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5月31日(金)4限 第6回「教育の道徳的側面~隠れたカリキュラム~」
道徳教育(他学部) 5月31日(金)4限 第6回「教育の道徳的側面~隠れたカリキュラム~」
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前回の感想より① カマラとアマラが人間の子どもとして生まれてきた以上、人間として人間社会で人間の感じる幸せを享受しながら生きていくことのできる権利をもっているのは忘れてはいけないと思います。義務ではない以上、彼女たちはその権利を行使することも放棄することもできたと思うけれど、シング牧師は選ぶ権利を奪ってしまいました。だけど私は彼の子とも非難できないように思います。彼は自分の暮らす世界が正しいと思ってしまったけれど、普通の人が自分の住む世界を疑うことはほとんど無理だと思うからです。(文学部) まず最初にアマラとカマラの幸せを彼ら以外の者が決めるのはナンセンスであり、それについて私たちは断定できないと思う。ここからは完全に個人的な想像として彼らの幸不幸を扱いたい。彼らは人間の姿をした狼だったのか、狼のような人間だったのだろうか。どちらの立場を取るかで考え方は大分異なってくる。前者の立場を取る人は。狼のコミュニティにおける生活を壊され、愛するものと引き離されたから彼らは不幸であり、シング牧師は非道徳的だったと語るだろう。一方、後者の立場を取る人は本来人間として生きることができたものがそのように生きられなかった(人間として生きることで得られる善いものを得られなかった)のは不幸であり、そこから救い出そうとしたシング牧師は道徳的だったと考えるだろう。カマラが完全に人間本来の取り戻したわけではないということがこの問題を難しくしているように思えた。(文学部)
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前回の感想より② アマラとカマラは最終的には幸せだったのではないかと思う。始めは狼の価値観だから決して幸せではなかったと思うけど、死んでしまう前は人間としての価値観に近づいていただろうし、その状況が苦痛であったなら逃げ出していると思う。人間としての生活に慣れて、逃げ出さなかったということはその状況の方がよかったということだと思う。話が大分脱線して「道徳的って何?」という話になったが、要するに道徳的は結果として自分の利益になるかどうかという考えを聞いた。一見、どうなの?と思うし、私自身好きな考えではないけれど、一本筋の通った考えでとても参考になった。(理学部) 話し合いの中でシング牧師の行動全般の根底にある「他の動物(自然)よりも人間の方が勝っている」という考え方は近代化の進んだ西欧で広く会ったものであり、宗教のみでなく。時代背景も考慮に入れるべきではという意見を聞いて、なるほどなと思いました。しかし、それを考慮してもアマラ、カマラの視点から見ると、シング牧師は親・兄弟の敵であり、故郷から自分たちを引き離した誘拐犯であるということは事実であるから、道徳を考える上で見逃してはならないことだと思います。どうしても行動と結果だけを見ると大変一方的にとれてしまうのです。(文学部)
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前回の感想より③ 子どもの道徳を考える上でやはり重要なのは人間としての考え方、人間という種族の特殊性を認識して行動することだと思う。狼に育てられたからといって人間を狼と同一視し、狼としてそのまま育つのを放置していると、確かに「狼としての幸せ」を得られるかもしれないが、人間を保護する、しないというのは当人の幸せだけで判断できるものではない。脳に障害を負った子どもをどう扱うかということにもかかわるし、人間社会に適合しない者は人間ではないということになってしまったら様々な弊害も起きるだろう。(科目履修生) カマラとアマラへの「人間らしい」生活を取り戻す教育を数学教育に置き換えると、アマラの夫人への好意のようなものは、時々数学で感じる達成感かもしれない。それが好きでより勉強する可能性もカマラにはあったと思う。(園芸学部) 人間的な文化を押し付けるということと、人間扱いすることを切り離して考えるならば、少なくとも人間扱いすることは善かったと思います。カマラの立場を考えれば狼のままでいたいゆえに狼扱いの方がよいという考えもあるともいますが、母親狼が殺されているように、そもそも狼扱いでは生かすことができません。捉えられた後に死刑が待っているか、更生プログラムが待っているか、そんな違いだと思います。(理学部 生物)
