イエ(日本の家)の構造と動態 平山 朝治 『紫式部日記絵詞』藤田美術館本第5段 より

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イエ(日本の家)の構造と動態 平山 朝治 『紫式部日記絵詞』藤田美術館本第5段 より イエ(日本の家)の構造と動態  平山 朝治 (寛弘五[ 一〇〇八]年十月十六日、一条天皇が、誕生した若宮[藤原道長の初孫、後一条天皇]と対面するため、土御門第に行幸になる日の早朝、藤原道長は) あたらしくつくられたるふね どもさしよせて御覧ず。龍頭 げきしゅ 鷁首のいけるかたちおもひやら れて、あざやかにうるはし。 (原本の詞書は関東大震災で焼失。田中親美模本による) 『紫式部日記絵詞』藤田美術館本第5段 より

イエの定義:日本の伝統的な家族・家業経営体の組織原則や、それを体化している組織 (平山『イエ社会と個人主義』日本経済新聞社、1995年) イエの構造(中根千枝『家族の構造』東京大学出版会、1970年) ①継承性 家長は必ずその息子(実子または養子 いずれも法的に認められた息子としてのステータスを有するもの)によってのみ継承される。その後継者である息子は必ず特定の一人であり、二人以上の息子が後継者として共同に権利をもつことや、兄弟が順番に、あるいは交替に、家長の地位につくことは許されない。弟が家長である兄の後継者たることはありうるが、その場合、必ず兄の養子として法的に認められた場合に限られる 。

②永続性 父子継承を軸とする、永続的で分割不可能な、社会の基本単位 ③分出性 一つのイエから新たなるイエが分出することもあるが、それは前者のイエの分割ではなく、もとのイエは社会単位として従来通り自己同一性を保って存続しつづけ、 新しく分出したイエ(いわゆる分家)は新しい社会単位とされる。 本家分家集団=同族団 ④地位継承性 家督相続は財産の相続(inheritance) と地位の継承(succession)の二要素を持つ。財産は兄弟による分割相続を伴う、庶子による分家創設(③)がありうるので 可分であるが、地位は不可分のものとして、家屋とともに嫡子に継承される 。 ⑤独立性 イエは、居住・財産単位を基礎としつつ、「きわめて高い孤立性」をもち、「イエを別にする既婚の兄弟姉妹関係を弱め個々のイエは婚入者を完全に吸収するという志向をもつ。」

⑥近隣関係の優越 ⑤より、別々のイエに分散する諸個人を結ぶ血縁関係の機能は弱体化し、〃遠い親類より近い隣り〃といったように、近隣関係が重視され、本家・分家関係や同族団の機能も近隣関係に依存する。 ⑦一世代一夫婦の原則 子の内、唯一人の家長継承者と他の者との地位の差が明確である。家長夫婦と継承者(既婚の場合は継承者夫婦)がイエの正式の成員であり、他の子は分家、他のイエへの婚出(嫁・婿入り)などによる生家からの独立を志向する。 ⑧婿養子の頻出 ②永続性を①継承性によって実現するためには、家長に息子がないときに、養子を迎えなければならないが、娘がいる場合には、娘を嫁に出して血縁者を養子とするよりも、娘に夫を迎え、彼を婿養子とすることが好まれる。これは、中韓の父系(男系)主義と異なる日本の独自性とされがちだが、平山は新羅起源説を提唱

