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メディア社会文化論 2012年12月21日
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア① 熱いメディア・・・新聞などの活字メディア、映画、写真、ラジオ、講義
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア① 熱いメディア・・・新聞などの活字メディア、映画、写真、ラジオ、講義 ・・・一方向的、あるいは単一の感覚を高精細度で拡張するメディア
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア② 冷たいメディア・・・テレビ(映画に対するテレビ)、電話(ラジオに対する電話)などの電気メディア(一般にマクルーハンのこの「電気メディア」を、現代の状況にあわせて「電子メディア」と捉える論者が多い)、漫画(写真に対する漫画は低精細度)双方向的、演習 ・・・低精細度のメディア、あるいは双方向的なメディア
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア② マクルーハンの「熱い、冷たい」の分類・・・個々のメディアで単独に取り出すと訳分からなくなる
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア② マクルーハンの「熱い、冷たい」の分類・・・個々のメディアで単独に取り出すと訳分からなくなる あくまでも対にして、相対的な意味で理解する。 あと日常感覚の「熱い」「冷たい」とあえて逆になっている
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア③ 「電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聴き手がたくさん補わなければならないからだ」メディア論』邦訳p.23) 。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア④ 「一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い」(『メディア論』邦訳p.23)
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑤ 参与性の高低が二つを隔てるポイントに。 参与性高い・・・冷たいメディア
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑤ 参与性の高低が二つを隔てるポイントに。 参与性高い・・・冷たいメディア 参与性低い・・・熱いメディア 粗い情報だと補完の必要が生じて、参与性が高まる
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑤ 「熱いメディアと冷たいメディアの使用上の基本的な差違を指摘する一つの方法は、交響楽の演奏の放送と交響楽のリハーサルの放送とを比較対照してみることである。これまでにCBCカナダ放送が放映した最上の出しものの二つが、グレン・グールド( )のピアノ・リサイタルのレコード吹き込みの模様と、イゴール・ストラヴィンスキー( )がトロント交響楽団を指揮した自作のリハーサルの模様だった。テレビのような冷たいメディアが本当に用いられると、この場合のようにプロセスへ巻き込まれないわけにいかなくなる」(『メディア論』邦訳p.32)。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑥ 演奏・・・完成品・・・パッケージメディア的・・・(受け手の)参与性(相対的に)低い
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑥ 演奏・・・完成品・・・パッケージメディア的・・・(受け手の)参与性(相対的に)低い リハーサル・・・未完成品・・・開かれたメディア、モザイク(モザイクについては後述)状・・・参与性(相対的に)高い
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イーゴリ・ストラヴィンスキーhttp://ja. wikipedia
イーゴリ・ストラヴィンスキー 1882年6月17日 年4月6日)は、ロシアの作曲家で、初期の3作品『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』で特に知られる他、指揮者、ピアニストとしても活動した。サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生れ、ニューヨークで没した。
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『春の祭典』初演の様子 (ウィキペディアより)
バレエ『春の祭典』初演。振り付ヴァーツラフ・ニジンスキー。バレエ・リュッス。パリのシャンゼリゼ劇場のこけら落とし公演。指揮ピエール・モントゥー。観客にサン・サーンス、ラヴェル、ドビュッシーらも。 「曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合りあい、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった 」
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ストラヴィンスキーとニジンスキーhttp://fr. wikipedia
ストラヴィンスキーとニジンスキー
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ストラヴィンスキー http://ja. wikipedia