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前回の感想より④ 人が人に教育するとき、教える側は一方的に自身の教えたいこと、人間はこうあるべきだという価値観を押し付けているように思える。しかし、そういった教えられた価値観などを基準のものさしとして他のことを人は良いこと、悪いことと考えることができる。人間は基準がなければ目の前の事象は浮遊したものでしかなく、取り入れることも捨てることもできない。そういったものさしとしての基準を押し付ける形でも人間に植え付けることは必要ではないかと思う。そういう意味では教育は避けられないことだと思う。しかし、牧師の行動が善か悪や言われると、必要であったことだと思うので、善悪では言えないように思う。(園芸学部) 人間には差別をせずに教育をするということは道徳的に善いことだとは思いますが、このような状況では必ずしもそうは言いきれないと思います。なぜなら教育とは 人間として生きていくにはこうあるべきということを教えることだからです。教育をしてほしいかどうか答えることすらできない彼女たちに牧師の教えを押し付けるのはどうかと思います。また、最後に「研究」という言葉がありましたが、彼女たちをただ研究対象として見ていたのだったらかわいそうだと思いました。(園芸学部)
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前回の感想より⑤ 私は動物に幸せという感情があるのかということにとても興味があります。犬は悲しい、うれしいとしっぽなどで表現します。そのことから見ると、犬は感情があるのではないかと考えられます。しかし、人間の言葉を知らない犬に幸せという感情があるのか定かではありません。人間としての教育を受けたアマラとカマラは様々なことを経験し、人間の考える幸せという感情を分かるようになり、幸せを感じたのではないかと思います。(園芸学部 応用生命化学科) おそらくは「幸せ」を感じる、「悲しみ」を感じること自体が「教育」の内にあったと思うので、最終的には「幸せ」を感じる(感じさせる?)というところに至っていたとは思う。ふろしきを広げて考えればアマラとカマラのケースというのは虐待されている子どもを親元から離すのは必ずしも善なのか、未開の土地に侵略して文明的生活をさせるのは善なのかということにも地続きな問題であると思う。教育というものを一つの社会の中で適応できる術を身につけさせるものであると考えるならば、アマラとカマラの世界が別の社会に飲み込まれてしまった時点で、教育することは道徳的に正しい行為であったと考えるしかないと思う。(文学部)
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前回の感想より⑥ カマラが多少人間的になったことはシング牧師によって強制的に人間らしくなることを選択させられたからであり、いつまでも狼の家族を失くした悲しみに浸ったままでは生きてゆけないため、“人間”という新しい群れに入ったように思います。(園芸学部) 人間の世界に連れてこられたときはすごくかわいそうだと思いましたが、カマラが亡くなるとき、自分が不幸だと嘆いていたわけではないと思います。人間の視点からの意見ですが、人間は環境が変わったら順応できるものだと思うし、相手と高度な技術で心を通わせ、感情を分かり合うことができるのが人間の優れた点であり、幸せだと私は思っています。カマラはシング夫人や子どもたちといった大切な人をつくり、ともに楽しい時間を過ごすことができたと思います。シング牧師の日記を読んだだけなので、カマラが人間に狼の家族を殺され、自由を奪われたことを恨んでいたのかもしれません。でも、人とかかわり、人を好きになり、一緒に時間を過ごす経験をできたことは幸せだったのではないかと思いました。(工学部 デザイン学科)
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前回の感想より⑦ 私たちがペットとして犬や猫を始め、様々な動物を飼うのはその実、自分の子どもとして育てているものと大差がないようにも感じられます。つまり、人間が子どものような愛情をもって動物を養うのと、狼が(おそらくだが)子どものような愛情をもって人間を養うのは何ら変わらない気がするのです。だとすれば、狼が育てていた人間を保護して育てるのはペットとして育てられてきた動物を野山に返して野生に戻してあげることと一緒です。僕は善いことだと思います。(理学部 数学科) 私は今の生活をよりよいものに、生活をより幸せなものにしていくのが教育だと思っています。だから暮らす環境や状況、立場が違えば必要な教育も変わると思います。町で生きていくなら学術的教育が必要だし、狩猟・最終の生活なら効率的で確実な獲物の獲り方を教えることが教育だ。だから牧師が二人の狼っ子にしたことは教育ではなかったと思います。その子に必要な教育はその子の育った環境・状況などのあらゆる要素を考慮して見極めるべきだと思います。牧師がいけなかったのはそういうものを無視して自分の線引きを二人に押し付けてしまったところではないかと思います。二人はきっと母狼と子狼との洞窟での生活に何の不便、不満も感じてなかったのではないか。(文学部 日本文化学科) 必要だから教育するのであって、教育するのに必要だからという理由で何らかの犠牲を払わなければならないような手段はどうなのだろうか。(文学部 日本文化学科)