5世紀〜6世紀初めの倭の五王は男系継承:父→子 兄⇨弟として、讃⇨珍、済→興⇨武(=雄略) 当時信仰されていた北方遊牧民起源の天の至高神・タカミムスヒも男系主義(平山「日本神話にみる自由主義のなりたち」『筑波大学経済学論集』64号、2012年 http://hdl.handle.net/2241/117180 , 37-9頁) 日本の王権における婿・女系継承の初例は、雄略の孫で仁賢の娘・武烈の姉である手白香皇女と結婚して即位した継体。雄略・仁賢から欽明へは女系で連続(スライド6の系図) 『日本書紀』:武烈を周の武王に討たれた商(殷)の紂王に擬え、群臣の継体擁立合意形成が年初甲子日とされ(立后にも甲子日が選ばれ)たのは、武王の年初甲子の牧誓(殷が滅亡した牧野の戦を前にしたスピーチ)に擬えたもので 、継体即位は易姓革命であることを意味する。また、記紀は、応神や継体は雄略らの王統とは異姓だと暗に告発している(平山前掲論文39-43頁) 継体を従来の大王(天皇)家と男系でつなぐ皇統譜(仲哀→応神→仁徳)は疑わしい。神功は仲哀死後新羅に渡り、産み月を過ぎて応神を出産したとされるのは、仲哀死後受胎した応神の父は仲哀とは異姓と暗に主張。応神〜継体は武烈までの王統とは異姓とする本来の伝承では神功が新羅に渡ったのは新羅王族への嫁入りと考えられる。『三国史記』「新羅本紀」には奈勿王一八(三七三)年の「夏五月、王都に魚が降った(京都雨魚)」 とあり、神功渡海伝承に通じる。

神功が筑紫で応神を産んだとされるのは、持統が天智元[662]年に筑紫国大津宮で草壁皇子を産んだことをもとにしている(直木孝次郎 『日本古代の氏族と天皇』塙書房、1964年、164-5頁)。私見では、神功を持統のモデルとなる女帝とするため仲哀の配偶者とし、応神を神功の子として即位したとし、女帝の子孫の即位を正統化することが、皇祖太陽神を女神とするのと同様の皇統譜改変の主目的で、継体が武烈までの王統と男系で繋がったのは、その副産物にすぎなかった。しかし後に、皇室典範の男系主義の根拠とされる。

新羅王位が姉妹の夫や娘婿に伝えられた最初の例は、『三国史記』によれば、第三代儒理から姉妹の夫である第四代脱解への継承であり、その際、次のような儒理の遺言があったとされている(なお、以下の引用における先王は、儒理の父=第二代南解王)。 自分の死後は、自分の子供と娘婿とのわけへだてなく、年長でかつ賢者であるものが王位を継ぐようにしなさい、と先王が言われた。この遺言によって、私が先に王位に即いたが、今度はその位を〔脱解に〕伝えるのがよろしかろう。(井上訳注[一九八〇]一七頁、原文は「先王顧命曰 吾死後 無論子壻 以年長且賢者 繼位 是以寡人先立 今也宜傳其位焉」)  この遺言が後代に至るまで新羅王位継承の原則として生き続けたため、東アジアの諸王朝のなかで他に例がないほど、娘婿・姉妹の夫への継承が頻出するのである。 (平山「記紀皇統譜の女系原理」『筑波大学経済学論集』第63号、2011年、http://hdl.handle.net/2241/113528 54頁、前頁は91頁図8、次頁は53頁図5)

イエ成立まで 倭の五王の男系継承(北方遊牧民起源のタカミムスヒ信仰) +継体・欽明期の新羅王位継承規則導入による婿・女系継承  倭の五王の男系継承(北方遊牧民起源のタカミムスヒ信仰) +継体・欽明期の新羅王位継承規則導入による婿・女系継承 →男系女系共に重視するため、皇族近親婚が多く、推古593-628以降女帝も多い(新羅の善徳真徳の二女王632-47-54、中国の武則天女帝690-705に影響したと考えられる) →律令制とともに父系の氏を導入する →天平元[729]年藤原不比等三女・光明子の立后(以後、皇族または藤原氏でない皇后・中宮は、橘嘉智子[藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟藤原三守の妻)らの力で立后、美都子が後宮で権勢を振るう]平徳子[平清盛の娘]源和子[二代将軍徳川秀忠の娘]正田美智子[徳川と同じ、新田源氏の末]のみ。藤原氏は皇后を出す準皇族と言い得る) →藤原北家が外戚として摂関位独占・兄弟継承(兄弟平等の中国的父系出自集団原理が機能) =正統な天皇の要件に、母方が皇族か藤原北家 →道長:長男頼通に男子がいないので、頼通の妻隆子女王の弟・源師房を頼通の異姓養子として道長五女尊子を配し、後継に擬す →父系氏の解体と摂関家の成立

