メディア社会文化論 2010/01/08
2.7 マクルーハン評価(批判等)の一例 稲葉三千男の批判(「マクルーハン 彼は正しいか間違っているか--“論より証拠”におぼれる教祖」『近代経営』12(12),29-131. (1967) (経済雑誌 ダイヤモンド社)) 「メディアの重層性」の議論と「冷たいメディア」「熱いメディア」の分類の矛盾を衝く
経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真はhttp://www. u-tokyo. ac. jp/gen03/kouhou/1253/6 経歴は日本版ウィキペディア「稲葉三千男」写真はhttp://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1253/6.html 稲葉 三千男(いなば みちお、1927年3月10日 - 2002年9月8日)は、日本の社会学者、ジャーナリズム研究者、政治家。研究者としては、東京大学新聞研究所(現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身の一つ)で永く活躍し、東京大学定年退官後は、東京国際大学教授となった。1990年、革新系候補として東久留米市長に初当選、以降3期12年間市長を務めた
稲葉によるマクルーハン批判① 「メディアの重層性」の議論・・・関係概念、機能概念による把握 「冷たいメディア」「熱いメディア」の議論・・・それぞれを実体視 (後藤の補足(価値中立でないし、「冷たいメディア」=テレビ、「熱いメディア」=活字と対応メディアも実体視)) →矛盾
稲葉によるマクルーハン② 「メディアの重層性」の議論・・・プラトン、アリストテレス以来の二元論の延長(イデアと現象、形相と質料の議論)に “最終的には人間の脳に至る”(マクルーハン)・・・脳を実体視
稲葉のマクルーハン批判に対する授業担当者の意見① ①の批判について マクルーハンも(前回の授業で申し上げたように)、「冷たいメディア」「熱いメディア」を固定せずに、相対的な関係で捉えている(箇所が多い)。→その点で、稲葉の批判は妥当せず。 ただし、テレビ=冷たいメディア、活字本=熱いメディアという組み合わせは譲れないと考えているようだ。→この点、稲葉は妥当する。
稲葉のマクルーハン批判に対する授業担当者の意見② ②の批判について マクルーハンは二元論というより、小さな二項対立を組み合わせているに過ぎない。よって、プラトン以来の二元論の延長というより、そもそも二元論を要請する「情報vsメディア」という対立を崩したと評せる。→モダニズムを越えるポストモダンの走り。 →この点は稲葉の批判は的はずれ。
稲葉以外のマクルーハンへの批判 (1)技術決定論 →ただし共通感覚論との絡みも (2)テレビは未完成か? (3)マクルーハンの自己矛盾 (4)非線形的論理への親和性
稲葉以外のマクルーハンへの批判(1)-技術決定論 技術決定論だという批判 イニスの技術決定論→マクルーハンに影響 「五感の比率の変化の議論」・・・特に技術決定論的
技術決定論に対する社会学(者)の基本的な捉え方 技術決定論の問題(プリクラの例、受け手、利用者が技術を自分なりの文脈で理解する、利用と満足研究) 多くの技術の中で、人々によって採用されるものと採用されないもの、廃れるものとはやって定着するものとがある→それらを分かつ理由はどこにあるのか?→社会的にその技術を受容する下地があって初めて、その技術は人々に採用され、はやり、そして廃れずに定着する。
マクルーハンの「五感の比率の変化の議論」を示すテキスト(文章) 「ある文化圏の内部から、もしくは外部からひとつの技術が導入され、その結果としてわれわれのもつ五感のうち特定の感覚だけがとくに強調され、優位を与えられる場合、五感がそれぞれに務める役割比率に変化が生じるのだが、そのときわれわれの感受性はもとのままではありえないのだ」(『グーテンベルクの銀河系』p.41))
技術決定論は叩くべきだ。しかし、・・・ 共通感覚論(中村雄二郎) マルクスの「鉱物商人」の喩え アランの『芸術の体系』(光文社古典新訳文庫) こういった感覚の延長としての情報機器 特定の感覚に基づく世界観
