拙稿:「1942年ドイツ軍需経済の課題とシュペーア―ナチス原爆開発挫折の要因分析のためにー」(2013年1月31日投稿)

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拙稿:「1942年ドイツ軍需経済の課題とシュペーア―ナチス原爆開発挫折の要因分析のためにー」(2013年1月31日投稿) ホロコーストと原爆開発問題 拙稿:「1942年ドイツ軍需経済の課題とシュペーア―ナチス原爆開発挫折の要因分析のためにー」(2013年1月31日投稿)

はじめに 米英の原爆開発・・・ナチス原爆開発の脅威への対応 核分裂・その連鎖反応・・・・革命的な原子力利用の可能性(エネルギー源として、爆弾として)

どこで、誰が、いつ? その発見(HP参照)は、 ナチス・ドイツ支配下のベルリンで、 オットー・ハーン、シュトラスマン、そして、リーゼ・マイトナー(オーストリア・ユダヤ人で、発見当時、スウェーデンに亡命中…手紙のやり取り)により、 1938年12月、クリスマス

1938年12月とは 「ライヒスクリスタルナハト(Reichskristallnacht) 」(帝国水晶の夜)・・・1938年11月9./10.・・・・大々的なポグロム その発生直後

「帝国水晶の夜」 パリのドイツ人外交官をポーランド系ユダヤ人の若者が射殺 ゲッベルスの扇動的報復演説・・・結果、  ドイツ全土でユダヤ教の教会(シナゴーグ)、焼き討ち、  6000のユダヤ人商店破壊、  公式に91人の死者。  約26000人のユダヤ人を強制収容所に。

1939年1月 核分裂発見の大ニュース 世界の物理学者に。

1939年1月とは? 1月30日ヒトラー政権掌握の記念日・・ヒトラーの国会演説(ラジオ放送・録音) チェコスロバキアの一部だったズデーテン地域の割譲・ドイツへの併合を誇ると同時に、 「ユダヤ人が再び世界戦争を挑発すれば、今度は、ボルシェヴィズムの勝利、すなわちユダヤ人の勝利、ではなくて、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だ」と。

再び世界戦争を・・・の含意は? 第一次世界大戦の結果は、  1917年11月(ロシア歴10月)・・・ロシアにおける社会主義革命(ボルシェヴィキ革命) ナチス正式な党の名称・・・国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei) 自分の党の名称にも含まれている社会主義ではなく、ボルシェヴィキ革命、と。

反革命・反ユダヤ主義 ボルシェヴィズム=マルクス主義=ユダヤ人の思想・主義・・・反ボルシェヴィズム=反ユダヤ主義の結合 ドイツにおいても、1918年11月、「水兵の反乱」から、社会民主党・社会主義政党による革命 ヒトラーをはじめとする右翼勢力は、マルクス主義勢力が革命を起こしたから、戦争に負けた、と主張(「背後の匕首」)

反ソ連・反ボルシェヴィズム 世界中の右翼勢力は、反ソ・反ボルシェヴィズム、反マルクス主義・反共産主義という点で共通項・・・「日独伊防共協定」 大英帝国、フランスなどの同じ主義・思想の人々への訴えかけ(世界の反ソ勢力の理解と協力を期待) ヒトラーは、世界中の右翼勢力の戦闘的闘士として、また、ドイツが領土を拡大する地域(東方大帝国建設)として、ソ連・ボルシェヴィズムを圧殺するとの基本的思想(一貫した戦略:『わが闘争』、『第二の書』…邦訳あり)。

『わが闘争』の一節(1) 「社会民主党の指導者としてのユダヤ人」 「文化破壊者としてのマルクシズム」 ヒトラーの思想構造(詳しくは、HP参照)

『わが闘争』の一節(2) ドイツは「新しい土地」を獲得しなければならない(領土拡大政策)。 そのためには、イギリスと親しくし、ロシアとその周辺地域に領土を拡大しなければならない。 すなわち、親英反露でなければならない。 「経済的平和的征服」は、誤った政策だ。 世界大戦は、「ドイツの自由の闘争だ」