ストラヴィンスキー 及び
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グレン・グールド略歴①http://ja. wikipedia
グレン・グールド略歴① グレン・グールド(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。 かねてより、演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールドは、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引いた。これ以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場とする。同年には、トロント大学法学部より、名誉博士号を授与された。
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グレン・グールド略歴②http://ja. wikipedia
グレン・グールド略歴② ピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、自分は「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張したグールドであったが、第1の業績が斬新で完成度の高いそのピアノ演奏であることは異論のないところである。
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グレン・グールド略歴③ http://ja. wikipedia
グレン・グールド略歴③ グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、ピアノ演奏においては対位法を重視した。事実、グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。
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マクルーハンとグールド① 単にトロント大学繋がりというのではない。 グールドもマクルーハンを評価。
レコード>>>演奏会という部分は、リハの番組を重んじるマクルーハンと対立しそう。 ただしピアノで完結しないこと、モノフォニーでなくポリフォニー志向であることなど、マクルーハンと合致する(後述する非線形性)。
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マクルーハンとグールド② 『グレン・グールド書簡集』(邦訳、みすず書房、1999年)にマクルーハン宛の書簡が2本掲載されている(pp ; )。 その注によると、マクルーハンはグールドの持っているラジオ番組で、インタビューを受けている。
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帽子を被って演奏したり脚を組んで演奏するグールド http://book-dvd. blog. ocn. ne
帽子を被って演奏したり脚を組んで演奏するグールド
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑥ 「小ぎれいに整った番組はラジオやレコードのような熱いメディアに向いている。フランシス・ベーコン( 大法官、イギリス経験論の父)は熱い散文と冷たい散文を対照させることに倦むことがなかった。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑦ 「方法」に則って書いたもの、すなわち完全に仕立てあげられたものを、警句で書いたもの、すなわち「報復は一種の野蛮な正義である」というような単一の観察と、対照させてみた。受動的な消費者は完成品を求めるけれども、知を追い求める者は警句に赴くのではないか。そうベーコンは言うのであった。警句は不完全であり、深いところで参加を求めるからに他ならない」(『メディア論』邦訳p.32)。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑧ 文学研究者の本領発揮 受け手の解釈の可能性、参与性で(冷たいメディアを)プラスに評価
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑧ 文学研究者の本領発揮 受け手の解釈の可能性、参与性で(冷たいメディアを)プラスに評価 象徴主義(サンボリズム)、反小説(アンチロマン)、ヌーヴェルヴァーグ 作品の完成を拒む 作品を作るという行為そのものを描き、作る行為を相対化
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑨ →作ることの意味を問う芸術の潮流
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑨ →作ることの意味を問う芸術の潮流 前衛芸術の作者の相対化、作品の完成性への崩壊の流れ≒マクルーハンの芸術理論(芸術の志向性)・・・当然この「作者の相対化」はコミュニケーションの双方向性にも通じていく →「冷たいメディア」擁護
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア1⑩ (写真のインパクトを論じる中で)
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア1⑩ (写真のインパクトを論じる中で) 「詩人や小説家は、われわれがそれを用いて洞察力を獲得し、われわれ自身や世界をつくりあげていく、あの精神の内的身振りというものに目を転じた。このようにして、芸術は外界との対応から内面での創造へと移っていった。既知の世界に対応する一つの世界を描き出す代わりに、芸術家たちは創造の過程を提示して、公衆がそれに参加できるようにする方向へ変わった。いまやわれわれには創造過程に参与する手段が与えられたのである」(『メディア論』p.198)