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前回の感想より⑧ なぜシング牧師の行為がよくないことに見えるかといえば、やはりアマラとカマラを連れ出す際のためらいのなさ、思慮のなさが原因であると思います。問答無用で母親狼を殺し、ほぼ強制的に連れてきてしまったからだと。まず対話が成立するかを試してみるなど、もう少しやり方があったのではないかと思います。人間側に連れてくるか、放置するか、選択肢は二つではなかった気がします。(理学部 地球科学科) この話は極端すぎて現代の子どもへの教育に一般化できないのではないか。現代の子どもは将来自分に施された教育が正しかったのか判断できるが、アマラとカマラはそれを伝達する手段がないからだ。この点を無視して教育は施される側が「善さ」をわからなくてもすることに意味があるとは言えないであろう。(法経学部 経済) アマラとカマラの例と比較すると、現代の教育は教育者自身が子どもと同じ立場を経験したことがあるというのが大きな違いだと思う。これのおかげで教育者の判断はただの憶測ではなく、ある程度の実体験をもとにした指導になるため、決定を許される範囲が広がると思う。(理学部 数理情報学科)
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前回の感想より⑨ 人間は“知る”ことで本当に幸せになるのでしょうか?何も知らない方が思いわずらわない方がよかったということもあるはずです。学ぶことが本当に彼女たちにとって幸せなのか、また、子どもたちにとって幸せなのか、さらには人類にとって幸せなのか、私にはわかりません。人間らしく生きることが幸せなら人間らしさとは何でしょう?私は基本的に人間が嫌いです。食事会だコンパだ飲み会だと集まっては、気持ち悪くなるほどお世辞を言い合ったり、恥をさらし合ったり、共通の嫌な人を作って悪口を言ったり・・正直疲れます。こうして暮らすのが人間なら、社会人なら、私は社会に出るのが恐ろしいです。(理学部) 個人的に考える上でテーマとしたのは人間の生活は実際に幸せなのかということです。詳しくは忘れましたが、「○○のパラダイム」というのがあるのですよね?その範囲の中で考えて真であれば、その世界では真であるというもの。例えば天動説が信じられていた時代は天動説が真理だったわけで、流動的な真理を認めようというのが「○○のパラダイム」でした。カマラは狼として生活しているとき、狼の世界しか知らないわけで、その時は母狼の愛情に触れていたかどうかはわからないが、上の説に従えば幸せだったと思います。しかし、シング夫妻に引き取られたときはまたそれで人間の愛情に触れていて、これは想像だが、狼だった頃の生活を理性的な思考で思い起こし、それと比較することはなかったと思うので、幸せであったように思います。(理学部 数理情報学科)
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隠れたカリキュラム 今日のテーマは学校の中で直接教えられずに学んでいること。
学校で子どもが学んでいることは、教師が意図的に教えようとしていることばかりではない。 教師の意図を超えていて、子どもにとっても無意識的に学ばれていることがある。 その中で、学校教育という制度によって要求される教室での生活がもたらす、子どもの社会化(社会に適応させること)の機能を果たすものをアメリカの教育学者のフィリップ・ジャクソンはhidden curriculum(隠れたカリキュラム)と名づけた。 隠れたカリキュラムは、子どもに産業化された社会におけるふるまい方、対人関係のあり方などを無意識の内に学ばせる機能をもっている。つまり、隠れたカリキュラムには善くも悪くも道徳的な意味があると考えることができる。
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Philip Jackson “Life in Classrooms”
教室の中で日常的に行われていること、当たり前になっていることの中にどんな意味があるかを考える。 そのために、教師や子どもたちの学校生活をつぶさに観察し、そこで行われていることが子どもや教師にとってどのような意味をもっているかを解釈する。 教室での生活で行われることの一つひとつは何気ないことだが、それが繰り返されることにより、子どもは(多くの場合、無意識的に)学校の中で正しいとされる振る舞い、評価を得るために求められることなどを学んでいる。 家庭と社会の間に位置する学校で学ばれる隠れたカリキュラムは、社会生活で求められることを代弁する側面がある。