ヒトラー『第二の書』の一節 「われわれの民族全体の隆盛」、 「われわれの民族の再隆盛」、 「ドイツ再生の希望」、 「祖国とドイツ民族」、 『第二の書』 第11章 ドイツの領土政策―東方における生存権確保

ちょっと横道(1) ソ連は包囲網のなかで誰と協力? ヴェルサイユ体制下で同じく不利な条件下に置かれ抑圧されたドイツ、あるいはトルコと。 ドイツとはラッパロ条約(秘密軍事協力) トルコとソ連の協力関係の具体例(HP参照)

ちょっと横道(2) 国会放火=炎上事件・・・1933年1月28日 3月5日の国会選挙の一週間前。 選挙戦の真っ最中。   3月5日の国会選挙の一週間前。   選挙戦の真っ最中。 炎上直後、その夜のうちに「犯人逮捕」 誰が?   (HP参照)

ヴァン・デル・リュッベ Lubbe, Marinus van der 13.1.1909 Leiden – 処刑10.1.1934 Leipzig (hingerichtet). Niederl. Maurergeselle. Nach Bauunfall Arbeitsunfähigkeit. Wanderungen durch Europa. Anschluß an Rade-(Räte)Kommunisten. Im Feb. 1933 nach Berlin. Beschluß, als Fanal linken Widerstands gegen den Nat. soz den Reichstag anzuzünden. 単独犯Alleintäter (gegenteilige Behauptung der Nat.soz.). 死刑判決23.12.1933 Todesurteil. [Teil III: Personenverzeichnis: Enzyklopädie des Nationalsozialismus, S. 3105f (vgl. EdNS, S. 860) (c) Verlag Klett-Cotta]

戦争への危機の段階的昂進 「これ以上の領土要求なし」とのミュンヘン協定(1938年8月)の約束を破棄。 1939年3月には、チェコスロヴァキア解体、ドイツ軍のプラハ進駐 チェコ部分をボヘミア・モラヴィア保護領とする。 スロヴァキアの保護国化

シラード・アインシュタインの進言 1939年8月、ローズヴェルト大統領宛て。 ドイツの科学力とナチスの対外膨張・戦争政策の結合への危機意識 シラード、アインシュタインは、ドイツの物理学者・化学者の能力・水準(当時の世界最高水準)をよく知っていた。

科学者と戦争 第一次大戦にユダヤ系のドイツ人も含めて、ほとんどの科学者が「祖国ドイツのために」戦争協力(有名なのがフリッツ・ハーバー・・・HP参照) オットー・ハーンの第一次大戦期については、拙稿参照。 アインシュタインは例外的に非協力。平和主義。それを公言。 ・・・アインシュタインに対するナチス、極右の憎悪、脅迫。

世界のドイツ自然科学を見る目 配布の拙稿1ページ、注2 41年春のイギリスの報告書 「開発は二年以内で可能」と。 この時点は、対ソ攻撃開始前。 ドイツの対英攻撃力が絶頂期。電撃戦圧勝段階。 原爆開発の有望な見通しがイギリス側によって示され、「ドイツがイギリスの後塵を拝しているとはだれも考えなかった」

第三帝国の自然科学の実情は? 政権掌握後、吹き荒れたユダヤ人科学者排除・・・・「ユダヤ物理学」の否定・排除 マックス・プランク、ヴェルナー・ハイゼンベルクなど世界的に有名な科学者は、そうした状況に批判的(抗議表明の動き)。 プランクのハーバー擁護・・・ヒトラーに直訴…ヒトラーの激怒。 「ドイツ物理学」の優位・支配

ハイゼンベルクの危機 親衛隊機関紙などに、「白いユダヤ人」として、ハイゼンベルクがやり玉に。 ドイツにおいては、33年春から41年までは、物理学の「冬の時代」

ハイゼンベルク、危機脱出 親衛隊帝国指導者Reichsführer SS(親衛隊最高指導者)ヒムラーとの関係 ヒムラーの母とハイゼンベルクの母が知己 ハイゼンベルクの政治・思想の調査           ・・・・「問題なし」(拙稿、参照) Reichライヒ・・・・帝国、全国等の訳あり。 Das Dritte Reich 第三帝国