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要は、外界との対応は写真が容易にできる ならば、写真家以外の芸術家はそれ以外の仕事をすることに。 それが内面での創造の過程への着目に。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑪-活字文化批判①
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑪-活字文化批判① 活字文化批判との絡み オーラルコミュニケーション・・・双方向性ある この反対が活字文化 講義(一方向)と演習(双方向) 文字、活字文化批判-民衆をエリートが支配する道具としての文字
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑫-活字文化批判②
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑫-活字文化批判② 活字文化批判ないしは「熱いメディア」批判 価値中立的でないという問題(ウェーバーの方法、「メディア社会学」の授業参照) ただし彼の批判する「活字文化」の内実は? 表音文字批判・・・アルファベット批判 表意文字(漢字等)には、やや肯定的
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑬-アルファベットの特質①
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑬-アルファベットの特質① 全ての文字を25文字に集約→文字が普及しやすい。文字そのものは誰でも読める(単語の発音はたとえ無理でも)→世界中に普及する。 単語を形の束縛から解放→より抽象化→言葉のより普遍的な流通 具象性の少ない文字。より抽象的に→地域の隅々、あるいは世界の隅々に伝わる。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑭-アルファベットの特質②
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑭-アルファベットの特質② 国旗と、それを意味する文字とを比較 「かりに、星条旗を掲げる代わりに、一枚の布に「アメリカの旗」と書いて掲げたら、どういうことになるか。記号は同一の意味を伝えるであろうけれども、効果は完全に異なるであろう。星条旗の視覚的なモザイクを文字形式に移し変えてしまえば、それと一体化したイメージや経験の質の多くが奪い去られてしまうであろう」(『メディア論』邦訳p.84)。
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補足「モザイク」(ウィキペディアより) 「モザイク(英語:mosaic、フランス語:mosaïque)は、小片を寄せあわせ埋め込んで、絵(図像)や模様を表す装飾美術の手法。石、陶磁器(タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施される。 」
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑮-表意文字①
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑮-表意文字① 表意文字・・・先に挙げた国旗に近い要素を留める 「表音文字で書かれたことばは、象形文字や中国の表意文字のような形式で確保されていた意味と知覚の世界を犠牲にする。しかしながら、こういった文化的に豊かな文字の形式は、部族のことばからなる呪術的に不連続で伝統的な世界から、冷たく画一的な視覚メディアの世界に、突然に転移する手段を提供しなかった。中国社会は幾世紀にもわたって表意文字を使用してきたが、その家族および部族の継ぎ目のない微妙な網の目が脅威にさらされることがなかった」( 『メディア論』邦訳p.85)。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑯-表意文字②
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑯-表意文字② →表意文字・・・部族の言葉 ・・・要するに部族の生活に密接に結びついた言葉である。・・・よって画一的ではない。 これは誰が話すかということにも関わり、メディア(話し手とか声)のメッセージ性と不即不離の関係
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つまり体温や匂いといった触覚や嗅覚を残しているのが表意文字。
そういったものを残すのが、本来のメディアというか、メッセージ性のあるメディア。→その意味で「メディアはメッセージ」に通じていく。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑰-表意文字③
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑰-表意文字③ 「二〇〇〇年前の古代ローマの属領ガリアがそうであったように、こんにちアフリカでアルファベット文字を身につけて一世代もすれば、少なくとも部族の網から個人を解き放つのに充分である」( 『メディア論』邦訳p.85)。 →要するに、部族社会から個人を解放するのが、アルファベットなどの表音文字
