アジアの歴史第8回 毛沢東・蒋介石・ホーチミン: 独立への苦難の道程 中国の国共内戦と合作 アジアの独立戦争
中国国民党について 創立者:孫文 その後のリーダー:蒋介石 しょう‐かいせき【蒋介石】(Jiang Jieshi; Chiang Kai‐shek) 中国の政治家。中華民国総統。浙江の人。日本に留学、軍事を学ぶ。辛亥革命に参加。孫文によりモスクワに派遣され、黄埔軍官学校を創設、国民革命軍を養成して北伐に成功。のち反共独裁の国民党政府最高指導者として、対日抗戦を遂行。第二次大戦後、国共内戦に敗れ、台湾に退いたが、反共復国を呼号し続けた。(1887~1975) (『広辞苑』より)
中国共産党について 創立者:陳独秀 その後のリーダー:毛沢東 【毛沢東】(Mao Zedong) 中国の政治家・思想家。湖南の人。1921年中国共産党創立に参加。農民暴動を指導し、朱徳とともに紅軍を組織、31年江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府主席に就任。34年長征を敢行し根拠地を陝西省に移動、日中戦争には国共合作して抗日戦を指導。戦後は蒋介石を打倒して、49年中華人民共和国を建設、国家主席となった。59年党主席に専任したが、66年文化大革命を起して、再び全権を掌握。死後、晩年の指導の誤りを指摘される。著「新民主主義論」「連合政府論」「矛盾論」「実践論」など。詩詞をよくした。(1893~1976) (『広辞苑』より)
第一次国共合作 なぜ協力できるのか? 共同の敵:旧軍閥、帝国主義列強 国民党の中期的目標と共産党の中短期的目標と合致 第二次国共合作の時,共同の敵は「日本軍」
蒋介石によるクーデターと国共の内戦 理由:国内階級闘争の激化
中国共産党における路線の転換 マルクス主義の現地化 「農村を以て都市を包囲せよ」という逆転の発想 革命根拠地の建設
毛沢東の軍事思想と孫子の兵法 国民政府の囲剿(包囲掃討作戦) 第一次囲剿:1930.12.-31.1.動員兵力10万 第一次囲剿:1930.12.-31.1.動員兵力10万 第二次囲剿:1931.3.-5.動員兵力20万 第三次囲剿:1931.7.-9.動員兵力30万 紅軍(共産党軍)兵力:4万
毛沢東の軍事思想と孫子の兵法 毛沢東の遊撃戦戦術 「誘敵深入(深く敵を誘い込む)」 「誘敵深入(深く敵を誘い込む)」 十六文字の秘訣「敵進我退、敵駐我攪、敵疲我打、敵退我追(敵が進めば我が退き、敵が止まれば乱し、疲れれば襲い、退けば追う)」 「傷其十指不如断其一指(消耗戦より殲滅戦)」
2万5千里の長征(紅軍の大移動) ヨーロッパ流戦術の敗北と革命根拠地の放棄 長い道程の大移動 遵義会議と毛沢東指導権の獲得
抗日戦争から解放戦争へ 中国の抗日戦争(対外戦争) 「柳条湖事件」(1931.9.18.)局地戦争の開始 「柳条湖事件」(1931.9.18.)局地戦争の開始 「廬溝橋事件」(1937.7.7.)全面戦争の開始 1945.9.3.日本軍の降伏 解放戦争(国共が再び内戦)
毛沢東を勝利に導いた理由 「人民の子弟兵」というかつてない軍隊 「三大規律と六項注意」 農民の動員と「民心」の獲得 「三大規律と六項注意」 農民の動員と「民心」の獲得 「土豪を打倒し、土地を分配する」
蒋介石政権が敗北した理由 政治の腐敗 国民に対する特務政治(「莫談国事」という張り紙) アメリカに対する依存と利権譲渡 極端状況になったインフレ 結論:「水可以載舟、亦可以覆舟」