ・1887年に佐野常民は、昭憲皇太后 にお目にかかって 日本赤十字社ができたことを報告しました。 ・このとき皇太后はかんざしをお見せになって、 この模様をマークに使うようアイデアをだされました。 ・このかんざしは天皇家に昔から伝わるもので、 今も正倉院に保存されているそうです。 ・鳳凰は、伝説の鳥です。 ・クジャクや「火の鳥」のようなすがたで、 桐の林に住んでいて、竹の実を食べるといわれています。 ・世界が平和な時だけ、 太陽の光に乗って飛んでくるのだそうです
日本赤十字社の活動 国際活動 災害救護 医療事業 看護師等養成 血液事業 講習普及事業 青少年赤十字 社会福祉事業 ①では、日本赤十字社はどんな活動をしているのでしょうか。 ②ご覧のように八つの事業を行っています。 ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨
赤十字を進める力 赤十字社員 赤十字奉仕団 ボランティア JRCメンバー 本部・支部(事務局) ①こうした赤十字の活動を進めているのは、 赤十字奉仕団 ボランティア JRCメンバー ①こうした赤十字の活動を進めているのは、 ②赤十字の目的や活動に 賛成をしてくれて お金を出してくれる人 つまり『赤十字社員』。君たちのお父さんやお母さんです。 ③そして 赤十字奉仕団や 私たちJRCメンバーといった 『ボランティア』。 ④そして 本社・支部や病院・血液センターで働く『職員』 です。 本部・支部(事務局)