ゾンマーフェルトの思想 アインシュタインへの手紙(拙稿、参照) ナチズムの人種主義・反ユダヤ主義への批判意識 他方、ナチズムが大衆の支持を得たことの背景への問題指摘(ヴェルサイユ体制)

マックス・プランクの政治的立場 保守的 ナチスに対する距離 息子は、のちに、クーデター計画(ヒトラー暗殺事件、1944年7月20日)に連座して、処刑された。

開戦 1939年5月、ポーランド攻撃準備命令 1939年8月独ソ不可侵条約(ポーランド分割秘密協定) 1939年9月1日電撃的ポーランド侵攻           英仏の宣戦布告(9月3日) 一か月で征服

ポーランド攻撃開始・科学者の動員 ハイゼンベルクなども、所属大学やカイザー・ヴィルヘルム協会物理学研究所で、戦時動員体制に組み込まれる。 諸研究所は、陸軍兵器局の管轄下に。

1939年末のハイゼンベルク報告 ドイツ博物館・文書館の 原爆関連「秘密文書」Geheimdokumenteにおける    ハイゼンベルク報告書(公開) 拙稿(配布資料)で紹介。

原爆開発・秘密文書Geheimdokumente ドイツ博物館の原爆・原子力開発文書・・・・アメリカが押収した文書 Alsos委員会が戦争末期に。

ナチス・ドイツ旗の原子力開発 中心機関(場所)Dokumente zu den Forschungszentren Wien, Heidelberg, Straßburg Leipzig Berlin Hamburg Gottow

ウィーン、ハイデルベルク、シュトラスブルク Carl Friedrich von Weizsäcker: Eine Möglichkeit der Energiegewinnung aus Uran 238, 17.07.1940

ライプツィヒ ハイゼンベルク、1939年12月6日、報告書 Werner Heisenberg: Die Möglichkeit der technischen Energiegewinnung aus der Uranspaltung, 06.12.1939

ベルリン ライプツィヒではウランが少なすぎるため、陸軍兵器局は、主として、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の利用可能な在庫を利用。 8個の大規模実験。    その最後の実験は、疎開先のハイガーロッホで。 Forschungszentrum Berlin Während in Leipzig nur geringe Mengen an Uran verfügbar waren, konzentrierte das Heereswaffenamt den Großteil der verfügbaren Bestände auf das Kaiser-Wilhelm-Institut für Physik in Berlin. Wichtigster Lieferant wurde die Auer-Gesellschaft in Berlin unter seinem wissenschaftlichen Leiter Nikolaus Riehl. Insgesamt wurden in Berlin acht Großversuche durchgeführt, der letzte bereits im Ausweichlager im Atomkeller von Haigerloch. Den Hauptteil der Arbeiten organisierte Karl Wirtz.

ハンブルク Überblick über den Stand der Arbeiten am Institut für Physikalische Chemie, Hamburg, 1940 Aufbau eines Trockeneis-Versuchs Paul Harteck: Die Produktion von schwerem Wasser, 1941 Aktennotiz über eine Besprechung zur Anreicherung von schwerem Wasser, 30.10.1941 Wilhelm Groth / Paul Harteck: Stand der Arbeiten zur Trennung der Isotope U235 und U238, 05.06.1940 Stand der Arbeiten zur Trennung der Isotope des Präparats 38, 03.12.1941

