群馬医療福祉大学看護学部2年 氏名 ○○千雅 提出日 7月12日 ヘレンケラー 群馬医療福祉大学看護学部2年 氏名 ○○千雅 提出日 7月12日
ヘレンケラーのついて 1880年〜1964年 87歳で死亡 著述家、社会福祉実業家 19歳でハーバード大学ラドクリフ・カレッジに合格。 1880年〜1964年 87歳で死亡 著述家、社会福祉実業家 19歳でハーバード大学ラドクリフ・カレッジに合格。 三重の障害をもって大学教育を終了した 世界最初の人となった。
誕生 ヘレンケラーは、1880年6月27日、米国南部アラバマ州の北にあるタス カンビアという町で生まれた。 1歳で急性鬱血にかかり、視力と聴力を失う。
サリバン先生との出会い 1887年3月3日ヘレンケラーが7歳の時、アン・マンスフィ―ド・サリバン 先生と出会う。 ヘレンケラーは、サリバン先生に物には名前があることを教えられ、たくさ んの単語を覚えていった。 単語の覚え方は、サリバン先生がヘレンの手に単語のつづりを書きヘレ ンがまねをするというものだ。これは、耳の聞こえない人が使う指文字で ある。指文字を使い会話することを指話と呼ぶ。
ボストンへの訪問 ヘレンケラーが8歳の時、サリバン先生と母に連れられ、1888年5月ボス トンにあるパーキンス盲学校に行き、そこで自分と同じ目の見えない子ど もたちと仲良くなる。会話は、サリバン先生から教わった指文字を使い行 われた。 パーキンス盲学校以外にもヘレンは、アメリカ独立戦争の古戦場バン カービルにも訪れている。
話し方を学ぶ 1890年ヘレンケラーは10歳でホレスマン聾学校のサラ・フラー校長に 話し方を学ぶ。話し方の訓練は、ヘレンの片手を軽くフラー校長の顔に 当てる。フラー校長の発声の時の舌と唇の位置をヘレンの手で確認させ るというものだ。ヘレンケラーは一時間後には、M,A,P,S,T,Iの6つの発音 が出来る様になった。この後もヘレンは、サリバン先生の力を借りて話し 方を学んでいく。
シカゴの万国博覧会 1893年の夏にヘレンケラーは、アレクサンダー・グラハム・ベル博士とサ リバン先生ともにシカゴの万国博覧会へ行った。 そこで、ヘレンは、三週間滞在し世界中の発明品、工業品や職人芸を指 先で感じることで精神的にも大きく成長した。
ラドクリフ・カレッジへ 1900年の秋にヘレンケラーはラドクリフ・カレッジに入学を果たした。大 学1年目でヘレンは、フランス語、ドイツ語、歴史、英作文などを学んだ。 ヘレンがテストで愛用したのは、「ハモンドのタイプライター」だ。 大学の2年目には、作文、英文学としての聖書、ラテン語の喜劇などを学 んだ。 この様にしてヘレンは、大学で様々なことを学んでいく。
大学卒業後 ヘレンは、1904年ラドクリフ大学を優秀な成績で卒業する。その後は、障 害者救済に尽力をつくし、講演や執筆を行う。1964年9月14日には、ア メリカ大統領から「自由勲章」を授与される。
日本来日 ヘレンケラーは、世界各地を講演旅行している。日本には1937年,194 8年,1955年の3回にわたって来日した。来日中に日本の着物を着て正 座をするヘレンの写真も残っている。ヘレンは話すことはできても、不明 瞭で、近くにいる人にしか聞き取れない小声だったらしい。 講演の際は、ヘレンの隣に人が立ち彼女の話を大声で 伝えていたという。
死亡 1968年6月1日、ヘレンケラーは、87歳でこの世を去った。亡骸は首都ワ シントンのワシントン大聖堂の地下に安置されており、点字が刻印された プレートがあり、ヘレンが永眠していることを示している。
参考文献 http://www.thka.jp/helen/life.html 社会福祉法人 東京ヘレンケラー協会 ヘレンケラーの生涯 http://www.thka.jp/helen/life.html 社会福祉法人 東京ヘレンケラー協会 ヘレンケラーの生涯 閲覧日 7月3日 奇跡の人 ヘレンケラー自伝 著者 ヘレンケラー 訳 小倉慶郎 平成25年4月5日 六刷 発行所 株式会社新潮社
引用文献 http://www.thka.jp/helen/life.html 社会福祉法人 東京ヘレンケラー協会 ヘレンケラーの生涯 http://www.thka.jp/helen/life.html 社会福祉法人 東京ヘレンケラー協会 ヘレンケラーの生涯 閲覧日 7月5日、7月12日 引用画像 サリバン先生の指文字をたどる7歳のヘレンから フォト・ギャラリー "Miss Helen Keller in Japan (1955)" Photo 1