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補足「ガリア語」(ウィキペディア) 「ガリア人がローマ帝国支配下に入り、征服者の言語であるラテン語が流入するとガリア語に代わってラテン語の変化した俗ラテン語(に後の古フランス語やそれにゲルマン語派が影響を与えたフランス語の元の言語)がひろく使用され(これは現在のガロ・ロマンス語となっている)、ガリア語は6世紀までに死語になっていった。 通常ガリア語はケルト語派のなかのPケルト語的な言語だと考えられている」。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑱-表意文字④
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑱-表意文字④ 「この事実は、アルファベットで綴られたことばの「内容」には関係がない。それは人の聴覚経験と視覚経験が突然に裂けた結果である」 ( 『メディア論』邦訳p.85) 。 「内容」=メッセージより「聴覚」「視覚」といったメディアの変化の方が重要→ここも「メディアはメッセージ」のバリエーション
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑲-表意文字から表音文字へ①
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑲-表意文字から表音文字へ① 前のスライドの「聴覚経験と視覚経験」の分離とは何か? 「表音アルファベットのみがこのような経験の明確な分割をおこない、その使用者に耳の代わりに目を与え、その使用者をこだますることばの魔術の陶酔と親族の網目から解き放つのである」 ( 『メディア論』邦訳p.85) 。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑳-表意文字から表音文字へ②
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア⑳-表意文字から表音文字へ② アルファベットなどの表音文字 →視覚優位の社会 「表音アルファベットは視覚の機能を強化し拡張するものであるが、文字文化の内部で、それ以外の聴覚、触覚、味覚などの感覚の役割を縮小させる」(『メディア論』邦訳p.86)。 いわば文字の客観性は、メディア(聴覚、触覚、味覚)抜きのメッセージだということ。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア21-論理の線形性①
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア21-論理の線形性① 表音文字文化-論理の線形性→話が論理的な前後関係によって構成される→因果関係で物事を捉える。 しかし因果関係のない連続というものもあるとマクルーハンはいう。 「西欧の文字文化をもった社会では、なにかがなにかから「続いて生じる」というのが、あたかも、そのような連続を作り出す原因のようなものが作用しているかのように感じられ、いまなお、いかにももっともなこととして受け入れられるのである」(p.87)。
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(後藤のコメント)アンケートの独立変数と従属変数の関係も、いわば時間的に先行する独立変数が原因になっていると見立てるものだ。本当は原因とは限らないのに。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア22-論理の線形性②
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア22-論理の線形性② 「こんにちの電気の時代に、われわれは非ユークリッド幾何学を自由自在に作れるような気がするのと同じように、自由自在に非線条(sic)論理学を作れるようにも感ずる。・・・一行省略・・・結びつけられた線状の連続は、心理ならびに社会の組織に普遍的な形式となっているが、これまでにそれをマスターしたのはアルファベット文化だけだった」(同ページ)。 ハイパーテクスト、マルチメディアの構造・・・複線的・非線形的に情報が流れる
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グレン・グールドのポリフォニー的な音楽実践にマクルーハンが興味をもったのも、この非線形性への着目と照応しているのでは?
(グレン・グールド論をNHK「知るを楽しむ」で展開した宮澤淳一青山学院大教授は、トロント大学元客員教授にしてゴードン著『マクルーハン』ちくま学芸文庫の訳者でもある)。
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2.4 熱いメディアvs冷たいメディア(23)-論理の線形性③
2.4 熱いメディアvs冷たいメディア(23)-論理の線形性③ マクルーハンは表音文字を視覚優位の典型として批判的に(G・・・しかし普通に考えれば・・・→表意文字の方が視覚的、表音文字の方は聴覚的では?とも・・・) マクルーハンの考え方・・・表意文字は色々な感覚の経験を籠めている(G・・・それはそうかも)
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「熱狂的なナショナリストであった自国語愛好者たちが目的としていた課題のなかに、印刷の力を用いて言語のなかから触覚的性質を早急に抜き去る、ということがあった。いまこの点に注目したいと思う。十九世紀に至るまで英国人たちが彼等の間で語りあってきた英語に関する自慢話というものがあった。それは十六世紀以来英語が洗練純化されてきたというものであった。(つづく)」