ゴットフ 陸軍兵器局のクルト・ディープナー 5人の若手研究者を集めて、実験。 中性子放出量を中性子吸収量よりも増やす実験 ハイゼンベルク提案の方式より、効率的

重要原料の不足 ウラン、重水など。 それを打開するためのさまざまの工夫

原子力開発の到達点は(戦後評価) Beurteilung des deutschen Atomprojekts Die deutsche Atomforschung erfuhr nach dem Krieg kontroverse Einschätzungen. Behauptet wurde u.a. die Unfähigkeit der deutschen Forscher, eine Uranmaschine oder eine Atombombe zu bauen. Andere Interpretationen zielen auf eine bewusste Verzögerung der Kernforschungen durch die Wissenschaftler, die Hitler nicht in den Besitz einer kriegsentscheidenden Waffe bringen wollten. Im Folgenden werden deutsche wie ausländische Urteile gegenübergestellt. Dokumente Statusbericht Walther Gerlachs zum Stand der Atomforschung in Deutschland, Januar 1945 (17 Dokumente) 1943年末の到達点・・・軍事的利用への言及なし、資源不足を訴える。 Memorandum deutscher Atomwissenschaftler zum Uranverein, 07.08.1945 (2 Dokumente) 広島原爆投下を知った後のハイゼンベルクなど10名の声明・・・拙稿で紹介。 Bericht von Lothar Wolfgang Nordheim und Alvin Martin Weinberg zum deutschen Atomforschungsprogramm, 08.11.1945 (3 Dokumente) マンハッタン計画に参加した二人のアメリカ人の評価・・・ポジティヴ、問題はプルトニウム不足 Jesse B. Beams: Report on the Use of the Centrifuge Method for the Concentration of U235 by the Germans (2 Dokumente)  ドイツの核開発重要施設の空襲、その結果としての開発の遅れ。

決定的転換点・1942年とは? 一方におけるシュペーアの登場 軍需生産の「奇跡」(配布資料の統計表、参照)  軍需生産の「奇跡」(配布資料の統計表、参照) 他方におけるヒムラー指揮下のホロコーストの全面展開 アメリカにおけるマンハッタン計画の始動

前提としての独ソ戦の情勢 1941年8月以降のソ連軍の抵抗反撃・ ドイツ軍の被害増大  ドイツ軍の被害増大 ドイツ軍後方地域におけるユダヤ人殺害の過激化(老若男女を問わず射殺) 1941年12月、「冬の危機」

総督府ポーランドの危機的状況 総督フランクの41年12月の閣議発言 41年12月16日 ポーランド総督フランク(統治困難・内部対立→生贄を外部に求める・その点で統合・協力)・・・総督府閣議で、総督府のユダヤ人の粛清Liquidierungを表明。その方法は、近いうちにベルリンで予定の会議で、と(閣議議事録、その会議とは、ヴァンゼー会議:42年1月20日)。

ドイツ支配下・占領下のヨーロッパ 抵抗、物資不足 民衆統合のために、「ガス抜き」の必要性 「ユダヤ人を東方へ」 (しかし、「東方」にその余地は?どこに?・・・・・ソ連での敗退により、移送・疎開の可能性なし)

ヒトラーの国会演説 41年12月11日、対米宣戦布告

ヒトラー・ヒムラー会談 41年12月18日 ヒムラーのヒトラーとの 会談メモ「ユダヤ人、パルチザンとして根絶」 41年12月18日 ヒムラーのヒトラーとの 会談メモ「ユダヤ人、パルチザンとして根絶」 (ヒムラー業務日誌・・・ソ連崩壊後、モスクワの文書館で発見された日誌)

根本的な政策の飛躍 ヒムラー(ドイツ警察長官・親衛隊帝国指導者)、その直属の部下ハイドリヒの対策 ・・・・42年1月20日 ヴァンゼー会議   ・・・・42年1月20日 ヴァンゼー会議 議題:「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決」 ・四カ年計画では、ドイツ占領地域からの人的・物的資源の強硬的調達政策

短期的にソ連撃破・征服 配布拙稿2ページ 「米国が本格的に介入する前に欧州戦争の決定的局面が終結することをあてに」 それだけに、ソ連攻撃に全力投入 東部戦線のドイツ軍にとっての阻害要因の除去

学界も抜本的提言 物理学会・・・・「原子力開発・原爆開発」についての国家最高指導者向け講演会 アメリカの科学力・経済力・軍事力を前にした総力戦における科学振興の提言 電撃戦勝利の段階では、このような抜本的提言はなかった。(ヨーロッパでドイツより優れた科学力なし、との意識)