最初のイエは藤原道長以降の摂関家 ○ △ ○ △ ○ △ ○ △ 道長─頼通─師実─師通─忠実─忠通─基実─基通─家実        ○  △  ○  △   ○  △   ○  △ 道長─頼通─師実─師通─忠実─忠通─基実─基通─家実 基実(近衛家)  異母弟の兼実(九条)・・・・・・二摂家に分裂 家実(近衛家)の次男・兼平(鷹司家) 九条家から兼実の曾孫世代に一条家、二条家分出・・・・・・五摂家 摂関家・二摂家・五摂家が、秀吉まで摂関職独占 豊臣秀吉:近衛前久の猶子(養子より擬制的)として関白就任 近衛信尋のぶひろ:父は後陽成天皇、母は近衛前久の娘近衛前子    同父母兄は後水尾天皇    母方の伯父・近衛信尹のぶただの養子として近衛家当主・関白

官職の世襲請負化に発する分業社会 九世紀以降或いは急激に或いは緩慢に進行した律令国家機構の再編成・・・・・・すべての官庁機構に於て、律令制的な指揮統属関係が弱まり、大小官庁が個々に分離し、もしくは律令制とは異なる統合を行って、総体的に見れば、個別分離化、独立の傾向が次第に深化したこと、そして個々の官庁に於ては、官職のいわゆる職務体統制が崩壊して、特定氏族の世襲による官庁業務の請負的運営が進行し、また広がっていったことこそが重大である。・・・・・・官職は次第に家産化して、特定氏族による個別官庁の運営は、職務の執行であると同時に一定の収益を生み出す営利行為となる。つまり勤務と営利とが表裏一体となったのが、新しい形の官職であって、これこそが〃職〃の原型であったと考える。 (佐藤進一「公家法の特質とその背景」)律令官僚制のいわば分割民営化 中国では唐末に門閥貴族が没落し、宋代に新興地主層を登用して皇帝専制体制を支える科挙官僚制が確立し、隋唐では弱体化していた父系出自集団・宗族(武則天女帝は息子の中宗と睿宗を廃したが彼らに武姓を与え中宗を皇太子に)も地主層の相互扶助のため再編強化され、科挙官僚制と宗族の補完システムが清末まで保持された。。

それと対照的に日本では遣唐使廃止で国風化が進み、律令官僚制が崩れて各々の官職を世襲で請負う諸イエからなる分業社会が院政時代の公家の間で確立し、南北朝室町時代には武士、戦国時代には畿内農村、18世紀後半〜19世紀初頭には市場経済化とともに全国の中下層にまで普及し、幕末維新に至った。 平安密教:以心伝心の師弟関係を極めて重視する。師から弟子への法門継承を意味する師資相承の系譜は血脈 けちみゃくと呼ばれ、血縁にも擬せられる、単系の嗣法系譜。 父は師でもあり、子は弟子でもあるとされることによって、法の継承における師弟関係と、イエの請け負う職能の継承における父子関係とが相互に浸透しあうことになり、僧たちは師弟を父子のごとくみなして寺家を形成し、一般人は父子を師弟のごとくみなして、血縁とともに職能の継承を重視し、血縁がなくても優れた技能を受け継いだ者を我が子とみなして、イエを継がせるようになる。かくして、一般に官僚制の封建化とともに発達する単独相続的な父子継承は、日本では技能を血縁と同様にみなす、密教の影響を受けた観念によって、血縁に必ずしもとらわれないものとなった。