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「十六世紀の英語のなかには、触覚性と五感の相互の反響に資するような訛や方言が豊富に残っていた。だが一五七七年にはすでに、ホリンシャッドはサクソン時代からくらべて総体的に彼の時代の英語が洗練の度を加えてきている点を自慢気に語っているのである」(『グーテンベルグの銀河系』pp )
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(補足)ラファエル・ホリンシェッド(英語版ウィキペディアより意訳)
Raphael Holinshed( 頃)彼の『年代記』を基に、シェークスピアは多くの戯曲を書いたとされる。彼はロンドンに出てウルフという印刷屋の下で翻訳家として働いていた。ウルフは氷河期からエリザベス朝時代までの世界史を書くことをホリンシェッドに提案し、その一部の成果『イングランド、スコットランド、アイルランドの年代記』が1577年に出された。もっとも実はホリンシェッドはこの年代記の寄稿者の一人に過ぎない。
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シェークスピアはこの年代記の第二版(1587)を愛読し、『マクベス』の筋立てと『リア王』『シンベリン』の一部にこれを利用した。
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マクルーハンの文字文化、活字文化批判に・・・西欧を中心にして発達した、表音文字の文化への批判
ポストモダン的な西欧近代批判を先取りか 貨幣の蓄積や官僚組織への批判も
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マクルーハンの貨幣批判とアルファベット批判との相同性
共に地域の枠を越える普遍的なメディアとして機能する 数字によって、働いた労働時間を表示し、異質な労働相互を「翻訳する」するメディアとして機能する(労働価値説を意識)
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「こんにちでさえも、貨幣は農夫の労働を、床屋、医師、技師、鉛管工などの労働に翻訳するための言語である。貨幣が巨大な社会的メタファー、橋渡し、翻訳者であるとすれば--書かれることばと同じように--いかなる社会でも、交換を促進し、その相互依存の絆を緊張させる」。
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「それが政治組織に広大な空間的拡張と統制を許すところは、文字や暦がそうしたのと同じである。それは空間的にも時間的にも、離れたところの操作であると言える。高度な文字文化をもち、細分化のおこなわれた社会では、「時は金なり」だ。そして、貨幣は他の人びとの時間と努力の蓄積したものである」(p )。
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「貨幣はその専門分化したアルファベット技術に随伴したものであり、グーテンベルクの機械的反覆の形態をさらに新たに強化することになったのであった。アルファベットが未開文化の複雑さを単純な視覚の表現に翻訳することでその多様性を中和してしまったように、兌換紙幣もまた十九世紀に倫理の価値を低下させてしまった」(p.141)
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時計・・・表音文字の視覚性を前提とする 文字文化が普及→時間は区分、下位区分のできる囲われた絵画的な空間の性格を帯びる(cf「純粋持続」ベルクソン) 「わたしのスケジュールは埋まっています」
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表意文字から表音文字が世界を支配→印刷術が強まる→視覚優位の社会
視覚優位の社会・・・人間の感覚の包括性を失わせる→経験を断片化し、専門分化させる それぞれの分化した領域(「それぞれの」といっても主に視覚だが)においては、普遍性を獲得・・・外へ外へと広がっていく(外展開・外爆発型)
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外展開型 多様な解釈を容認しない。(G、印刷術と『聖書』→多様な解釈という流れとは矛盾か。どのレベルで捉えるかによるといえばそれまでだが) 多様な感覚の融合した文字・メディアであれば、多様な捉え方が可能であるのに。 印刷本の「連続性、画一性、反復性の原理」(p.181)ゆえに、一方向的なマス・コミュニケーション、マス・マーケティングに親和的になる
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写本と印刷本の対比 写本・・・全体的な感覚がまだ存在→多様性 (G写本時代、カトリック、聖書解釈の権利独占という見方もありうる。「委員会の論理」等) 印刷本・・・抽象化され、視覚優位→一方向性 このような一方向性ゆえ、文字言語を発する者を支配者、権力者、スターに仕立てあげる
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マクルーハンのイメージする「現代」・・・相互依存の時代
「現代」で必要とされるメディア・・・もう一度包括的な感覚を開くメディア 印刷のような断片化のメディア→電信のような包括的なマス・メディア 線形思考→非線形思考
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線形の思考・・・一つの感覚優位であるから成立する
複数の感覚が働き、包括的に人間が世界にかかわるのなら、減ってくる。 ハイパーテキストに親和的なマクルーハンの発想とされる。 「WWWのビューワーとして知られている「モザイク(MOSAIC)」という言葉は、ノンリニアという意味でマクルーハンが使っていたものだ」(濱野保樹『大衆との決別』1995,p.137)
