Copernican Revolution コペルニクス Copernican Revolution
歴史 ギリシャ等での古典的な知の遺産 イスラム文化に継承 ヨーロッパへ ルネッサンス:14世紀にイタリアで始まる 8~9世紀にかけて、アラビア語に翻訳 アッバース朝時代:バクダードに設立された「知の館」にて翻訳作業 イスラム文化に継承 古典的な文献、イスラムの哲学者や科学者が加えた注釈がラテン語に翻訳(イスラム支配下のスペインで行われた。) ヨーロッパへ ルネッサンス:14世紀にイタリアで始まる
コペルニクス ガリレオ 1450年頃: 活版印刷術の発明(ドイツ、グーテンベルグ) 1453: オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼす 1450年頃: 活版印刷術の発明(ドイツ、グーテンベルグ) 1453: オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼす 1488: 喜望峰発見(バーソロミューディアス) 1492: 新大陸発見(コロンブス) 1498: インド航路(バスコダガマ) コペルニクス 1517: ルターの宗教改革 1519-22: マゼラン船隊 世界一周 1534: イギリス国教会設立 1600: 東インド会社設立(イギリス)、1602:オランダが設立 1609: 望遠鏡発明、 ケプラーが天体の3法則を発見 ガリレオ 1620: 清教徒がアメリカ移住 1642: ピューリタン革命(イギリス)
コペルニクス 1473-1543 ポーランドの天文学者、司祭、知事、長官、法学者、占星術師、医者。父親は裕福な商人。10歳で父親が亡くなり、叔父(司祭)のもとへ。18歳でクラコフ大学に進み、リベラル・アーツを学ぶ。クラコフ大学にて、天動説に懐疑的見解を持つブルゼフスキ教授と出会う。 リベラルアーツ:文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽
コペルニクス 1473-1543 次に、神学(教会学)を修得すべくボローニャ大学(イタリア)に進む。ここで天文学の教授ドミニコ・ノヴァラの家に寄宿し天文学を学び、天文観測にも精を出す。ノヴァラはプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことを見出したとされ、コペルニクスの思想に影響を与えた。 さらに、 パドバ大学で医学を学び、 フェラーラ大学で法律の博士号を取得。
コペルニクス② 19-21歳 当時のクラコフ大学は、数学・哲学・天文学のカリキュラムが充実しており、そこで学んだことがコペルニクスのその後の人生を決定した。 クラコフ大学とコペルニクス像
コペルニクス④ 叔父の力により、イタリア留学の前、既に司祭となる。コペルニクスは、司祭(フロムボルグ教区)としての仕事のほか、医者としての治療活動や行政官としての仕 事を勤勉にこなす かたわら、長年に わたり趣味の天文 学の研究に取り組 んだ。 フロムボルク大聖堂
コペルニクス⑤ 1514年、コペルニクスは、「コメンタリオス」の掲載小論文で太陽中心説(地動説)の骨子を初めて公にした。この考えは、後に、主著「天体の回転について」として結実する。 Portrait from the Jan Matejko's painting
天動説の発表が及ぼす危険を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の出版を死(1543年)を迎えるまで控えていた。 コペルニクス⑥ 天動説の発表が及ぼす危険を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の出版を死(1543年)を迎えるまで控えていた。
太陽中心説とローマ教皇 1533年、ローマ教皇クレメントⅦ世と2人の枢機卿に、教皇秘書ヴィドマンシュテッタがコペルニクスの太陽中心説を進講したところ、教皇は大変喜んで高価な賜物を与えた。
太陽中心説とローマ教皇② 1536年、ニコラス大司教はローマからコペルニクス宛に手紙を書き、コペルニクス理論の完全版を出版するよう奨励した。
太陽中心説とローマ教皇③ 1543年、コペルニクスの主著「天体の回転について」が出版された。この書は、ローマ教皇パウロⅢ世に献呈された。さらに、告発を恐れたオシアンダーによる署名のない前書きが置かれ、そこには「この仮説が真実でないとしても、計算を行う上では有益である。」と書かれていた。
コペルニクスの業績 1514年「コメンタリオルス」 1528年 『貨幣鋳造の方法』 1543年 『天体の回転について』 1514年「コメンタリオルス」 太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。 1528年 『貨幣鋳造の方法』 経済学でいうグレシャムの法則を提唱した。 1543年 『天体の回転について』 コペルニクスの主著。地動説を元に、星の軌道計算を行った。
地動説 ひとたび、地球は世界の中心ではなく、太陽を巡回する小さい惑星の1つに過ぎないことがわかると、<人間の中心的意義>という夢はもはや支持され得ない。コペルニクスは、その業績と人格の偉大さを通じて、正直になることを人間に教えた。 -A.アインシュタイン-
太陽を巡回する1つの惑星 結局、私たちは太陽を宇宙の中心に置く必要がある。このことは、<両目を開いて>、文字通り事実と向き合うだけで、出来事の系統的な整列と全宇宙の調和から分かることだ。 -コペルニクス-
太陽系モデルのギリシャ的起源 古代ギリシャの自然哲学 自然をモデル化 自然に見られるパター ンを神話や超自然的な 存在を持ち出すことな く説明 古代ギリシャの太陽系モデル (~ 400 B.C.)