藤原道長は、通りすがりに見出だした、荷負い馬をひいていた氏素性も知れない小童が「手に文をささげてよみけるをあやしとおぼして、ちかくめしよせて御らんじければ、眼に重瞳有し、いみじく賢き相のしたりければ、やがて召して[大江]匡衡につけて、学文をせさせられけるほどに、後には大江時棟とて、広才博覧の文士となりければ、君に仕えて博士の道をつげり」(『十訓抄』第三、不可悔人倫事)と、出自にかかわりなく実務官人の養子として有能な者をとりたて重用する先例を開いている。このことからも、イエ社会の創始者として彼をとらえるべきことが示唆されよう。 院政期においては、さまざまな階層の人々の職能それ自体に関して秀れた「能」を見出だし、賞賛しようとする貴族・上流階級の風潮が形成されていた。後白河法皇は諸国の傀儡子を集めて今様・田歌などを学び、乙前という市井の老女を師と仰いでその芸を受け継ぎ、『梁塵秘抄』にまとめている。法皇は「調子何にても皆々おなじことにて、諸げいともにわがまんあらん人は、その気声にいづる。……調子神に通ずる也。これゆゑまがれることは神にうけず。天地の神も同根ならば、人としておなじ生なるべし。上一人(天皇)より下民にいたるまで、一毛にもかくることなし」(『梁塵秘抄口伝集巻十三』)と、芸道が宗教的価値に連なるものであることに由来する、神の前での人間の本質的平等を説いている。 京都の公家をはじめ、家職を世襲するイエの集合体としての分業社会において、特定の技能を狭く、深く極めることを重視する発想が宗教の修行法に生かされたものが、法然にはじまる鎌倉新仏教の選択専修である。柳宗悦が工芸の本質に鎌倉新仏教の他力道・易行道を見出だしていることは、新仏教の精神が日本の工芸文化と密接にかかわるものであったことを示唆している。

合理的企業組織へ:三井家の例 江戸時代の三井家は、 高利1622-94長男高平1653-1738の子孫「北家」 高利の男系子孫  伊皿子家(次男高富の子孫)  新町家(三男高治の子孫)  室町家(四男高伴の子孫)  南家(六男高久の子孫)  小石川家(九男高春の子孫)- 出水家とも。明治維新後、東京の 小石川に住まいを移したことから小石川家と呼ばれるようになった。 女系子孫  松坂家(長女みねとその夫孝賢の子孫)  永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)  小野田家(高平の妻かねの実家) の9家から成り、のち、

長井家(高利の四女かちの子孫)、 家原家(北家3代目高房の長女りくの子孫) が加わって11家となった。このうち北家・伊皿子家・新町家・室町家・南家・小石川家を「本家」、松坂家・永坂町家・小野田家・長井家・家原家を「連家」と呼び、本家の中でも北家を「惣領家」としていた。 明治に入り小野田家・長井家・家原家は途絶し、代わって、 五丁目家(北家8代目高福次男高尚の子孫)、 一本松町家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫) 本村町家(小石川家7代目高喜次男高明の子孫) が連家として興った。 代替わりするごとに十一の家同士の血縁が薄くなるのを防ぎ、家間の血縁関係を強固にするため、三井一族同士で結婚するケースも多かった[6]。これは江戸時代からあったが明治以降も三井一族同士による結婚は多い[6]。(以上、Wiki/三井家) 男系男子とその配偶者のみ、異姓不養、同姓(同本)不婚の中(韓)宗族と大きな相違

高利の死後、その遺産は嫡男高平以下子供たちの共有とされ、各家は1694年に、家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立すると共に、『宗竺遺書』(江戸時代。宗竺は高平の隠居名)、『三井家憲』(明治以降)の下に、一体となって三井家を盛りたてた。これがいわゆる「三井十一家」である。男系の子をもととする6家を本家、女系をもととする5家を連家と呼んだ。高利の子孫を「三井同苗」と呼び、大元方はその三井同苗と奉公人の重鎮の合議制で運営、資産を一括管理し散逸を防いだ。11家にはそれぞれの割合に応じてお金が配分されるが、各家の持ち分は全体を220分割した上、北家が62、伊皿子家が30、南家や小石川家などが22.5、女系の連家は一桁といった具合に分配された[5] (以上、Wiki/三井家) 三井家の特色:優秀な奉公人が経営に参画し(「人の三井」)、所有と経営の分離による合理的企業組織を形成(「江戸時代に持株会社、ボーナス実現」http://www.mitsuipr.com/special/100ka/06/index.html) 伝統的には丁稚奉公から昇進。 のちには優秀で経験豊富な者をスカウト: 幕末維新期に活躍した三井中興の祖、三野村利左衛1821-77(http://www.mitsuipr.com/history/column/11/)、 工部省勤務時から三池炭鉱を手がけ、三井に売却後も残り、財閥総帥となった団琢磨1858-1932