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日常的な行為に潜む意味 教師も、子どもも、親も、学校について聞かれると、学校の日常ではなく、特別なことに目を向ける。(ex 学校行事、テストで100点を取ったこと、子どもの問題行動について) しかし、学校で日常行われている何気ないこと(ex 授業中や学校生活の規則、教師と子どもの日々のやり取り)にも大きな意味があり、そこに目を向ける必要がある。 なぜなら、日常的な行為は子どもが学校生活を送る中で日々繰り返され、何百万回という単位で繰り返し行われるから。 隠れたカリキュラムは、このように何気なく繰り返される日常的な行為の中にこそある。
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学校は監獄や精神病院に似ている? 学校という場所の制度的特徴を考えていくと、実は監獄や精神病院と似た性質があることに気がつく。
学校は望むか、望まないかにかかわらず、行かなければならない、数少ない場所の一つ。 学校で過ごすことは子どもにとって基本的には避けられないことであり、子どもは学校が彼(女)に求めるものと、自分の欲求とに折り合いをつけることを学ばなければいけない。
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隠れたカリキュラム① 群れ(crowd)の中で生きること
子どもたちが集団で生きる教室の中で、教師は好むか好まないかにかかわらず、社会的な交通整理の役を担わされている(ex 誰が話し、誰が話さないかを決める、資源の分配、教室の役割分担の割り当て、タイムキーパー)。 子どもはその中で「待つこと」を(ex 話す順番、宿題を見てもらう順番)学ぶ。「待つこと」は時に子どもにとって意味があるが、時に無駄に待たされることもある。 時間で動くことを学ぶ。これは時に、子どもの興味が乗る前に活動が始まり、興味が消える前に終了することを意味する。 子どもは時に、群れの中で一緒に過ごす人を無視して、一人でいることを求められる(ex 個人作業の時、教師が話している時)。隣の人に話しかけたくても話しかけてはいけないことがある。 総じてこれらのことは、子どもに「辛抱強さ(patience)」を求める。「~すること」よりも「~しないこと」を学ぶ。行為と感情を状況に応じて切り離すこと、欲求の表現とそれを抑制することとのバランスを学ぶ。
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隠れたカリキュラム② 評価し、評価されること
子どもが自分の特性について評価を受けるのは、学校だけに限らない。しかし、学校での評価は他の場所にはない特殊な特徴をもっている。 テストでの評価は学校における評価の代表的なものだが、それだけに尽きない。この他に、少なくとも①学校という制度が期待することにどれだけ適応しているかの評価、②人格的な特性の評価、という二つの評価がある。 評価の主体は教師だけではない。クラスメートも評価に参加する。また、子どもによる自己評価もある。子どもは他者に評価されるだけではなく、自分も他者を評価することを学ぶ。 評価は必ず価値を伴う。従って、評価をする人や評価が行われる教室によって、いい評価、悪い評価が異なる。教師とクラスメートの評価が矛盾することはよくあること(ex 教師にとってはいい子でも、仲間からは教師に媚を売ってると見られる)。 子どもはよい評価を獲得し、悪い評価を避けること、よい評価を公に示し、悪い評価を隠すこと、教師とクラスメートの両方からいい評価を得ようとすることを学ぶ。また、時に評価に対して無関心になり、感情的に距離を取るようになることもある。
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隠れたカリキュラム③ 不平等な権力関係 子どもが生まれてから最も早く学ぶものの一つが他者の願いにいかに従うかということ。子どもは物心が着く頃には、大人の権威というものの存在を学ぶ。 子どもは、学校の教師より前にも親の権威に直面するが、両者は性質が違う。 親との関係が親密で長く続くが、教師との関係は親に比べると親密さに欠ける。教師は相対的なストレンジャーとして子どもに権力を行使する初めての人。 親の権威は「~しちゃ駄目」という形で表現される(危険な衝動の制限)ことが多いのに対して、教師の権威は「~してはいけない」と同じ程度に「~をしなさい」という形でも表現される。 教師は子どもが人生で出会う初めての「上司(Boss)」。学校でgood workerになることは、子どもが卒業後に工場やオフィスでgood workerになることにもつながる。 しかし、誰もがgood workerになれるわけではない。自己嫌悪を感じながら教師にゴマをする子どももいれば、教師の権威から距離を取ることでトラブルを避けようとする子どももいる。