アリストテレス(BC384-BC322)の宇宙像 土星 恒星が張り付いた天球 火星 太陽 木星 金星 地球 水星
アリスタルコス 310BC~250BC 古代のコペルニクス 古代ギリシャの天文学者・数学者 サモス島に生まれた。 ピタゴラス教団のフィロラオスの影響を 受けて、太陽中心説を初めて唱えた。 幾何学的な方法により、 ・太陽の直径: 地球の約10倍 ・月の直径: 地球の約1/3 ・地球-太陽の距離: 地球と月の距離の約20倍 太陽は地球よりもはるかに大きいのだから、その大きな太陽が従属的な天体として地球を回っているとは考えにくい なぜ同時代人に受け入れられなかったのっだろうか?
ヒッパルコス ~150BC 古代ギリシャの天文学者、地理学者、数学者 850の星の位置と明るさ(6つの等級に分類)のカタログを作成 1年の長さを6分の精度で、1月の長さを数秒の精度で決定 地軸の歳差運動を発見
ヒッパルコス② 問題の所在 ー同心円宇宙の矛盾ー 惑星の明るさの変化を説明できない。 問題の所在 ー同心円宇宙の矛盾ー 惑星の明るさの変化を説明できない。 金星の留から留までの期間の順行時と逆行時の違 いが同心円モデルでは説明できない。 春分点→夏至→秋分点までの日数と秋分点→冬至 →春分点までの日数が異なる。 日食の変化が説明できない。
ヒッパルコス③ 解決策 -周転円宇宙の導入ー 矛盾1と2の解決 矛盾3と4の解決 解決策 -周転円宇宙の導入ー 矛盾1と2の解決 従円と周転円を導入;惑星は周 転円の上を等速円運動し、周転 円の中心は従円の上を等速円 運動する。 矛盾3と4の解決 従円として、中心位置(=地球)が円の中心からずれた離心円を採用。 ヒッパルコスの考え
プトレマイオス 100-170AD 古代ローマの天文学者、地理学者、数学者、占星学者 エジプトのアレクサンドリアで活 躍 主著「アルマゲスト」 古代ギリシアの天文学の集大成; 数学的に体系付け、実用的な計 算法を整理 以後1500年間にわたって利用 天文学の基礎 プトレマイオス
プトレマイオスの宇宙像 恒星が張り付いた天球 土星 周転円 火星 木製 従円 金星 地球 水星
プトレマイオスの太陽系モデル 系体系は離心円で、「外れた中心」に地球が位置する。(地球が宇宙の中心) 宇宙は完全な円や球で構成されていると信じられていた。 恒星は(一番外側の)球面上を運動 惑星は従円の円周を中心とする周天円の円周上を運動する。 観測された惑星や月の位置を、測定精度の範囲で、大変よく再現
太陽中心説の展開 およそ1400年の間、新しい考えが出ないまま、 古代ギリシャの天文学が受け継がれてきた。 コペルニクスの主著 『天体の回転について』,1543 動機:古代ギリシャの天文学への<哲学的な反対> 機構が複雑過ぎる。 エカントが均一な円運動を妨げる。 アリストテレス的世界観に基礎をおく。 仮説 太陽中心 地球の自転 太陽-地球間距離<<地球-恒星間距離 均一な円運動 エカント 地球 惑星はエカントに対して一定の速度で運動する
コペルニクスの宇宙 太陽中心説 惑星の相対距離を 計算
コペルニクスの墓 フロムボルク大聖堂 ※2010年にリニューアル