甲子園監督 1360676Ⅾ 玉村幸大
毎年の夏の風物詩となっている高校野球 2010年茨城県では、私立の水城高校が初の甲子園への切符を掴んだよう だが、その裏側にあるエピソードを紹介したいと思う。 そのエピソードの主人公は、水城高校の野球部の選手ではなく、水城高 校の校長である山野隆夫さん。高校では野球をやり、その後高校教師と なり、ある若かりし時、水戸南高校に赴任した。
水戸南高校・・・定時制・通信制の高校らしいが、定時制・通信制にし ては珍しく、硬式の野球部があった。 ある日野球部の監督をしていた先生が転勤になってしまい、学校の中で 野球部の監督をできそうな人は、山野さんだけという状況に。山野さん は、皆から懇願され、監督を引き受けることにしたのである。 だが、、、
当時の水戸南高校の野球部は、ハッキリ言ってかなりの弱小チーム。ト スバッティングはおろか、キャッチボールもままならず、さらに、部員 たちのグローブも軟式用だったり、ボールもボロボロのものが20個ある だけという、硬式野球をやるような状況ではなかったようである。 ただ、そうした中でも、選手たちはとても必死だった。朝5時に起きて 一日立ち仕事をし、夕方から授業を受けて、夜の9時から11時まで練習 をする。そして、ヘトヘトになって帰り、また次の朝5時に起きて仕事 に行く。
そんな選手たちの姿を見ていると当然の疑問が・・・ なんであいつらは野球をやっているんだろう??? 勝ちたいからなのか?それとも、単純に野球が好きだからなのか? 前任監督の義理だけで、グランドに立つ自分が、正直辛かった。そして、 山野さんはある日選手たちに問いかけてみた。 「お前ら何で硬式なんだ?今まで野球やったことあんのか?金もかかる から軟式で良いんじゃねえのか?」 その問に対する選手たちの答えに、山野さんはとんでもないショックを 受けた。
「硬式野球は、夏の大会の前には、出場各校の部員全員の名前が新聞に 載ります。また、球場に行けば、写真入りの冊子に自分が載ります。軟 式は分からないけど、硬式は確実に載るんです。だから、僕たちは硬式 野球で頑張っているんです。」 始めは意味がわからなかった。もう少し聞いてみる。。。 「どうして新聞や冊子に名前が載るのが良いんだ?そんなに載りたいの か?」 「父ちゃんか、母ちゃんが、新聞や冊子を見て、俺の名前を見つけてく れるかもしれないと思って。」
実は、この水戸南高校の選手たちの多くは、近くの孤児施設出身の子ど もたちだったのだ。顔も知らない、記憶にも無い親に会えるかも知れな い大きなチャンスが、この夏の甲子園の県予選だったのである。 そんなことも知らず、硬式野球のレベルのことを考えたり、義理でグラ ンドに立っていた自分が情けなくなり、自分を恥じたそうである。 それからというもの、山野さんは母校関係者からボールを掻き集め、朝 練も始めた。そして、それでもはまともなユニフォームも無かったので 寄付をお願いし、背番号は墨で書いたそうだ。
この体験が、この現・水城高校校長である山野さんの原点。『野球はす べてを結集させる』という信念が生まれた瞬間だった。そしてその後も、 山野さんは荒廃し、野球部も休部状態だったような高校を、野球の力を 使って立て直したり、その信念を貫き通して、ここまでやってきたので ある。そして2010年夏、自身が校長を務める水城高校で、初の甲子園出 場を果たしたのである。 山野さんの高校野球に対する信念が、選手たちを強烈に後押しし、ノー シードのノーマークから、甲子園出場へと上り詰めていったのではない だろうか。。。
参考文献 http://kiyotoshiaraki.hatenablog.jp/entry/20100730/1280454982 https://www.google.co.jp/search?q=%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92 &hl=ja&biw=1366&bih=651&site=webhp&source=lnms&tbm=isch&sa=X&v ed=0ahUKEwi7zYO42MLKAhWk5aYKHXopBGIQ_AUICCgD