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隠れたカリキュラム まとめ① 隠れたカリキュラムはそもそも隠れてはいなかった。近代の学校教育の成立当初は、より明示的に学校で社会的な道徳や価値観の伝達が目指されていた。 隠れたカリキュラムが隠れるようになったのは、上記のような目的が自然に達成されるようになったから。現在では、隠れたカリキュラムは子ども一人ひとりの人格形成や能力の開発といった目的の陰に隠れながら機能している。 隠れたカリキュラムとオフィシャルなカリキュラム(ex 数学、理科、社会)は学校の中で一体になっている。 オフィシャルなカリキュラムよりも隠れたカリキュラムの方が、子どもの困難や問題につながっていることが多い。学業の問題に見えることが、隠れたカリキュラムの学習の失敗に原因をもつこともある(ex 数学の時間に「やる気がない」子どもは数学が嫌いなのではなく、隠れたカリキュラムに反抗しているのかもしれない)。
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隠れたカリキュラム まとめ② オフィシャルなカリキュラムと隠れたカリキュラムが両立するか、矛盾するかという問題に共通の答えはないが、個々の場面で考える必要がある問題である。 隠れたカリキュラムは自分の欲求を表現することと、他者の願いに従うこととのバランスを求めるもの。これは、学校の外での生活に直結している。幼稚園の入学から子どもは「会社(The Company)」での生活がどのようなものかを学び始めている。 隠れたカリキュラムへの対応は人それぞれ。従順にそれを受け入れる子どもいれば、明確に反抗する子ども、心理的にそこから距離を取る子どももいる。 隠れたカリキュラムの存在は学校という制度の中で生きる以上、ある意味では避けられないもの。教師はその存在を自覚した上で、自分が追求する教育や、子どもの幸福のために何ができるかを考え、実践していく必要がある。
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グループワーク みなさんは、隠れたカリキュラムを学んだと思いますか?隠れたカリキュラムに対してどのような態度を取りましたか?ジャクソンが挙げたものとは違う隠れたカリキュラムを思いつけますか?隠れたカリキュラムはみなさんの人格形成にどのように影響したでしょうか? ジャクソンは、隠れたカリキュラムを学校という制度の中で生きている人がある程度共通に直面するカリキュラムだと考えています。教師が違えば、隠れたカリキュラムは変わるでしょうか?変わるとすればどのように変わるでしょうか?また、学校の中で直接教えられることなく、学んでいることの中には、隠れたカリキュラム以外にも教師一人ひとりが無意識に発しているメッセージがあると思います。それについても考えてみて下さい。 この授業の中で隠れたカリキュラムや、講師(吉國)が無意識に発しているメッセージがあると思ったら教えてください。 その他、考えたことを自由に話し合ってみて下さい。
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感想シート y_yoshikuni@chiba-u.jp http://moral-education.seesaa.net/
今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なんでもかまいません。 必ず、名前、所属、学籍番号を書いて出してください。(所属は空きスペースに分かるように書いてください) 授業中に伝えきれなかった質問、意見はメール、もしくはブログを利用してください。
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参考文献(前の分も合わせて) 第四回(5月18日) 津守真 『子どもの世界をどう見るか-行為とその意味-』 NHKブックス
津守真 『保育者の地平』 ミネルヴァ書房 第五回(5月25日) J.A. L.シング(中野善達・清水知子 訳) 『狼に育てられた子ども』 福村出版 西平直 『教育人間学のために』 東京大学出版会 第六回(今日) Phillip Jackson Life in class rooms. Teachers Colledge Press
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