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2.5 地球村 クリントン政権の副大統領ゴアの「情報スーパーハイウェイ・・・(マクルーハンの)グローバル・ヴィレッジを実現するためのもの(濱野保樹『大衆との決別』(p.135) 「「グローバル・ヴィレッジ」とは、マクルーハンが提唱したヴィジョンで、電気メディアのネットワークが人間の神経系のように張り巡らされて、地球を一つの共同体にするというものである」(同頁)。
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(『グーテンベルクの銀河系』p.53でのシャルダンからの引用)。
「あたかも自己拡張を行うかのように人間はおのがじし少しずつ地球上に自分の影響力の半径を拡げていき、その反面、地球は着実に収縮していった。・・・昨日の鉄道の発明、そして今日の自動車や航空機といった手段をとおして、各人の身体的影響のおよぶ範囲は以前は数マイルにかぎられていたものがいまでは何百哩どころかそれ以上にも及んでいるのである。それどころか、電磁波の発見によって代表される途方もない生物学上の事件のおかげで、各個人は海陸とわず、地球のいかなる地点にも(能動的に、そして受動的に)みずからを同時存在させることができるようになった」
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マクルーハン自身による「地球村」の説明 「われわれの五感のこの外化こそ、ド・シャルダンが「精神圏」と呼ぶもの、もしくは世界全体のために機能する、いわば技術的頭脳を創造するものなのだ。巨大なアレクサンドリア図書館の建設にむかうかわりに、世界それ自体が、まさに初期の頃のSF本に描かれていたのとそっくりに、コンピューター、電子頭脳となったのである。」 『グーテンベルクの銀河系』p.53
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後藤のコメント・・・中井正一の機能概念としての図書館とほぼ相通じるイメージ
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(補足)「シャルダン」ウィキペディアより
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin,1881年5月1日-1955年4月10日)は、フランス人のカトリック司祭(イエズス会士)で、古生物学者・地質学者、カトリック思想家である。主著『現象としての人間』で、キリスト教的進化論を提唱し、二十世紀の思想界に大きな影響を与える。
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印刷文化の否定と地球村 【過去】 印刷文化・・・人間を専門分化、断片化 断片において表音文字や貨幣が普遍的に流通 【これから】
感覚統合→全体的・包括的な人間・・・交通やコミュニケーションの発達によって狭くなった地球の中で共存
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2.6マクルーハンからの発展:広義の(最広義の)メディアを突き詰めればどうなるか
物財、人の情報性の議論に すべての物、人の頭脳、人の体はメディアである 人の頭脳に模したコンピュータ、あるいはコンピュータネットワークも、そのような「人間拡張」の典型としてのメディア
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「すべてのメディアがわれわれ自身を拡張したものであり、新しくものを変形する視力と意識とを提供するのに貢献する」(『メディア論』p.63)。
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神経という伝送路を伝って、脳にそれらの情報が伝えられる。 脳の中でも神経と神経伝達物質の受け渡しがある。
この辺りは初回の授業で詳述か 感覚器官・・・情報の受容体 神経という伝送路を伝って、脳にそれらの情報が伝えられる。 脳の中でも神経と神経伝達物質の受け渡しがある。 また我々の感覚器官の極く近くの延長として眼鏡や補聴器があるし、眼鏡や補聴器のさらなる出先機関として、われわれの代わりに外の世界を記録してくれるのが、テレビカメラとマイクロフォンであると考えることができる。 つまり脳から神経、感覚器官の延長としてマス・メディアを捉えるからこそ、「人間拡張の原理」(マクルーハンの『メディア論』の原題)といえる。
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インターネット社会を予見した地球村 「個々の人々の自分の神経の延長として世界中に神経ネットワークを張り巡らし、世界中の人々と繋がっている」(マクルーハンの「地球村」) 「コンピュータがインターネットを通じて世界中につながっている」(インターネットについてのありふれた記述) 極めて近親性がある、上記2つのイメージ
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メディア概念の拡張 拡張の問題点 メディアと情報を分けられない
物そのものと情報も分けられない(あるいは自分と情報も分けられないし、媒体・神経経路も分けられない、ネット依存の感覚) 物の情報部分以外がメディアといわれるに過ぎない・・・ある物を見る人の視点で、あるいは見るという行為によって、そもそもそのある物は情報になるし、メディアになるので
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「見る」こと、顔を向ける(方向性、遠近法)ことが、物や人が「情報」となる始まり(端緒)