稲葉以外のマクルーハンへの批判(2)-テレビは完成度低い? 低精細度や完成度の低さをテレビの冷たいメディアであることの根拠とする・・・ しかし・・・ 現在のテレビ受像器は高品位テレビ 映画同様、DVDとして完成された作品となる。 しかも映画もテレビもNGシーンやメイキング映像等がDVDに付加価値をもたせる手段として使われる。
テレビの完成度は低い?② →この点では、稲葉の批判が妥当する。 マクルーハンの生きた時代のメディア状況を絶対視して、理論を作っている面も。
稲葉以外のマクルーハンへの批判(3)-マクルーハンの自己矛盾 当人は活字文化的な人 子どもに見せないようにテレビを地下室にしまうほど(服部桂『メディアの予言者-マクルーハン再発見』2001年、廣済堂出版社、p.112) カトリックの聖職者はラテン語を理解する文字文化エリートでありつつ、オーラル文化を擁護したのと同様の矛盾かも。
稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性① 線形的な思考を否定 現在の思考をしばしば中断される情報環境を肯定する すると、我々の思考から論理性や物語性を奪うことになる
稲葉以外のマクルーハンへの批判(4)-非線形論理への親和性② もっともこういうような非線形志向への批判・反論としては以下のようなものがある。 我々は本読んでいる途中で食事をしたりスポーツしても、本は継続的に理解できるし ながら読書等をしても、読めるし、 授業も色々な科目を50分ずつ学んでも体系的に理解できる
2.8マクルーハンのメディア論からの示唆 全ての事象を相対化して関係性で捉える。 すると、中身と外側、メッセージとメディアに区分けできる。 メディアを実体としてでなく関係性で捉える。
3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか 3. メディアの定義と諸相 3.1 メディアの辞書的定義のいくつか 3.1.1稲葉三千男の定義① 二通りの「メディア」 1)神と人の媒介 2)人と人との媒介 (『コミュニケーション事典』(1988、平凡社)の「マス・メディア」の項目)
3.1.1稲葉三千男の定義② 1)神と人の媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は<みこ><霊媒><預言者>など・・・異質的な媒介をする媒介・・・媒介項を飛び越えて、直接媒介可能と考えるとミッテルに
3.1.1稲葉三千男の定義③ 2)人と人との媒介(あるいは媒介に必要な媒介項)・・・媒介項は送り手と受け手との中間にあるもの・・・同質的な媒介をする媒介・・・メディウムの媒介(物) 2-1)媒体材料 (例)音波に対する空気、文字に対する紙 2-2)媒体材料に情報が加えられたもの (例)新聞、雑誌、パンフレット、レコード、映画、ラジオ、テレビ
3.1.1稲葉三千男の定義④ 「媒体media(メディウムの複数形)とは,もともと<中間にあるもの>または<中間>を意味した.神と人との中間にいてなかだちをする<みこ><霊媒><預言者>なども含まれる」(稲葉 1988 498)・・・1)の方に相当するメディア この「神と人との中間」にいるものという部分を,「送り手と受け手の中間にあるもの」とよみかえて,稲葉は議論していく.
3.1.1稲葉三千男の定義⑤ 「対面集団face to face group内での会話や音楽会場での演奏などだと,空気が音波のメディウムで,手紙や遺言状だと紙が文字のメディウムである」.さらに印刷術の発明にともなって「新聞,雑誌,パンフレットなどの印刷物が」最初のマス・メディアとして登場する.つぎにレコードや映画が登場するが,これらはいずれも「物体として持ち運びができるという意味でパッケージ型である」.
3.1.1稲葉三千男の定義⑥ 他方ラジオやテレビはパッケージ型ではない.またフィルムや電波の情報を再生するための再生装置は「送り手と受け手の中間にあるもの」であるので,マス・メディアに含めうるという.さらに「マス・メディアがマス・コミュニケーションとまったく同義に使われることも少なくない」.