前穂高北尾根滑落事故について U原 本田
概要 2001年7月20日19時 前穂高北尾根から涸沢側に下降中、 本田滑落、骨折。 U原単独で救援要請のため涸沢へ。 前穂高北尾根から涸沢側に下降中、 本田滑落、骨折。 U原単独で救援要請のため涸沢へ。 本田、滑落現場にて一晩ビバーク。 翌朝5時ヘリが現場到着。 救出後、涸沢ヘリポートを経て 豊科赤十字病院へ搬送。 新聞記事
時系列経過 その1 7/20 16:30 前穂高北尾根から涸沢へ下山開始。 18:45 崖からバランスを崩し、雪渓と岩の間に4~5m滑落。 時系列経過 その1 7/20 16:30 前穂高北尾根から涸沢へ下山開始。 18:45 崖からバランスを崩し、雪渓と岩の間に4~5m滑落。 右足膝の骨が見えていた為、行動できないと判断。 その場にてビバーク。 U原、涸沢に救助を要請するため下山開始。 20:00 涸沢の遭難対策協議会(以下、遭対協)に救助を依頼。 22:00 現場より500m下の辺りより、声により本田の場所と無事を確認。 翌朝一番に救助に向かう旨を伝える。
時系列経過 その2 7/21 5:20 民間ヘリが涸沢に到着。 現場付近は切り立った岩場のため、救助難航 時系列経過 その2 7/21 5:20 民間ヘリが涸沢に到着。 現場付近は切り立った岩場のため、救助難航 6:00 現場よりヘリに吊るされて救出。 (滑落より11時間経過) 6:05 涸沢から梅原と共にヘリにて下山 6:30 豊科の緊急ヘリポートに到着 6:45 本田、豊科日赤病院に収容 U原、豊科警察署にて事情聴取
事前登山計画 2001年7月20日 6時・・・夜行バスにて上高地着、出発。 8時・・・徳沢着。 2001年7月20日 6時・・・夜行バスにて上高地着、出発。 8時・・・徳沢着。 12時・・・中畠新道から奥又白沢をトラバースし、 前穂高北尾根5・6のコルへ。 15時・・・前穂高山頂へ。 17時・・・吊尾根から奥穂高山頂を経て穂高岳山荘へ。 2001年7月21日 穂高岳山荘より奥穂高、西穂高へと縦走し、 西穂高ロープウェーにて下山。
事前登山計画
過去の戦績 U原氏との戦績 2000年12月16日 富士山(御殿場口0合目より) ・・・強風と落石により8合目にて撤退。 2000年12月16日 富士山(御殿場口0合目より) ・・・強風と落石により8合目にて撤退。 2001年3月20日~23日 槍ヶ岳(新穂高~槍平~中崎尾根) ・・・ロープの補助なしに槍の穂先(一部氷壁)を往復。 2001年5月4日~5日 白馬岳主稜 ・・・白馬尻B.C.より白馬岳頂上まで5時間半で制覇。 2001年7月20日~ 前穂高北尾根
過去の戦績 富士山 槍ヶ岳
過去の戦績 白馬岳
事故発生の要因検証 前穂高北尾根自体の通過は、取付時間帯さえ予定通 りであれば、過去の戦績からも実力的には問題なかっ たと言える。 前穂高北尾根自体の通過は、取付時間帯さえ予定通 りであれば、過去の戦績からも実力的には問題なかっ たと言える。 しかし、実際には時間切れで北尾根に取付けず、翌 日アタックを期し、涸沢側に下山となった。 要因 道具の不備(アイゼン・ピッケル・ロープ) ルートミス 無理な行程
要因:アイゼン・ピッケルの不備 予想以上に残っていた雪渓 奥又白沢の通過に時間消費。 4・5の沢も雪渓が急なため、ダイレクトに詰めることできず。
要因:ロープの不備 ロープは45m1本のみ 1度あたりの懸垂下降の距離が稼げず。 U原雪渓滑降時に損傷、以降懸垂下降不能となり進退窮まる。 生前最期の写真
要因:ルートミス 詰める沢を間違え、4・5のコルへ。 奥又白沢側の登り、涸沢側の下りともに、アイゼン・ピッケルなしでは極めて困難であった。 通常詰めるべき5・6の沢に比 べて斜度が大。 浮き石が多く、一歩ごとに落石 が発生する悪路。
今後の課題 反省点 残雪状況の情報収集。 ロープは2本以上、その他登攀道具も予備を多めに。 ルートファインディングを慎重に。 今後 10月ぐらいから六甲山あたりの低山でボチボチ山歩き を再開の予定。
U原からの手紙 その1 前穂高北尾根滑落事故報告会の参加の皆様へ 今回、当事者でありながら報告会に参加することができず、誠に申し訳なく思います。私のほうからも、パートナーとして皆さんにお伝えしたいことがあり、書面で失礼かと思いますが、報告させていただきます。 事故の詳しい内容は本田さんから説明があったと思いますので、私のほうからは本田さん自身の事故当時の置かれた状況について説明したいと思います。 滑落直後の本田さんは、膝がパッカリと割れて骨が見えているにも関わらず、立ち上がって歩いて下山するつもりでいました。しかし、どうみても立ち上がれる状態ではなかったので、私が下山し助けを呼びに行く事にしました。その時すでに、気温が低下し始め、本田さんは寒さと痛み(?)で震えていました。私が下山する時の、本田さんの寂しそうな顔は今でも覚えています。助けを呼んだら戻ってくると約束をして、私は下山しました。(約束は果たせなかったのですが・・・) そこから、本田さんは救助がくるまで、一人で一晩を過ごしています。高度2500mの雪渓と岩の隙間で、夜間の気温は10℃以下まで低下し、膝の骨は露出し血液と体液が流れるなか、一人で過ごした時の本田さんの気持ちはどのようなものかを考えると、胸が詰まる思いがします。それにも関わらず、ヘリで吊るされて降りて来たときの本田さんは何故か笑顔でした。その笑顔に私は救われました。
U原からの手紙 その2 私が皆さんに報告したいのは、この本田さんの強靭な精神力です。このような体験をしても、本田さんはまだ山に登り続けるつもりです。事故直後、私は山を辞めようかなと思いましたが、本田さんが入院している病室で山の本を読む姿を見て、やはり山登りは続けよう、これからも本田さんと山の頂きを目指して行くぞ、と心に誓いました。 以上、長々と書きましたが、最後にご迷惑を掛けた皆さんに一言感謝の言葉を書かせてください。 ○○さんへ 女の子と飲んでいる最中にも関わらず、本田さんの実家の連絡先を調べてくれて ありがとう。 ××さんへ 彼女と別れた直後にも関わらず、長野まで迎えに来てくれてありがとう。 心配をお掛けした皆さんへ 馬鹿な二人を心配してくれてありがとう。 U原
費用(参考) うち50万円をU原氏負担。