物財の情報性と、それ以外の情報財の情報性とを区別する視点→ 物財のメディアは、情報がなくてもそれ自体で意味をもつ 情報財のメディアは通常情報なくして意味がない
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以上の点から、30年まえに亡くなったのに、現代のネット社会の状況をしっかりと予見していたという点は、評価せざるを得ない。
しかし、なぜかマクルーハンには胡散臭さ、いかがわしさもつきまとう。
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マクルーハンの紹介者として、かつて名を馳せた 竹村健一氏http://www. hirax
マクルーハンの紹介者として、かつて名を馳せた 竹村健一氏
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2.7 マクルーハン評価(批判等)の一例 稲葉三千男の批判(「マクルーハン 彼は正しいか間違っているか--“論より証拠”におぼれる教祖」『近代経営』12(12), (1967) (経済雑誌 ダイヤモンド社))・・・著名な東大教授(当時)だが、この論文は知られていない。 「メディアの重層性」の議論と「冷たいメディア」「熱いメディア」の分類の矛盾を衝く
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経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真はhttp://www. u-tokyo. ac. jp/gen03/kouhou/1253/6
経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真は 稲葉 三千男(いなば みちお、1927年3月10日 年9月8日)は、日本の社会学者、ジャーナリズム研究者、政治家。研究者としては、東京大学新聞研究所(現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身の一つ)で永く活躍し、東京大学定年退官後は、東京国際大学教授となった。1990年、革新系候補として東久留米市長に初当選、以降3期12年間市長を務めた
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稲葉によるマクルーハン批判① 「メディアの重層性」の議論・・・関係概念、機能概念による把握
「冷たいメディア」「熱いメディア」の議論・・・それぞれを実体視 (後藤の補足(価値中立でないし、「冷たいメディア」=テレビ、「熱いメディア」=活字と対応メディアも実体視)) →矛盾
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稲葉によるマクルーハン② 「メディアの重層性」の議論・・・プラトン、アリストテレス以来の二元論の延長(イデアと現象、形相と質料の議論)に
“最終的には人間の脳に至る”(マクルーハン)・・・脳を実体視
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稲葉のマクルーハン批判に対する(稲葉の授業を受けた)本授業担当者の意見①
①の批判について マクルーハンも(以前の授業で申し上げたように)、「冷たいメディア」「熱いメディア」を固定せずに、相対的な関係で捉えている(箇所が多い)。→その点で、稲葉の批判は妥当せず。 ただし、テレビ=冷たいメディア、活字本=熱いメディアという組み合わせは譲れないとMcは考えているようだ。→この点、稲葉は妥当する。
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稲葉のマクルーハン批判に対する(稲葉の授業を受けた)本授業担当者の意見②
②の批判について マクルーハンは二元論というより、小さな二項対立を組み合わせているに過ぎない。よって、プラトン以来の二元論の延長というより、そもそも二元論を要請する「情報vsメディア」という対立を崩したと評せる。→モダニズムを越えるポストモダンの走り。 →この点は稲葉の批判は的はずれ。
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稲葉以外のマクルーハンへの批判 (1)技術決定論 →ただし共通感覚論との絡みも (2)テレビは未完成か? (3)マクルーハンの自己矛盾 (4)非線形的論理への親和性
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稲葉以外のマクルーハンへの批判(1)-技術決定論
技術決定論だという批判 イニスの技術決定論→マクルーハンに影響 「五感の比率の変化の議論」・・・特に技術決定論的
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マクルーハンの「五感の比率の変化の議論」を示すテキスト(文章)
「ある文化圏の内部から、もしくは外部からひとつの技術が導入され、その結果としてわれわれのもつ五感のうち特定の感覚だけがとくに強調され、優位を与えられる場合、五感がそれぞれに務める役割比率に変化が生じるのだが、そのときわれわれの感受性はもとのままではありえないのだ」(『グーテンベルクの銀河系』p.41))
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技術決定論は叩くべきだ。しかし、・・・ まずは技術決定論批判の骨子と「プリクラ」 共通感覚論(中村雄二郎) マルクスの「鉱物商人」の喩え
アランの『芸術の体系』(光文社古典新訳文庫) こういった感覚の延長としての情報機器 特定の感覚に基づく世界観
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稲葉以外のマクルーハンへの批判(2)-テレビは完成度低い?