学界(物理学界)の危機意識 ハイゼンベルク復権の要請

フリッツ・トット軍需大臣の事故死 シュペーアの任命・・・急きょ、事故死直後の42年2月に。

42年春から6月 シュペーアと軍の情報交換 6月4日 ハルナックハウスでのハイゼンベルク講演(シュペーア他、軍、軍需経済の国家指導部の出席)

1.シュペーア『回想録』 配布原稿、6ページ 42年4月末、陸軍大将フロムとの会談 「われわれが完全に新しい威力を持った兵器を開発した場合にのみ勝つ見込みがある」。 都市全体を破壊し、おそらくイギリスの戦闘力を壊滅させるような兵器を探究している科学者グループと接触・・・・会談を提案。

6月4日ハルナックハウス ハイゼンベルク 拙稿7ページ・・・「原子破壊とウランマシーンとサイクロトロンの開発について」講演。 「教育科学省は核研究を怠っている」、 「資金と資材、不足」、 「科学助手が兵役にとられ、ドイツは、2,3年前まで支配的であった分野でもすっかり追い抜かれてしまった」

ハイゼンベルクのアメリカ認識 「専門雑誌の概要を見ると、核研究に技術的手段と資金が豊富に提供されている」 「アメリカはおそらくすでに現時点でも核分裂の革命的可能性に関して優位に立っている」 「アメリカは数年後には原爆開発・・・・」 「数年後」??

ドイツでは? 拙稿7ページ 爆弾の製造には「理論的には」何の障害もない 生産技術的な前提条件を作り出すには、今後必要なあらゆる援助が提供されるとしても、「早くても2年はかかる」と。 サイクロトロンの欠如、サイクロトロンの性能

ハイゼンベルクの予算要求 シュペーアが驚くほどわずか(拙稿8ページ)。 ハイゼンベルクは、理論的な実験段階、との認識。 シュペーアは、「原子爆弾は今後予想される戦争の展開にとって重要性を持たないとの印象を持った」

シュペーアのヒトラーへの報告 42年6月23日、 ヒトラーが、「空想的な計画を無意味な要求で駆り立てる性向を持っていることを考慮して」、「簡単に報告するにとどめた」。

シュペーアとヒトラーの軍需問題会談 拙稿8ページ 2千数百種類にも上る軍需問題の会談テーマのうち、 「たった一回だけ」、「それもごく簡単に」、核分裂が話題に上ったに過ぎない。

42年秋、再度、「質問」 拙稿9ページ 原爆開発の期限について、「改めて」質問。 「3年から4年よりも前には考えられない」と。 断念・・・・なぜなら、3-4年もすれば戦争はとっくに終わっているはずと。

シュペーア、原爆開発挫折理由 「数十億の資金」が原爆製造のために支出されたとしても、この金額に相応する資材・配給・専門労働者を動員することは、 「当時の緊迫した戦争経済の状況では不可能だったであろう」と。

2.1942年前半のドイツ軍需生産 課題は何か―シュペーア軍需省文書の検討― 拙稿10ページ 総力戦のための軍需(対ソ戦・東部戦線)への資源集中 41年まではまだ続けていたベルリン改造計画の中止・・・技術者も含めた全労働者を「東部に提供する」

アウトバーン建設の中止 11ページ そこで浮いた全労働者と技術者を 「東部の鉄道建設」に提供。 土木建築関係     「東部の鉄道建設」に提供。 土木建築関係   「東部およびノルウェーへの配置」

3.軍需生産拡大の重点    ―シュペーア軍需省とヒトラーの会議録― 「シュペーアの奇跡」 配布資料の統計、参照。

「奇跡」実現のためにの条件は? 例示:アウシュヴィッツ指令長官ルドルフ・ヘース(Rudorf Höss) Höss, Kommandant in Auschwitzヘス(ヘース)『アウシュヴィッツ収容所』 副総統で1940年5月にイギリスへ「和平工作」のために飛んだ「ルドルフ・ヘスHeß」とは別人物