低精細度(low definition)や完成度の低さをテレビの冷たいメディアであることの根拠とする・・・ しかし・・・現在のテレビ受像器は高品位 映画同様、DVDとして完成された作品となる。 しかも映画もテレビもNGシーンやメイキング映像等がDVDに付加価値をもたせる手段として使われる。
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テレビの完成度は低い?② →この点では、稲葉の批判が妥当する。
マクルーハンの生きた時代のメディア状況を絶対視して(実体的把握)、理論を作っている面も。 機能概念で捉えれば、このような走査線の数に囚われた理論にならないはず。
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稲葉以外のマクルーハンへの批判(3)-マクルーハンの自己矛盾
当人は活字文化的な人 子どもに見せないようにテレビを地下室にしまうほど(服部桂『メディアの予言者-マクルーハン再発見』2001年、廣済堂出版社、p.112) カトリックの聖職者は死語かつ学術・宗教の公用語であったラテン語を理解する文字文化エリートでありつつ、オーラル文化を擁護したのと同様の矛盾かも。
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稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性①
線形的な思考を否定 現在の思考をしばしば中断される情報環境を肯定する すると、我々の思考から論理性や物語性を奪うことになる
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稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性②
もっともこういうような非線形志向への批判・反論としては以下のようなものがある。 我々は本読んでいる途中で食事をしたりスポーツしても、本は継続的に理解できるし ながら読書等をしても、読めるし、 授業も色々な科目を50分ずつ学んでも体系的に理解できる
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2.8マクルーハンのメディア論からの示唆 全ての事象を相対化して関係性で捉える。 すると、中身と外側、メッセージとメディアに区分けできる。
メディアを実体としてでなく関係性で捉える。
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3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか
3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか 3.1.1稲葉三千男の定義① 二通りの「メディア」 1)神と人の媒介 2)人と人との媒介 (『コミュニケーション事典』(1988、平凡社)の「マス・メディア」の項目)
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3.1.1稲葉三千男の定義② 1)神と人の媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は<みこ><霊媒><預言者>など・・・異質的な媒介をする媒介・・・媒介項を飛び越えて、直接媒介可能と考えるとミッテルに
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3.1.1稲葉三千男の定義③ 2)人と人との媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は送り手と受け手との中間にあるもの・・・同質的な媒介をする媒介・・・メディウムの媒介(物) 2-1)媒体材料 (例)音波に対する空気、文字に対する紙 2-2)媒体材料に情報が加えられたもの (例)新聞、雑誌、パンフレット、レコード、映画、ラジオ、テレビ
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3.1.1稲葉三千男の定義④ 「媒体media(メディウムの複数形)とは,もともと<中間にあるもの>または<中間>を意味した.神と人との中間にいてなかだちをする<みこ><霊媒><預言者>なども含まれる」(稲葉 )・・・1)の方に相当するメディア この「神と人との中間」にいるものという部分を「送り手と受け手の中間にあるもの」とよみかえて、稲葉は議論していく。
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3.1.1稲葉三千男の定義⑤ 「対面集団face to face group内での会話や音楽会場での演奏などだと、空気が音波のメディウムで、手紙や遺言状だと紙が文字のメディウムである」。さらに印刷術の発明にともなって「新聞、雑誌、パンフレットなどの印刷物が」最初のマス・メディアとして登場する。つぎにレコードや映画が登場するが、これらはいずれも「物体として持ち運びができるという意味でパッケージ型である」。
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3.1.1稲葉三千男の定義⑥ 他方ラジオやテレビはパッケージ型ではない。またフィルムや電波の情報を再生するための再生装置は「送り手と受け手の中間にあるもの」であるので、マス・メディアに含めうるという。さらに「マス・メディアがマス・コミュニケーションとまったく同義に使われることも少なくない」。
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